2013.04.16
注1 この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
注2 イナゴレイヤーとは・・・・・まあ最後まで読めばわかります。
もう20年以上前になるだろうか、イギリスで「イナゴレイ」という新しい宗教が生まれた。そして「イナゴレイ」を信じる人は「イナゴレイヤー」と呼ばれた。
「イナゴレイ」は神様や生きる目的についてどうこう言っておらず、その戒律は生きていく上での行動規範というか人の生き方を定めているだけだったから、宗教というよりも人生訓というべきだろうか。ともかくそういう宗教が起こり、それはあっというまにイギリスからヨーロッパ全土に広がり、そしてまたたくまに全世界に広まっていった。まさに蝗害である。
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蝗害(こうがい)とはバッタ類の大量発生による災害のこと。蝗害を起こすバッタを「飛蝗」「トビバッタ」という。また、飛蝗の群生行動を飛蝗現象と呼ぶ。
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イナゴレイの経典・・・・それは20章からなっていたが・・・・そこには、「○○すること」という信者が守るべき戒律が多数羅列されていた。戒律を事細かく読んでみると、その20の章に書かれていることは、常識的で妥当なことであり、間違いだとか、おかしいとか、邪教だと言えるものはなかった。だがそれを信じて生きていけば良い隣人になれるかといえば、そんな高いレベルでもないように思えた。いやそれどころか、人として最低限のレベルというべきだろうか。
ともかくイギリスに発祥したイナゴレイは全世界に信者を増やしていき、日本でも大勢の信者が生まれた。
日本にはキリスト教徒が人口の1%しかいないというのに、なぜあっというまにイナゴレイはその日本で広まったのだろうか。そこは重要なところだ。
イナゴレイは特定の神を信じることを強制もしなかったし、禁止もしなかった。そして一般的な宗教と大きく異なるのは、人の心の中を規定するのではなく、人の具体的な行動規範を示したものだった。
例えば旧約の十戒では「隣人の妻を欲してはならない」というのがある。他方イナゴレイではそのような心、気持ちを禁止していない。イナゴレイには全く同じ戒律はないが、それになぞらえて言えば「隣人の妻に手を出してはならない」という戒律となる。これなら心に対する規定ではなく、行為についての規定だから客観性がありイチゼロがはっきりしている。そして信者は心の中で隣人の妻を欲しても姦淫を思い浮かべても良く、そういう思念に罪の意識を持つこともない。
つまり心の中は仏教でも神道でも良く、行為だけイナゴレイヤーであればよいのだ。そしてその経典が示すところは常識的なことだから、表面上は仏教や神道の教えと矛盾しなかったのである。そんなわけで、普通の日本人が神様や仏様を信じていて、かつイナゴレイの信者になることは問題にならなかったのだろう。
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サポーズ、普通の日本人がキリスト教に改宗するときの最大の障害というか困難は、先祖をまつることをどうするかということではないだろうか?
先祖をまつるなんて大げさなことではなく、お墓をどうするかということだ。
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ところでイナゴレイは、宗教なのか家元制度なのか定かではないおもしろい仕組みであった。まず国際的な団体があり、その下に各国のイナゴレイ支部がある。更にその支部の下に信者が教会を作り、教会に属する聖職者がいる。ここまでは大半の宗教と変わりはない。
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山田 太郎 様
本籍 東京都千代田区丸の内
イナゴレイ信者証明書
登録番号 XXXX 登録日 201X.XX.XX
当教会はあなたがイナゴレイの教えを理解して、教えに沿った生活を送っているかを審査した結果、良き信者であることを確認しました。
発行日 201X.XX.XX
東京丸の内教会 司教 ○○ ○○
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面白いのは教会に属する聖職者、彼らは吟味員と呼ばれたが、それが信者の信心を吟味して、信じていると認められると「信者証明書」がもらえるのだ。ここが他の宗教とは制度として異なる特異なところである。
仮に熱心にイナゴレイの経典を読んで、その教えに従った行き方をしている人がいても、証明書がなければ信者とはみなされないのだ。
反面、経典を読まず、行動も規範に反していても聖職者の吟味の時にごまかして証明書を得たならば、立派な信者といえるのである。というのは、前に述べたようにそこはイナゴレイの経典が、信じる心を求めずに、表面の行動や形を求めるものであったからだ。
