「朝日新聞」もう一つの読み方

2015.09.24
お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからとりあげた本の内容について知りたいという方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。
なお価格については消費税率も何度も変わっているので目安ということにご理解いただきたい。

タイトル著者出版社ISBN初版価格
「朝日新聞」もうひとつの読み方渡辺龍太日新報道97848174078322015.02.251400円

朝日新聞は偉大なり
朝日新聞が特殊な新聞であることは誰でも知っている。特殊というと変かな? それじゃ左がかっていると言おう。サヨクの方はそれを知っていて自分好みの記事を読みたいから朝日新聞を読み、サヨクでない方もそれを知っているから朝日新聞の語ることを半値八掛け位に思って読んでいるというのが現実だ。おっと日本は広いからアサヒが左とは知らずに信用して読んでいる人もいるかもしれない。
アサヒの偏向は社説やニュースだけでない。朝日歌壇なんてのがあるのだが、採用される作品はもうまっかっか、アサヒの教育(刷り込み?)効果がはっきりと表れている。歌壇に採用された歌を揶揄したウェブサイトまであった(過去形である)。
投書欄である「声」もまたまっかっかで、これまたネトウヨの間では揶揄の対象である。だいぶ前だが赤井邦道という名前で朝日を揶揄した投稿が掲載された事件(?)は今や歴史となった。あれからもう10数年もたっているがウィキペディアにもしっかりと載っている。
新聞はテレビと違い、特定の主義主張とか特定の政党支持の報道をしても違法ではない。元々新聞とはそういうものだろう。しかしなかったことをあったと騙るのは報道の自由ではなく、ねつ造であり犯罪である。朝日はなかったことをあったと報道していることを覚えておこう。
ところであったことを報道しないのも報道の権利とマスコミは語る。そうなのか? そうではないような気もするが・・
おっと数を間違えるのはマスコミ特有の勘違い、チョンボである。サヨクのデモなら参加者一桁でも報道するが、愛国者のデモなら参加者4桁でも報道しない。これは数えることができないのか、目が見えないのかは定かではない。
もちろん報道したときには事実関係が判然としなかったというものもあるだろう。しかし報道したことによって無実の人が被害を受けたとか、それを信じた結果多大な影響が生じた場合で、あとでその報道が事実と異なったことが判明したときは、報道機関はその責任を感じなければならないし、その悪影響を取り除き原状復帰に努める責任があると考える。

朝日新聞が「日本軍が朝鮮各地から暴力を持って若い女性を駆り集め従軍慰安婦にした」と報道したのは1990年代はじめのこと、もうだいぶ前になる。それを受けて日本政府が韓国で現地調査した結果、そんな話は過去なかったということが結論だった。しかしアサヒは強制された従軍慰安婦はあったのだ、事実だったのだと語り続けてきた。
ねつ造された慰安婦 その結果、アメリカ下院では2007年6月26日に「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」というものがなされた。また韓国はアメリカだけでなく世界各地にジャンジャンと従軍慰安婦の碑を作っている。そして昨日(2015/9/22)もサンフランシスコ市議会が慰安婦碑設置の決議案が全会一致で採択されている。
このように朝日新聞の報道が過失であろうと、とんでもない事態を引き起こす引き金になったのである。もちろん韓国が慰安婦の彫像を建てる目的は、そういう人を記憶にとどめ慰労するためではなく、日本に謝罪と賠償を要求するためである。このために在米の日本人、日系人は韓国人だけでなく現地人から大いなる非難をあびているという。
最近は高校で修学旅行の行先に韓国を選ぶところが多いが、行くと元従軍慰安婦と自称する人に創作された日本の悪行を聞かされ、慰安婦の碑の前で土下座させられるという。ネットの書き込みを見るとそんなものはザクザク見つかる。父兄も生徒も韓国を嫌がってもセンセイたちが韓国に行かねばならないと叫んでいるそうだ。
ネットの情報なんてウソばかりだとおっしゃるなら、この本で引用している9割以上がネットのコピペであることを確認してほしい。

