審査員物語41 三木の変化

15.08.09

*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。但しここで書いていることは、私自身が過去に実際に見聞した現実の出来事を基に書いております。

審査員物語とは

三木はこのところ何度か山田と話をさせてもらった。山田が語ることに疑問なところもあったが、なるほどと思うところも多かった。じゃあ納得したところだけでも、自分は実践できるだろうか?
なかなかそれは難しそうだ。以前から表面的な文言だけでなく、実質が妥当かどうかを考えて審査しようとしてきた三木であるが、ISO規格適合をみるのではなく会社の業務フローが適正かどうかを判定するということはそれとは比べものにならないほど難しそうだ。
しかし何もしなければ前進はない。それにもう60を過ぎてナガスネ環境認証機構の子会社に移った身、今更ラインに沿った上昇志向もないし変な人間関係を気にすることもあるまい。どういうめぐりあわせかISO審査員なるものになってしまったのだから、この道を究めるなんて言えばおこがましいが、まわりを気にせず技量を向上しようと努めてもバチは当たるまいと思う。

実際どうするのかといえば、まずは形式的な項番順審査は論外なのは当然だ。現場を見て規格を満たしているかを確認するプロセスアプローチに徹することだ。いやそれだけではない、

*今でも項番順審査をする審査員がいるのかという反論を予想する。間違いなく存在します。それもかなり大量に、
21世紀になって早10余年過ぎたというのに、なぜ前世紀どころかジュラ紀の恐竜が生き残っているのかと言えば、理由がある。審査する側、される側、双方にとって項番順審査は楽なのである。まず審査する側から見れば、shallを一個ずつチェックしていくわけで漏れもないし質問も楽、回答が見合っているかどうかもビジブルで仕事が楽でいい。審査を受ける側からすれば、質問が何を調べているかが明確で何を答えれば適合になるかこれまたビジブルである。
前世期よく見かけたが、審査員が○○について審査しますというと、質問される前に机の上に書類をそろえて規格要求事項順に次々に書類をめくっていくISO事務局がいた。ご本人は「俺はプロの事務局だ」と自信あふれていたようだった。私もそうだったかどうか・・忘れた。ともかくそれは審査員も楽で良かっただろう。口を開くこともない。
しかしこれがプロセスアプローチになると、審査側が何を聞いてくるかわからないし、その質問の意図も見えなくなり、不安になるだろう。ちゃんとしている会社なら、別に心配することはないのだが。
ところで項番順審査は悪なのかといえば、そうではない。監査、審査といってもその種類や目的は多様だ。二者間の取引における監査であれば、項番順で規定要求事項が完全に満たされているかどうか確認することは妥当だ。内部監査を初めてするときは項番順というか、規定要求事項をしらみつぶしに点検するのは必須である。但し、2回目以降も同じ方法で監査するのでは困る。内部監査は規定要求事項を満たしているかどうかという観点よりも、会社を良くするためと目的が若干異なる。だから監査のたびに内容を向上していく必要がある。
他方、審査(第三者監査)は依頼者(組織)に負担をかけないという意味でも、余計な資料を作らせないとか専門語を知らなくても良いように、項番順というか規格から質問するのではなく現実を観察して審査員が規格要求を逆引きするような方法が好ましい。いや、そういう審査をしなければならないというべきか。

審査風景
現場を見て、業務が問題なく流れていくかどうか観察する。問題なければ規格をどのように満たしているかを考え、問題があればどこに問題があるかをみつけ、それを規格の該当項目を根拠に指摘することだろう。三木は即座にそれを実行した。
実際に外部から見れば、三木のしていることは今までと変わらない。しかし考えを切り替えことによって三木には新鮮でとても面白いと感じた。
例えばひとつの記録をとりあげたとき、その記録が会社の業務において使われていないなら、それは審査のための記録だろう。それならそれ以外に実際に使われている記録があるのではないか、それで規格を満たしているのではないか。そんなことを考え質問をすると審査に幅が出て来る。あるいはISOのための記録しかなくても、その会社の業務が問題なければそれでも良いと思う。しかし多くの場合、まったくカテゴリーの異なるところで規格の要求する役を果たすなにものかはあるものだ。それならそれで適合だろうと三木は思う。規格で「記録すること」とあっても、それが単体の記録である必要はない。複数の帳票や報告書に記されていてもヨシ、複数の規格要求をひとつの帳票で満たしていてもヨシ。
また記録として出された帳票が規格要求の項目を網羅していなくても、実際業務に支障がないなら、その会社ではその項目が不要なのかあるいは別のルートで必要な情報が伝達されているはずだ。そういったとき、代替えになるものを示して、規格のための仕事を止めたらというニュアンスをいう。相手がそれに納得すればその会社の無駄が省ければ相手にも喜ばれる。相手がISOのための仕事を外だしして、従来からのシステムをいじらないほうが全体的に効率的だと考えているならそれでも良い。LMJが語ったように「会社のことを一番知っているのは会社の人」なのだ。

