MSSとは その2

2013.04.28
私が「MSSに価値があるのか?」という疑いを持ったことの起こりは、ISO14001の改定説明会にいって、2015年版にはコンプライアンスやパフォーマンスを盛り込むと聞いたからだ。はたして「パフォーマンスを上げろ、コンプライアンスをしっかりしろと書けば実現するのか」と疑問に思ったのです。
お断り:
現時点、改定ドラフトを見てませんので、改定案の文言が具体的にどうなのかわかりません。

たとえを考えてみましょう、法を守らない人がいたとして、新たに法を守れという法律を制定すれば法を守ると思いますか?
まずそんなことはありませんね。
体罰が良いか悪いかは論じませんが、他人になにごとかを強制するには、力、暴力と言っても良いけれどそれが必要です。
暴力と言うと驚くかもしれませんが、犯罪を犯した人には、国家の力で死刑や懲役を強制的に執行されます。逃げれば追いかけられ捕まります。それはおかしいなんて言っちゃいけません。いや、言ってもいいんだけど、それならあなたは国民が納得できる他の方法を提案しなければなりません。国家が力を持つのは危険だといいますか?
もちろんサヨクの方や新聞はそう語るのが多いです。でもそういう人はお花畑の住民といいます。
国家というのは人々が無法状態を避けるために、個々人の自由を制限しても共通のルールを課そうと取り決めた社会制度です。そんなこともわからず叫ぶサヨクが多いですが。疑問のある方は「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン著)をお読みください。
アメリカで銃を持つ権利を制限しようとする人、制限してはいけない人の議論が続いています。かの国では自分の権利を譲渡するのはおかしいと考えている人が多いのでしょう。その考えは誤りとか時代遅れというわけではありません。そういう議論ができるのが民主主義というものでしょう。
日本では国民の意見ではなく、為政者の思惑によって刀狩が行われたのです。おっと勘違いしないでください。それは500年前ではなく今から60年前のことです。日本が戦争に負けて、進駐軍が武器狩りを行い、日本刀その他の一般人が持っていた武器を取り上げてしまったのです。

以前、社民党の福島瑞穂は「犯罪者が抵抗すれば逃がせばいい」といいました。一般市民としては、そういう考えはあるかもしれない。しかし犯罪者を放置すれば、その国家は崩壊します。
犯罪者とは国家が定めた法律を破る人のことですから、論理的に当然です。
ミズホが大好きな旧ソ連や現在の中国だって、かの国の犯罪者に対しては容赦しません。もっとも日本人に対する犯罪は御とがめなしのようですがね。
ミズホは頭が良いのでしょうけど、その普遍的原理を理解していません。いや理解しているけど、そう語るのは自分に都合が悪いのでしょうか?
ですから治安を守る公務員は身を賭して犯罪者を取り押さえなければならない。
公務員とは国家に雇われた人ですから、それも論理的に必然です。国会議員であるミズホも特別職国家公務員ですから・・・おや、ここは論理的に合わないぞ? 笑

犯罪や国家の議論はおいといてISOの話に戻りますが、規格で規定していることを実行させるには、いくら文字を連ねてもだめです。ISO規格だって法律と同じです。実行しなければ処罰するぞという力と、それを運用する意思が必要です。規格に書いてある通りにさせるには、強制力がなければなりません。
そんなことはないとおっしゃる方がいるなら、あなたのアイデアを教えてください。
ぜひとも知りたいです。
今までの規格にはパフォーマンスについての記述がなかったので、パフォーマンスが上がらなかった。だから追加すればパフォーマンスが上がるだろうという発想は、子供じみているというか、まったくの間違い、方向違いのように思います。
そもそも今まで不祥事が起きると、ISO認証制度側は、企業が虚偽の説明をしたとか語っていました。規格に虚偽の発言を禁じる規定がないからだとは言ったことがありません。
ああいえばこういうなんて、ISO制度とはオウムのようなものなんでしょうか?
それとも私がオウムの上祐でしょうか?

おっと、本日は強制力とかミズホの話はウソばかりとか、ISO制度がうそをついているという話ではありません。
ISO規格に書いてある通りにすれば何か良いことがあるのかということが本日の論点です。

抽象論ばかりしていても話が伝わらない。例えば是正処置について考えましょう。
とりあえずISO14001:2004について考えます。是正処置についてどんなことが書いてあるかと言いますと・・不具合の除去と原因の除去、予防処置が湧けてありませんが該当箇所を抜き出しますと

4.5.3
 b) 不適合を調査し、原因を特定し、再発を防ぐための処置をとる。
 d) とられた是正処置(及び予防処置)の結果を記録する。
 e) とられた是正処置(及び予防処置)の有効性をレビューする。

では考えてみましょう。
あなたの仕事で問題が起きました。例えば製造部門であれば除塵機が粉じん爆発したかもしれないし、調達部門であれば輸送中にトラックが横転して燃料が漏れたかもしれないし、営業部門ならお客様に納めた製品から忌避化学物質が検出されたかもしれないし、総務部門なら近隣から騒音がうるさいと苦情が来たかもしれない。会社で働いているとそんな問題は常に起きます。
ではその問題解決のために、この規格の文言は役に立つのだろうか?
そりゃ、目の前の不具合を取り除くa)項目だけでなく、原因を取り除けと書いてあるから、再発防止をしなくちゃならないということはわかる。
だが規格は何も教えてくれない。
ISO規格で会社を良くしようとか、ISO認証で会社が良くなると語る人・・・コンサルや審査員に多いが・・・はどのようにすれば会社が良くなるのかわかっているのか?
果たしてISO規格を一生懸命に読んでどのように会社が良くなるのか・・・私にはワカラン

