*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。但しここで書いていることは、私自身が過去に実際に見聞した現実の出来事を基にしております。
審査員物語とは![]() |
「おとうさん、ISOをするとどこでも環境方針ってのを作るんですって」
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「そうだよ。大学の環境方針はどんなことを書いてあるのかな?」
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![]() 陽子は待ってましたとばかりに立ち上がり、戸棚からA4サイズの紙を取り出して三木に渡した。 三木は箸をおいてそれを受け取りしげしげと眺める。
![]() どこかで見た気がするなんておっしゃるあなた、気のせいですよ。 三木は一瞥して、通り一遍というかISO規格そのままだなと思う。良し悪しをコメントするまでもない。どこでもISO規格そのままで言い回しを「ですます調」にするか「である調」かの程度の差しかないのだから。 とはいえ、有名な某教授がリーダーになっていると先日聞いていたので、代わり映えしないことがいささか残念という印象を持った。 三木は方針をテーブルにおいて再び箸を取りながら口を開いた。 | |||||||||||||||||||||||||||
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「なるほど、で、陽子はこれを覚えろとか言われているのかい?」
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「そうなのよ、ISO審査っていうんですか、そのときに聞かれたら答えられなくちゃならないって言われているの。みんなこんなに長い文章なんて覚えられないよって言ってるわ」
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「あのなんだ、小さな、名刺くらいの大きさのカードに印刷したものなんて配っていないのだろうか」
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「学生には身分証明書と同じ大きさの方針カードとかいうカードを配ったようです。私たちは外注業者だからかしら、もらっていないの。店長は老眼だから大きな方がいいだろうってこれを配ったのよ。バカにしているってみんな文句を言ってるわ」
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「なるほど」
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「どこでも社員は環境方針を覚えることになっているんですか?」
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「うーん、まあそうだけど結構ボリュームがあるから覚えるなんて無理だよ。それでたいていは今言ったように方針を印刷したカードを配ってISO審査で方針を聞かれたらそのカードを見せるようにと言っている」
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「そうでしょう、私も思ったのよ、こんな長い文章を覚えるなんて無理だわ。般若心経が355文字でしょう、この方針は450文字もあるのよ。もっとも私は般若心経も覚えてませんけどね」
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「余計なことを言っては何だが、陽子たちも方針を知っているかと聞かれたら、この紙を見せればいいと思うよ。 ところで、もう少しこの方針を眺めたいんだけど借りていいかな?」 | ||||||||||||||||||||||||||
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「どうぞ、どうぞ。お父さんも興味があるかと思って2部もらってきたのよ」
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「それはすまない」
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翌日、遅い朝食というかブランチを食べた三木は、縁側に置いている座椅子に座って昨夜陽子からもらった大学の環境方針を取り出して眺める。● ● ISO規格の文言通りに書いているどこでも見かける環境方針で、まさに特徴のない方針だと三木は思う。実はこのような環境方針が一番審査しやすい。だって規格文言と方針が1対1に対応しているのだから、規格要求を満たしているか比較するのが簡単だ。
比較表
