EMSの本質

11.09.10
いつもおバカな事を書いているが、本日は真面目なことを書こうと思う。もっとも真面目さが最後まで続くものかどうか、自信はない。真面目で始めても、必ず途中でこけるのである。竜頭蛇尾ならぬ、マジ頭ギャグ尻尾である。

ISO14001、エコアクション21、エコステージ、KES、ISO14005、その他グリーン経営認証などなど、たくさんのEMS規格あるいは認証制度がある。そんなものの中から一つ選んで認証するというのを、現在では多くの企業がしている。
まれには二つ以上認証取得している会社もある。お金が余っているのだろう。
グリーン調達やグリーン認定が燎原の火のごとくはやっている時代だから、環境お大事の看板のひとつもないと商売に差し支えることもあるので、やむをえないことである。
そんなふうにEMS認証はたくさんあるが、一般的にISO14001は敷居が高く、簡易EMSと呼ばれるエコアクション21とかエコステージは簡単だと言われている。そしてEMASはISO14001より更に上とも言われている。だが、本当にそうなのだろうか?
本日のテーマは、実はすべてのEMS規格はレベルの高い企業を対象にしているのだということである。ISO14001だけでない、エコアクションであろうと、エコステージであろうと、その他数多(あまた)の簡易EMSであっても、そのすべては実は本質的に高い要求水準なのだという主張である。

ISO14001の序文には次のようにある。
「多くの組織は、自らの環境パフォーマンスを評価するために、環境上のレビュー又は監査を実施している。しかしながら、これらのレビュー及び監査を行っているだけでは、組織のパフォーマンスが法律上及び方針上の要求事項を満たし、かつ、将来も満たし続けることを保証するのに十分ではないかもしれない。これらを効果的なものとするためには、組織に組み込まれて体系化されたマネジメントシステムの中で実施する必要がある。」
そのまま読めば、継続して遵法を確実にして、かつパフォーマンス改善を進めていくにはマネジメントシステムが必要であるということである。しかし、ちょっと待ってくれ!よく読むと、レビューと監査だけでは不十分だといっているのだ。ということは、ISO14001に取りかかる前にレビューと監査がしっかりと行えること、いや行っていることが必要条件のように思える。
では私の妄想が始まる。

ISO14001をはじめとしてどのような簡易型EMSでも、組織が関わる環境法規制を把握することが要求事項に盛り込まれている。しかし、現実の企業はしっかりと法規制を調べていないところが多い。それどころか、法規制を調べる能力も意欲もないように思える。しかし、それでもどの会社も審査は適合判定を受けている。
お前はそのような事実を知っているのか? と問われるかもしれない。
知っているとも。だって私はISO14001の審査員には知り合いも多いし、審査で会った審査員もたくさんいる。しかしその中に環境法規制を審査できるほど十分関係法令を理解している人は非常に少ない。そのほかエコアクション21の審査員も、エコステージの審査員にも若干の知り合いはいる。そして組織側も法規制を十分理解しているレベルからは程遠いところが多い。企業関係者には知り合いは多いし、相談も受けることも多い。
もちろん広い日本のことだから、私の知らない超一流企業においては環境部門に弁護士とか環境業務一筋30年なんて方が何人もいて、法規制対応はバッチシという会社もあるかもしれない。
でもまあ、そんなところはあまりないだろうと思う。
だから、ISO14001を認証していようと、簡易EMSを認証していようと、環境遵法を確実にするには、程遠いどころか、イスカンダルのようにはるかに遠いのが実態である。
だって、なにもないところから環境マネジメントシステムを作るぞ!とがんばっても、うまくいかないことは想像が付く。インプットがなければアウトプットがないと同様に、プロセス、つまりデータ処理する機能あるいは能力がなければインプットがあってもアウトプットが出てくるはずがない。
先ほど述べたように、ISO14001の序文をよく読めば、EMS構築の前に、その会社(組織)が関わる法規制をよく認識して、監査やレビューができるレベルでなければならない。
実は、要求事項であるISO14001 4.3.2 では法規制を『調べること、あるいはその能力』を要求していない。よく読んでほしいのだが、4.3.2では「組織は次の事項に関わる手順を確立し、実施し、維持すること」とあり、法規制を調べて対応する手順を確立することを要求しているのであって、調べる能力、社内展開する能力を求めていない。もちろん、求めていないのではなく、その能力があることが前提なのだろう。
実は内部監査についても同様である。監査員とは「監査を行う力量をもった人(ISO14001 3.1)」であり、本文中では監査員の力量を確実にする要求はない。4.4.2で求める力量は「著しい環境影響の原因となる作業」の従事者に対するものであり、文字解釈では監査員がコレに該当するとは思えない。

