江戸時代

2014.05.26
お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、別に推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからこの本の内容について知りたいという方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。

会社を辞めてから私の歴史遍歴が始まった。仕事柄とっかかりは持続可能性から始まり、やがてそれは石器時代、縄文・弥生、邪馬台国、古事記、日本書紀とだんだんと時代が下り、最近は江戸時代に凝っている。

侍じゃあ 江戸時代、百姓は重い年貢で食べるのがやっと、飢饉があれば餓死することは珍しくなかった。侍と町人、百姓の身分の差は大きく違い、切り捨て御免といって武士が気に入らないと殺されても文句を言えなかった。町人百姓は刀なんて持つと大罪だった、なんて学校では教えられた。
テレビ番組では、水戸黄門や暴れん坊将軍が虐げられた民百姓を救い、剣客商売では毎晩のように辻斬りがあり、武家同士では話し合いよりも刀を抜いての切り合いが物事を決定したように描かれている。
最近は「武士の家計簿」なども映画化されて、だんだんとそのような理不尽なことというか、荒唐無稽なことはなかったということが一般に知られてきたようだ。藤沢周平、池波正太郎、佐伯泰英の描く江戸はほとんどが絵空事である。

江戸時代、民百姓はそれなりに自治権も自治組織もあり、幕府や藩の一方的な政治がおこなわれていたわけではない、時代相応ではあっても食べるもの着るもの嗜好品などそれなりに豊かであったこと。余暇には武道や芸事に励む余裕があったことなどが知られてきた。伊能忠敬をみれば一般人が、しかも隠居した老人が数学や地理学を学んでいたこと、江戸まで出てきて有名な先生に習うこと、そういうことが許されそしてそういうことをしていた町人がいたのである。
今なら定年退職した人が大学院に行くようなものだろう
江戸時代だって町人の権利はちゃんとあり、無法な政治がおこなわれていたわけではないということは、明治時代の人にとっては自らの体験として見知っていたであったろうけど、政権を取ると前政権を悪く言わないと自分たちが立つ瀬がないのは中国ばかりでななく、日本も同じ。前の時代を悪しざまに言って、それを学校で子供たちに教えて、いつしかそう信じられるようになってしまったということだろうと思う。

「江戸時代の農民は何を食べていたか」という問いにあなたはどう答えるのか?
ひえあわを食べていた。大根飯を食べていた。麦飯を食べていた。いろいろ思いつくことだろう。知りたければ「歴史の見方考え方」を読んでください。
「歴史の見方考え方」を書いた板倉さんは「原子論的に考える」ことを主張しています。原子論というのがどういうことなのか私は分りませんが、大局的に考えろとか、総合的に考えろということのようです。エネルギー保存の法則と同じく、インプットとアウトプットは等しく、物もお金も消えたり増えたりしないということを前提に物事を考えると偏見なしに見えてくるということでしょう。
現在だって、お金を使うと日本円が消えてしまうと語る評論家とか政治家も多い。
っ、森永卓郎とか浜矩子は経済学者でも経済評論家でもなく、単なる芸人・タレントでしたか。

江戸時代といっても時代によって違うし豊作も干ばつもあるので一様ではないけれど、とれた米は3000万石から4000万石くらいだった。当時の人口が3000万だから一人1石以上、俵2俵半、決して少なくはない。もちろんそれが均一に分配されたわけではない。飢饉のとき餓死したのは米がとれなかったのではなく、お米があってもそれが均等に配られず偏っていたことが主な原因だったらしい。
我々もそれを笑ってはいられない。オイルショックやコンピューター2000年問題、東日本大震災の時にトイレットペーパーが店頭から消えたのと同じだ。

実際に藩主が飢饉に備えて米を備蓄し非常時には民百姓に配った藩では、餓死者がいなかったという。ご記憶願いたいが、飢饉で餓死者がでたりすると、その藩主は行政能力がないとみなされて転封とか改易なんて処分にあった。だから藩主も実際の行政にあたる代官も、農業の生産をあげよう、農民が困らないようにしようと必死だった。それで開墾も進めたし、親孝行の息子・娘や働き者の百姓を顕彰した。天領であった千葉県内の神社、仏閣ではそういう人を顕彰した碑をたくさん見かける。
私が住んでいた郡山市では、そんな碑は見たことがない。というのはそのあたりも江戸時代は天領だったそうだが、当時はあまり人が住んでいなかったからだろう。安積平野の開拓は明治になってからだ。

