「寄生虫なき病」

2014.10.23
お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからこの本の内容について知りたいという方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。

著 者出版社ISBN初版定価
モイセズ・ベラスケス・マノフ文芸春秋97841639003532014/03/152200円

もう20年も前になるが、私がタイで仕事していたとき寄生虫病になったらしい。らしいというのはタイにいた時はなんでもなかったからだ。日本に帰ってきて2週間くらい経ったとき、嫌なことが起きた。
嫌なことというのは、夜寝ているとお尻がひやっとして目が覚める。なんだろうと見るとお尻からミミズのようなものが出てきていた。正確に言えばミミズのように丸くなく、また長さも長くなかった。みたところきし麺の切れ端のような平たい断面をしていて、厚さ1ミリ、幅が7、8ミリ、長さが数センチから10センチくらいで、頭から尻尾までの一匹まるごとではなく、切れ端のようだった。出てくる途中で切れてしまったのか、虫が節でちぎれて分裂するのかはわからない。いずれにしてもちぎれたものひとつひとつが一個の生き物で、ニョロニョロと動いています。ギョットしましたね。
 初めこれは夢だろうって思いました。
夢なら醒めてくれ
 でも夢ではありませんでした。

それからというもの、夜といわず昼といわず、そいつはお尻から出てくるようになりました。
 会社で仕事をしているとパンツの中でニョロニョロと・・
 碁会所で碁を打っているとパンツの中でニョロニョロと・・
 通勤のバスの中で・・・
正直いって、生きた心地がしませんでした。
虫が出てくるだけでなく、いつもガスがたまったようになったほか、腹の調子がおかしくなりました。
ほっておくわけにはいきませんから近所の内科に行きました。でもその医者は寄生虫なんて知らないんです。患者(私)の前で分厚い本を開いてどうしようかと頭をひねっていました。患者を不安にするような行為はいけません。ともかくなにか虫下しを取り寄せて私に二三日会社を休んで飲めと言いました。私は言われた通りに会社を休んで虫下しを飲みました。その結果、ものすごい下痢をして私は脱水症状になり低血糖症で倒れてしまいました。しかし寄生虫のほうは一向に・・・
この医者はだめだと思いまして、あちこちあたりました。でも大きな病院でも私の寄生虫を直してやると言う人がいません。
義母に相談しました。私の身内には年配者がおらず、知るかぎり義母が一番年長だったからで、年寄りなら寄生虫に詳しいだろうと思ったのです。義母は田舎の老医者なら知っているのではないかと言いました。早速そこに行きました。もちろんお尻から出てきた現物も持って行きました。
その医者はそれを見てすぐに「これはサナダムシ(無鉤条虫)だ、任せておけ」と言いました。そして別の虫下しを出してくれまして、やはり会社を数日休んでそれを飲みました。なぜ休むのかというと、薬を飲んで食べずに下痢が続くので、本当に体力を消耗してしまうのです。
いやあ、出ましたね。寄生虫が丸まって団子になって出てきました。ほんとうにダンゴでしたよ、かたまりの大きさは、そうですね縦10センチ横3センチくらい、細長い虫が何匹もぎっしりと絡まっていました。そのときはタイから帰ってきて半年以上過ぎていました。その間に増えたのでしょうか? でもサナダムシはいったん人の体から出て、ミジンコや魚に寄生してまた人に入ると本に買いてあります。となると元々私の体に卵がたくさん入ってそれが成虫になったということでしょうか? その辺はよく分りません。
医者にそれを報告したら、そのダンゴになった虫を持ってきてほしかったと言われました。うーん、そういう気は起きませんでしたね。
ともかくそれ以来、虫は出てきません。
そのときその老医師が「原因はたぶん鮭だろう」と言いましたので、それ以来20年間、鮭は避けております。熱いものに懲りてなますを吹くってことだとは分っていますが、正直食べる気がしません。
その後何度もタイに行きましたが、その後は生はもちろん半生の肉も魚も食べないように注意しました。そのおかげか寄生虫になることはありませんでした。