ただそうするには業務そのものを良く知らないと手も足も出ないとも感じる。
例えば「教育訓練」という項目を満たしているかどうかを判断するには、その業務、業界などを知らなくてはどうしようもない。
フォークリフト フォークリフトの運転手の教育訓練を取り上げてみよう。フォークリフトは免許ではなく講習修了であるが、それはともかくフォークリフトの免許があれば荷物はなんでもOKかといえばそうではない。
物の積み下ろしでも運ぶにしても、荷物の性質を理解しなくてはならない。塗料が入った一斗缶の積み下ろしであれば、危険物取扱者の資格というか知識・技能が必要かもしれない。塗料の積み下ろしの際に危険物取扱者の立ち会いがあるとしても、取り扱っているものの性質、危険性を知らなければ、落下や漏洩の際にすみやかな対応は難しい。だから昨日まで段ボール箱を運搬していた人が、今日からすぐに特殊引火物の運搬を担当できるとは思えない。
反面、業界によっては特定の仕事は標準化されていて、会社を替わっても全く同じ手順であることもある。自動車整備工が会社を替わっても同じ車種なら仕事は変わらない。薬局のコンピューターシステムは、日本には3種類しかないと聞く。だからそれらが使える薬剤師は、職場を替わってもすぐにデータ処理できる。また職種によっては会社を超えた横通しのつながりの強いものもあり、同業者同士の助け合い、切磋琢磨のあるものもある。となると社内での教育訓練はあまり重要ではない。
規格にある「組織は、組織によって特定された著しい環境影響の原因となる可能性をもつ作業を組織で実施する又は組織のために実施するすべての人が、適切な教育、訓練又は経験に基づく力量を持つことを確実にすること(ISO14001:2004)」という文章を読んで、99%いや100%の人が、企業が教育訓練をしなければならないと受け取るだろう。しかし現実から考えると、それはおよそ不可能なことなのだ。企業が実行できるのは、その人が仕事を実施できるかどうかの判定と、できる人を見つけてくることだけではないのか。言い換えると、たまたまというか企業内でその力量を付与できる場合にのみ教育訓練をするのではないのか。そしてそれ以外のほとんどの場合は、外部から有資格者を採用するか、教育訓練を外注(講習会に派遣とか外部講師)しているのが現実ではないのか。
あるいはよくこの仕事は当社独自だとか、人が代わればできないと考えている人がいるが、それは単によそを知らないと言うだけのことが多い。あるいは技術そのものがまだ生煮えなのか、それとも標準化が遅れているのかもしれない。それは教育訓練以前である。
そんな見方をすると三木は、教育訓練の項目で質問するにしても、ものすごく多面的に見なければならないと感じる。それは三木にとって新しいチャレンジであり、審査という仕事がより面白く感じられた。

またそういう見方をすると、自分を含めて多くの人がしている思い込み、勘違いにも気づいた。
まず非常に単純なことだが、規格で使われている言葉と会社で使われている言葉が違うのは当たり前だ。これは以前、三木自身が鷽八百社に審査に行って苦い思いをしたことがある。
例えば社内規則で「遵守評価」と書いていたのを、ISO認証時にすべて「順守評価」に改めた会社があった。寺田さんも罪なことをしたものだ。いやその会社が不勉強なのであろう。聞くとそのとき見直した社内規則が10数本あったという。規格改定で「環境実施計画」が「環境マネジメントプログラム」に代われば、社内文書を全部書き直したところもある。
ばかばかしいと笑うかもしれないが、それが現実である。三木はなんと言ったらよいか分らない。