大局的に考えればそうなんだろうけど、局地的に考えるとどうなんだ!?という声があるだろう。「百姓の江戸時代」で田中先生は越後とか佐渡という局地的な地域に残された古文書を丁寧に読み、民百姓がどんな暮らしをしていたかを明らかにする。
同じ大学の先生でも、他人の論文やお芝居などを見て本を書いている方は、読むと深みが違うのですぐわかる。 講釈師見てきたような・・・を地でいっている 笑

田中先生が描き出す庶民の暮らしは、テレビ時代劇とは全く異なり現代の我々の日常と価値観に近い。
村の掟を話し合いで決めてもその場限りとなってしまう。それではその約束をずっと継続的にそして強制力を持たせるにはどうしたらよいか? 村役人は代官のところに行って、その村の掟を法律つまり幕府の法度にしてもらったという。そして百姓はその掟に従って暮らしたという。ところがそれが今では、幕府はこのように細かく厳しい政策で百姓を縛ったのだと考えられてしまったという。
「逃げる百姓追う大名」などを読むと、百姓は土地に縛られず住みたいところに移ってしまう。大名とその臣下は農民がいなくなると困るので自国の農民を引き止め、そして他藩の百姓を勧誘する。
ちょっとそれは我がままというか矛盾しているが、人間はそんなものだろう
私の祖先は江戸時代に新潟県の方から移り住んできたという言い伝えがある。以前は江戸時代は百姓が移住するなんてことはありえないだろうと思っていたが、最近いろいろな本を読むと、農地が足りないとか代官が気に食わないなんてことがあると、百姓は欠け落ちといってよい治政が行われているところに逃亡してしまったという。南部藩では少人数ではなく、なんと数万もの百姓が徒党を組んで伊達藩に欠け落ちしたことがあったという。
「欠け落ち」とは、戸籍から欠け落ちるとか、集団・村から欠けるから言われたそうだ。やがてそういう意味から好きあった男女がひそかに逃亡することに使われるようになり「駆け落ち」と描かれるようになったそうな・・
そしてそんな逃亡・逃散をしても特段罪に問われることもなく、藩主たちは穏便に処理しようとしたらしい。へたをするとお取り潰しの恐れがある。
南部藩の欠け落ち指導者は後に処刑されているが、それはノコノコと元の村に戻ってきたから捕まったので、伊達藩に住みついていればそれまでだった。
佐倉惣五郎は実在したらしいが、将軍に直訴した証拠も死罪になった記録もないらしい。だが、佐倉惣五郎を百姓弾圧、侍の圧政・横暴の事例としてあげている本も多い。どちらが正しいかはわからないが、直訴があったというのは講談「佐倉義民伝」だけらしい。

天領で人殺しなんて重大な犯罪が起きてもドラマのように代官がお裁きするなんてことはない。下手人を捕まえたら江戸表に送り江戸町奉行のお裁きを受けるのだが、それには何年もかけて審議したという。
取り調べは拷問が行われ、無実の人も冤罪で苦しめられた。なにかあるとすぐに死罪になった。弁護士もつかなかったとテレビドラマはそう語る。
本当にそうだったのかとなると、それは大いに怪しい。
驚いたことに下町奉行は死罪どころか遠島以上の重い判決は出せなかったそうだ。遠島は老中の決定、死罪はなんと将軍じきじきの裁決が必要だったという。つまり御白洲は一審なのだ。重罪と判明したときは下町奉行は上級裁判所に送って判決してもらったということだ。だからお白洲で奉行が「一件落着」できるのは微罪だけだった。
また証拠だけでは有罪にならず、自白が絶対必要だったとのこと。証拠がそろっても「あっしがやりました」と言わなければ有罪にできず、だからこそ逆に拷問が必要となったという。
専門家に聞いてみなければわからないことは多々ある。

