生物多様性 2010.01.05

私が小学生の時、というと50年以上前のこと、国語の教科書に和井内貞行という人のお話が載っていた。当時の教科書には偉人のお話なんかが載っていたのだ。和井内は明治時代の人。その頃の十和田湖にはお魚が住んでいなかったそうだ。その理由として龍神とか八郎(八郎潟を作った人)のせいでお魚がいないとかいう言い伝えがあったそうだ。彼は十和田湖の近くの人々が新鮮な魚を食べることができないので魚を食べられるようにしようと、十和田湖に魚を放ったそうだ。もちろん和井内以前にも十和田湖に魚を放した人は何人もいたがことどとく失敗したという。和井内もなかなか成功せず、魚の種類を検討したり、いろいろと工夫をして20年くらいかけてやっと成功した。今、十和田湖でヒメマスやワカサギが食べられるのはすべて和井内のおかげである。そういうお話であった。
はたしてこの行為は生物多様性の保全という観点からはどうだったのだろうか?
実をいって、魚の放流によって十和田湖の生物多様性は増したことになるそうだ。ただこの場合、生物多様性が増えた、魚が取れるようになって良かった、ということでチョンチョンということなのだろうか? 疑問はあるが次に進もう。

もう15年くらい前になる。日本中が冷害に襲われて米が取れなかった。覚えてらっしゃるだろうか? その頃の日本は「米の輸入絶対反対!」というスタンスだったが、米が採れずに食べるものがなければどうしようもない。急きょタイからお米を輸入してしのいだ。
家内の親せきには農家が多く、もちろんどこでもお米を作っている。お米と言っても品種は多々あるのだが、家内の地区の農家はほとんどがコシヒカリである。コシヒカリはおいしいから。ところがその年、米の品種に関わらず作況指数は悪かったが、コシヒカリは全滅だった。
作況指数(さっきょうしすう)とは、農作物の平年の収穫量を100として、その年の収量を表す指数。
しかし一軒の親戚ではコシヒカリだけでなく数種類の品種を少し作っていて、寒さに強い品種はちゃんと穂を付けて一家が食べていくお米は収穫できたのである。同じ品種を作っていると、うまくいくときは大変良いが、いったん事あると全滅の危険がある。生物多様性とは違うが、多様性は大事なことが分かる。よく「資産は、現金と株と不動産に分けて持て」なんていう。株だってひとつの会社ではなく、分散してリスクを低くするだろう。といっても我が家では三分割するほど資産はない  それどころか株なんてひざっかぶしかない。

もっとすごいことが頭に浮かんだ。春の花といえば桜だが、桜で一番多いのがソメイヨシノ、ところがこのソメイヨシノは人間がいないと存在も継続もできないという。
ソメイヨシノ
全てのソメイヨシノは元をたどれば同一の一本に繋がり、全てのソメイヨシノが一本のソメイヨシノのクローンとも言える。これは全てのソメイヨシノが一斉に咲き一斉に花を散らす理由になっているが、特定の病気に掛かりやすく環境変化に弱い理由ともなっている。
(Wikipediaより)
もし強烈な病気とか気候でソメイヨシノが一斉に枯れたらもうソメイヨシノは全滅である。といってもソメイヨシノは明治初期に品種改良で作られたそうだから、日本からソメイヨシノが消えても、人々は寂しさを感じても日本の自然環境は何の影響も受けないだろう。

お魚さん まあそんなことを考えると、生物多様性というのはリスク管理のために必要だというような気がする。つまり平常時にはあまりプライオリティが高くない、むしろ多様性がない方が良いのである。
サンゴ礁は海の中で生産性が高く、多様な魚がいるというが、そのためにかえって同じ種類の魚を大量に獲ることができずビジネスになりにくいという。
同じ野菜を作っていると害虫にやられると全滅だからと、多様な野菜を少しづつ栽培したらやはりビジネスにならないだろう。一般的に農業は同じ種類を大量に生産することが生産性、流通性で優位になり、産地のブランドを築きあげることができる。そうでなければビッグビジネスにならない。もちろん個人消費やスモールビジネスならその限りではない。
サンゴ礁からたくさんの魚が取れ、ローカルな市場では新鮮な魚を食べることができても、同じ種類の魚介類をまとめて収獲できないと、都会に出荷して関サバとか越前かにというブランドを築くことが難しい。