*2015年版になると「環境目標」という語がなくなったのを受けて、社内の文書から「環境目標」という語を全面削除する企業が多いのではないだろうか?
おっと、元々環境目標なんて言葉がなかった会社なら、それは改善かも知れない。

ヤレヤレ
また単純な単語や表記だけでなく、会社側が規格の意図、いや意図以前に規格の意味を読み込んでいないところが多い。一例をあげれば規格に「順守評価しろ」とあれば、わざわざ「順守評価という業務」を設けているところが多い。従来からの社内の遵法点検や内部監査でしていることを意味しているのですよと語っても、三木の語ることを信じられないという顔をするところが多い。
同じように規格で「環境側面」とあれば環境側面を抽出し管理する手順を決めるし、文書管理とあれば文書管理を考え、教育訓練とあれば教育訓練をしなければと考える。それは過去10年以上にわたるISO関係者の無知か善意かそれとも悪意による洗脳の結果なのだろうと三木は思う。もっと自分たちが過去からしている仕事に自信と誇りを持つべきだろう。長年の歴史とその間の事業運営の積み重ねがある会社の仕組みと、せいぜい数年間隔で改定されるISO規格のどちらが意味があるのか、会社の方に重みがあるのか、規格に重みがあるのか、会社員として考えなければいけないのにと三木は思う。

審査員がなにか質問すると、企業側は悪いところがあったのかと感じる。審査員が単に確認のためとか好奇心でする質問を、重大な問題が見つかったと受け取るのだ。審査員によってはそう受け取られることが、いかにも自分が重大な仕事をしていると感じ自尊心がくすぐられるようだ。だが三木はそんな対応に気付くと申し訳ないという気持ちでいっぱいになる。そんなに気を使わないでくださいよと心の中で謝る。大体、審査員も常に真面目というか緊張しているわけではない。冗談も言わなくちゃ気疲れしてしまうし、ため息もつく。それをとんでもないことがあったのかと受け取られたらマスマス疲れる。
三木は一緒に審査する同僚の態度を観察した。いかにも重々しい態度をするのが一般的のようだ。それが審査員への尊敬と慎重な態度を取らせると考えているようだ。逆に変に洒脱な態度をとる人もいる。それもまた審査員は偉いんだけど、おれは皆さんを同じように扱いますよという印象を与えるためのように感じた。まさに上から目線である。
そもそもビジネスにおいて、例えば物を売るとか契約するときに、上下関係があるわけではない。弁護士を頼むにしても、弁護士よりも目下になるわけでもない。なんで一般のビジネスの人間関係とISO審査は異なるのか?

ある会社に行ったとき前回審査以降に環境事故が起きた会社があった。防油堤内のタンクへの供給するホースの接続部は、本来は防油堤の内側でなければならない。そうしてあれば漏洩した灯油は防油堤内にこぼれる。その会社ではたまたま接続部が防油堤の外側に出ていたのだ。そのため接続時にミスって若干ではあったが漏れた薬液が防油堤の外側の路上から側溝に入った。幸い構内でとめることができた。
オープニングミーティングで企業のえらいさんが「大変申し訳ありませんでした」と謝るのを聞いて、三木はお尻のあたりがモゾモゾする。
実を言って前回リーダーだったのは木村木村審査員だった。彼はその現場でその給油口の蓋についているカギについてだいぶ講釈を語ったらしい。そういう事情があったから「昨年の審査員が見逃したのです、しっかり見てしてください」と言われても当然と思う。木村も知らないなら知らないなりにおとなしくしていれば良かったものをと三木は心中思う。