果し合い チャンチャンバラバラも実際はどうなのだろう。剣客商売を見ると剣の極意は才能と厳しい練習によるようだし、居眠り磐音では剣は悟るもののようだ。
ところが勝海舟のオヤジ、勝小吉は実際に暴れん坊で切った張ったをしていたわけだが、彼の書いたのを読むと、果し合いは度胸と勘と腕力に尽きるようだ。特にケンカ慣れすることが大事だとある。勝小吉は宮本武蔵並みの剣客と戦ったことはないだろうが、やくざ、侍、町奴たちと真剣を使ったやりとりをいくたびもしていたわけで、ウソではあるまい。
鳥刺し剣、竜尾返し、隠し剣鬼の爪あるいは居眠り剣法なんてのはなかったようだ。ともかく現実は藤沢周平とか池波正太郎の描くようなものではない。まあ現実を書いてもお客は喜ばないから、大げさに神秘的に書くことが小説のテクニックなのであろう。
なお、勝小吉は少年時代家出をして乞食をしたりして放浪したが、そこに出てくる百姓は白米を食べている。乞食となった小吉も、どこに行ってもご飯を食べさせてもらい、たまには白米でないものを食べたいとぜいたくを言う。
侍同士のチャンチャンバラバラだけではない。忠臣蔵が歌舞伎になり、国定忠治とか平手造酒のお話が浪曲になったのはそういう事件が少ないからだ。その辺に転がっている話なら歌舞伎にも浪曲にもならない。犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬に噛みつけばニュースになる。

一般庶民はまともな医療を受けられず、病気になるとすぐに命を落としたのだろうか?
田中さんの調べたところ、佐渡のような田舎でも種痘が行われ、病気になれば医者にかかる。老人がヒマだから暇つぶしに医者に通うので「重病以外は医者に行ってはいけない」なんて、お触れが出るのは今とまったく同じようだ。もっともこのお触れを見た現代の学者が、幕府は庶民が医者にかかるのを禁じたと読むというのもまたやむを得ないのか?
米の出来を見て年貢を決めるのが検見法、毎年同じ年貢が定免法というそうだ。幕府が不作の時でも年貢を取り立てられるように定免法にしたという学者が多いが、実際は逆で農民がそうしてほしいと要求したというのが真相だという。
定免法と検見法についての解説は田中圭一と河合敦では深みが違う。田中圭一の圧勝だ。ここんところは、古文書をひたすらめくる研究者と、論文を読むだけの人の違いなんだろう。

人物の評価もさまざまである。同一人物を名君というものあり、愚君というものあり。
島津藩の八代藩主島津重豪しげひでは書物を収集して学問を勧めた名君主だと鈴木由紀子はいい、大金で外国の書籍や品物を買いあさり藩を傾けたと河合敦はいう。まあ、これは事実の認識は一致していて、それをどう評価するかという見解の相違なのだろう。
田沼意次の評価も最近はだんだんと変わってきている。学問の世界だけでなく小説やドラマでも田沼の扱いが変わってきた。居眠り磐音では昔ながらのわいろ政治家であるが、剣客商売では田沼は偉大な政治家である。書く人によって思い入れがあるから、この人は善人だと思えばそう書くのだろうし、あるいはこの人を推したい、この人を貶めたいと思って書くこともあるだろう。
高い酒を飲もうと高いカレーライスを食べようとそれが悪い理由はない。清貧は決して高貴なことではない。民主党の政治家も高い飯を食べていたそうだが、マスゴミは決してそれを報道しなかった。それどころか同じく高額なものを食べても、報道機関が支持する政治家、政党の場合はそれを報道せずに、自社が指示しない政治家や政党の場合は悪意をもって報道するという日本のマスコミは相当偏っている。いや腐っているというべきだろう。

島原の乱についても見方は多様だ。「江戸時代を読む技法」では、当時のキリスト教というものをヨーロッパ諸国の帝国主義の侵略の尖兵であると語る。南米のインカ帝国において宣教師に洗脳された民衆が武力で帝国に反抗したようなものだ。今時点で考えると、サヨクが中国から武器の支援を受けて日本という国家体制に武力抗争を起こしたと考えればいい。島原の乱は戦国大名同士の戦いの枠内ではなく、外国に支配された武装勢力との戦いだ。だからこそ、幕府からの要請で外国の船が島原城を砲撃したとき、信者たちは驚き、失望したのだろう。単にブルータスよお前もかではなく、はしごを外されたと思ったのではないだろうか?
しかしヨーロッパの宗教戦争のように、名主が一揆に参加すると決めると、そこの百姓は参加しなければならないとはいささか問題だ。