ところでそれ以前から花粉症というのはありましたが、その頃、つまり1995年頃からどんどん花粉症になる人が増えてきました。同僚の多くも花粉症になりましたし、我が家でも息子娘が花粉症になって鼻水ダラダラ涙ぽろぽろというありさまでしたが、私はなりませんでした。息子娘はダニのせいかアトピーにもなりましたが私はなりませんでした。家内もなりませんでしたが・・
その後、寄生虫がいないと自己免疫で花粉症になるんだなんて説を聞いたことがあり、私は寄生虫になったおかげで大丈夫なのだろうかと思っていました。

もっとも私はタイに行って初めて寄生虫病になったわけではありませんでした。終戦直後生まれの私たちにとって寄生虫というのは身近なものでした。
年に2回くらい学校で検便がありました。当時は寄生虫が見つかっても恥ずかしいとか珍しいということは全然なかった。検査のたびにクラスの2割くらいの子供から虫の卵が見つかり、見つかった子供には先生が虫下しを渡して飲めということになります。本人も「チクショー今回はアウトだったぜ」というくらいなものでした。
友達に検便を忘れて代わりに道で見つけた犬のウンチを持っていき、検査結果とんでもない病気だといわれたやつがいた。そのときの奴の顔と言ったら・・
ただ当時は回虫とか蟯虫がほとんどで、サナダムシというのは聞いたことがありませんでした。学校でサナダムシというのもいると習いましたが、お尻から出てきた仲間はいなかったと思います。
いつしか年月が過ぎて、子供でも大人でも寄生虫を飼っている人が減り、たまたま外国に行って寄生虫になると大騒ぎすることになったようです。
そういえば今でもツベルクリン検査なんてやっているのでしょうか? 昔は陽性がデフォルトだったのが、今では陰性がデフォルトになったとか聞いたことがありますが・・・
結核になる人もどんどん減っているようです。

