「ノモンハン事件の真相と戦果」

12.07.02
著者出版社ISBN初版定価(発行時)巻数
小田 洋次郎/田端 元有朋書院4897131103 2002/7/103500円全一巻

私が若いとき、父親が「戦争と人間」という映画を観てきて、いたく感動していた。私は観ていない。あれは何年のことだったろうと調べると1970年だ。親父は映画の中にたくさんの戦車が出てきたのを、スゴイスゴイと何度も語っていたのを覚えている。親父はノモンハンには従軍していないが、満州で戦ったことがあるのでその風景を非常に懐かしがっていた。
私がノモンハンなんてのを知ったのは、その時だったのか、あるいは中学の歴史教科書に書いてあったのかよく覚えていない。正直特段関心があったわけではない。

ノモンハンとは地名である。ノモンハン事件とは、満州とモンゴルの境界での戦闘である。事件というくらいだから、宣戦布告がされた正式な戦争ではない。戦う人にとって正式な戦争か正式でないかは関係ないという意見もあるかもしれないが、大いに関係がある。例えば国境線を越えて進撃できるのかとか、戦争捕虜の取り扱いとか、戦う当事者にとって重大な違いがある。当然、どちらが仕掛けたのかということは、より重要だ。

私は今までノモンハンの戦いというのは、満州軍の参謀が企てた、日本が先にちょっかいを出した、そして日本軍が大敗したということをセットで覚えていた。軍国主義の親父も日本軍が大敗したと語っていたし、若いとき読んだ本にはみなそう書いてあったから。
そして日本軍の戦車は敵の砲弾が当たるとすぐに破壊され、ソ連の戦車は日本軍の砲弾が直撃しても燃え上がらないと書いてあった。日本の戦闘機は・・日本軍の兵士は・・そういう日本はまるでだめという意見や小説があふれていた。いや、今でもあふれている。
もっとも、ソ連軍の戦車は砲弾の直撃を受けても燃え上がらないというのは真実だったらしい。あまりにも装甲が薄く、信管が作動せずに貫通してしまったという。
そういう残骸が今でも原野に放置されているというが、NHKや朝日新聞はその写真を日本軍戦車の残骸と紹介しているという。

最近、日清戦争から日露戦争などの本を読んでいて、ノモンハン事件にたどり着いたのだが、何冊か読んだ本がこの「ノモンハン事件の真相と戦果」を引用していた。それで読みたくなったというか、読む必要を感じた。
読みたいといってもすぐに手に入り読めるわけではない。発行が2002年とそんなに古い本ではないが、市の図書館にはない。アマゾンで検索すると中古本がでているが6,400円もする。大学の図書館で検索したら、他の大学から取り寄せることができるとのこと。早速取り寄せてもらって読んだ。

読むとその内容の豊富さに圧倒される。小説のイメージをもっていると、その期待は裏切られる。日時、ところ、戦闘状況、被害、戦果が時系列的にものすごい量で書き連ねてある。
これだけ詳細に書けば、うそとかねつ造だとは言えないだろう。というのは、この本はうそだと語っている本もあるから。しかし、これだけうそあるいは想像を書きつらねることができるなら、それはものすごい才能に違いない。

この本は五味川純平、半藤一利、その他が書いている、戦車や兵員の記述について不整合を次々と指摘する。そういうことは、その後検証されたのだろうか? 五味川の場合は小説だからといえるだろうし、ソ連崩壊後まもなく亡くなったので、ソ連側情報は知らなかったと言えるだろう。だが、半藤はどうなのだろう? 釈明はあったのだろうか、私は知らない。
面白いのは地名である。シナ高地、フイ高地なんて名前は他の本でも出てくる。それらの本では地名として扱っているが、この本によると、単純に海抜から命名したという。シナ高地とは海抜747m、フイ高地とは721mからつけたという。203高地と同じ伝だな。それを知らないで地名であるとしている本は信用ならん。

ソ連軍の兵士といっても、一般農民などが駆り出され、17歳の少年とか女性も多かったという。あげくに戦車兵はハッチに外側から鍵をかけられ脱出できない、狙撃兵は木に縛りつけられ、歩兵は前線から後退すると射殺する部隊が控えているとは、もう奴隷である。
かわいそうを通り過ぎ、これは異常である。
共産主義者、ソ連崇拝者はそういうことをどう考えるのだろうか?
ひょっとして現在の中国でもそういうことはあるのだろうか?

しかし五味川を含めた作家や戦史家の罪は、過去の個々の戦闘についてではなく、開戦の経過についての誤謬だろう。辻参謀が犯人だという説もあるらしいが、この本ではスターリンが当事者であるとしている。
その真偽は不明だが、辻参謀が犯人だというのも真偽が不明なのは同様である。

私が驚いたこととして九七戦がものすごい戦果をあげたこと。子供の頃から戦闘機といえばゼロ戦、隼というイメージが焼き付いていて、それ以前の日本の飛行機は過渡期のもの、習作としか思っていなかった。車輪が出たままで7.7ミリ機銃2丁の九七戦が敵機を撃墜するなんて想像もできなかった。しかし、この本を読んで九七戦が当時としてはとんでもなく優秀で実戦で大戦果を出しているのを知ってうれしかった。
しかし、不時着した戦友を救おうと草地に着陸し、負傷したのを助け出してまた飛び去ったなんてのを一度ならずしているとは、驚くというか信じられない。まさに冒険談である。(p.140)
また師団長が乗った乗用車の30mの近くまで敵戦車が迫っているところを、700mの距離から砲撃して戦車を直撃するなんて、もはや劇画の世界である。(p.97)

