働くこと、教えること

15.11.02

ISO審査員は普通の会社の定年60歳で引退する人は珍しい。いやそれどころではない、最近は少なくなっては来ているが、高齢というか70過ぎても仕事する人もいる。それほど働きたいのか、ハタラカナイトシンジャウ病というオートバイ小僧ならぬISO小僧なのか、いや60過ぎないと一人前にならないのか、銭金のためでなく老骨に鞭打っても世のため人のために貢献したいのか、まあ、どうでもいいけど

私の場合はどうだったのだろう。私は定年になったら年金をもらえるまでの数年間たけのこ生活になってしまう。嘱託に採用してほしいと思っていた。 たけのこ 嘱託に採用されなければ住まいの近くで軽い肉体労働をしようと思った。日曜日に新聞に折り込まれてくるユメックスとかクリエイトの求人広告を結構真面目に読んだものだ。残念なことに軽負荷の仕事というのはめったになかった。
幸いなことに定年になったとき私のようなものでも嘱託で使ってくれるとの仰せ、ありがたき幸せである。嘱託になってからも仕事は変わらず日本全国をあちこち歩いていたら、たまたま訪問先の総務部長が44年特例のことを教えてくれたので62歳で会社を辞めた。
その時のいきさつは以前書いた
私が辞めたのは、自分のわがままであり、楽をしたいというよりも遊びたい自由になりたいということだった。死後の世界とか輪廻を信じていない私にとって、人生は一度きりしかない。だからこの人生を最大に楽しみたいし、機会あればそうさせてもらうというのは自然な考えである。
とはいえいくら遊びたいとか自由になりたいといっても、お金がなければ遊ぶ以前に暮らしていけない。年金が満額いただけることになったので仕事を辞めたわけだ。
もちろん働かない人は社会に貢献していないということではない。仕事をするばかりが社会貢献ではない。いやお金をもらわなくて無償で働くことだって社会貢献にならない場合もある。はっきりいって今の日本であれば、暮らしに困らない老人は早急に引退すべきだ。自由になるお金を精一杯使って世の中にお金を回して貢献し、年配者が引退することによって空いた職に若い人を正社員として雇用してもらうことによって貢献する、そのほうが素晴らしいじゃないか。
他方、無償のボランティアをしていて自己満足している方は、若い人の働き場を奪っているかもしれず、働く人の賃金を低く抑えていることになっていることに気付くべきだ。
まあこのあたりは合成の誤謬というか、ご賛同いただけない方も多いことは認識している。

おっと、私を高額な年金生活者と思うのは誤解である。私は心理的には優雅に暮らしてはいるが、金額的にはそんなリッチではない。参考までにいえばフィットネスクラブは平日の日中だけの会員で月会費は7000円程度で、パチンコに行くよりも安いことは間違いない。囲碁クラブの会費も月500円くらいだから競馬新聞1回分だ。公民館も図書館も無料、市の老人大学は年に保険とか教材費で数千円です。
おっと、私が使うお金がその程度では、日本経済に貢献しているとは言っていけないね。

ともかく私は一般論として、ろくな仕事もできず、新しい技術、センスについていけずに老害という悪臭を振りまいて生きていくなんて人間として最低、そんな生き方は恥であると考えている。
私の先輩、元同僚で、60半ばを過ぎてあるいは70を過ぎても働いている人は多いけど、世の中に貢献しているのかと言えば、しがみついているというか他人のお世話になっているようにしか思えない。

さてISOの話になる。私が現役の時の審査では、老審査員の思い出話、成功譚を聞かされたものだ。今はなくなったのかと思いきや、私のところにメールをくださる方のお話を聞くとあいも変らぬようだ。サポーズ、会社で上司とか年配者が、「昔は〜」「俺の若かったときは〜」「この問題はこうすれば〜」「おまえは経験が〜」なんて話をよくされたものだ。
しかし先輩、老人のいう話はまず役に立たない。経済情勢も技術レベルも法規制もかけ離れた時代の手法を、今の時代に適用することはまず不可能に近い。入社当時のことだが上司が「戦争中俺たちはヒロポンを打って徹夜したものだ。おまえたちも頑張れ」と我々に徹夜残業をさせていた。今そんなことが通用するはずもない。
ましてや業務も技術も異なる仕事をしていた審査員が審査に行った職場で昔話をしたところで、聞いたほうはあくびをこらえるのに苦労するのが関の山。そのような発言はしないほうがよろしい。ISO17021違反ということをおいといても迷惑以外の何物でもない。