お正月休み、暇にあかせていろいろな本を読んでいたが世の中一筋縄ではいかないようだ。
ブラックバスというのは今日本では徹底的に退治するべき悪役とされている。「ブラックバスは己の意思で日本に来て繁殖しているんじゃない」なんて突っ込みはお門違いだが、外国では湖沼の水を澄ませるためにブラックバスを放流し、一定年月経過後にブラックバスを取り除くことによって、湖沼のリンや窒素を外に取り出すという。確かに湖沼の富栄養化を改善するなら水のリンや窒素を外部に持ち出さない限り達成できない。食物連鎖の最上位にいる魚食魚を置いてそれを刈り取るという発想はなかなかである。
よく、干潟は水を浄化するというが、正確ではない。
干潟において、栄養物をゴカイや貝が食べ、それを小動物が食べ、それを水鳥などが食べて、その栄養分を陸地に持ち帰るというプロセスがあるから栄養分が減るのです。栄養が干潟でクローズすれば干潟が富栄養化して汚濁が進む一方です。
そう考えると、干潟を保護しても、それにつながる陸地の自然がなければ陸への移動はなくなってしまう。
そもそも日本では水が澄むと魚が住むというイメージがあるが、それは間違っているそうだ。澄んだ水というのは栄養が少ないことである。消費者である魚の体を作りエネルギーになるのはすべて生産者と呼ばれる水草であり、水草が繁茂するためには栄養つまり人畜の糞尿などがなければならない。
もちろん栄養分があっても金属イオンや毒物があれば生物は住めないが、それはここでは論じない。
そして餌あるいはエネルギーが一定ならそこに住める生物量は限界がある。昔ニシンが取れない時期が何年もあったがそのときはイワシが大量に獲れたように記憶している。ニシンが大量に獲れるようになると、その分他の魚の数が減らなければならない。海の魚の生産量はそこに降り注ぐ太陽エネルギーとそこにある栄養の関数だから、エネルギーも栄養も一定なら、魚の全体量は一定で、それを魚の種類が分け合わなければならない。
前述の十和田湖でもワカサギが増えるとヒメマスが減り、ワカサギが減るとヒメマスが増えるそうだ。(ネッシーに学ぶより)
湖の栄養と降り注ぐ太陽エネルギーが一定なら当然だ。
クジラを獲るなとグリーンピースがいうが、クジラが増えすぎると魚の食べる餌をクジラが食べて漁獲量が減る。現在すでにクジラが増えすぎているのではないかという説もあるそうだ。クジラが繁殖できる程度にクジラの数を抑えて、プランクトンを魚に割り当てないと、漁獲量の総和を最大化することができない。もちろんその解を得るのは簡単ではないだろうが・・

魚の数と栄養のつながりがピンと来ないかもしれないが、畑に肥料をやらないと野菜は取れない。それと同じことで、水中から魚をとるなら、水にそれに見合った栄養を水中に供給しなければならない。そして肥料のやり過ぎは畑をダメにするように、湖沼への栄養のやり過ぎは湖沼の富栄養化を招く。
諏訪湖の周りの人口が増えて、生活排水で湖水が汚濁したので下水道を完備したら、それまで汚染と共に増え続けていた漁獲高が激減したのだそうだ。単純に考えて餌が減ったのだから取れ高が減ったということなのだろう。そして湖から魚を獲るということは、湖の栄養分を取り除くということであって、水を澄ませる活動である。
水に栄養分、すなわちリンや窒素が存在すれば、植物がそれを己の体にし、それを動物性プランクトンが食べ、それを小魚が食べようが、ブラックバスが小魚を食べようが、栄養分はその水域から外に出ることはなく水は澄まない。

逆のケースもある。ハクチョウにえさをやる人や運動がある。それは栄養というかエネルギーの観点から見ると、単純に食料・栄養分を湖沼に放り込んでいることに等しいという。なるほど、ハクチョウが食べようが食べまいが、ハクチョウが食べればえさは糞となり、あるいはハクチョウの死がいになり、食べ残しの餌もゼーンブ水に栄養分を補給することになる。「ハクチョウにえさをやるなんて湖沼の水質保全からはとんでもないことだ」といわれると、ごもっともとうなづいてしまう。
そして餌がもらえるとなると、ハクチョウは餌付の場所一か所に集まってくるので、病気が発生した時は群れ全体に感染し、大量死となるという。人が餌を与えなければ、ハクチョウはえさを求めて少数の群れになって散在するので一斉に病気に感染するということもないという。ハクチョウの餌付けはとんでもなく悪いことであり、生物多様性に反するようだ。