だが、兵站・補給が乏しく陸空ともだんだんと勢いがなくなってくるのが悲しい。
この本には、戦争というものは負けたと思った方が負けだと書いてある。ソ連軍が大損害を出しても、ソ連は国際的にも国内的にも、勝った勝った大勝利と宣伝し、日本の小説家も歴史家も負けたと思っていたのだから、結局ノモンハン事件は日本の敗北だったのだろう。
同時にそれはソ連の宣伝と、日本の自虐史観あるいは共産国家支援者の勝利なのだ。

この本の意図は、別に日本軍万歳でも日本軍は強かったでもない。
真実を書かなければ、当事者も関係者も浮かばれないということだろう。
それはソ連軍として戦った人に対しても同じ思いがあると思う。
例えば、今でも放置されている当時のソ連軍戦車の残骸を写して、それを日本軍の戦車だとし、日本軍戦車の装甲が弱かった、これほど完璧にやられていると宣伝している某朝日新聞などは国賊ものだね。いや、作った人、戦った人を冒涜している。
そして実際はそうではなかった日本軍戦車と戦ったソ連軍兵士をも貶めているのではないか。
朝日ばかりではなく、NHKもしかり、日本に溢れている近代史特に戦争関係は、戦後民主主義、ソ連崇拝主義、自虐史観による粉飾、ねつ造が多いという感じを持つ。
嘘を書いたのは、いや想像で戦争を書いたのは、司馬遼太郎ばかりではないようだ。

感動した言葉
国歌と国旗の尊重、愛国を教えなければ、真の国際人教育はできない。(中略) 国賓の最初の儀礼は戦没者の墓地参拝から始まるもので、国旗、国歌への敬意を払う事の否定は間違いで、(中略)海外で活動するとき、日本国民として受ける権利、敬意は、日本国家の国威がもたらすものである。(p.230)

日本航空隊の戦果にはパイロットのみならず、整備係は翌朝までに発進を可能にし、輸送係は悪路の草原140キロを一日二往復して燃料などを補給する活躍をし、「勝ったのは戦隊であり、勝たせたのは地上部隊である」と賞された。(p.244)

../hatas.gif 本日の提案
ソ連の協力を得て制作した五味川純平「戦争と人間」の向こうをはって、この本を映画化したい。ソ連の戦車が手に入らないだろうから、そこんとこはCGで作ろう。
日本軍の速射砲でソ連軍の戦車が穴だらけになるのは見ごたえがあると思う。



外資社員様からお便りを頂きました(2012.07.04)
ノモンハン
半藤一利は、司馬遼太郎を受け継いだと自称しておりますので、当然だと思います。
それに加えて、長岡高校出身ですから山本五十六への敬愛は一方ならず、海軍大好き、陸軍悪者な雰囲気があります(笑)

それにみな一生懸命に生き、戦ったということを無視しては無礼と思います。
仰る通りですね。 ノモンハンではソ連側も、初戦は不手際が多く、虎の子の戦車が ガソリンエンジンなもので加熱したエンジンに、サイダー瓶の即席火炎瓶で 火災に追い込めたようです。これは、戦車が突出して、歩兵が随伴できなかったから可能だったのです。
陸軍は硬直頭だと思い込んでいる人が多いですが、それは太平洋戦争後半のように手も足も出なくなった状態での参謀たちの考え方の問題です。
現場にいる人は、工場でも同じですが、必死に改善の努力をして、戦場ならば生き残る為に必死になります。
そうでないと、即席兵器や、有効な戦法などは出来ませんから。

なにかで読みましたが、司馬遼太郎が、二百三高地攻略を自分が指揮したら乃木のような死傷者を出さなかったと語ったのは無礼を通り越して汚らしいと思います。
実際に、司馬氏がどう語ったかは確認が必要と思いますが、一つ言えるのは 「後知恵ならば、誰でも名将」です。

統計で考えてみると、少し後の 第一次大戦の西部戦線では、ドイツ、フランス、イギリスに大量の死傷者が出ています。
ベルダン攻防戦では3月初めから独仏の戦闘が始まりますが、3月末までにフランスは89千人の被害を出し、ドイツは82千人との事。
(旅順では日本側 死者1万、負傷3万程度)
塹壕や要塞にこもって機関銃を持つ敵と戦うならば、死傷者の増大は当然の結果なのです。その結果、お互いが塹壕にこもって戦う事になりました。
機関銃に対して死傷者が多量に出るのは、当時は当然の事でした。 それに堪り兼ねて、タンクが発明されたのですね。
ですから、当時の帝国陸軍を責められるとすれば、タンクを発明できなかった事くらいですが、車が珍しい国でタンクの発明は難しいでしょう。
とは言え、帝国陸軍も(ロシアも)、迫撃砲の原型を 現地で使い塹壕を攻めていて、ずいぶんと工夫しているのです
残念なのは、これを太平洋戦争のジャングル戦に応用できなかった事です。
ちなみに、一次大戦に関しては素晴らしいサイトがあります。日露戦争についても記載があります。
ベルダン戦の死傷者の情報も、このサイトにありました。

外資社員様、いろいろとご教示ありがとうございます。
いろいろと読めば読むほど勉強になりますね、
私は迫撃砲というものは昔からあったと思っていましたら、これも現場での発明(?)らしいです。日露戦争のとき現地で工兵部隊が木材と竹を使って作ったものがはじめとありました。おっとそれは擲弾筒というものらしいのですが、発展したものが迫撃砲らしいです。今勉強中です。
臼砲、榴弾砲、速射砲、曲射砲・・・どんどんと改良されていったのですね。後知恵というか今ある武器を前提に論じてはまったくのお門違いになってしまいます。
95式軽戦車だって当時としては決して悪くなかったようです。というかソ連軍戦車より良かったように書いてありました。

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