まれには二つ以上認証取得している会社もある。お金が余っているのだろう。
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もちろん広い日本のことだから、私の知らない超一流企業においては環境部門に弁護士とか環境業務一筋30年なんて方が何人もいて、法規制対応はバッチシという会社もあるかもしれない。 でもまあ、そんなところはあまりないだろうと思う。 |
実は、要求事項であるISO14001 4.3.2 では法規制を『調べること、あるいはその能力』を要求していない。よく読んでほしいのだが、4.3.2では「組織は次の事項に関わる手順を確立し、実施し、維持すること」とあり、法規制を調べて対応する手順を確立することを要求しているのであって、調べる能力、社内展開する能力を求めていない。もちろん、求めていないのではなく、その能力があることが前提なのだろう。 実は内部監査についても同様である。監査員とは「監査を行う力量をもった人(ISO14001 3.1)」であり、本文中では監査員の力量を確実にする要求はない。4.4.2で求める力量は「著しい環境影響の原因となる作業」の従事者に対するものであり、文字解釈では監査員がコレに該当するとは思えない。 |
以前の考え これは間違いだろう | 今の考え コレが正しいのではないだろうか |
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昔、工場管理とか経営のお話には必ずトップに出てきたフェイヨールだって、固有技術がなければ会社の改革に手も足も出なかっただろう。固有技術さえあれば有能な経営者は業績を上げることができる。 日産だってアップルだって固有技術があったからこそ、 固有技術がなければいかなる有能な経営者がいても、せいぜい技術を買ってくることしかできない。 |
ISO9001にもISO14001にも規則を守れという要求がないことを知ってたかい? 規格には手順を作れ、手順を実施する力量を持たせろ、手順を実施しているかを監視せよとあるが、手順通りしろという要求事項はないのだ。 要求がないということは、やらなくて良いのではなく、やることが当たり前ということだ。 |
まっとうな管理とは、管理者が誠実に厳しく執り行うことである。
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遵法の精神 おばQさま あらまです さて、遵法の精神が、個人的な内面的な陶冶によって培われるものなのか、それとも、組織的な外的な管理によって為されるものなのか・・・ かねてから疑問に思っていましたが、今回の おばQさまのコペルニクス的な発見によって明らかになったと思います。 「固有技術」「職業倫理」「管理技術」が階層的に働いて成果を挙げるという発想には賛成です。 現実的にもそうなっていると思います。 ただ、実際に、法や規制が現実と乖離した場合の判断には悩むところです。 たとえば、尖閣諸島沖での中国船の衝突事故における、sengoku38氏の判断。 あるいは、福島第一原発における吉田昌郎所長の本社停止命令に背いて注水を続けていた判断。 これをみると、「職業倫理」と「管理技術」とは、補完し合う要素もあるような気もします。 |
あらま様 毎度ご指導ありがとうございます。 現実問題は上記の基本的なこと以外に多々条件といいますか、状況が関わってくると思います。 例えば、コミュニケーションの問題があります。 上官、例えば艦長が戦死した場合、指揮継承権というものが決まっていて、副官、砲雷長・・という順序で生存している士官が艦の指揮をとることになります。ところが艦長が生存していて、しかも負傷していなくても艦長が指揮をとれない場合、例えば連絡が取れない場合においては、指揮権は指揮を取ることができる状況にある下位の士官が執り行うことは当然です。 では、艦長が指揮できる場合であっても、状況を把握していない場合、あるいはその指揮が不適切と判断された場合はどうなのでしょうか? 「ケイン号の反乱」という映画がありました。ハンフリーボガード演じる駆逐艦の艦長が、悪天候において適切な判断をしていないという理由で、部下の士官たちが指揮権を取り上げます。それは軍律違反で帰港した部下たちは軍法会議(軍事裁判)にかけられるのですが・・ 福島第一原発の異常時において、東京にいる上位者が状況を把握していなければ、下位の者がその場に応じた指揮権を行使するのはありえるでしょうし、その行為は責任を追及されることになる。そしてそれが適切だったか、単なる越権行為であるかは、法廷もしくは類似の場において審議されるという条件においてそれはありえることだと思います。 許される、許されないではなく、ありえるというか、人間としてそういう行為をとることはあるということだと考えます。 政府が情報隠蔽を図ったとき、己を捨てて行動に移すことを善悪で語ることは意味がありません。 ルール違反、情報漏えいでも密告でもたとえ殺人でも、それは裁かれるべきですが、ルール違反をしてはいけないという権利も根拠もないようにおもいます。 公益通報制度において、密告がすべて認められるわけではなく、密告した事実があり、その事実が法に反する場合においてのみ密告が認められるわけです。 ルールや法律が絶対のものとしてはじめからあるのではなく、人間社会がトラブルなく動いていくために法律ができてきたという根源的なことを基準に考えるとそうではないかと思います。 もちろん、 終わりよければという理屈ではいけないのは当然です。 石原 莞爾のように独断専行でドンドンといってしまうのをよしとするものではありません。ああいった場合、その後適切に裁判で処置することにより独断専行は防げたし、防がなければならないということです。 |
