ヨブ記

2013.06.12
注1
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
とは言うものの、こんなものを読んで実話だなんて思う人がいるはずがありませんよね。
注2
敬虔なクリスチャンの方へお願い・・・・決してお怒りにならないで
怒りの鉢が飛んできそうです。いや怒りの鉢は傾けるのでしたっけ?

余部
余部社長
余部よぶ宇津うづ食品工業の社長である。若いとき会社を興し、以来40年正直なビジネスに努めて、今では国内7工場、海外3工場、国内従業員7000人、海外従業員3000人という大企業になった。
彼は若いときからISO教の熱心な信者であった。それで会社を設立するとき、会社の仕組みをISO教の教えに合わせて構築して、教義とおりの運営をしていれば、必ずや会社は顧客満足を得て成功すると信じていた。そしてここまで成功したのは、ISO教のおかげだと心から思っている。
40年前にISOマネジメントシステム規格があるはずがないなんて、本当のことを言ってはいけない。

ある日のこと、余部が社長室で執務していると突然取締役の一人が部屋に飛び込んできた。
取締役A
「社長大変です。タイ工場の製品で多数の食中毒が発生し、行政から操業停止を命じられました。中毒者の病状はそんなにひどくない模様ですが、とんでもない金額の損害賠償となりそうです。それに当社ブランドのダメージが痛いです」
その取締役がまだ話しているうちに、また別の取締役が来ていった。
取締役B
「社長大変です。中国の工場に反日デモがおしかけて放火され火災が発生しました。現時点まだ被害の詳細は不明ですが、複数の怪我人がでたもようです」
その取締役がまだ話しているうちに、また別の取締役が来ていった。
取締役C
「社長大変です。静岡工場で突然竜巻が発生し、工場の建屋一つが全壊し死傷者も出ています。そしてなんと当社の至宝ともいえるISO部門に大きな被害が出てしまいました」
余部は立ち上がり、窓の外を数瞬ながめてから3人に向かい静かに言った。
余部
「わかった。君たちはそれぞれ担当の工場の状況把握と拡大防止そして回復対策に努めてください」
取締役たちが去った後、余部の頭には様々なことが浮かんだ。そして最後にひとりごちた。
余部
「私は裸一貫からここまできたのだから、すべてを失っても元に戻るだけだ。今まではISO教のおかげだったのだから、これからもISO教を信じていくだけのこと」
このようなことがあっても、余部はISO教の教えを微塵も疑うことはなかった。

事故や災害が起きてから早や半年が過ぎた。複数の事故と事件によって宇津食品工業は大きな痛手を受けたものの、余部や取締役の活躍でなんとか事業を平常に戻しつつあった。
そんなある日、余部が執務していると突然取締役の一人が部屋に飛び込んできた。

取締役A
「社長大変です。本社工場で生産を始めたばかりの新製品に、重大な問題が発見されました。とりあえず生産を止めて対策をとります」
その取締役がまだ話しているうちに、また別の取締役が来ていった。
取締役B
「社長大変です・・・以下略」

余部
また一挙に複数の大問題が発生し、宇津食品工業は重大な危機に陥った。今回は以前よりも重大、いや致命的といえるほどの状況であった。社内の対策、行政や顧客との対応、マスメディアへの広報など、余部は率先してあたり、事故発生から半月以上家に帰らず、ほとんど徹夜の日々が続いた。とうとう余部は体調を崩し、ここ数日自宅にこもっていた。


余部の妻は余部の身を案じて言う。
「あなた、ISO教を信じていても問題は起きたのだから、ただISO教を信じお祈りするだけでなく、もっと問題を客観的にみて科学的に考えて対策しなければなりませんよ」
余部は妻を蛇でも見るような目をして応えた。
余部
「お前は愚かだ。私は今までISO教のおかげでここまで来たのだから、これからもISO教をひたすら信じていくべきではないか」