我々は濡れ衣を着せられたのである。日本国民は、いや日系人も含めて無実の罪を負わされたのである。
誰に
新聞でしょう。
もちろんすべてが朝日新聞の責任とは言えないが、朝日の責任は重大である。じゃあ朝日はそれが誤報であったとは表明したが、その結果責任にどのように対応しているのだろうか。実はなにもしていないようなのだ。朝日の元記者や元論説委員は2015年の今でも従軍慰安婦はあった、謝罪しろ、賠償しろと語っている。そういう人たちにちゃんとした証拠を出して語れとさえ言っていないようだ。朝日新聞社は、退職した人たちが現役時代に朝日新聞という公器を使ってウソを拡散したことについて責任を感じていないらしい。ネットであれば誹謗中傷した書き込みを放置することはサーバーの管理者の責任になるのだが・・

私は日本を愛し正義感が強いと自負しているから、ねつ造である従軍慰安婦問題に関する本をけっこう読んでいると思う。もちろん朝日の報道についても一応は読んでいる。そんな私であるので、この本の存在を知ってぜひ読もうと思ったわけだ。
では『「朝日新聞」もうひとつの読み方』を読んで考えたことについて書いてみたい。

はっきり言って、この本は薄っぺらである。ページ数が少ないとか厚さが薄いということではなく、情報量が絶対的に少ない。そして本文215ページ中なんと67ページが引用である。おっと、お断りしておくが引用が多いから良い本ではないということはなく、ページ数が少ないから価値がないということでもない。あるいは新しい情報がなくても、分りやすく解説した本は存在価値があると言えるだろう。
じゃあ中身はどうなのかと50件近い引用をみると、その引用元はほとんどが個人のブログやツイタ―であり、テレビ放送と週刊誌からが若干、書籍はゼロである。今は書籍ではなくネットの時代というかもしれないが、引用されたコンテンツの多くは公式とか企業のウェブサイトではなく個人のブログ主が感じたことや個人的主張がほとんどで、証拠を基にしたものは少ない。
そして驚くことにこの本には引用文献がひとつも記載していない。学術論文などの出典を基に語るという論文スタイルではなく、著者が思ったこと感じたことを延々と書き連ねたシロモノである。書籍というより個人のブログを印刷したレベルである。
まあ、タイトルそのものが『〜の読み方』であるから、新しい情報を広めるものではなく、朝日新聞の誌面を斜めに読んだり縦読みしたり裏から読んだりする方法を教える本なのかもしれない。

さて一読すると揺れる船に乗ったような気分になる。つまり注意力をそらされて集中できず、数を数え間違いしてしまうような、ひとつの物事をじっくりと考えらないような気分になる。なぜだろうかと考えると、この本は論理明快に主張しているのでなく、どうとでも読めるような文章が延々と続いているからではないのだろうか。
玉ねぎ 要するに根拠のしっかりした証拠をレンガを積むように論理的に書かれておらず、証拠のない思い付きをいろいろと書き連ね、その論点をすこしずつずらしていつのまにか全く違うことを語っていたりする。そう、だまし絵というのがあるが、それに倣えばだまし文章と言っても良い。それは著者のスタイルではなく十分に計算し尽くして書いているように思える。
どのような文章なのかというと、言い回しや文体に特徴があるのではない。また文章の構成そのもの主語述語がずれているとか、主語があいまいだけではない。その文章が述べている論点がどこにあるのかつかめないように書いている。語っている論点がどこにあるのか、なにを主張しているのか分らない。お分かり頂けるだろうか? 例えればタマネギのようなイメージである。
まず表面的には朝日はすばらしい新聞だと大いに褒めている。文章を文字通り受け取ると、朝日をほめたたえる本かと思えるけどもちろんそうではない。
朝日のことならなんでもほめる、くだらないこともほめる、誰が見ても朝日の間違いとか失策をもほめる。朝日はすばらしいとほめ尽くす。ほめ殺しなんて言葉もあった。昔はひいきの引き倒しと言ったっけ。もちろんほめているのは皮肉というかシャレっ気だろう。誰でも本当に朝日がすばらしいとこのこの本の著者が考えているとは思わず、朝日を批判していると受け取る。そしてアハハハ、そうだよな、アサヒはアホやなと受けとり、読者は気分よく本を閉じるかもしれない。