ここまでダラダラと書いてきたが、つまり、EMSを構築しなくても法規制を把握し、監査を行い、レビューできれば遵法は確実にできるのだ。それはISO14001の序文そのままである。序文では『それだけ』では、継続して遵法とパフォーマンス向上はできないと言っているのだ。そこに環境マネジメントシステムの必要性がある。

ということは、EMS構築の前に法規制を把握する能力、社内展開する能力、遵守評価をする能力、内部監査ができる能力を確保しなければならない。
だから私は、すべてのEMS規格はレベルの高い企業を対象にしていると述べたのである。つまり、ISO14001でもエコアクション21でもなんでも良いが、環境マネジメントシステムを認証しようと思うなら、その前にそういった規格要求事項以前の基本的なこと、ベースラインに到達しなければならないということである。
言い換えると、そういった基本的能力がないのにISO14001認証とか名誉とかタイトルを得てもまったく意味がない。
いや、入札資格とかビジネス上で役に立つことは立つだろうけど・・

だいぶ前のことである。私はマネジメントシステムだけでは会社は成り立たないという駄文を書いた。今私はあの考えは間違いだったと思っている。とはいえ、面倒くさいから修正なんてはしないよ 
本当は三本柱ではなく、三階層に重なっているのだ。
一番下が「固有技術」その上に「職業倫理・モラール」そしてその上に「マネジメントシステム」がある。
以前の考え
これは間違いだろう
今の考え
コレが正しいのではないだろうか
成  果

固有技術


管理技術


職業倫理

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成  果
管理技術
職業倫理
固有技術

重なる順序であるが、最下層ほど必要であり、上になるほど必要ではなくなる。ものづくりに固有技術は絶対不可欠だが、職業倫理はなくても物はできる。職業倫理がなくても、不良品か否かを問わなければ物はできる。しかし、固有技術がなければ、不良品以前に形もできないだろう。
だから、もっとも根源は固有技術であり、その次が志気であり、あってもなくても良いものがマネジメントシステムであると考えた。
昔、工場管理とか経営のお話には必ずトップに出てきたフェイヨールだって、固有技術がなければ会社の改革に手も足も出なかっただろう。固有技術さえあれば有能な経営者は業績を上げることができる。
日産だってアップルだって固有技術があったからこそ、
固有技術がなければいかなる有能な経営者がいても、せいぜい技術を買ってくることしかできない。
そしてマネジメントシステムはなくても良いのだ。継続して一定品質を保たねばならないときに必要になるのである。いや、あったほうが良い程度なのかもしれない。

ISO認証と不祥事は関係あるのか?ないのか?という疑問は、この階層を考えると解消する。不祥事は職業倫理に関わるものであり、マネジメントシステムより深層心理に起因するのである。だからマネジメントシステムには関わりないものであり、当然マネジメントシステムの存在と規格適合の判定表明である認証とは関係ない。
というか、認証しようとしまいと第二階層に問題があれば発生するだろうし、そこに問題がなければ発生しないだろう。

ISO14001が役に立たないとか、システムだけではだめだとか、まあそんなことを言うのはちょっと止めよう。そんなことを言う前に環境管理の体力というか基本的なことを備えることをしなければならないということだ。
法律を調べることができる能力、それを展開できる能力、それらをしっかり実施するモラールの確立、まずそういったベースラインを確保しなければならないのだ。
ISO9001にもISO14001にも規則を守れという要求がないことを知ってたかい?
規格には手順を作れ、手順を実施する力量を持たせろ、手順を実施しているかを監視せよとあるが、手順通りしろという要求事項はないのだ。
要求がないということは、やらなくて良いのではなく、やることが当たり前ということだ。
ISOを使いこなすなんて表現する人がいる。ちょっとというか、大きな思い上がりではないだろうか?
そんなことを言う前に、ISOを使える体力、基本技能を身に付けることに努めるべきだろう。基本ができている会社なら、使いこなすとか使い倒すなんていうこと自体意味がないのだ。ベースラインに達していない会社や人ほど使い倒すなんて言うように思う。
マネジメントシステムは仕組みに過ぎず、それを支える固有技術、固有知識がなければ砂上の楼閣ではないが、液状化した大地に建物は沈んでいくだけだ。
要するにISO14001であろうと簡易EMSであろうと、その前にあなたの会社は実力というか、環境管理能力がなければならないということだ。ISO14001その他のEMSはその環境管理能力を効果的、効率的に作用するような仕組みを提供するに過ぎない。
えっつ!
じゃあ、そこまでのレベルに至っていない会社はどうすればいいのかって?
ISOなんてものに取り組まず、しっかりと基本的なこと、固有技術の向上やまっとうな管理をすることだと思う。
まっとうな管理とは、管理者が誠実に厳しく執り行うことである。
管理者が部下から尊敬され、管理者自身が己に自信を持って業務を執行している状態ではじめてISOの要求事項を取り入れるべきだろう。認証するかしないかは、また別の話である。