そして従来の宗教と異なるところがもうひとつあった。それは「信者証明書」は期限付きなのである。聖職者の吟味を受けて信者であると認められても、その効果は吟味の時から1年間であり、その期間が過ぎる前に再び聖職者による吟味を受けないと、信者の資格を失ってしまうという仕組みであった。これは過去の宗教にはなかった新しいアイデアである。信者の考えや行いが時と共に変わるかもしれず、特に行為を規定している宗教であるから教えに背くようなことをする可能性を予測していたのかもしれない。
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なお、最初の吟味は時間をかけて細かく審査されたが2年目、3年目は経典の全項目ではなく抜取で行われた。そして4年目には再び経典全項目を徹底的に吟味された。
最初の吟味を初回吟味、二年目三年目を維持吟味、4年目を更新吟味とイナゴレイ教では呼んでいた。
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仏教で立派な戒名を頂いてもそのとき戒名代を払ってしまえばおしまいだ。もちろん立派な戒名だとその後の法要のたびにそれなりにお布施を包まなければならないというのが世間の掟ではあるが、大金を包まなくても戒名を取り上げられることはない。
しかしイナゴレイの信者の資格は毎年吟味を受け、当然その都度それなりのお布施を聖職者に払わなければならず、それによって教会は継続的な収入を得ることができるという仕組みである。もちろん聖職者が信者から巻き上げた・・・いや違った、信者から頂いたお布施はまるまる聖職者の収入になるのではなく、教会に納めなければならず、教会はその国の支部に納めなければならずと悪の連鎖は続いていた。いや悪の組織というのは間違いだ。イナゴレイの聖職者は組織化されており、ともかくそういう仕組みになっていたのである。まさにハイラルキーである。
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ハイラルキー(ヒエラルキー)とは、元々はキリスト教の聖職者の支配構造・階層構造のことである。現在では、企業や組織における階層的組織の意味に広くつかわれている。
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さてイナゴレイヤーの聖職者による吟味は、口頭試問によるものであった。もちろん言葉だけでは証拠にならないから、吟味を受ける人は過去に行った記録などを見せて発言を裏付けなければならない。
「汝、隣人と約束するときは、自分がその約束を履行できるかどうかをじっくりと考えなければならないという戒律を守っておるか?」
「ハイ、そのようにしています。ここに示すのは3月前に友人からお金を借りた時のものです。元本と利息をどのように返済すべきか、収入や家計を調べて返済計画を立てた時の物です」
「汝、教えにはずれた行為をしたときは二度と過ちを犯さないようにせよという戒律を守っておるか?」
「ハイ、戒律を破ったときはなぜその問題を起こした原因をしっかりと考えて、二度と過ちを犯さないようにその原因を取り除きます。
ここに示しますのは、1週間前、会社に遅刻したときのものですが、なぜ遅刻したのかをなぜなぜ分析を行いました。その結果、遅刻した原因は私が玄関を出た時に、隣のおばさんが私に『夜、ゴミ捨てをしてはいけない』と話しかけてきたためであったとわかりました。それで出勤時は話しかけられても返事をしないという自分なりのルールを作って守ることにしました」
まあ、こんなやりとりが行われたわけだ。
経典は20章あると先ほど述べたが、それぞれの章ではカテゴリーごとに守るべきことの詳細が定めてあり、吟味においてはすべての守るべき事項(shall)について質問され、それに証拠をあげて応えることが要求された。
イナゴレイの布教が始まった頃は、聖職者はおごり高ぶっていて、吟味を受ける信者にごちそうや酒、更には袖の下を要求したり、ひどい聖職者になると女を要求したりと、やりたい放題であった。
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イナゴレイでは信者にも聖職者に性的な禁欲は求めていない。いや経典には性的な規制はまったくない。それどころか食べ物もアルコールの戒律もない。お気楽な宗教です。
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それでも信者になりたいと願う人たちは、そういう聖職者の要求に応えて、なんとか吟味に合格しようとしていたのであった。
当然ながらイナゴレイヤーになると、どんなご利益があるのかと疑問が浮かぶだろう。その通りだ。ごりやくがなければ大金を払って吟味を受けて、信者証明書を得ることはない。
じゃあ、なんでイナゴレイヤーになろうとしたのだろう?