だが本を閉じて考えるてみると、どうも論理が変だということに気が付く。もう一枚皮をむかなければならない。ではもう一度読んでみよう。ほめているだけでなく、アサヒの揚げ足をとるというか愚かさやミスを指摘している。それに気づいた読者はアサヒは真面目な新聞ではないと感じる、いや感じさせるように書いている。それはわざとアサヒに間違いが多いということを気づかせているようではないか。
そうかこの本はアサヒの失策(エラー)を気づかせてくれる本だったのだ。朝日が革新の立場で過去70年間書いていると考えている人は多いだろう。そのミスの内容から考えると、朝日新聞は己が信奉するイデオロギーに導こうとしているが、ときどきつじつまが合わないでぼろを出したのだなと感じる。
そう考えて少し納得しようとする。
だがこの本は、「朝日はイデオロギーではない」と語る。いや単に語るのではなく「(イデオロギーに基づく活動と信じている)人の誤解を解きたくて、この本を書きました(p.160)」と明言している。いくらなんでも自分が書いたこの文章が本音ではないとは言えまい。朝日はイデオロギーの宣伝新聞ではなく、自由経済の申し子として売れるものを書いていると著者は語る。ここまでくると、この本の読者は朝日は単なる商業主義だったという著者の主張を信じるかもしれない。
だがちょっと待て、タマネギ玉ねぎの皮はこれでオシマイではない。
そういう誤り、誤報の個所で、著者はお金を追及するためのマスコミったあこんなものよと書いている。新聞を信用して読むのはそもそもが間違いなのだと語る。朝日の記事は事実として読むのではなくエンターテインメントとして読めと。つまり朝日は事実を報道するのではなく、魔術を描いたライトノベルとか架空戦記と同じレベルなのだいう。だからアサヒが報道したことに、アサヒの責任はないという論理であり、事実そう書いている。具体的には「朝日の誤報が大きな騒動になってしまったのは、単に読む側がバカだったということです(p.207)」と書いている。
おお、そうすると従軍慰安婦の大問題はアサヒが書いていることを事実だと信じたバカな読者の責任であって、嘘八百の創作小説を書いた朝日には一切責任がないのか?
これはまた新鮮でユニークな論理である。
だが心配はご無用である。著者はちゃんと逃げを打っている。アサヒだけでなく他のマスコミも報道機関も同じだよと語る。つまり朝日が信用できないように、この本も信用できないのだと。間違えていようとうそであろうとすべては売るためであり、そこに書いてあることに責任を問うのはヤボというものだと語る。
これはおかしいではないか
語っていることは、無責任、アノミー、ジャイアニズムそのものだ。
ジャイアニズムという定義は確定されていない。だから私が上に書いた「ジャイアニズムそのものだ」という文章の意味は私にも不明である。
おっと私に文句を言っては困る。この本は意味不明ゆえにジャイアニズムであることは間違いない。
いや、待ってくれ。ここでタマネギ玉ねぎの皮をむくのを止めてはいけないのかもしれない。
初めに薄い本である、新しい情報がないと論評したが、それは私が間違っていたのかもしれない。つまりあまりにも意味深長で幾重にも重なったタマネギの皮のどこが本音であるのかをつかめない私が愚かなのだろうか。
タマネギの皮という例えが気に入らないならば、映画「トータルリコール」のように、夢から覚めたらまた夢だったという重層構造と言えばご理解いただけるだろう。「夢から醒めた夢」ならば、まだ最後は気分がすっきりするが、「トータルリコール」は最後まですっきりしなかった。いや映画が悪いわけでなく、何を信じたらよいか分らない、何も信じられないという気分になった。
この本は「トータルリコール」の向こうを張って映画の脚本を書いたのか? タイトルが「アサヒリコール」なら、それなりに意味があるかもしれない。私はぜひとも「アサヒリコール」をしたいと考えている。
新聞にリコールは実際は実行不可能でしょう。

