審査員物語50 大震災その3

15.10.07

*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。但しここで書いていることは、私自身が過去に実際に見聞した現実の出来事を基にしております。

審査員物語とは

大震災から1週間たった今日、三木は群馬県某市の工場を訪問する予定だ。肥田取締役が被災した工場の審査をどうするか、いくつかの企業の状況を調査せよと指示を出したのだ。 頑張れ福島 確かに電話ヒアリングだけではよく分らない。相手さえ了解してくれるなら実態を見ておくべきだ。
ということになったものの、岩手や宮城あるいは福島県はいまだ大災害まっただなかで現地に行くのも宿泊も難しい。東京近郊で交通機関も動いている範囲の数社に話をつけて訪問することになったのだ。

もう電車は平常通り運行している。車窓から遠めに見る限りでは大地震の影響はわからない。ところどころ屋根に青いビニールシートがかけてあるのが目につく。たぶん瓦屋根で瓦が落ちたか、屋根が壊れたかしたのだろう。そういったのは在来建築のものばかりだ。プレハブ系はトタンや軽い屋根材をふいているのが多いからあまり被害が出なかったのかもしれない。もっとも近くに行けばいろいろ支障があるのかもわからない。
道路や崖などでパワーシャベルやブルが動いているのが散見される。しかし遠目でなにをしているのかよく分らない。

駅から目的の工場まで1キロもないので三木は歩いて行く。来る前に新聞などで被害状況を調べてみた時は自分が住んでいるところと変わらないように思ったが、現地に来ると自宅近辺よりもひとランクあるいはふたランクくらいひどいように思える。道路を歩いていてブロック塀を見かけない。ほとんど崩壊したようで崩れたものは撤去したのだろう。ブロック塀があったところにその跡が残っているだけだ。あちこちの電柱が真新しいのは地震で倒れたか崩壊したところを新しいものにしたのだろう。途中、屋根にビニールシート、窓にベニヤ板という風景は珍しくない。
完全に破壊してしまわずとも修理しようもない家屋は既に解体撤去されているようだ。真新しい更地があちこちに見える。壊れたままでは放火や二次災害の危険があり、とはいえすぐには大工も資金も手当てできない人には、行政が解体撤去するよう指導していると聞く。家屋を解体したものの処理も大変費用が掛かるのだが、震災で損壊した家屋の処理費用は行政持ちと聞いた。

ほどなく目的の工場に着いた。
工事車両が何台も入っていて作業しているのが見え、目の前の建物には足場が組んでネットがかけてあった。
門にいるガードマンに訪問の旨を告げ取次ぎを頼んだ。ガードマンのいる小屋は壊れた風には見えない。小さなプレハブは地震でも壊れないのだろう。すぐに年配の方が現れて三木を裏の木造の小屋に案内する。そこに、もうひとり年配の人がいて名刺交換する。
管理責任者になっている野原部長と担当の田中さんである。

三木
「このたびは大変なことでお見舞い申し上げます」
野原部長
「いやいや、まあ誰が悪いってもんでもないですからねえ〜、運が悪いというかお互い様というしかないというか」
田中さん
「三木さんのご自宅はどちらですか。被害などはなかったのでしょうか?」
三木
「私は辻堂に住んでおりますが雨樋が壊れたとか盆栽の棚が崩れたとかいったところで、そういえば食器が全部割れましたね。まあそんな程度で、みなさんのことを思えば被害なんてとても言えません。
本題ですが、工場の被害はどのような状況なのでしょうか?」
野原部長
「あとで実地をご覧いただこうかと思っておりますが、まずこの部屋をご覧になって何か感じませんか」