確認しましょう。ISO規格は「こうあるべき」だと「エデンの東」のようなことが書いてあるだけで、「こうすればできる」とは書いてない。まして「こうすればうまくいく」とは書いてないのだ。
分らなかったら「エデンの東」を読んでください。映画じゃないよ
「そんなこと当たり前だ、だって要求事項だから」とおっしゃるかもしれない。そのとおり、ISO規格は要求事項だから、あるべき姿を示すだけで、あるべき姿にする手法は書いてない。ISO規格は良くしろと言っているだけなのだ。ゆえにISO規格では会社は良くならない。
良くしろというだけで良くなるものだろうか?
サッカーのコーチが選手に、「もっとうまくやれ」と声をかければすばらしいプレーヤーになるのか、事故が起きたとき「当面の処置だけでなく是正処置をしておけよ」といっただけで問題が解決するのか、そんなことはない。

本日のテーマは「規格に書いてある通りにすれば、何か良いことがあるのか」でありましたが、もう結論が出てしまったようです。つまり「規格に書いてある通りにする」ことは論理的に不可能です。せいぜいできるのは「規格に書いてあることを満足させること」なのです。
じゃあ、どうやって? となると、それは我々下々が考えろということになるのです。

では、「パフォーマンスを上げろ、コンプライアンスをしっかりしろ」と書けば、我々がどうすればパフォーマンスが上がるのか、違反が出ないかを考えるということになり、そんなこと無意味だと思いませんか?
私は無意味だと思う。
だって、ちょっと考えれば、会社を良くする能力のある会社は、ISO規格に関係なしに会社を良くしていくだろうし、会社を良くする能力のない会社は、ISO規格をいくら読んでも会社は良くならないことは自明だ。
もしそのような文言が規格に追記されたとすると、審査員はパフォーマンスが向上しているか、違法がないかを鵜の目鷹の目でチェックして、問題ない会社が認証されることになる。
見方を変えれば、「パフォーマンスを上げろ、コンプライアンスをしっかりしろ」とは、パフォーマンスが良く、コンプライアンスが良い会社を認証しますという意味にすぎない。バカバカしくて笑いも出ない。
つまりマネジメントシステムが良い会社が認証されるのではなく、コンプライアンスを含めたパフォーマンスの良い会社に与えられるプライズ(賞)だということだ。
審査が厳正に行われたなら、そしてその会社が継続してパフォーマンスが良く、違反をしなければ、認証の価値は確立し、認証業界は不祥事が起きることを心配せずに枕を高くして眠れるだろう。
もちろんそれに意味があるかは人さまざまであろう。
認証とはそういうものであれば、取引先選定の際の評価項目に取り上げる意味は大きいだろう。しかし会社を良くするために認証しようという場合は、まったく見当違いとなるだろう。

だが・・・・疑問が生じる。
それは品質経営賞という性格であり、マネジメントシステム規格とは無縁のように思うのは私一人だろうか?
たぶん、私一人だろう 笑

そしてさらに重大な点がある。
ISO規格は設計図ではなく仕様書だ、こうあるべきだ、こういうことをしてほしいというものを言いたい放題書き連ねたに過ぎない

車サポーズ、スバラシイ車を作ろうとして、その仕様書を書いた。
乗車人員5名、燃費JC08モードで40キロ以上、最高速200キロ、燃料もガソリンだけでなく軽油も使えること、CO2を出さないこと・・・・

まあなんでもいいですけど、そんな文字の羅列ならだれでもあっという間に書けます。
しかしそれを実現することは仕様書じゃできません。緻密な設計と製造技術が必要で、より重要なことは仕様書を満たすことが可能かどうかもわからないのです。
CO2を出さないことは実現不可能でしょう
そんなことを考えると、そもそもISOマネジメントシステム規格は価値があるとは思えない。そんな風に思うようになってきました。

この紙に書いてあることはうそです
「この紙に書いてあることはうそです」と書いてあるとき、その文章はいかなる意味を持つのか、病的というのは簡単ですが、考えると面白いですね。
そんなものが実際にあるのかと笑うかもしれませんが、一歩退いて考えると、果たして現行のISO規格、あるいは過去の版(バージョン)はその文章が意味を持っていたのでしょうか?
私には意味がなかったように思えるのです。

うそ800 本日のまとめ
ISO規格は仕様書である。だから規格に従って実行することはそもそも不可能であり、できることは規格を満たすことだけである。
そして論理的に考えれば、規格を満たす力がある組織なら、ISO規格などに関係なく一定水準にあるだろうし、改善を進めているだろう。そして規格を満たす力がない組織なら、ISO規格を読んでもどうしたらよいのかわかるはずがない。
もちろんそれにしても、ISO規格が示す仕様が適正か否かもわからないのだ。

うそ800 本日の疑問
ISO規格は会社を良くするとか、会社を改善するためにISO認証しましょうと語る人はどのような論理で考えているのだろうか? それとも単なる金儲けなのだろうか?




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