さて、この本はご自身が重度の自己免疫疾患になり、髪の毛も体毛もすべて抜け、ぜんそく、アトピーになってしまったジャーナリストが、最後の望みをかけて寄生虫をわざわざ体内に入れて改善を図ろうとした顛末と、そういう治療や研究について調査したものです。
日本語のタイトルは「寄生虫なき病」であるが、原題は「不在という病」である。というのは対象が寄生虫だけでなく、ばい菌やウイルスなども含めて論じているからだ。しかし意図を正しく表せば「清潔という病」ではないかと思う。
昔々、人間はばい菌や寄生虫や害のある昆虫たちに囲まれて暮らしていた。しかし生活環境が良くなると、ばい菌や害虫を遠ざけて清潔な暮らし清潔な体になってきた。おかげで感染症だけでなくその他の病気も減り寿命も延びた。しかし人間の免疫システムは状況の変化にすぐに対応するわけではなく、外敵がいないと免疫システムがなんでもないことに過剰反応をしてその結果アレルギーを起こしているという。
もちろんそれには個人差が大きい。今現在、ほとんどの人に寄生虫はいないけど、その人たち全部が自己免疫症になっているわけではない。
ただそれを改善するために寄生虫を飼えばいいというわけではないと語る。というのはなにごとも全体的な調和が必要である。人体と様々なばい菌や寄生虫による、敵対、共生、寄生という体内の生物多様性がなければ人の体は安定しないのであって、単に寄生虫を数匹飼えばアトピーが治るという単純なものではないという。そしてまた子供の頃からばい菌や寄生虫と生きてきてそういう体質ができていてアトピーにならないのと、寄生虫と無縁の生活をしていてアトピーになってしまった体を治療するのは別だと語る。
そうなのかもしれない。しかしじゃあどうすればいいのかとなると、著者はいつか将来医学が進歩して幼児の時から体内にばい菌などを含めた安全な生態系を構築することができるようになるだろう、そうすれば原始人のように感染症になることもなく、現代人のように自己免疫疾患になることもないと語る。
原始人
人間は元々自然の生き物だから、当然はだか、はだしで生きてきた。だから生水を飲めば口から、はだしだから皮膚を通して地面から寄生虫もばい菌も入ってきただろうし、昆虫に刺されればばい菌も原虫も傷口から入った。狩りをしていて怪我もしただろうし、噛みつかれてけがをしただろう。そこは化膿したり、虫が卵を産んだりしたに違いない。
そういう病気の元になるものを体に取り込んで大丈夫だったのかと言えば、大丈夫ではなかった。ひどいときは死んでしまっただろうし、軽くても寄生虫に栄養を吸い取られたり、ばい菌で病気になったり、炎症を起こしたりしてひどい目にあったことだろう。しかし大勢の中で病気になったり死んだりした個体があっても、生き残った個体が子孫を残す程度の余地はあったということだろう。だから単純に寄生虫やばい菌を持つことが良いわけではなく、原始人の生活をすれば、現代人の直面している問題が解決するわけではない。
現実に結核、ポリオ、麻疹、インフルエンザその他によって死んでいた多くの人が医学の進歩で救われてきた。私が子供の頃は、毎年夏休みになると一クラスで一人や二人が疫痢、赤痢になって入院するのは夏の風物詩であった。そして6年間に一人くらいは亡くなった。ピロリ菌保有者は水道が普及して激減したという。言い換えるとピロリ菌を持っている人は子供時代水道がなく井戸を使っていた人ということらしい。人類が長い年月をすごしてきた不潔な環境で常に病気が身近にある、そんな生活が良いわけではない。
でも現在かなりの子供がなっているアトピーもいやだし、花粉症も嫌だ。蕎麦、鯖、ピーナッツ、小麦、ミルク、アレルギーは多種多様だ。オイオイ、それじゃ食べるものがないんじゃないか? ましてクローン病、多発性硬化症なんてなりたくない。
現代人が直面しているこれらの自己免疫疾患の対応として、著者が語るようなあらかじめ無害のばい菌や寄生虫を幼児に与えて自己免疫を予防する方法が確立することは期待したいが、それは可能なのか? そしてそういうことが実現しなければどうする?

ところでこれほど自己免疫が問題になっているときに、除菌液、抗菌剤、抗菌グッズなんてどんなものなんだろう? それほど気にすることがあるのだろうか。世の中には電車のつり革に触っただけで手を洗うとか、家以外で洋式トイレを使う前に便座を除菌液で拭く人もいるようだ。過ぎたるは及ばざるごとし。ある程度おおらかにいかないと精神衛生上も悪いんじゃないだろうか。

なぞ
抗菌グッズというものはたくさんある。ボールペン、抗菌玩具、下着、タオル、カーペット、食器、スリッパ、スマホケース、抗菌マウスなどなど
ボールペンから感染して病気になった人はいかほどいるのだろう? スマホに触って入院した人はいるものだろうか?
下着なんて毎日交換して洗濯して太陽に干せば清潔そのものじゃないの?
それにさ、抗菌剤ってほとんど銀、銅などの重金属イオンなんだよね。つまりばい菌の感染を防ごうと抗菌グッズを使うことは、金属イオンという毒に触れることである。
抗菌グッズ大好きなお嬢さん、それを知っているの?