ただ絶対に言えることがある。この本の著者は、日本の名誉とか濡れ衣については考えもしなかったということだ。
言い逃れは許さないぞ 朝日の従軍慰安婦報道が過失であろうと故意であろうと、朝日が2014年に強制連行の証拠はなかったと書いたものの、世界中に拡散した「性奴隷」という重大問題について責任をとらなかったことを糾弾していない。つまり著者はマスコミとはお金になることを追及するのですよとか、誤報だってあるのは当然と講釈を語っている。そうかもしれない。しかしその結果責任についてはまったく無視している。
それはジャーナリストとしてマスコミ同志としての助け合いなのか、マスコミは元々無責任でお金になればよし、後は野となれ山となれという価値観で生きていて倫理観なんてありませんよという心情の発露なのであろうか?
ここでもう一枚皮をむけば、この本は朝日新聞と連帯して朝日の責任を霧散させよう、朝日の報道責任を日本国民から忘却させてしまうのが目的なのではないかという気がする。実を言って私はこの本の意図はそこではないかという気がする。
この本の意図・目的がどうあれ、朝日の報道によって発生した重大で致命的な問題についての責任はアサヒにあるということを明言しないこの本は、朝日の事後従犯といっても言い過ぎではないだろう。この本は朝日批判本ではない、朝日擁護本なのだ。
刑法第62条 第1項 正犯を幇助した者は、従犯とする。
正犯の幇助とは、犯人をかくまったり,証拠を隠滅したり,または盗品等の処分に関与するなど,犯行後に,犯人の利益を図る行為。
著者が朝日擁護ではない、朝日誤報の重大性を認識していなかったというなら愚かである。あるいは倫理観が欠如しているのだろうか。
倫理観と言えば、この人は「(朝日の)誤報に騙された人の責任は大きい(p.209)」と書いている。これって素面で書いているのか? もし「オレオレ詐欺に騙された人の責任は大きい」と書いたならそのジャーナリスト生命は即終わるだろう。「誤報に騙された人の責任は大きい」と語る己の論理を変だと感じないならジャーナリストと名乗るのをやめるべきだ。
「『朝日は反日的だ!』という、短絡的な(中略)人がいたら、しっかりとバカ扱いしてあげましょう(p.209)」という。これもジャーナリストの言葉ではないだろう。この著者の感性なら、この文章が問題だと提起することは野暮に違いない。
新聞が間違ったことを書いて読んだ人がそれを信じたら読者がバカだといい、書いてあることに間違いがあって苦情を言うと新聞の芸を理解しない読者がバカだという。そしてまた「そのように読む力を持たねばならず、それに気が付かせた朝日新聞は日本の救世主といってもよい(p.209)」と書いている。
つまり新聞でも書籍でも、読者は著者の真意を推し量りそれを理解し、そして新聞記事や本の論理に間違いがあってもニヤリと笑ってやりすごせというのが著者の主張のようだ。だがそうだとするとアメリカに続々と建てられている従軍慰安婦像と日本人への迫害を笑って受けなさいということになるのか?
これは著者を問い詰めたいと思うのは私だけではないだろう。
そんなことなら新聞記事も書籍も読む価値がないということになるのだろう。もちろんこの本も読む価値がないことになる。
おっと、これもタマネギ玉ねぎの皮であってもう一枚むかなければならないのだろうか?
更に玉ねぎの皮をむけば何も残らないような気がする。

もしこの本の本音がマスコミは報道したことに責任を負うのは当たり前で、それを逃げるアサヒは無責任だと理解すべきだという意見をお持ちの方は、その箇所をご提示願いたい。再読し吟味したいと思います。
まとめると、
この本は従軍慰安婦、原発の吉田調書、池上事件などでダメージを受けた朝日の責任をうやむやにするために書かれたように思える。
そうでなければ朝日の誤報や報道責任について関心が集まっているから、それに関して本を書けば売れるんじゃないか。調査するのはめんどくさいから、ササッとネットでググって材料を集めよう。責任を問われると困るから、一方的にならないようにどうとでもとれるように述部に気を配ろうってところじゃないのかな?

朝日新聞は偉大なり 本日の関心ごと
この本を知ったとき、わざわざ1400円も出すこともあるまいと思い、市の図書館で探した。あるにはあったのだが、出版されて間もないためか借りる人が順番待ちしていて私の番が来るまでかなり時間がかかった。私の手元に届いたときには相当数の人が読んだようで、かなり手の脂汚れがあった。またページの角にはいくつも犬の耳が折られていた。それに良いことではないがあちこちに鉛筆やボールペンで書き込みがあった。それも単なるイタズラではなく、論理が変なところにはクエスチョンマークがあったりアンダーラインが引かれていて、しっかりと読んでいることがうかがえた。これほど読まれれば本の価値はともかく書籍冥利に尽きるだろう。
この本を読んだ人はどのレベルを著者の主張と受け取ったのか、私はそれに興味がある。一枚目の皮を読んだのか、二枚目なのか、三枚目なのか、芯までむいて著者の意図をつかんだのか、全部むいたら何も残らなかったのか、どうなのだろうか? それが気になる。


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