最近いただいたメールでシステム審査ではなく、パフォーマンス改善のコンサルをしていたお話があった。私もそんな審査員を見たことが何度もある。
昔々、中野でISO9001の審査員研修を受けた時のこと、講師が「絶対にコンサルするな、民事訴訟で訴えられた奴がいる」と言った。
1990年代初めは、審査員は神であった。欧州に輸出するためにはISO9000sを認証しなければならなかった。だから審査では不適合なく認証を得るのが至上命令だった。そんなわけで審査員に上から目線で「○○をしろ」と言われたら、やらざるを得ない。従わざるを得ない状況で言われた通りのことをして、その結果損害が出れば認証機関と審査員を被告に裁判を起こすのは当然だ。
でもそれは1990年代初頭だからありえたのであって、21世紀の現在では通用しない。そもそも命令に従うのは命令者に権限がある場合のみだ。神でなくなった審査員が何を言おうと強制力を持たない。しかしそれをないがしろにもできず企業側は当惑する。
ところで大きな疑問だが、審査員は何を根拠に自分は専門家だ、自分はこの企業の難題を解決できる、この企業に貢献できると考えるのだろうか?
まさかこの企業に損失を出させようとは思ってはいまい?

私が20代30代のときは、下請けや子会社にいって作業指導をするのが常であった。指導する項目としては、純粋に技能指導もあったし、NCプログラム作成の指導もしたし、治具の制作もあったし、工程設計もあった。それだけではない、まだISO9001なんてのが発祥する前であったが、昔から品質保証という概念はあったし品質監査というものもあった。仕事の多くは当時の私の勤め先そのものが大手から下請けしているものだったから客先から品質監査を受けた。客先の監査は私の勤め先だけでなく下請け先まで対象になったので、下請け会社の品質保証体制の構築というか、まあ形つくりとか文書つくりなんてもした。30年以上前の私が良くもそんなことができたものだ。「昨日の私は今日の私にかなうまい」という言い方もあるが、私の場合は「今日の私は昨日の私に勝てない」と思う。
それはともかく、そんなとき私は言葉の硬軟はともかく命令をしていたのかといえば、断固たる命令をしていた。中小企業といえど行った先の社長とか専務とかに「ああせい」「こうせい」と言って、実施させていた。それは何ゆえか?
簡単である。己の職責を達成するためには使える限りの手段、権限を使って実行させた。それが私の仕事だから。そしてうまくいかなかったときは私はその責を負ったのである。
人を動かすことがかっこいいとかうれしかったとかいうものではまったくない。納期必達の責任、品質に対する責任、客先の品質監査を無事乗り切る責任、いやあ、よくぞあんな仕事をしていたものだと30年前の自分にエールを送りたい。確かに当時はいつも胃が痛んだ。今は胃痛とは無縁だ。
もちろんすべてがうまくいったわけではない。いや正直言えばエラーレートというか失敗は1割はあった、つまり勝率9割程度だったと思う。とはいえ私は同僚が失敗した仕事の後始末も頼まれるほうだったからそんな悪いレベルではなかったと自負している。もちろん私がミスしたものには上司がでてきてより上を動かすとか金を投入するなどして対策した。それでも収拾がつかない場合は客先へのお詫びとか納期延期とかしてもらったわけだ。まあそれも対策のひとつではある。
言いたいことはなにかって?
簡単だ。権限と責任は裏表、責任を負わない人は命令できないということだ。ここで権限といってもいろいろな考えがある。会社の権限規定などに「○○(個人名でも職制名でもよい)は○○をする」と書いてあれば立派に権限を有することになる。当たり前だね
だがその仕事の権威と見なされれば平社員であろうとパートであろうと、その人が語ることによって人は動く。上からお墨付きがなくても、人が従うならば実質的に権限を持つことになる。そしてその結果うまくいかなかったらその人は実質的な権限を失うことになるだろう。
要するにその人の言うことを聞いて皆が動くには、その人が最終的に責任を負うと信頼されなければならない。言うとおりした結果ダメだったときは知らんふりではだれもついてこない。その人が文書に書かれた権限を持っていても、次からは命令に従うことはない。だって結果責任を負わない人の命令を聞いて自分の身が危なくなっては困るからね。
組織の管理者が、どうみても監督責任が及ばないだろうと思われる部下の不祥事や犯罪の責任を負い、降格や刑事罰を受けるのもある意味しょうがない。