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それにしても組織内への周知とか一般人の入手については、1996年のISO14001制定直後の環境方針では100%方針に書いてあったと聞くが、最近(今は2005年である)では少なくなった。それらは方針に文言を入れることが要求ではなく、実際にそれを行うことを要求しているからだ。そういう意味でこの大学の方針は古臭いと思う。いや古臭いだけでなくナンセンスではないか? だって方針に 「具体的な目標は別途定め、それを組織で働く又は組織のために働くすべての人に周知する」と書かれていたらまともだろうが、方針そのものに「この方針は組織で働く又は組織のために働くすべての人に周知する」とあるのは、再帰的でありサイケ的じゃないか。 ![]() ![]() 論理的に考えて、周知とか外部の人が入手可能かを方針の中に書いても意味がないと思う。いやそれだけでなく要求事項と対比できるような構成そのものが、古いというかレベルが低いと感じる。 三木はどうもこれが方針なのだろうか、ちょっと違うのではないかという気がする。 三木は考える。いや一つのことを考えるというよりも、「方針」という言葉から頭に浮かんだことを追いかけていくというイメージだろうか。三木は頭の後ろで手を組んでいろいろと考える。 自分が過去営業の管理職だったとき、どういったものを方針として示していたのだろうか? そりゃ環境と営業はまったく畑が違うが、方針なるものはいつも身近にあった。 方針とはなにかとなるとまた漠然としてしまうが、部下を持つ人なら自分の考えに基づいて部下に動いてほしいと思う。そのとき非常に単純な仕事とか、あるいは短期間の手伝いなら、口頭で指示するだけで済むかもしれない。しかしある程度の期間仕事をしてもらうなら、あるいは多少込み入っていることとなると口頭だけでは用が済まない。 間違いなく仕事をしてもらうには、組織を取り巻く環境、組織の目指す方向、そのための具体的施策、達成目標、各人の担当すべき事項とその方法と目標地点といったものを、ある程度具体的に書き表して、指示する方、受ける方、双方が認識を一致させ志を共有しなければならない。つまりそれが方針だろう。 じゃあ方針と作業指示とは何が異なるのかとなるが、方針は業務の最上位の指示であり、作業指示は業務の下位の指示といえばよいのだろうか。いや、単純な上位とか下位ということではなく、裁量があるかどうかではないだろうか? 受け手が企画する能力があるなら、命令者は細かいことを言わず方向を示してそれに基づいて動いてもらう。受け手に企画してもらうことなく命令に従ってもらうときは実施事項を示してそれに従って動いてもらうことになる。前者が方針で、後者が命令となるのではないだろうか? ルイス・A・アレンは『方針とは反復的に起こる状況に適用される持続的な決定の事である。それは、繰り返し生ずる質問にたいする、不動の回答である』と書いている。つまり、決定する基準は命令者の考えに基づいてもらうけれど、個々の判断は受令者にゆだねるとき、その判断基準を方針というのではないだろうか。 そうなると「品質第一」とか「お客様のご意向を最優先」なんてものはキャッチフレーズとかスローガンであり実務における判断基準としては役に立たず、方針とは言えない。そういったものは標語にすぎない。方針ならば書いた人の意図や目標を十分示すものでなければならない。 性善説かもしれないが、人はチャンスがあれば悪いこととか怠けようとは考えていないだろう。しかし放任していては、上長が期待するように動いてくれるとは限らない。期待通りに動いてくれないことも、余計なことをしてくれることもある。 そういえば現役時代の苦い思い出であるが、旧製品を処理しなければならずそれを売ってほしいのに、若手が売り上げを出すためにお客に新製品を押し込んだことがあった。あれは三木が方針で示していたにもかかわらず、それを理解していないというか無視した若手と良く監督していない課長が問題だった。 そうそうこんなこともあった。新規代理店開拓もテーマではあったが、隣り合っている支社とのテリトリー調整が済むまで代理店に話をするなといっていたのに、暴走した課長が代理店の契約を進めていたこともあった。 あれは誰の責任なのだろう。いや、もちろん結果責任は営業部長の三木にあるが、それが発生した原因は三木の方針がわかりにくいからなのか、順守精神がなかったのか、コンセンサスがとれていなかったためなのか、あるいは監視の目を光らせていなかったからなのか、 ともかく何事かしようとするなら、関係者全体が全体の目標を共有し、各人の任務を理解し、実行しなければ困る。任務は必達する、余計なことをしないことを徹底しなければならない。 そのために三木が現役時代には毎年、営業部長方針というものを作り、それを部員全員に配布して説明した。説明というよりも説得といった方が正しいかもしれない。部長の中には本部長の方針を示すだけで、自分の方針を出さない者もいた。それでうまくいくなら良いが、それでは自分のウィルをどこに出すのかということと、やはりレベルが一つ下がることによるブレークダウンが必要だと三木は思う。 そしてもちろん命令を出すのだから、命令違反あるいは不作為など反抗する者はそれなりの処罰が必要だ。さもなければ、組織が被害を受け、崩壊してしまう。それが嫌なら組織に参加すべきではない。 方針を示すことは重要であるが、方針に従わなければならないということを躾けるのも重要だ。もちろん方針は、分かりやすいものであることと、実行可能でなければならない。そしてコンセンサスがなければ実行してもらえない。 三木は○○大学の環境方針をながめて、これがメンバーに理解され、目標が理解され、各自の担当と任務がわかるものだろうかと思う。 営業のお仕事と環境管理のお仕事は全然方角が違うが、仮に今目の前にある環境方針のような営業方針であれば仕事にならないだろう。いやここにある環境方針は方針ではなく理念レベルであり茫洋として何をすればよいのか分からないのではないのだろうか。 三木は年度初めに営業部方針を課長に配り、各課長にどのアイテムがどの課長がするのかをくどいほど説明し理解してもらった。そして各課長は自分の課の担当を課員に分担させて実施することになる。 