しばらくしてISO教関係の友人が数人見舞いにやって来た。
東京教区の司教である蛭田ひるた、神学院学院長の津尾つおとそこの教師である江利府えりふである。三人共ISO教の専門家であるが、それも単なる専門家ではなく日本の権威者と言ってよいだろう。


三人は病室に入ったものの、あまりにもやつれた余部を見て、しばしの間、言葉もなく沈黙していた。
三人が黙っているので、やがて余部は口を開いた。
余部
「お見舞いに来ていただいてほんとうに感謝している。しかしこんなふうに問題が連続すると、なんで私は生まれてきたのだろうかと思うよ。今は心身とも疲労困憊で、眠りにつくことさえできない」
蛭田がそれに応えて言った。
蛭田
「余部さん、こんなふうにいろいろと問題が起きたということは、余部さんの信心が足りないとか、おたくの会社の仕組みがISO教の教えを満たしていないところがあったんじゃないだろうか?
ここはまずご自身の行為を振り返ることと、会社の仕組みをISO教に沿っているか見直すべきだね。そうすればきっと原因が見つかるだろうし、素早いリカバリーもできるだろう」

余部は蛭田の言葉を聞くと色をなした。
余部
「蛭田司教、お言葉ですが、私は教えを固く信じて守っているし、また会社がISO教の教義を満たしていないことはないと信じている。蛭田司教は何か欠陥があるという。もしそのようなことがあれば教えてほしい。」

蛭田は余部のあまりの剣幕に黙ってしまった。
今度は津尾が口を開いた。
津尾
「余部さんはご自分には過ちはないとおっしゃる。しかし余部さんがISO教義を守っていると信じていても、もしかしたら過失があったかもしれない。
それでひとつどうだろう・・とりあえず己が至らなかったと、ISO教の神に詫びて許しを乞うべきではないのだろうか」

余部は津尾の言葉を聞くと強い口調で反論した。
余部
「津尾学院長、自分に落ち度がないと思っているのに、自分が悪かったと神に祈るのは、良いことをすると報酬をもらえるというごりやく宗教と同じじゃないのか。それに自分が信じていないのに詫びるということそのこと自体、神に対する偽りそのものじゃないだろうか? いやそれは裏返しの偽善だ。
私は無一文からISO教の教えに従って今の地位になったのだから、無にかえっても神を恨むことはない。だから津尾学院長が勧めるように詫びる気持ちはない。
しかしなぜ私にこのようなことが起きたのかは知りたいと思っているのだよ」
津尾
「しかし余部さん、今までISO教の聖職者たちがずいぶん議論して、それについて結論を見出していたじゃないか。それはISOの神は全能であり、正義なのだ。すると理由なく私たちに罰を与えたり試練を与えることはない。
議論 問題が起きるのはただ、その人、その組織に責任がある。簡単に言えば人は間違えたり規則を破ったりする。それゆえ神の裁きを受けて苦しむことになる。人が苦しむのはその人に問題があるのだ。ISOの教義を守っているなら間違いは起きないはずだ」
余部
「私はそれには承服できない。私は良いことをすると報われるとか、報われるために良いことをしようというあさましい心はない。それに、今私の身の上に起きていることが、私の過ちの故だという論理には納得できないのだ。だって私は神に逆らったことはないのだから」
津尾
「因果応報を否定するなら、神の行いは正義ではないということになる。それは前提を否定する」
余部
「ちょっと待ってください、神の教えは因果応報を示しているのか?」
蛭田
「教義では、手順を決めよ、手順とおりせよ、手順を守っているかを確認せよとある。これは因果応報そのものだよ」
余部
「なるほど、手順を決めたら問題が起きないということはそうかもしれない。だが私には神の教えに従っていると確信しており、背いたなど思い当たることはない。
人はいつかは塵に帰る。私がこの苦しみに耐えかねて自ら命を絶ちたいくらいだ。しかし今塵に帰るのは神のご意志に反する。だから耐えるしかない。
だが、私がこの苦しみを受けているというのは何か理由があるはずだ。それも神のご意志とするなら、その意味を知る権利が私にはあるはずだ」