里山保全というのが流行と聞く。しかし里山というのは巨大な盆栽だ。そういうのが生物多様性とは、ちと違うような気がする。
盆栽はかわいそう 私は盆栽を見ると、木がかわいそうでならない。だって、曲げられて、切り刻まれて、いじめられて、そういう木が幸せなはずは絶対にない。ひと山全部盆栽のようにいじられているのが里山だ。まあ雑木林をかわいそうという気はしないが、生物多様性とか、本来の自然というものとは大いに違う。
明治神宮に行くとうっそうたる森なのだが、これがまた自然林ではなく巨大な盆栽である。いったい本当の日本の原生林とはどんなものなのだろうか?
お正月、皇居に一般参賀に行った。中にはクスやヒノキやその他たくさんの木々があった。それは自然のように見えたがもちろん自然のものではない。義母は若いとき、勤労奉仕で何度も皇居に行って農作業や木々の世話をしていたという。皇居も巨大な盆栽である。

今年2010年に名古屋で生物多様性のCOP10があるという。みなさんの頭の中にある生物多様性とはどんなものなのだろうか? そして生物多様性保全とはいかなるものなのだろうか?
私の愚かな頭で考えるに、人間というのはお金がからまないと一生懸命にならない。もちろん儲かることに一生懸命になる。本当に生物多様性を実現しようというなら、経済的に誘導するような仕組みでないと継続しない。消費者が均一な野菜とか魚とかを求めず、形もいろいろ、大きさもいろいろ、それどころか種類もいろいろというもので納得して購買するような文化にならなければ生物多様性の実現は難しいのではないだろうか?
そのためには例えば料理というものは、献立に合わせて材料を買うのではなく、材料に合わせて献立を考えることだということを教えればいいのではないだろうか?
私は工業標準化は好きだが、農産物を標準化をすることもないし、魚を標準化することはできないと思う。まして人間をJIS規格で日本人A4タイプとかB5タイプなんて規格化することはできそうない。いや違いました、あれは人間ではなく服の標準化でしたか。
../2008/sensu.gif お正月、ゴロゴロしていると、私の頭には妄想が湧き出して止まらない。
生物多様性はすばらしいことかもしれないが、妄想多様性はあまりよろしくないようだ。
明日からお仕事、妄想は・・・やはり湧き出してくるだろうと思う。困ったものだ。



名古屋鶏様からお便りを頂きました(10.01.07)
名古屋鶏です。
ブラックバスと言えば。
うちの近所のある自治体では、数年前にブラックバス対策として「アチコチの池にダイナマイトを仕掛けてドカン!」という方法を真剣に検討してましたよ。ホントにやったかどうかは知りませんが・・・。ラジオに出ていた市の担当者が「あのう・・それって他のコイとかフナも死にませんか?」と聞かれて「当然、死にます(キリッ)」と答えていたのが印象的でしたね。「骨を断つために肉を切らせたら、傷が深すぎたでござる」ということにならないといいんですけども。

私の愚かな頭で考えるに、人間というのはお金がからまないと一生懸命にならない。もちろん儲かることに一生懸命になる。

琵琶湖のリリース禁止条例は漁協vs釣具屋という地元893同士の利権騒動に過ぎない、という話を聞いたことがあります。まぁ、世の中ってはそんなものかも知れませんね。

名古屋鶏様 毎度ありがとうございます。
ダイナマイトで魚をとる方法は気絶させるだけで死にはしないようです。戦争の時手榴弾で魚をとったという人の話を聞いたことがありますが・・?

リリース問題は利権騒動なのですか! ありそうですよね。
地球温暖化説も利権がらみだそうですから 


VEM様からお便りを頂きました(10.01.10)
生物の種の定義が良くわかりません
生物多様性は種の数で議論しています。
私がいつも不思議なのは種の数え方です。
昆虫などは、ちょっと見た目には区別できないような差で新種と判断されているようです。
人間の個体差などはもっと複雑だと思いますが、ホモサピエンスの一種だと言うことです。
生殖可能かどうかで分類すると言う説もあるようですが、わずか数個対見つかっただけで交雑するかどうか判断できるのでしょうか?
食物が違えば新種になるケースもあるようですが、「猛毒大国中国を行く」によれば普通の人間では食物にならないものを食べている地域があるようです。とすれば人間の種は増えているのでしょうか?
非常時に多様性が重要な意味を持つと言うことは全く納得できます。しかし多様性の危機を宣伝するために恣意的に種を増やし、それが消えていると言う無理な議論をしているような気がして気がかりです。