本日の教訓
マネジメントシステムはシステムに過ぎない。
それが機能するには固有技術がなければならない。



あらま様からお便りを頂きました(2011.09.13)
遵法の精神
おばQさま あらまです
さて、遵法の精神が、個人的な内面的な陶冶によって培われるものなのか、それとも、組織的な外的な管理によって為されるものなのか・・・
かねてから疑問に思っていましたが、今回の おばQさまのコペルニクス的な発見によって明らかになったと思います。
「固有技術」「職業倫理」「管理技術」が階層的に働いて成果を挙げるという発想には賛成です。
現実的にもそうなっていると思います。
ただ、実際に、法や規制が現実と乖離した場合の判断には悩むところです。
たとえば、尖閣諸島沖での中国船の衝突事故における、sengoku38氏の判断。
あるいは、福島第一原発における吉田昌郎所長の本社停止命令に背いて注水を続けていた判断。
これをみると、「職業倫理」と「管理技術」とは、補完し合う要素もあるような気もします。

あらま様 毎度ご指導ありがとうございます。
現実問題は上記の基本的なこと以外に多々条件といいますか、状況が関わってくると思います。
例えば、コミュニケーションの問題があります。
上官、例えば艦長が戦死した場合、指揮継承権というものが決まっていて、副官、砲雷長・・という順序で生存している士官が艦の指揮をとることになります。ところが艦長が生存していて、しかも負傷していなくても艦長が指揮をとれない場合、例えば連絡が取れない場合においては、指揮権は指揮を取ることができる状況にある下位の士官が執り行うことは当然です。
では、艦長が指揮できる場合であっても、状況を把握していない場合、あるいはその指揮が不適切と判断された場合はどうなのでしょうか?
「ケイン号の反乱」という映画がありました。ハンフリーボガード演じる駆逐艦の艦長が、悪天候において適切な判断をしていないという理由で、部下の士官たちが指揮権を取り上げます。それは軍律違反で帰港した部下たちは軍法会議(軍事裁判)にかけられるのですが・・
福島第一原発の異常時において、東京にいる上位者が状況を把握していなければ、下位の者がその場に応じた指揮権を行使するのはありえるでしょうし、その行為は責任を追及されることになる。そしてそれが適切だったか、単なる越権行為であるかは、法廷もしくは類似の場において審議されるという条件においてそれはありえることだと思います。
許される、許されないではなく、ありえるというか、人間としてそういう行為をとることはあるということだと考えます。
政府が情報隠蔽を図ったとき、己を捨てて行動に移すことを善悪で語ることは意味がありません。
ルール違反、情報漏えいでも密告でもたとえ殺人でも、それは裁かれるべきですが、ルール違反をしてはいけないという権利も根拠もないようにおもいます。
公益通報制度において、密告がすべて認められるわけではなく、密告した事実があり、その事実が法に反する場合においてのみ密告が認められるわけです。
ルールや法律が絶対のものとしてはじめからあるのではなく、人間社会がトラブルなく動いていくために法律ができてきたという根源的なことを基準に考えるとそうではないかと思います。
もちろん、
終わりよければという理屈ではいけないのは当然です。
石原 莞爾のように独断専行でドンドンといってしまうのをよしとするものではありません。ああいった場合、その後適切に裁判で処置することにより独断専行は防げたし、防がなければならないということです。


あらま様からお便りを頂きました(2011.09.14)
悪法でも法
おばQ さま あらまです
遵法の精神で思い起こすのが「ソクラテスの弁明」。
彼は、たとえ「悪法でも法」でとして 死刑に従ったのでしたが、それがソクラテスの‘価値’だと思います。
組織の運営、維持 あるいは秩序、統一をはかるためには、どうしてもソクラテス的な徹底した遵法の精神が求められると思います。
反面、『シンドラーのリスト』とか、日本人のシンドラー呼ばれた 杉原千畝の事跡をみれば、その行為は人道的で賞賛されるべきものですが、あくまでも法規違反ですから後半生は寂しいもののようでした。
法に従って死を選ぶのか、法に反して生を選ぶのか・・・

あるいは、上の者を諌めるのは是か非か・・・

こうした葛藤は、特別なことではなく、日常的に判断に迫られていると思います。
この場合、遵法よりも優先できる人間の権利があるということなんでしょうか ?