病苦の余部の言葉はいずれ他人事である見舞いにきた人の言葉よりも重く、津尾も蛭田も返す言葉はなかった。しばし沈黙があった。
みなが黙っているので、江利府が口を切った。
江利府
「私はここでは一番目下なので黙っておりましたが、少し話させてもらいます。
まず因果応報についてですが、ISO教の教えにはそれはありません。また因果応報と正義とは無関係です。神は全能ですがそのようなこととは無縁なのです。
次により根本的なことですが、神が人間に与えられた基準と神の行為の基準が同じであると考えることもおかしなことです。ISOの神は全能であるがゆえに神の行為は神にしか理解できず、私たち人間がそれを理解できないことは当然なのです。
私たちが神の御心を理解できないから、教義を守らない人が成功するように見えることもあるでしょうし、余部様のように信心深い人が苦難に合われるわけが理解できないのでしょう。
もちろん神は無慈悲であるとか悪意があるのではありません。ただ神の御心を私たちが理解できないためなのです」
余部
「じゃあ、私の苦難は理由がないというのか?」
江利府
「理由はあると思います。しかしそれは余部様の行為とは関係ないということです。それは神がお考えになられたことであり、それを私たちは理解できないということです」
余部
「待ってくれ、すると私の過去の成功も私の信仰への神のおぼしめしではなく、私には無関係な神のお考えによるということなのか?」
江利府
「そうです。神の御心を理解できないのは人間の限界です。私たちは神が与えたもうものをただ受け入れるだけなのです」

そのとき部屋が突然暗くなった。室内であるにも関わらずすごい風が吹き、おごそかな声が大音響で聞こえた。もしかするとその音は空気の振動ではなく、頭の中に直接響いたのかもしれない。
誰も何も見えなかったが、そこに神がいるのを感じた。
「無知の言葉をもって神のはかりごとを語る者はだれか?
人が全能者と争うとするのか、
神と論ずるものはこれに答よ」
しばし皆が沈黙した後、余部が発言した。
余部
「私はまことに卑しいものです。あなたに答えることはできません。ただ私がなぜ現在の状況に至ったのか知りたいと存じます」
「おぬしの悩みは知っておる。それはもっともだ。答えよう。
私は人間ひとりひとりの幸福を考えているのではなく、この世界にひろく義をなさんとしている。だからすべての人が公平にならないことはやむを得ない。それは私の力不足によるのではなく、人間の裁量余地を残しているからだ。
江利府は人間が神の行為を理解できないと語ったことは正しい。当然であるが不運なのはその人に責任があるという因果応報論は、まったくの間違いだ。蛭田と津尾は考えが至らっておらんぞ。
さて、余部の間違いは、ISO教の教えを守れば問題は起きないと考えていることだ」
余部
「恐れながら、ISO教を信じ守ることに意味がないということでしょうか?」
「そうではない。元々人が守るべき義はたくさんある。それにそもそも私がISO教を作ったわけではない。私の語るのを聞いた人間がISO教を立て広めたのだが、その者たちは私の言葉のほんの一部しか理解していなかったということだ。人はISO教が教えていることだけでなく、もっと広くいろいろと考えて行動しなければならないのだ。
それだけではなく私はわざと不確定にするため乱数を入れて、結果は一意的に決まらないようにしているのだ」
余部
「恐れながら・・・すると私は視野が狭かったということですか?」
「そうじゃ、おぬしの妻が語ったように、ISO教を信じ祈るだけでなく、何事においても自分で考え試行することが必要じゃ。おぬしの会社はマネジメントだけで成り立っているのか? そうではあるまい。固有技術があるだろうし、従業員の意識、つまり士気や創意工夫はどうだ? そういうことについてISO教では何も語っていない。
実を言って私は、ISO教の教えをただ信じて盲従する人間どもにはいささかうんざりしている。蛭田と津尾よ、お前たちはそこを考えなければならぬ」
蛭田
「私は知りました。あなたが全能であり、そして正義であることを。そして神の教えだけではなく、私たち自身が行わなければならないことがあることも」
「そうじゃ、そうじゃ、
さて、申し渡す。
蛭田と津尾そして江利府は、これからは今の私の言葉を皆に広めよ。
余部は教えを信じ従うだけでなく、自分で考えること、そして社員に考えさせることだ。私は余部の災難をなかったことにすることもできるし、あるいは被害を回復することもできる。だがそうはしない。
現在の困難は、余部の意思と努力によって打破できるかもしれないし、あるいはこのまま挫折してしまうかもしれない。なにごとも確率的だからな。だが成功も失敗も栄光も恥辱も、神のおぼしめしでなく、おのれの功であり責であると考えた方が生きがいを感じないか? 人は運命論ではなく意思論で生きるべきだ」
余部
「恐れながら・・・それは無神論と相通じませぬか?」
「無神論だったら、それがどうした? 私は人間に良い生き方をしてほしい。そして私を信じていなくても、良き行いをしているなら結果は同じではないか。
ちなみに犠牲を捧げてもらっても、祈ってもらっても私はありがたくもない。私の行為が人間に理解できないと同じく、人間の喜捨や信仰が私に影響するわけがない」