例えばここに仏教を信じる人がいたとしよう。その人はお坊さんから特段ほめられなくても、仏教徒である証明書を頂かなくても、外部の人から仏教徒であると認識されなくても、その人が仏教を信じることによって心の安寧を得ることはできるし、黙って仏教を信じていてもまったく問題ない。いや小乗仏教では、それこそがあるべき姿かもしれない。
だが、イナゴレイヤーになれば死後の平安や心の安寧が得られたのかといえば、イナゴレイには死後の世界についてまったく語っていないし、愛や苦しみからの救済もまったくない。ということはイナゴレイヤーになることは、人の心の内面ではなく、自分以外の人とのかかわりについて意味があるということになる。
いったい信者証明書がどんな価値があるのか? イナゴレイヤーは立派な人であるという世間の認識があったからだ。まさしくイナゴレイは他人との関係についての宗教だったのである。しかしイナゴレイヤーは信者証明書がなければ外部にイナゴレイ信者であると表明できないという戒律があった。「私はイナゴレイを信じています、イナゴレイヤーです」と言っても、世の中は信用してくれなかった。いやその人を立派な人だとみなさなかった。しかし信者証明書があれば、世の中はその人が正しい行いの人、嘘をつかない立派な人だと無条件に信用し、お金を貸してくれたし、クレジットカードのゴールドメンバーになれたし、ロータリークラブじゃなかったスパイラルアップクラブへ入会できたから、誰もが信者になりたがった。おかしなことだが、立派な人になって信者と認めてもらおうとするよりも、信者証明書を手に入れるということが目的化した。手段が目的化することは世の中の常であり、良し悪しはともかくそれは避けられないことであった。
月日は流れる。
イナゴレイヤーは時と共に世界中で増えていった。特に発祥の地イギリスでは、もうだれもかしこも、犬も猫も、猫も杓子も貴賤を問わずという有様であった。だってイナゴレイヤーになると立派な人とみなされるからだ。
だがセレブは少数だからセレブなのである。みんながセレブになったら憧れの対象ではない。ヴィトンは少数の人しか持っていないから価値がある。田舎のおばちゃんがヴィトンのバッグに握り飯を入れて畑に持っていったり、野良仕事のオジサンが汚れたズボンのポケットからヴィトンのサイフを取り出したのでは、ヴィトンを持っていることは価値ではない。誰もかれもがヴィトンを持っていたらヴィトンを持っていることは素晴らしいことではなく、持っている方がダサクなる。
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既にこれは現実となり、今ではヴィトンを持っている人は減っているようだ。
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いつしかイナゴレイヤーがどんどん増えて、もはやイナゴレイヤーでない人よりも多くなった。そしてイナゴレイヤーだから良い人とか、良い行いをするということはないことは明白だった。
これはイナゴレイの制度設計に問題があったのだ。
イナゴレイは人の心の中を規定するものではなく、人と人、あるいは人と社会の関係を規定するものであった。だからイナゴレイの価値は信者の数に反比例する。極論すれば、全人類がイナゴレヤーになった瞬間にイナゴレイヤーである意味は消滅する。そして全員が証明書を持ったなら、証明書の価値はゼロだ。そこまでいかずとも信者が増えて価値がさがれば、信者たちはイナゴレイヤーを辞めることになるだろう。
ところで教会の得るお金は、信者の数に比例する。しかし布教すればするほど信者が増えれば増えるほど、イナゴレイを辞める人が増えるという矛盾、この矛盾の解決策を見出す前に、イナゴレイはどんどんと広まり、イナゴレイヤーはイナゴのように地に満ち、そして飽和した。
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後知恵ではあるが、イナゴレイヤーに階層を設けるとか、その階層によって与信金額が異なるという方法もあっただろう。仏様の戒名だって何段階もあるわけだし。あるいはTOEICのように点数をつけて、吟味のたびに点数を上げようと努力させるなど俗世間に受け入れられるようなことを考えるべきであった。だがときは既に遅かった。
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聖職者の吟味も形骸化してきたし、また信者でないとすると手数料がもらえないことになり、吟味ではじかれることはめったになくなった。
他方、吟味を受ける方も「汝、○○をしているか?」という質問に対してどのように応えればよいか書かれた書物も出版され、それを参考にというか、そのまま棒読みする人も増えた。
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だって心の安寧を得ることが目的でなく、証明書を得ることが目的なら、それこそその方法が最善、最良の合目的なアプローチであることは間違いない。
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ひどいのになると、吟味の際に身代わり受験を頼む人まで現れた。いや、逆だ。身代わりをしますよという商売も現れたのである。今ではインターネットに吟味を受ける代行をしますというコマーシャルがあふれている。
イナゴレイ教会は身代わりとか吟味代行というビジネスが行われているのを知っていても、その規制を行わなかった。なぜだろうかと考えると、身代わりすることは聖職者のサイドビジネスという側面もあったからだ。そのようなマッチポンプのようなことでは信用を無くすのは目に見えている。
昔、カソリックがお金を集めるために、免罪符というものを売ったという有名な話がある。「良い行いをした人は天国に行けます、悪い行いをした人は地獄に行きます。でもこのお守りを買えばだれでも天国に行けます」・・・そんな宗教があるだろうか?