三木は改めて部屋を見回した。正直言って人でも物でもジロジロ見るのは失礼と思って室内を観察はしていなかった。
野原部長
「ご覧ください、ロッカー類は全部倒れました。アハハハハ、ウチの規則ではロッカーの上に物を置いてはいけないことになっています。でもどこだって置いているでしょう。ヘルメット、書類、段ボール箱、まあそんな重い物は置いてませんがね。地震でみごとに全部落ちまして、更にロッカー全部倒れましたよ。我々が飛び出すように避難したときはヘルメットさえかぶってませんでした。自慢になりませんね。いや、お恥ずかしい。
ロッカーは倒れたし照明器具は落ちて蛍光管は割れたし、コピー機はキャスターを止めていたのですが何メートルも動きましたし・・事務机も動きましたし、キャスター付の椅子はもう何メートルも動いてました。とにかく外に出て30分くらいして少し揺れが収まって入ったらもう、文字通り足の踏み場もなかったです。
その後、ともかく我々は防寒具をはおって、あのですね、あの日は寒くてここは吹雪でした。そりゃ東北に比べれば群馬は暖かいかもしれませんが、グラウンドに半時間も立っていたら凍えます。
とりあえず電源、重油タンクや危険物庫の安全確保、そして従業員の避難確認ですね、そういったことをこの田中と他数人で走り回ったわけです」
田中さん
「一番はやはり従業員が安全に避難したかどうかでした。落下物や避難途中で転んだりして10人近くけが人が出ました。もちろん手当は看護師がしましたけど、横になる場所を作ったり風よけを考えたりしたのは我々です。
それからトイレですね。もう建屋には入れませんでしたから。
初めは周囲を人が囲んで交代でというふうでしたけど、いつまでもってわけにはいきません。なにしろ吹雪の中、午後一杯外で押しくらまんじゅうしていましたから。我々がシャベルで穴を掘って周囲を簡単に囲いを作ったりしました」
野原部長
「やはり寒さ対策が一番でしたね。みんな作業服を着てましたけど、暖房がきいている部屋での服装です。倉庫も安全じゃありませんでしたので、屋外にある土嚢にかけているビニールシートや麻袋などを集めて羽織ったりかぶってもらったりしました。まるでおこもさんですよ、アハハハハ
それでもここには従業員が700人もいますんでそんなものさえ全員には行き渡りませんでした。まあ皆さん譲り合って対処してもらったわけです」
三木
「地震のとき外部との連絡とかあったのでしょうか?」
野原部長
「最初の頃はありませんでしたが、1時間ほどして少し落ち着いたとき消防署から火災発生の有無とか危険物の流出などについて問い合わせ電話がありました。取引先などからの電話はありませんでしたね。火事なんかではなく、もうどこでも大変な被害が出ていましたから問い合わせるまでもなかったのでしょう。
田中さん、そんなところだったよね」

田中が突然笑い出した。
三木は驚いて田中を見つめた。
田中は笑い過ぎて咳をして笑うのを止めた。
田中さん
「ええっと今週の火曜日でしたか、あのですね我々は土曜日、日曜日はもちろん会社に泊って不寝番も立てましたし、工場の安全確保、二次災害の発生防止に努めたつもりです。月曜日になってやっと一段落かという気がして、屋内をどうするか考え始めた時でした。
電話 まあ火曜日の朝、電話が鳴るんですよ。みんなで危険物を安全なところに運ぶとか、事務所内の瓦礫を片付けたりしていたときです。
瓦礫の上に置いてあった電話機を何事かと飛びついて取りました。受話器を取ると・・・三木さん、何だったと思いますか?」

三木は予想がついたがあえて口にはしなかった。
田中さん
「三木さん分ってるでしょう。受話器を取ると第一声が『ナガスネの審査員です。来週の審査大丈夫ですか?』でしたよ。のどかなもんですねえ〜
まあここは群馬ですからまだ許せるかもしれません。でもあの調子で岩手や宮城や福島の会社に電話してたら、フザケンナーって怒鳴られてもおかしくないでしょう。」