VEM様 毎度ありがとうございます。
毎日何百種が消滅しているとか、毎年何万種が消滅していると言われていますが、それはすべて仮定の話と言います。
生物多様性 そもそも今の地球上に(地下を含めて)何百万種の生物がいるのかだれも分からないそうです。
それで目に見える滅亡から推定してこれくらいだろうというのが発端と聞きます。
それにキーストーン種とかアンブレラ種といいますが、目立つ生物とか、その地区の生態系において重要な生物は分かるでしょうけど、その他大勢という生物は誰も気がつかないと思います。
さらに害虫や人間にうれしくない寄生虫やウイルスなどは死滅すればハッピーという共通認識ではないのでしょうか? 天然痘の撲滅で悲しんだ人がいないようなのでそれは明白です。
そんなことを考えると、あまり真剣に生物多様性を考えることもなさそうです。
お断りしておきますが、私は全くの門外漢、素人です。
でも生物多様性を大声で語る人々は・・なんか胡散臭いですね?
どこかの業界団体とか、利権の代表じゃないかしら?


ふっくん様からお便りを頂きました(10.03.01)
富栄養化対策も度を越すと・・・
ふっくんです。
最近、面白い話を聞きました。
私の近くの大河川では、その昔適当に糞尿を流していたそうです。人為的にですよ。そしてその下流の海の魚たちのえさを確保していたみたいです。
しかし昨今の環境問題の関係でそういう行為が全面的に禁止されました。おかげで下流や海の魚は…少々痩せたり、数か少なくなったり。(実話です)漁師さんもちょっと困っているみたいです。
いや、過ぎたるはなんぞやとは言いますが、何事も適当とかいい塩梅というものがあるのだなぁと感じました。白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき…ではないですが、まぁ、昔に比べれば単位負荷は増えたでしょうが、多少なりとも汚れなければ魚も住めませんわな。ま、もっとも生物にとっての毒物はごめんですがね。

ふっくん様 毎度ありがとうございます。
大便にも尿にも栄養はあります。牛や馬の糞はこやしです。
中国では人の大便を豚に食わせて、その豚を食べると言います。決して汚くないですよ。だって動物は食べ物を自分の体にするために再生産をするのですから、大便そのものが肉になるわけじゃないです。
まあ、気分の問題でしょう。
環境負荷といっても程度問題。これが酸欠になるほどの栄養過多では困るわけで・・


上々様からお便りを頂きました(10.06.17)
生物多様性について
絶滅する生物種の数が多数にのぼり、世界的な大絶滅ともいえる状況だそうです。
地球史的に見ればこれまでも数回の大絶滅があったそうですが、これは大きな環境変化や彗星の衝突などの要因だったそうです。
しかし、今回の絶滅は「人間が増えすぎた」ということなんで、彗星と並ぶほどの大事件なんですかね。

とにかく地球上どこへ行っても人間が居るということになれば暮らせなくなる動植物が出てくるのは当然であり、それを守るためには人間が入れない地域を相当に確保しなければなりません。

それは尾瀬の湿地帯のようなところだけでなく、各地域のある割合の面積を確保する必要があります。
東京の一部に武蔵野原野の手付かずの自然地帯を作り、人間は誰も入れないようにするなんてことができますかね。

上々様 毎度ありがとうございます。
地球全体を考えると、太陽エネルギーが生物すべてを支えていることになります。
まあ、正確に言えば深海の熱水噴出口の周りにはひとつの生態系が形作られているそうです。つまり地球自身のエネルギーによって生きているものもある。あるいは今だ知られていませんが、原子力エネルギーによって生きている生物もあるかも知れません。
まあそういう例外を除けば、全ての生物は太陽エネルギーを葉緑素をもつ植物が栄養に変換したものを基に生きているわけです。植物の変換効率が1%といいますから、それを基に生きている生物量は当然上限があります。だから人間が増えすぎれば他の生物はその分減らなければなりません。
とは言っても、絶滅する生物種が多数にのぼり世界的な大絶滅と言える状況かどうか、誰も知らないはずです。
上々様、騙されはいけませんよ。毎日満万種という生物が滅んで行くと語っている人は、数えたわけではありません。そんな数字の根拠はないのです。まあ、こんなものかというだけで、そんなものではないのかもしれません。
今日は風向きをみて、日経平均株価が400円くらいあがるだろうと想像する人はいないでしょう。似たようなものですよ。
世の中疑ってかからなくてはいけません。


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