あらま様 毎度ありがとうございます。
あらま様のカキコは真正面からの突っ込みというよりは、私の応答を測ろうって魂胆がミエミエって気がします。
悪法は法足りえるのか?という観点もございましょう。
このところジャスミン革命なんてはやっております。カダフィ大佐が作った法を破っていけないならリビアは永遠にカダフィのもの、中国も永遠に毛沢東のもの。北朝鮮はバイ菌一族のもの。おっと、カダフィも毛沢東も金日成も先人を殺して政権を取ったわけで、いずれも誇れる発祥じゃありません。
つまるところ、人間が作った法ではなく、より普遍的なものがあるということでしょう。もし、悪法も法だというならもう奴隷は永遠に救われません。
ソクラテスが偉いのかどうかは、またいろいろでございましょう。
おっと、誤解なきよう。ソクラテスのじっちゃんは偉いでしょうけど、あの場合毒を飲んで死を選んだことが正しかったのかどうかを論じております。
お断りしておきますが、私はエスタブリッシュメントを滅ぼせとか、現状を否定しろといっているのではありません。
私が保守主義者であることはあらま様はご存知と思いますが・・
ちなみに、杉原千畝の後半の人生で処遇されなかったのは、あの事件のためではなく、彼個人の性格によるものという本もありました。ケイン号の反乱の軍法会議の最後に、被告となった反乱士官の弁護士が「艦長をおいつめたのは君たちだ」という場面があります。そうかもしれません。能無しの艦長を盛り立て面倒をみて秩序を維持するという発想もあるのかもしれません。
なにごとも多様な見方があるということでしょう。


あらま様からお便りを頂きました(2011.09.15)
おばQさま あらまです。
・・・・何を仰いますか、小生が師匠を試すなんてコトは考えても見ませんよ
でも、今、我々が話題にしていることは、成果主義の社会である現代に生きる人たちの葛藤の一つだと思います。
それを解決・解説するだけでも、そうとうの社会貢献が出来ると思います。
遵法に悩む人が実な多いのですね。
なのに、師匠のお考えは一切ぶれていません。
それは科学的根拠があるからです。
その上で、 「つまるところ、人間が作った法ではなく、より普遍的なものがあるということでしょう」と断じていることは、非常に日本人的な謙虚さを感じました。つまり、日本人としての胎が坐っているのです。
もちろん、左巻き信者らのような妄信的な者たちが言う「普遍性」とはレベルの違うものです。
そのレベルの違いを明らかにすることが大切だと思い、ちと、突っ込んだ次第です。

つまり、我々が読めば、その説明で十分ですが、おばQさまのサイトの場合、いろいろな人が読まれているようなので、もう少し 噛み砕いた説明があってもよかったとおもった次第です。
つまり、日本人の「良心」の「強さ」と「もろさ」についてご説明いただいたら、小生のような学歴のないものでも理解できると思いました。
とにかく、今回のおばQさまの大論文は大切な内容ですから、より完全なものを期待してしまいます。

あらま様 毎度ありがとうございます。
まず私は師匠とあがめている方は、Yosh様、KABU先生をはじめあらま様ほか何人もいらっしゃいますが、私は師匠などと呼ばれる者ではありません。
話はパッと変わります。
私たちは学校で必要な教育を受けていないのではないかという気がします。
法律もそうですが、例えばお金とはなにかということも習っていません。お金とは絶対者が定めたものではなく、国家どころか元々は銀行が預かった金銀の預り証だったわけです。お札を刷るとかインフレという意味を理解するにはお金ってなにかを知らないとなりません。
日本では人は右、車は左ですが、なぜそうなったのかを知ることも必要でしょう。事の起こりを知れば、なんだそんなことかということで、思い込み、刷り込み、当たり前だという呪縛を解かれてあるべきことを考えることができるのではないでしょうか?
法律に戻ると、法律なんて絶対のものはありません。たくさんの人間が生きているとお互いの利害が一致しませんからトラブルが起きます。だからトラブルが起きたとき、長老や大勢がどちらの言い分が正しいのかを評価したのが裁判の起こりでしょう。そして判例といいますか、そういったものの積み重ねが法となったわけです。ところが類似事例に複数の解釈、判定があることもあり、その結果、後法は前法を破るなんて約束事ができたわけです。
そう考えると、現在の法律があるのはそれなりの理由があるわけですが、絶対の理由とか、真理であるということはないわけです。しかも国際法なんてものはまったく拘束力がなく、守る人が守るだけ、守らない中国は戦争するしか止められないということも実際なのです。
だから正しいとか間違いということではなく、法律というものは妥協であると思えばよいでしょう。
そんな風に考えています。
誤解ないように、
だから法を破っても良いのではなく、そもそもがそんなものであるけれど、社会生活を送る上で守るべきではあります。
但し、法がおかしいならいつでも改正することを恐れてはならないということでもあります。それは法律レベルだけではなく、憲法であっても時代が変われば躊躇なく変えるべきです。と思います。


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