今だからこそISO 11.04.02

東日本大震災で「ISOどころではない」というISOに関係する人たちの発言を、ネットで見かける。アイソス誌の中尾社長もブログで『「認証どころではない」発言について』という記事を書いている。
わが同志の名古屋鶏氏も「災害後のISO審査」というタイトルで、ISOどころではないとブログに書いている。
名古屋鶏さんの工場は大地震にもあわず、津波も来なかったが、部品メーカーが被災して部品が入手困難で生産が緊急事態だそうだ。このように、地震の直接の被害だけでなく、日本中の工場や会社が被害を受けたといっても過言ではない。

実をいってこの大地震では、私に縁のある工場がいくつも大破している。そしてその工場の環境担当者たちは「ISOどころではない」と語っているのをこの耳で聞いている。
工場の建物が地震や津波で破壊され、機械設備も材料や部品も破壊されあるいは流され、従業員は会社にきて働くどころか通勤さえ困難だ。いやそれどころか、被災して住むところに困っている状態である。中には犠牲になられた方もいるかもしれない。
幸い、私の知人にはご本人にもご家族にも犠牲者はでていない。
誰であろうと、まずは我が身、家族の安全、そして衣食住、それから勤め先の再稼動、その後にISO認証の維持という順序になって少しもおかしくないと思う。雨露を・・という表現があるが、文字とおり雨を防ぐ屋根、寒さをしのぐ壁がほしい人々がたくさんいらっしゃる。会社が動いていないのに品質保証も環境管理もあるまいと思うのは当然だろう。
そのような状況にあって、まっさきに勤め先のISO認証を考える人がいれば、少しおかしいと判断しても少しもおかしくない。

他方、認証機関の立場で考えてみよう。認証機関の建物も、審査員も地震の被害を受けなかったとしよう。認証機関は審査しなければおまんまの食い上げだ。審査こそ我が命、審査することがレゾンデートルであるならば、いかなる困難があろうとも、審査をしなければならないと考えるかもしれない。
../phone.gif そして、その思いから電話が通じた瞬間に「ISO審査は予定とおりできますか?」と工場に問い合わせるのは、これまたやむをえないのかもしれない。もっともそのときに、前振りなしに「審査の予定ですが・・」と語ってひんしゅくをかっている審査員や認証機関の話を聞いている。

地震で工場建て屋が崩壊して、がれきのなかに転がっていた電話機がなり、受話器をとると
「もしもし、○○工業さんですか? J■■のものですが、御社の審査は4月15日までにしなければ認証が切れてしまいますが、予定通り行なってよろしいでしょうか?」
そんな声が聞こえてくれば「ISOどころではない」という怒りの声を発しても少しもおかしくないと思います、私は。
「もしもし、○○工業さんですか? J■■のものですが、ただいま私どもでは認証されている企業様の状況の確認をしております。○○市では相当な被害が出ていると報道されていますが、御社はどのような状況でしょうか?」
いきなり「審査の予定は・・」と切り出すのではなく、大人の常識としてこんな調子で話を始めるべきだろう。
そして電話の向こう側の状況から、審査ができるか、あるいは認証を辞退するような状況かを推し量って、話を進めていくのは社会人として常識であろう。

ISOどころではないというのはある意味、感情的であり、受け取り方によってはケンカを売っているように聞こえるかもしれない。もちろんそう語るほうから考えれば、その言葉に多様な意味が込められていることはいうまでもない。