再び風が吹き神は去った。部屋は元の明るさを取り戻した。
四人はお互いの顔を見合わせた。余部の表情は少し明るくなり、蛭田と津尾の顔色はまっ青で、江利府は悟りを開いたような顔をしていた。

蛇足
もちろんお分かりとは思いますが、余部はもちろんヨブ、会社名の宇津はヨブが住む地ウヅ、訪ねてきた蛭田はビルダド、津尾はツォファル、江利府はエリフになぞらえました。登場人物が多いと煩わしくなるので、サタンとエリファズは省きました。
そして工場の数はヨブの息子と娘の数で、従業員数は羊とラクダの数、まあダジャレです。

うそ800 本日のきっかけ
すこし前にイナゴレーヤーという駄文を書いたとき、外資社員様からごりやく宗教はアジア特有のもので、西欧人は宗教にごりやくを期待しないというコメントを頂きました。
西洋人というのは正確にはユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒という旧約聖書を共有している人という意味でしょう。
そのお話を聞いて旧約のヨブが思い浮かびました。何しろヨブ記は因果応報というか神義論そのものですからね。それでいつかヨブ記をもとに書こうと考えておりました。もちろんヨブ記についてではなく、ヨブ記のパロディでISOを茶化そうかと・・
先週ずっとネットから離れていたとき、、いろいろアイデアが浮かんできて面白いものが書けるかなと思ったのですが、メモをとっておらずほとんど忘れてしまいました。あるいは忘れたことは素晴らしいアイデアにみえるのでしょうか?
ちなみにヨブ記が無神論と相通じると解釈する人は多々います。私もそんな気がします。しかしこれでは無神論でさえなく、仏教になってしまったでしょうか?
私は中学の頃から聖書を読んでいましたし、はたちの頃はフリーメソジスト教会に通っていました。そんなことからいろいろキリスト教について考えましたが、良き行いをしていればクリスチャンであろうと仏教徒であろうと結果は同じという結論に至り、私の人生があります。死後、無に還っても、天国に行っても、極楽に行っても私は文句を言いません。おっと地獄に行くことは考えたことがありません。
もちろんヨブ記の意図とこの駄文の意図は違います。この駄文の意図はヨブ記とは逆で、ISOなるものを信じるだけでなく、自分の頭で考えろと言いたかっただけです。なにせ世の中には盲目的ISO信者が多すぎますからね。
おっと、なにがなんだか分らない方は、ヨブ記をお読みください。読んで後悔はしません。

うそ800 本日の懸念
うーん、読み返すとひねりが足りないというか、私がヨブ記を咀嚼していないことがわかります。
外資社員様からは厳しい批評が来そうだし、リス様からは冒涜だなんて怒りの鉢が飛んでくるかも・・
おっと、名古屋鶏さんがこれ以上のISOヨブ記を書くという予想に1万クレジット!