2018.12.27追記
「吉原の真実」という本を読んだ。
吉原と言えばもちろん売春街、誰から見ても良い感じではないだろう。私は正直言って一度も買春というものをしたことがない。しかし一般論として、人間は性欲があるわけで独身で彼女がいない人のためにはそれを処理するところが必要悪だろうという気はする。
ともかく売春をしている人は可哀そう、親に売られた、売春宿の経営者に搾取されている、病気になったら捨てられ、死んだら投げ込み寺というのがイメージだろう。
そういうイメージの小説、テレビドラマ、映画など数多ある。
しかしこの著者秋吉さんは、そんなのミーンナ嘘と言い切る。
吉原で亡くなった遊女が弔われた浄閑寺には遊女が2万5千人とあるけど、浄閑寺のホームページに「新吉原創業から廃業までの380年間に浄閑寺に葬られた遊女、遊女の子、遣手婆など遊郭関係のものや、安政、大正両度の大震災に死んだものを含めた推定数は2万5千に及ぶ」と書いてあったそうです(p.105)。これを基に遊女が2万5千人葬られた、年間66人死んだと解釈した本が多くあるそうです。
遊女の年齢を仮に17歳から33歳までの16年間とし、平均して25歳とすると死亡率は0.3/1000人(2014)です。200年前の日本の平均寿命が今の半分として死亡率2/1000人はいくでしょう。
江戸時代によって吉原の遊女数は2000〜4000人だそうですから、年間の死亡者は4人〜16人となり、66人は確かに異常だ。
しかしこの文章を素直に読むと、遊女が2万5千人葬られているのではないのです。単にお寺には2万5千人葬られていて、そこには遊女も含まれると書いてあるだけです。
それからもっとすごいのは、吉原創業に380年足すと、西暦2038年になってしまうそうです。今でも花魁がいるのかもしれません。
また「吉原女郎の平均寿命は23歳」の根拠は浄閑寺の過去帳に年齢が書いてある女性が64人しかいないが、その64人の死亡年齢の平均だそうです。その人たちが女郎だったのかどうかは分からないそうです。
幽霊の正体見たり枯れ尾花ではありませんか!

なお、2018.12.27浄閑寺のウェブサイトにアクセスしてウェブ内をサルベージしましたが、上記文章はありませんでした。本が出されてから1年経ちましたから、修正したのかもしれません。
2018.12.27追記終わり


いろいろな本を読むと、いろいろな見方が分かって面白い。一人の本だけでは田沼にしても島津にしても、一面だけしか見えない。
しかし読めば読むほど現在とあまり変わらないことが分り、夢がなくなる。
ところで誰が一番お勧めかといえば、田中圭一に尽きる。これは間違いない。下記にあげたものの中には感心したものだけではなく、私のような素人が見てもおかしなもの、論理が通っていないもの、単なる他の本のサマリーもあり、玉石混交である。

書 名著 者出版社ISBN初 版定 価
村から見た日本史田中圭一ちくま書房44800592882002/01/20720
百姓の江戸時代田中圭一筑摩書房44800587022000/01/20680
江戸の訴訟高橋敏岩波新書97840043047081996/11/20821
江戸村方騒動顛末記高橋敏ちくま新書97844800591302001/10734
逃げる百姓、追う大名宮崎克則中公新書97841210162942002/02778
江戸の決断河合敦講談社40621333262006/10/301400
歴史の見方考え方板倉聖宣仮説社47735006461986/4/71500
開国前夜鈴木由紀子新潮新書97841061036982010/06/20720
江戸庶民の旅金森敦子平凡社新書45828514872002/7/22740
夢酔独言他勝小吉(著)
勝部真長(編集)
平凡社97845827633312000/03864
江戸を読む技法山本博文宝島新書97848002236162014/3/24750
大江戸世相夜話藤田覚中公新書41210172342003/11/15740
歴史の読み解き方磯田道史朝日新書97840227353482013/11/30760
九代将軍は女だった古川愛哲講談社98740627251942008/08/20800
「環境」都市の真実根崎光男講談社97840627254222008/12/19756
武士の家計簿磯田道史新潮社97841061000552003/4/10734
歴史人口学で
読む江戸時代
浜野 潔吉川弘文館97846420572402011/7/11700
吉原の真実秋吉聡子自由社97849089790332017/8/27700
世界一の都市
江戸の繁栄
渡部昇一WAC97848983114622010/07/231333


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