2000年を過ぎた頃、イナゴレイヤーも犯罪を犯すということが明白になった。
それはどうして起きるのか? イナゴレイヤーも普通の人だから、良いこともするし悪いこともするのは、至極当たり前のことだよね。
じゃあ、そういう人をイナゴレイヤーにしないためには、どうすればよいのだろう。吟味を厳しく行うとか、吟味をする聖職者の霊力を高めればよかったのだろうか?
だが、イナゴレイ教会は、吟味を受けるときうそをついた信者が悪い、聖職者もイナゴレイの制度も悪くはないと言い切った。そして吟味代行業を禁止もしなかったのだ。だが、犯罪を犯した信者が吟味の時に実際にうそをついたかどうかは定かではない。要するに聖職者は責任転嫁、スケープゴートがほしかったのだろう。宗教には犠牲をささげるのがつきものだからね、
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旧約を読むと神に犠牲をささげる場面が多々出てくる。犠牲としては牛が多かったようだ。犠牲の二文字とも牛偏だから。
アブラハムは息子を犠牲に捧げよと言われましたが、ちょっと私にはできないな
私にとっては、神よりも息子が大事だ
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そしていつしか、イナゴレイの評判は地に落ちた。
イナゴレイヤーでない方が信用があると思われるようになったのだ。
カソリックの免罪符にはルターなどが教会内部から「おかしいぞ」と糾弾した。旧守派(エスタブリッシュメント)がルターを弾き飛ばそうとして、逆にルターは旧守派をはじき飛ばしてしまった。
だがイナゴレイでは宗教改革は起きなかった。その代り発生したのは宗教教義を見直して、信者が守るべきことを追加しようとした。
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しかし大きな疑問がある。
戒律を守らない人がいて問題だというときに、新たな戒律を付け加えれば改善されるという発想は論理的でないと思うのは私だけだろうか?
だって、今ある戒律を守らない人に、追加された戒律を守ることが期待できるのだろうか?
私なりに対策を考えれば、聖職者に吟味する力を持たせること、吟味を厳正にすること、戒律を守らない人を糾弾する仕組み、そういったことを考えるべきではないだろうか?
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おっと、戒律を守らせるというのは精神論ですから具体策になりません。
ルールを守らせるには相手の自覚に依存するのではなく、強制力を持たねばならないのです。
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教義の見直しとして2000年に大きな改革があり、2008年に小規模な見直しがあった。だが、イナゴレイはもはや世の中に大きな力を持っていなかった。そして今2015年までに宗教教義をさらに見直そうと高僧たちが集まって協議をしている。しかしもはや見直された教義を世に伝え広めることができるとはだれも思っていない。自らの行いを自ら律することができない宗教団体を一般人が尊ぶはずはない。
それどころか、今では誰もが教義が見直される2015年まで、イナゴレイの教会制度が存続できるのかどうかを心配している。
イナゴレイが単なる新興宗教であるならば、消滅しても誰も困らない。とするとイナゴレイはあだ花だったのだろうか?
社会に役に立たないものであっても、イナゴレイ教で20年間もお金を稼いだという事実がある。そう考えればイナゴレイは事業としては成功したのだろうか?
イナゴレイの価値はそれだけだったのだろうか?