外資社員様からお便りを頂きました(2013.06.18)
ヨブ記によせて
いやいや、久しぶりの大作ですね、大変 楽しく拝読しました。
ご趣旨については、全く異存はありません。
まさに、果報を期待して信仰を行うのが誤りであるように、ISOである事が重要ではなく マネジメントの一手法としてISOが存在するのだと思います。

人も会社も、問題が無い限りは変わろうとしません。
しかし、潜在的な問題を見過ごさず、変化を恐れない事は、非常に難しい事です。 本来は、第三者の目は、そうした気づきのヒントですが、どう変わるかの決断、価値の評価は、当事者が行うべきなのですね。

ヨブ記は、聖書の中でも非常に特徴がある話です。
様々な解釈があり、そこから読みとられるものは、読み取る側の考えを反映されているのだと思います。 
ですから、オバQ様の、相変わらず鋭い視点と、面白さが、はっきりと読み取れて、大変楽しかったです。

外資社員様 毎度ありがとうございます。
外資社員様からお便りをいただきますと、何事かと緊張といいますか冷や汗(脂汗?)が流れます。
ともかく叱責ではなかったので一安心・・・
 そこから読みとられるものは、読み取る側の考えを反映されている
おっしゃる通りですね。ということは私はヨブ記を全然理解していないということです。
旧約にはヨブ記だけでなく面白いお話がたくさんというか、面白い話ばかりありますね。しかも聖人や王侯の美点や偉大なことだけでなく、堕落とかを書いているのがどういうことなのかよく分りません。ロトが娘たちとセックスしたり、ダビデも堕落するし、どういった意図で書いているのかわかりません。
話しは変わりますが、今、記紀や邪馬台国に凝っています。スサノオノミコトが天照大神の部屋に糞をしたり、皮をむいた馬を投げ込まれて驚いた機織りの女が杼(ひ)で自分の性器を突いて死んでしまったなんて、上品じゃない(下品)という気がします。旧約もそれと同じようにどうも神の教えを書いたというよりも、伝承を書き連ねただけという気がします。
それと古事記にも旧約にも共通なことですが、自分たちが嘘をついても卑怯な手を使っても良いと考えていることに違和感を感じます。身内以外は盗んでも殺しても構わないという中国人的発想なのか、自分たちの神を信じないものは獣と同じだということなのか、どうも感情移入できません。
ところで旧約のお話を基にISO旧約物語を書けば・・・ネタに困ることはないですね。

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2013.06.14追加
始めはこの語は「現世」にしていましたが、神の行為に対する言い回しだから「人間」に修正しました。
この駄文を書いてから思いだしたのが、藤子・F・不二雄の「ぼくは神様」です。この本では神の力は人間の信仰によって支えられているという発想で、まんがでは人間が神を顧みなくなってしまうと神が消滅してしまう。
だけどそもそも神が人間を創造したとすると、神の存在は人間の信仰に依存していないから、人間の信仰が消滅しても神は消滅しないはずだ。人間が信仰しなくなると消滅する神は、人間が作った神にすぎないはずと思います。現実にそういった例は、日本の鎮守様とか道祖神など証拠はたくさんあります。
また旧約の神は犠牲を捧げたり、神を信じ従うことを強制します。神に背くとソドムとゴモラのような罰を与えます。それっておかしいように私は思います。神が創造主で絶対であるなら、被創造物がなにをしようと、創造者に逆らっても、神はそんなことを気にしないと思います。もし自分に完全に従属させたいならそのように創ったはずです。旧約の中でもノアの方舟の中で「もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は再び起こらないであろう(創9.9.11)」という。これは神の約束なのだから、いかに世が乱れても人類全体を裁くことはないように思います。もっとも旧約そのものが日本の古事記のように天皇家の故事来歴や出雲神話、各地の豪族の神話などのごった煮と同じく多くの民話、神話の混合物だから矛盾など言うのは筋違いかもしれません。ともかく私は神が人間の行いや人間の信仰を気にすることはありそうがないと考えます。

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