三木は恥ずかしさで顔だけでなく全身赤くなった。
野原部長
「まあまあ、誰にでもミスはあるよ。
三木さん、話を変えますが、ウチの被害の概要ですが、ここにはコンクリートの事務所棟がひと棟と鉄骨スレートぶきの工場がふた棟、そして守衛所とか我々の事務所などこんな木造の小屋が10個ほどあります。ご覧になったように築40年の事務所棟は半壊です。これは解体するしかありません。今足場とか準備しているところです。工事業者の会社も損壊しているのですが、彼らも二つ返事で仕事をしてくれてます。ありがたいもんです。我々もそんなふうになりたいものです。おっと、御社を皮肉っているわけではありませんよ。
ともかく工場が問題なんですよ。工場建屋はふた棟とも解体するしかないのですが、その前に中の生産設備をうまく取り出せないか検討中です。
その他にもいろいろあります。幸い火災になりませんでしたが、燃えるものはたくさんあるわけです。と言っても無駄にもしたくありません。重油その他の危険物は抜き取って売却できるものは売る、できないものは廃棄物処理業者に依頼する予定です。塗料や接着剤、パテなんて生産が稼働すれば使えるのですが、それがいつになるのか半年先か、10か月先かわかりませんから保管しておくわけにもいきません。廃棄するしかないでしょうね」
三木
「PCBなどはなかったのですか?」
野原部長
「トランスがありました。火災は起きなかったのでそのまま残っています。県の担当部署には優先的に処理してもらうよう依頼中です。まあそういう支援をしていただくのは当然だと私は思います」

三木はうなずいた。
三木
「聞きにくいことですが、生産再開とか認証の継続についてどうお考えでしょうか?」
野原部長
「工場の解体、新設、設備の修理などを考えると、生産再開は早くて半年先でしょうね。いろいろと規制がありましてね。工場立地法の環境施設面積率とか緑地面積率なんて規定があるでしょう。法律ができる前の工場は緩和基準があったのですが、このようにほとんど全壊して建て直すとなるとどうなるのか、調査中なんです。噂では震災の被害を受けた場合は特例を設けるような話ですが・・
ともかくその辺がはっきりしないと再建も決まりません。いずれにしてもこの事業を止めるわけにはいきませんから石にかじりついてもと考えておりますが・・」
田中さん
「三木さんが一番関心のあるISO認証は、工場再建のめどが立ってからでしょうね。とりあえずは免状をお返しするということになるでしょうね。御社としても工場がない状態で認証もないでしょう」
野原部長
「これも噂ですが、これから全国の原発が止まるだろうと言われています。きっかけはともかく原発の事故が起きたからには当面原発の運転を継続するというのは不可能でしょう。民主党や反原発団体が反対運動をしていますから。そうなりますと電力が確保できるのかということが近隣の工場関係者の間で話題になっています。もちろん我々だけでなく、国家的な大問題になるでしょうねえ。供給電力量に制限がありますと、ここで事業再開するかそれとも他の工場に集約してしまうかという大きな問題になりそうです。原発が止まれば省エネ法がどうなるのか、それによっても対応が変わります。
近隣の工場で建物がそんなに被害を受けていないところは、事業再開のために自家発電を手配しているところもあります。しかし石油タンク、重油の手当て、発電機をレンタルするのか買うのかもありますし、また省エネ法、いや温対法では自家発は条件が悪いですし、まあこれも新しい法律がどうなるかによって変わりますし・・・」

確かに不確定要素が多い。生産再開と認証継続について明確な回答を聞きたかったが、簡単に応えられることではないのは十分わかる。しかしそれでは三木が来た甲斐はない。
群馬とは言え想像していたよりもひどい状況だった。工場再建まで半年です、じゃあ次回審査は工場が順調になってからとしましょうか、なんて話が進むかと思っていたがそんな簡単なものじゃない。
三木は黙っていた。

それから二人は三木を工場に案内してくれたが、見るも無残な状態だ。それに10分に一度くらい工事業者や社員がやってきて、野原や田中に報告し指示を仰いでいる。まさに戦場のようだ。三木はここに自分がいることは迷惑以外何ものでもないと感じた。