不適合とは何だろうか?
ISO9000:2005では「要求事項を満たしていないこと」である。環境実施計画の未達は規格要求事項での不適合でないことは間違いない。なぜなら計画は必達しなければならないというshallはないから。
だが、計画が未達となったということは、進捗フォローが不十分か、その対策が取られていないか、対策になっていないということだ。ということは、結果として環境実施計画の未達があれば不適合になるだろう。ただその理由が「環境実施計画の未達」ではなく、そこから原因と追及していったものが、例えば監視測定の不十分とか、コミュニケーションが欠落とか、是正処置が不適切ということが不適合になるはずだ。
では当初立てた計画が達成できそうもないという理由で下方修正されたとしたら、計画未達はないことになるのか?
21世紀になってビジネスの事業計画を環境実施計画だとする企業が増えてきた。審査側も本来事業を取り込むということでそれを歓迎している。しかしISOのためのバーチャルなおままごと環境実施計画でなく、現実のビジネスが対象となると、予定調和の活動成果が出るわけがない。当初立てた計画がリーマンショックなりなんなりで見込みが立たなくなったとき、目標の下方修正、あるいはそれどころかそのビジネスから撤退するということは普通にある(この物語は今現在2009年である)。
じゃあ要求水準を下げてしまえば未達はなくなり、不適合はなくなってしまう。是正処置の努力の余地はどこにあるのか、境界はあるのだろうか?

三木は考える。ISO規格要求は多々ある。企業はすべてを満たさないとならないわけだが、継続的改善はそれとはちょっと違う。なぜなら継続的改善というのは結果ではないのか? 要求事項の多数のshallを満たせば、必然的に継続的改善がなされなければおかしくないか? すべてのshallを満たして、更に継続的改善の努力をしなくてはならないとなると、規格の構成というか考え方がおかしい。そんなことを言うなら継続的改善がなされたら規格適合と言った方がめんどくさくないしてっとり速い。とすると規格の中に継続的改善を書き込んでいることは矛盾ではなかろうか?

似たようなことだが、経営者の責任としてリソースの確保がある。翻って考えれば、リソースが完璧に確保されている会社がいかほどあるか? 行政機関は民間よりましかもしれないが、それだって休日返上で頑張っている市役所職員もいるし、常に非常呼集に備えていなければならない消防署員、警官、自衛隊員もいる。
三木が経営者だとして、リソースが十分なら目標を一層高くするのは当然である。つまり常に努力を要求する要求水準に保つことが経営者の責任ではないのか?
プロジェクト崩れという言葉がある。技術的困難でものができないなどで取りやめになることである。現実の事業においてプロジェクト崩れというのは確率的に発生する。 F35 もし計画を100%達成しますよという会社があれば目標が低すぎだろう。いや、私のようなロクな管理者もしたことがない人だけが語っていることではない。土光敏夫という偉い人が「実現可能な計画は予定である(土光敏夫信念の言葉,p.22)」と語っている。実現できるのが分っていることだけしていたのではコンペティターに勝てない。2015年現在F35戦闘機が難題連続の中で開発を続けているのは、限界に挑んでいるからだと思う。
じゃあ一定割合の環境実施計画未達は正常で、それ以上の割合で計画を達成するのは目標が低すぎるという不適合とすべきなのだろうか?
そう考えると不適合というものの意味合いも不思議なことだなと思う。