しかし、チョット待ってくれ、
あまのじゃくである私は、みながISOどころではないというなら、そうじゃないだろうという発想があるのだ。大地震があっても津波が来ようと、ISOがあればこそ復活は容易であろうと考える。では大勢に反して、今だからこそISOという論を語りたい。
ISO規格の意図は、そりゃいろいろあるが、業務の標準化であることは論を待たない。それによって人が変わろうと一定レベルの仕事ができるようにすることはISO規格の目的のひとつである。
当然、ISO9001あるいはISO14001認証している企業は、その会社の仕組みが明文化されていて、PDCAが回る体制にあるはずだ。地震、津波の被害を受けて建て屋や機械設備が損壊しても、あるいはベテラン従業員がいなくても、生産体制は再構築できるのではないだろうか?
もし、そりゃあ無理だよとおっしゃるなら、あなたの会社のISOのシステムはバーチャルで、床の間に飾っておくオブジェだったということだよね?
ところで、私はあまり知らないのだが、事業継続マネジメントシステムというものがあるそうだ。先日も語ったが、そういうものすごいシステムを構築して、第三者認証を得ている企業は、そうではない企業に比べて復旧が早く、事業継続できたのであろうか?
もしできなければ「ISOどころではない」ではなく、「たかがISO風情が」と言ってやろうと思う。

本日の挑戦状
さあISO関係者ども、認証に価値があるとことを見せてもらおうか

震災から3週間も経っているのに、なんで今頃このお題で書いたのかというご質問があるかもしれない。実をいって、私も認証機関とISOどころではないという交渉をしていたので、その時書くとあまりにも感情的、攻撃的になってしまうと自戒していたのだ。



ぶらっくたいがぁ様からお便りを頂きました(11.04.02)
たいがぁです。
組織側、認証機関側、それぞれ事情というものがありますから、どちらが正解とか正しいという議論は意味がないと思います。あえて議論するならば、常識的であるや否やという点でありましょう。火事場騒ぎの時に、審査は予定通りうんぬんというのは非常識というものです。聞き方というものがあるでしょう。
そして、ここで突っ込みたいのが、「認証の有無がその組織の価値、あるいは評価を左右するのか?」です。仮に被災したために審査を受けることができず認証を失効したとして、それが直ちにその組織の品質保証能力あるいは環境保全能力が下がることになるのでしょうか。普通に考えれば無関係のはずです。
もし失効したとしても、復興後に改めて審査を受けて再取得すればいいだけのことです。「認証どころではない」というのは、そういう意味の言葉でしょう。
そして、マネジメントシステム規格は認証が至上目的ではないはずです。であるのに、被災による失効が組織の存続と同程度の重大事のごとく認証側が取り沙汰することをとても奇異に思います。
あえて言います。たかが認証じゃないですか。そんなものが一時的になくったって、組織の価値が滅却するものじゃありません。
認証側は、こんなときだからこそマネジメントシステム規格をこうやって復興に役立てるべしというメッセージを発信して欲しいものです。

ぶらっくたいがぁ様 まさしくおっしゃるとおりと思います。
私が頭に血が上ったのは、常識のないことに関してです。
常識のない人が審査しているということは、第三者認証制度の信頼性そのものに直結しているような気がします。
いや気がするだけではなく・・・

あらま様からお便りを頂きました(11.04.03)
おばQさま あらまです
何か事業をするにあたって、「よし !、やるぞ」という気持ちになった時点で、目標の80%が達成されたと言います。
災害の復興も同様に、「よし !、やるぞ」という気持ちになった時点で、80%が復興したものと思います。
会社の再建も、「よし !、やるぞ」と思った時点で、80%が達成されたと思います。
その時の心の青写真の中に、ISO的思考があるかないかが大きな分かれ道だと思います。
今回の‘リセット’で、今までと同じようなISO認証工場を作ったのでは、進歩がありません。
今までのISOの在り方を反省して、本来あるべき姿の工場を再建するのか、新しい思考の基での工場に再建するのかは、事業主の心一つだと思います。
その時点で、「ISOどころではない」というのでは、いままでの「ISO」を履き違えていたのだと思います。
ISOは審査が目的ではありません。
ISOは利用するものです。
そうした意味では、ちょうどよい機会ではないでしょうか ?

あらま様 毎度ありがとうございます。
おっしゃるとおり、ISOそのものと、ISO認証とは大違い、ISOどころではないということは、ISO認証どころではないという意味で、ISO的考えは災害時であろうと、平時であろうと同じと思います。
ぶらっくたいがぁ様に書いたように、ここでは非常識な人がいるもんだという意図だけです。
困ったものです。


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