三木が去るとき二人は三木を門まで送ってくれた。
三木
「今日は非常に大変な状況にもかかわらず、ご対応いただきありがとうございました」
野原部長
「いやいや、私たちも瓦礫を相手するのも飽きてきたところでしたから、三木さんと話ができて息抜きになりましたよ」
三木
「教えてほしいのですが、ISO規格では緊急事態の対応などを決めておくことになっていますが、そういうことが今回の震災において役に立ったのでしょうか?」
野原部長
「まあ私どもでは元々従来から決めていたことをISO向きに書き直しただけでしたから、ISOによって効果があったということもありませんが」
田中さん
「緊急時の対応といっても問題の大きさに段階というかレベルがあると思います。社内消防隊が活躍できるのはボヤのときでしょう。重油タンクが燃えたら逃げるだけですよ。
非常持ち出しなんて決めていますが、普通の地震なら重要書類を持ち出すかもしれませんが、そのときは建屋が損壊することはないから持ち出す必要がありません。今回の地震ではほんとうに命からがら逃げました。ですから非常持ち出しをするなと指示しました。となると非常持ち出しというのはどちらにころんでも無意味なようです。
そんなことを考えると緊急事態の対応というのは緊急時でないときに役に立つのかな、アハハハハ」

うそ800 本日 思うこと
私は元田舎の工場で環境担当、いや計測器担当アンドISO担当アンドその他もろもろをしていた。その後事情により職をかわって都会で働いていた。
大震災の後3カ月ほどして交通機関もなんとかなった頃、田舎の家内の実家、親戚の見舞い、我が家のお墓確認などにいった。そのとき古巣の会社にも顔を出した。行ってみれば鉄筋コンクリート製の工場建屋4棟が解体作業中で、つぶれていなかった鉄骨スレートぶきとか木造の小屋に貴重品というか大事なNC機械などを押し込んで保管していた。
昔の同僚に状況を聞くとそりゃ大変だったという。当時は吹雪いていて従業員はグラウンドに避難したもののものすごく寒くみんなで押しくら饅頭をして暖を取っていたとか、トイレはまわりを人垣で囲んで中でしたとか、聞くも涙語るも涙のお話であった。怪我人もいたが死者が出なかったことが幸いだったという。
事情がなかったなら私も転職もせずその場にいたのだろう。
私がそこにいれば、何らかの役に立ったのかと言えば無用の長物だと思います。ただみんなと苦しみを分かち合えた方が良かったと思っています。
事情があったにせよ、一人都会に出てきて大震災を逃れ今ものうのうとしていること自体、大変申し訳ないと思っています。



まきぞう様からお便りを頂きました(2015.10.06)
まきぞうです。
あの日のことは、日本人なら思うことが多々あると思います。立場やその時の状況、身の置かれ方、その他諸々、事情は様々のはずです。
あの被害を見てきて、ノウノウと生きてきたなどあるはずがありません。震災の中で必死で生きてきた方々に申し訳など立つはずがありませんが、その姿を見て、自らを律してきた日本人は多いはずです。あなたもそうだったのではないのですか?多くの苦しみに直面した時に、そんなきれいごとが言えるか、まだ私には分かりませんけど、自らを責めるようなことはしないでほしいです。

まきぞう様 毎度ありがとうございます。
まず私の旧友、元同僚が私を責めたということはありません。
そしてもちろん私が悪いとか責任があるとは思っていませんし、いつか私の住んでいるところで災害が起きてもそれはだれの責任でもないと考えています。
でも建てたばかりのマイホームが傾いたり、あるいは停めてあった車が倒壊したブロック塀で廃車なんて方が大勢います。そんな姿を見れば、地震の直前に田舎の家を売りこちらにマンションを買った私は合わせる顔がないというか立場がありません。
まあそういうことです。
もちろん甥姪や親戚の子供たちが我が家に一時避難して来たり、ついでに我が家からディズニーランドに通ったりしましたから多少は貢献したかと思います。
ちなみに子供が一時避難するとその日数分補助が出たそうです。どこにも行かずに田舎の自宅にこもっていればお金がもらえず、ディズニーランドに遊びに行くと(いや放射能からの避難です キリッ)補助金がもらえるとは・・以下略

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