柏
三木が久しぶりに出社すると、若手審査員の柏から、若手といっても50代半ばなのだが、三木に話しかけてきた。
柏
「三木さん、経営に資する審査って何でしょうかねえ」
三木は頭の後ろで手を組み考え込む。
三木
「確かに最近は認証機関の競争が激しくなって、どこでもメリットのある審査をするということを表明している。経営に資する審査というのもそのひとつだろう。認証機関によっては経営に寄与すると言っているところもある。しかし経営に寄与するというのはどういうことなんだろうねえ」
柏
「単なる規格適合の確認でなく、企業の利益につながるようなアドバイスをすることですかね?」
三木
「オイオイ、私たちはコンサルじゃないから、それはできない。それに私は企業を経営したことがない。元管理者が経営者にアドバイスするほどの力量はないよ」
柏
「でもISO規格はマネジメントシステム規格ですから、単に品質とか環境管理という範疇を超えて、会社の仕組みの改革などにつながるのではないでしょうか」
三木
「私はISO規格というものは、会社の階層からいえば経営とか事業計画というレベルではなく、定型的で与えられた業務を執行する下層レベルを管理するものだと考えている。間違っても経営とか、あるいは新しい開発やチャレンジにおいて適用できるわけがないと思う。中間管理職が使うか、せいぜいが中間管理職を管理するツールじゃないのかな」
柏
「三木さんにしては弱気ですね」
三木
「弱気も強気もないよ。私は歳だけは柏さんより上だから、過去40年間いろいろな管理手法とかマーケティングツールとか出会ってきた」
柏
「ああ、ありましたねえ〜、ボストンとかマッキンゼーとかいろんなところが、ポートフォリオとかPPMとかバランススコアとか、さまざまなアイデアがありましたね」
三木
「そうそう、ああいったものはたくさんあったけどビジネスの中に定着したものもあるし、いっときの流行で忘れ去られたものも多い。でさ、ISOってのはどのような位置にあるんだろう」
柏
「ああ、そういう見方をすると面白いですね。ISOマネジメントシステムは国際規格だ、お墨付きだという前提がまずありますから、一コンサル会社が言いだしたことよりも信用されたようで、みな疑いなく採用してしまったというところがありますね。それにしても一つの手法が四半世紀も続いているというのは最長不倒かも」
三木
「過去数多くのビジネスのツールや手法というものが提案されてきた。それらは各社が勉強して実際に試行されて、新製品企画とかマーケティングにおいて有効か、効果があるかと検証された。その結果、効果があれば使い続けられ、効果がなければ捨て去られた。
ところでISO認証というか、ISO規格に合わせるということは日本だけでも何万件というトライアルが行われたわけだけど、その結果すばらしい効果があるという証拠はないように思う。
あのさ、そもそもISO認証ってのは商取引の条件だったわけで、会社に貢献するという発想はなかったと思う。私も元は営業にいたので、お客様から品質保証要求なんてあると技術部門に持って行って、それに対応してもらうということを何度もしていた。
その要求事項の中には結果として会社に役に立ったことも皆無ではないけれど多くはなかったね。元々が会社を良くすることが目的でもなかったし。ともかく二者間の契約はビジネスをするための必要条件だったからしなくてはならないのはしょうがない。
だけど第三者認証というものがお客様のためになるのかと言えば、それは怪しい。だって私が客先から要求された品質保証協定は、そのお客様が買おうとしている製品に必要としていること、そのものだった。けれど第三者認証に使われるISO9001やISO14001規格の規定要求事項が、お客様が望んでいることだという根拠はない。まして会社にとっても」
柏
「でもお客様が要求していないから、会社に役に立たないということではありませんよね」
三木
「そうだけどさ、でも会社に役に立つという理屈もない」
柏
「三木さんのお考えをまとめると、ISOというのは経営レベルじゃなくて、現場レベルであるということ、会社に役に立つという根拠はないということ、そんなところでしょうか?」
三木
「そうですね。それと会社に貢献するという意味というか難しく言えば定義というか、何を指標に語るのかをはっきりさせないと何とも言えないでしょう」
柏
「おっしゃるとおりですね。どんな指標でみるのでしょうか?」
三木
「ハハハハ、それは経営に寄与すると語っている人に聞かないと分らないよ。
ええと、去年だと思うけど、私はISO9001の審査員もしているので、JRCAという品質審査員登録機関の定期講演会に行ったんだ。大宮だったと思う。そのとき加藤重信さんというQMSの重鎮の講演を聞いた。彼は『経営に貢献するなんて語っている人がいるけど、第三者審査そのものが経営に貢献しているのだ』ということを語っていた」
柏
「それはどういうことでしょうか?」
三木