そして、こんなことを言ってはいけないかもしれないが、万が一病気になったらしょうがないと諦めるという人生観も必要なのではないだろうか。
難病になって「なんで俺が」と思うのはわかる。しかし1000年前、2000年前、病気になって回復しないとき、当時の人なら「しょうがない、これも運命」と思っただろう。今の人もそういう諦めというか割り切りは必要ではないかと思う。

(昔は)生まれた子供の25%が1年未満で死亡した。5歳までに、更に4%の子供が死亡した。しかし、15歳まで生き延びることができた人の平均寿命は60歳を超えていた。(p.423)
江戸時代、誕生日が来るまでの幼児は人数に数えなかったという。人間とみなされなかったのだ。しかし元気な老人というのは昔からいた。2000年前のローマでは、16歳から60歳まで兵役の義務があったという。当時でも60歳の人が戦えたのだ。また江戸時代侍には定年がなく普通70くらいまで出仕していたらしい。松の廊下で浅野長矩を取り押さえた梶川頼照はそのとき54歳、若いとは言えない。もちろん痴呆になったボケ侍も多くて困ったという話もある。そういう意味では健康な人の寿命は昔も今も変わらないと思う。
だいぶ前、皇居外苑で野鳥観察の講習があった。そのときガイドは「ヒナから孵った野鳥で翌年まで生き残るのは1割もいません」と言っていた。それを聞いたとき驚いたが、考えると当たり前だろう。野生動物はすべてのたれ死にだ。自分ひとりで生きていけなくなったら死ぬしかない。そして自分より強い肉食動物と出会えばそれで終わりだ。
恐竜
骨折して治癒したレックスの化石が見つかって、彼らは助け合っていたのではないかという説もある。
医療保険の始まりは誰それが生きるか死ぬかという賭け事から始まったそうだ。理由はともあれその歴史はせいぜい数百年と思われていたが、恐竜がはじめたとなると2億年くらいの歴史があることになる。
残酷なようだが、生まれてきたものすべてが老齢を迎えるのではなく、弱い個体は淘汰されるのが自然であるなら、生まれた人間はすべて老衰で死ぬまで生きることを期待しないほうが良いのかもしれない。
自然の状態の生物は、ボロボロだったり、虫にたかられていたり、齧り取られたり、齧るつかれたりしている物である。内臓に障害があったり羽毛がみすぼらしかったりする動物や鳥と同じで、完全な姿よりノーマルである。悪いところがない動物(あるいは人間)というものは、理想化であり虚構である。(p.405)
レタス これもまた真理なのだろう。傷一つないリンゴも異常だし、虫食いのないレタスも異常だし、まっすぐなキュウリも異常である。そんなものが自然界にあるわけがない。同じくこの世に生を受けた人間がすべて健康で立派な体を持ち、知能明晰というわけにはいかないと思う。先天的なハンディがあったり、怪我で体が不自由になったりというバラエティがあるのは当然で、みなが老衰で死ねるわけではない。しかしそのハンディにも拘らず人はみな己の人生において最大限に努力して生きていくことにあるべしと神は命じているように思う。神を信じない人には、それが自然であると言おう。
この本を読んで、人間は自然界とは切離れて生きていけないこと、そして生物多様性とは外界だけでなく人体の内側でも重要だと思った。そしてまた人は理不尽を受け入れるべきだと思う。言い換えると人間は成功するためでなく努力(苦労)するために生まれてきたのだろう。

しかしこのモイセズさん、すこし冗長すぎるよ。本文だけで420ページもあるのだが、250ページくらいにまとめた方が良かったように思う。

落ち葉 本日考えたこと
人間は常に自然と対比される。でも、人間は自然の一部だし、自然は人間の一部でもある。
生物多様性とはちょっと違うけど、人間が自然と常に接するような社会、あるいは生活習慣を維持しないと人間は生きていけないのではないだろうか?

落ち葉 我が娘のお言葉
娘にこの本のことを話したら、読んだことがあったようで私に言った。
「落ちたもの拾って食べるくらいがちょうどいいよ〜」
確かに自分が落したものを食べるくらいは当たり前かもしれない。しかし他の子供が落したものを拾って食べるほど貧しくはなりたくない。私が子供の頃はそれくらいの生活レベルだったから。


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