なんか権限と責任とはISO認証と同じように思えてきた。つまり認証が信頼されるには、認証されたものに間違いがあったとき補償する裏付けが必要なのだ。

じゃあ権限を持たない人は責任を負わないのかというとこれはちょっと違う。よく「責任と権限」とつなげて言うがこれは同義でもなければ裏表でもない。権限とは命令するあるいは決裁する権力のことであり、当然その結果責任を負う。
しかし権限がなくても従業員あるいは組織の構成員は定められた業務を遂行する責任を有し、その責任を果たさない場合処罰される。それが仕事をする意味であり仕事の誇りだ。

話を変える。
私は工業高校を出てから、いろいろな仕事をした。
スクリーン印刷はかなり自信がある。スクリーン印刷は昔シルク印刷といったが、テトロンなどの生地に印刷するところ以外にインクを通さない幕を作り、布地にインクを広げてゴムへらでインクを押し出して印刷するものだ。Tシャツとかスキー板とか家具とか、手軽で曲面にも刷れるということで多用されている。大量の時は機械刷もできる。
NCプログラムもした。機械の誤差とか癖を知り尽くして精度を高く生産性を上げるようプログラムしたので神業と呼ばれたこともある。それだけでなく当時まだ十分使い物にならなかった自動プロに業を煮やして自分で作った。毎日キーボード打っていたおかげで、今こうしてブラインドタッチで文章を叩いている。
品質保証も環境管理もした。
だけどね、スクリーン印刷したときから35年、NCプログラムしていたときから30年、品質保証を担当していたときから25年、21世紀の今そんなことについて講釈語ったら笑われますよ。スクリーン印刷だってどんどん進歩しているだろうし、それに代わるものだってある。NCプログラムなんて3軸制御とか4軸制御ではなく7軸、8軸なんてのが当たり前の時代だ。もはや手計算ではプログラムできるはずがない。いやCADからCAMへ一直線だろう。品質保証だって防衛とか原発などは、20年前とは全く様相が変わっているだろう。過去の自慢話をしても恥をかくだけだ。
昔取った杵柄というのは技術、技能の進歩がゆっくりしていた時代のことだろう。

さて、再検討しよう。
ISO審査で管理方法とか改善方法とかを語ることはいかがであろうか?
その審査員はそう語るほどの技術、技能があるのだろうか?
 力量があることを立証せよとは言うまい
その結果起きたことに対して責任を負うのか
それだ! 結果責任を負わない者は語ってはいけないのだ。
管理責任、監督責任がない者が命令することができないのはISO17021に定めてあるからではなく、論理の帰結であり自然の摂理なのである。
そんなことをいろいろと思うと、審査においてこうしろとか、こうしたほうがいいとか言うのはまさしく余計なお世話である。それは聞かされたほうにとって迷惑なだけでなく、語るほうにとっては犯罪とはいわないが損害賠償の裁判を起こされる危険のある行為だ。努々危ないことをしてはいけない。

うそ800 本日の言い分
私が嘱託になれなければ軽い仕事をしようと思ったということは、責任を負う仕事はしたくないと思ったからである。しかし私がそんなことをいったときに家内は「あんたはそう言っているけど、実際は改善だとか標準化だとかで周りを引っ掻き回すんじゃないの」とバカにしていた。私の性格からたぶんそんなところなのだろう。
だから私はそんなふうにならないように、仕事をせずに遊んでいるのである。それは世のため人のため、そして自分のためである。


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