「いや、言葉通りの意味だと思うよ。経営者にしても一般社員にしても、その多くは自分の会社のこと、社内の規則とか文化とか問題点とかは認識しているだろう。でもよその会社はどうかということはなかなかわからないと思う。外部の人、まあコンサルでも審査員でも見てもらうこと自体に価値があるのじゃないかな」
柏
「審査員はアドバイス、いやコンサル行為は禁止ですよね」
三木
「コンサルは禁止だけどコメントは問題ない。文書化レベルがどうか、標準化レベルがどうか、従業員の力量の把握はどうなのか、力量が他と比べて上か下かということじゃないよ、上司が部下の力量を把握しているかいないかということだが、そういったことに客観的なコメントがあればはありがたいんじゃないかな」
柏
「おっしゃることは分るような気がしますが、それは審査員の力量も相当大きい、審査員の当たり外れがありますね」
三木
「そうだろうなあ、私は常に修行中ですよ」
柏
「なにをおっしゃる、それともうひとつ、審査のコメントを生かすか生かさないかというのは審査員じゃなくて企業の考え方次第ですね」
三木
「そうなるね」
柏
「すると経営に寄与する審査をしますというのは言い過ぎというかおこがましいように思います。私たちの審査を経営に生かしてくださいと言わなくてはなりません」
三木
「おっしゃる通りだ。いずれにしても経営に貢献する審査をしますというのは、かなりごう慢に聞こえてまずいよね」
柏
「こんなことを言っては失礼ですが」
三木
「なんでしょうか?」
柏
「最近、他の審査員の方々から聞こえてきますが、三木さんの審査が物凄く変わってきたという噂です。秘訣を教えてほしいですね」
三木
「変わった? その表現だと悪くないように聞こえてうれしいけど、どんなことだろう?」
柏
「ある方が言ってましたが、肩の力を抜いたようだって」
三木
「ハテ?」
柏
「悪い意味じゃありませんが、今までは規格適合か否か真剣勝負のような姿勢で審査していたそうです。今は企業側が審査をどう受け止めているかというのを見計らって、それに合わせて審査しているようだと言ってました」
三木
「アハハハハ、そうか肩の力を抜いたというのは手抜きするようになったわけだ」
柏
「いやいや、悪い意味じゃないと申したでしょう」
三木
「いやおっしゃることその通りだよ。実を言ってさ、少し前ISO認証の価値ってないんじゃないかなって迷っていたんだ。だけど審査とは相手から頼まれてするわけだ。依頼者にとって審査は価値があるのだろう。それなら依頼者にとっての価値を大きくすべきだよね。依頼者の目的が認証することなら余計なことを突っつくこともない。審査で見せているのと実際の仕事に乖離があっても、それにイチャモン付けるのは野暮というもの。
他方、審査で何かを得ようと考えているなら、こちらもそれに応えなくてはならないってね」
柏
「なるほど、見習います」
三木
「いや人それぞれだからね、企業が期待する審査員像ってどんなだと思う?」
柏
「そりゃ規格に明るく、会社の仕事に精通していて、人格円満で・・」
三木
「アハハハハ、企業が期待する審査員てさ、問題を起こさない、めんどくさい宿題を残さない、企業の期待を読んで対応してくれる人だよ。だからさ、考えたんだよそのような審査員になろうとさ、」
柏
「まあ、そうでしょうねえ〜
話を戻しますと、経営に寄与する審査というのは三木さんの頭にはないのですね」
三木
「さっきも言ったように、経営に寄与する審査というのがどういうものか分らない。本音を言えば私が経営に寄与できるはずがない。私は企業が期待する審査をしようとは思っているだけだ。未だ、できたらいいなというレベルだけどね」
柏
「私はどうしたら経営に寄与できる審査ができるのかと考えていました」
三木
「経営に寄与する審査がどういうものか分らないけど、マニュアルとか規格から審査をするのではなく、現場・現実をみて審査することが最低限というか出発点じゃないかって気がする」
柏
「プロセスアプローチはともかく、マニュアルを見ないで審査するのですか?」
三木
「項番順審査をするなってことになってるでしょう?」
柏
「取締役の中には項番順をすべきだとおっしゃる人もいますけど」
三木
「ああ、それがダメというわけではないよね。項番順審査が喜ばれる会社ならそうすべきなんだろうなあ〜、ただプロセスアプローチをするならマニュアルは無用だし、まあ、そこんところは結局相手の顔色を見てアプローチを変えるのかね、その場でさ」
柏
「なるほど、審査というサービス提供において顧客満足を図るなら相手の望むことをするということが絶対ということですか」
三木もわからない。ISO審査でどんな審査方法をとるべきか、審査員の考え方を変えるだけでよいのか、新しい手法を開発しなければならないのか。
ともかく柏の話を聞いて今までより自分が一歩前進したような気がした。

うそ800 本日のご報告
N様、先日、お酒を飲んでワイワイと議論したアイデアを基に書きました。いかがなものでしょうか?
及第点は頂けますでしょうか?


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