本日のお断り
架空の宗教イナゴレイの物語を読んで、ISO認証制度を思い浮かべた方がいるかもしれません。でもそれは考え過ぎですよ。
それに私の聞いているところでは、ISOマネジメントシステム第三者認証制度は社会的に高く評価され、どんどん登録件数が増えていて、認証機関はウハウハだと聞いております。
よかったですね ♥
本日のネタばらし
既にお分かりとは思いますが、イナゴレイとは5750とイナゴレイヤーのごろ合わせである。
5750はもちろんBS5750のこと。もしご存じないならあなたはISO担当としてはモグリですね。
おっと、イナゴレイヤーもご存じない。それは困りましたね〜
知らなければネットでググって勉強してね
もし興味がありましたら
ヨブ記もご覧ください。
名古屋鶏様からお便りを頂きました(2013/4/16)
思うに日本でキリスト教がイマイチ流行らないのは葬式仏教のせいというより、日本人がそこに「面白み」を感じないからではないでしょうかね。キリスト教は仏教よりも戒律が多いイメージですし。
逆にイナゴレイが日本で流行ったのは日本人の大好きな「全員参加で共通目標達成祭り」のテーマとして利用されたからでは?と考えます。QCとかもその類ですし。
「痩せ馬の先走り」と言いますが、スタートがデカいと萎むのもまた早いのでは・・・
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名古屋鶏様、毎度ありがとうございます。
なるほど、宗教とは個人の救済ではなく、集団の仲よしこよしを育成するという目的もありましたね、
日本人は集団志向ですから・・・・次回のネタに使わせてもらいましょう。
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外資社員様からお便りを頂きました(2013.04.25)
おばQさま
イナゴレイヤーという言葉は知らなかったので参考になったのと、楽しく拝読しました。
それにしても、いつも新しい分野を開拓され、最新ネット用語までご存じですね。
こうした知的好奇心は、ぜひ見習いたいと励みになりました。
同じ土俵では駄目なので、私が興味を持つ宗教の部分にて突っ込ませて頂きます(笑)
宗教にご利益を期待するのは、アジア宗教の特徴であり、私も馴染がある考えです。
一方で、「グローバルな宗教」と西欧人が定義する宗教の要件では、この考えには否定的です。
唯一神は、ちっぽけな人間なぞと、取引をしてくれませんから。
むしろ、カルトの見分け方として「この壺を買えば幸福になる」とか、「前世の障りが不幸の原因で、入信すればそれを祓う事が出来る」などという御利益の考え方は疑えというのが一般的です。
もちろん、人間の行動には目的があり、それが具体的な現世利益なのか、神の国への入場券なのかという違いはあれ、目的がある事は事実です。とは言え、御利益と信仰の天秤という言い方には注意が必要と思います。
もちろん、この点は、お書きになった本旨とは、無関係な点も強調しておきます。
以上でツッコミ終わり。
キリスト教の世界では、ルターなどプロテスタント運動が起きて、その反作用なのか旧来の団体からもイエズス会のような自己改革運動がおきたのですね。
他人に指摘されないと自身の問題には気付けなかったのですが、そこから自己改革が出来たからカソリックはプロテスタントと共に現在まで、教団を維持しています。
となると、結局は明白な自己規定があって、その上位規定として教団としての規定や教義があるのが有るべき姿なのかもしれません。
明白な自己規定がなければ、プロテスタントという看板を掲げようが結局駄目になるように思います。
お話のイナゴレイヤー教をビジネスとして考えれば、違う番号の世界で利益率の高いビジネスを対価に相応しいサービスとして行うケースは好調のようです。
ビジネスとして考えれば、市場として魅力が無ければ、他の分野に移るのは当然なので当たり前かもしれません。
但し、その時に、明白な自己が無いイナゴレイヤーは、右往左往するだけでどこに飛ぶのか判らず集団としてどこかへ突撃するのか、それとも今までの事など忘れてケロッとしているかもしれません。
過去の日本の歴史を見ると、進め一億火の玉から、民主主義の時代だと看板を変えて、ケロッと転身出来るのを思い出せば、イナゴレイヤーは 今に始まったものでは無くて、戦前のマルクスボーイなども同じかもしれません。
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外資社員様 毎度ありがとうございます。
突っ込みが厳しいですが、ご存じのように私は宗教なんて深く知りません。困ったことがあれば南無大師遍照金剛と唱えれば良いと思っている程度です。
ただISOとの関係は矛盾なくつなげようと結構考えました。
今の人はご存じないでしょうけど、1987年版には「契約の確認」というのがありました。我々は一体なんだろうと首をひねっておりましたが、J○△の審査を受けた時「お客様との契約書あるでしょう? ない、じゃあ不適合」てなもので、そんなものかと思っていました。その後、B▽○Iの審査を受けたら「お客様の購買仕様書を満たしていることを確認することですよ」と言われ、「なんだ、そんなことか」と 笑
1992年頃は企業も審査員も右も左もわからず、ウロウロ、オロオロしていたようです。ただ当時の規格は企業を良くするなんて曖昧模糊を語らず、お客様の要求するものをちゃんとするということがはっきりしていたので対応する意味もありましたし、納得できました。今の規格はお客様よりも審査員を納得させるのが目的のようで・・真面目になれません。
ISO17025や17020は、誰のための規格なんて疑問は生じないのでしょうね?
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