悪法でも法 おばQ さま あらまです 遵法の精神で思い起こすのが「ソクラテスの弁明」。 彼は、たとえ「悪法でも法」でとして 死刑に従ったのでしたが、それがソクラテスの‘価値’だと思います。 組織の運営、維持 あるいは秩序、統一をはかるためには、どうしてもソクラテス的な徹底した遵法の精神が求められると思います。 反面、『シンドラーのリスト』とか、日本人のシンドラー呼ばれた 杉原千畝の事跡をみれば、その行為は人道的で賞賛されるべきものですが、あくまでも法規違反ですから後半生は寂しいもののようでした。 法に従って死を選ぶのか、法に反して生を選ぶのか・・・ あるいは、上の者を諌めるのは是か非か・・・ こうした葛藤は、特別なことではなく、日常的に判断に迫られていると思います。 この場合、遵法よりも優先できる人間の権利があるということなんでしょうか ? |
あらま様 毎度ありがとうございます。 あらま様のカキコは真正面からの突っ込みというよりは、私の応答を測ろうって魂胆がミエミエって気がします。 悪法は法足りえるのか?という観点もございましょう。 このところジャスミン革命なんてはやっております。カダフィ大佐が作った法を破っていけないならリビアは永遠にカダフィのもの、中国も永遠に毛沢東のもの。北朝鮮はバイ菌一族のもの。おっと、カダフィも毛沢東も金日成も先人を殺して政権を取ったわけで、いずれも誇れる発祥じゃありません。 つまるところ、人間が作った法ではなく、より普遍的なものがあるということでしょう。もし、悪法も法だというならもう奴隷は永遠に救われません。 ソクラテスが偉いのかどうかは、またいろいろでございましょう。 おっと、誤解なきよう。ソクラテスのじっちゃんは偉いでしょうけど、あの場合毒を飲んで死を選んだことが正しかったのかどうかを論じております。 お断りしておきますが、私はエスタブリッシュメントを滅ぼせとか、現状を否定しろといっているのではありません。 私が保守主義者であることはあらま様はご存知と思いますが・・
ちなみに、杉原千畝の後半の人生で処遇されなかったのは、あの事件のためではなく、彼個人の性格によるものという本もありました。ケイン号の反乱の軍法会議の最後に、被告となった反乱士官の弁護士が「艦長をおいつめたのは君たちだ」という場面があります。そうかもしれません。能無しの艦長を盛り立て面倒をみて秩序を維持するという発想もあるのかもしれません。なにごとも多様な見方があるということでしょう。 |
おばQさま あらまです。 ・・・・何を仰いますか、小生が師匠を試すなんてコトは考えても見ませんよ でも、今、我々が話題にしていることは、成果主義の社会である現代に生きる人たちの葛藤の一つだと思います。 それを解決・解説するだけでも、そうとうの社会貢献が出来ると思います。 遵法に悩む人が実な多いのですね。 なのに、師匠のお考えは一切ぶれていません。 それは科学的根拠があるからです。 その上で、 「つまるところ、人間が作った法ではなく、より普遍的なものがあるということでしょう」と断じていることは、非常に日本人的な謙虚さを感じました。つまり、日本人としての胎が坐っているのです。 もちろん、左巻き信者らのような妄信的な者たちが言う「普遍性」とはレベルの違うものです。 そのレベルの違いを明らかにすることが大切だと思い、ちと、突っ込んだ次第です。 つまり、我々が読めば、その説明で十分ですが、おばQさまのサイトの場合、いろいろな人が読まれているようなので、もう少し 噛み砕いた説明があってもよかったとおもった次第です。 つまり、日本人の「良心」の「強さ」と「もろさ」についてご説明いただいたら、小生のような学歴のないものでも理解できると思いました。 とにかく、今回のおばQさまの大論文は大切な内容ですから、より完全なものを期待してしまいます。 |
あらま様 毎度ありがとうございます。 まず私は師匠とあがめている方は、Yosh様、KABU先生をはじめあらま様ほか何人もいらっしゃいますが、私は師匠などと呼ばれる者ではありません。 話はパッと変わります。 私たちは学校で必要な教育を受けていないのではないかという気がします。 法律もそうですが、例えばお金とはなにかということも習っていません。お金とは絶対者が定めたものではなく、国家どころか元々は銀行が預かった金銀の預り証だったわけです。お札を刷るとかインフレという意味を理解するにはお金ってなにかを知らないとなりません。 日本では人は右、車は左ですが、なぜそうなったのかを知ることも必要でしょう。事の起こりを知れば、なんだそんなことかということで、思い込み、刷り込み、当たり前だという呪縛を解かれてあるべきことを考えることができるのではないでしょうか? 法律に戻ると、法律なんて絶対のものはありません。たくさんの人間が生きているとお互いの利害が一致しませんからトラブルが起きます。だからトラブルが起きたとき、長老や大勢がどちらの言い分が正しいのかを評価したのが裁判の起こりでしょう。そして判例といいますか、そういったものの積み重ねが法となったわけです。ところが類似事例に複数の解釈、判定があることもあり、その結果、後法は前法を破るなんて約束事ができたわけです。 そう考えると、現在の法律があるのはそれなりの理由があるわけですが、絶対の理由とか、真理であるということはないわけです。しかも国際法なんてものはまったく拘束力がなく、守る人が守るだけ、守らない中国は戦争するしか止められないということも実際なのです。 だから正しいとか間違いということではなく、法律というものは妥協であると思えばよいでしょう。 そんな風に考えています。 誤解ないように、 だから法を破っても良いのではなく、そもそもがそんなものであるけれど、社会生活を送る上で守るべきではあります。 但し、法がおかしいならいつでも改正することを恐れてはならないということでもあります。それは法律レベルだけではなく、憲法であっても時代が変われば躊躇なく変えるべきです。と思います。 |