しかし、この環境方針を作った人、陽子の勤めている○○大学では理事長がサインしているで理事長が総務部長や各学部その他図書館などの責任者を集めて、あなたの部門の担当はこれですよと示すことができるのだろうかと思う。 確かに研究や教育の担当は学部だろうし、マネジメントシステムの改善となるとISO事務局の総務部になるのかもしれないが、どうも担当が明確ではないように思える。遵法なんて全部門に関わるが、それぞれの部門は何をするのかわからない。 そういうのは目的に展開してから考えるのだというなら、最低限どの項目はどの部門が担うかが分からないようでは困るだろう。 とはいえ・・・今○○大学の方針をとりあげて考えたわけだが、今まで三木が審査してきた100以上の組織の環境方針だって、規格そっくりというかそのまんまでクローンのようなものだ。そして三木はそういう怪しげな環境方針をすべて適合にしてきたのだ。 三木は環境方針とはどうあるべきかと考える。 上長が言いたいことを示し部下がそれに従うべきものである方針が、目の前にある環境方針ようなニュアンスの内容で良いのだろうか? 営業方針といっても会社によって、発令者によって、さまざまだろう。具体的な目標とかでなく、理念だけで止めているのもあるだろう。だけどそういう方針では、先ほど思い出したような、上長の考えていることをせずに、してほしくないことをしてしまうことが多発するのではないだろうか。そのときの原因は、方針の不備ということになるのではないか? 三木は自分が部長だったときのことを思い出す。審査員になって3年、出向準備に1年、自分が営業にいたのはもう4年前だ、あのときどんなことを毎年語っていたのだろうか。座椅子から立ち上がって自分の部屋に行き本棚からクリアファイルを探す。以前部長だったときの資料はかなり残っている。情報管理からみてまずいかどうかはともかく、自宅で仕事をしていた時の名残だ。目指すファイルがあったのでパラパラとめくる。 三木は自分が書いた文章を読んで苦笑いする。文章にファイトがみなぎっている。俺についてこいと紙面から三木の叫びが聞こえるようだ。あのころは自分も熱かったなあと思う。確かにこの歳では営業部長をやれと言われても二の足を踏む。役職定年というものはやはり必要だと思う。営業部長は前例通りとかルーチンとおりでは、売り上げ拡大どころか現状維持さえもできない。とにかく前に前に、部下を引き連れて突き進む元気がないとならない仕事だ。 それに比べて審査員をしている今はどうだ。確かに審査の場とか知り合いを通じて審査員も営業活動をするようにという指導はある。そして三木も実際に過去の取引先とか関連会社にアンテナを張っておいて、認証する予定という情報があれば自分が行くこともあり営業部に話を通すこともある。そして審査契約まで持って行ったことも何度もある。しかし認証事業そのものが通常の肉食恐竜が争うような戦場ではない。同業他社も歳を取って半分引退したような顔ぶればかりだ。 以前の営業方針をいくつか読んで、あの頃は頑張っていたのだなと自分自身をほめたい気持ちになる。そして結構考えて企画立案していたじゃないか。結果だってそこそこだしていた。
自分がしたいことがあるとき、まず概念としてのビジョンがあり、それをブレークダウンして時間に沿っていくつかの目標値(目標地)がある。そのどれを方針と呼ぶか、目標と呼ぶかというのは会社によって異なるだろうし、人によっても異なるだろう。 しかしISO規格に書いてあるからそれに合わせて単語を入れ替えるというようなもので方針ができるとは思えない。自分の思いを込めれば、いや自分が目指すところを絶対に達成するためには、読む人を説得するためにそうとう言葉を尽くさねばならないし、達成するための施策、具体的でなくても妥当だと納得させるものでなくてはならない。ISO規格の文言を基に、省エネを入れようとか組織を大学名とか会社名に変換すればよいというものではない。そもそも事業によって、それも製造業、販売、流通、サービス提供その他によって環境負荷も全く異なるわけで単語を差し替えるだけで間に合うはずがない。 改めて○○大学の環境方針を眺める。この方針を作った人は熱意があるのだろうか? 熱意とはなんだろう? その人が何かをしたい、何かを実現したいという意思だ。それがなければ行動する必要がない。行動しないなら方針はいらない。 この理事長は何を実現したくてこの方針を書いたのか? 三木は俗物である。お金を稼ぐことが恥とは思わないし、人と競争することがはしたないとも思わない。だけど自分のウィルがない人は恥じるべきだろう。三木が大学の理事長なら何を考えるだろうか。 何のためにISO認証しようとするのか。遵法と汚染の防止であるならISO規格を参考に自分の組織の環境マネジメントを見直すことはあっても認証しなければならないと思うわけがない。認証するということは大金がかかることであり、それを回収するにはなんらかの効果を期待しているわけだ。 そういえば先週、陽子は学生集めのためにISO認証を企てたと言っていた。志願者を増やすなら増やすで、それは立派な目的だろう。私大の受験料が3万から4万として、ISO認証の年間費用を400万とすれば最低限受験者を100人増やさなければならない。 じゃあ、この方針を志願者が見たときに、この大学に入りたいと思うだろうか。三木が見れば「ああ、ISO規格通りの同工異曲か」と思うし、陽子が見れば「なんだか無味乾燥で面白みのない文章ね」で終わりだろう。18歳の受験生が読んだ時に、なんら感動させることはなさそうだ。認証しても受験生が増えなければ認証への投資は死に金だ。 ISO規格にこれを盛り込めこれがなくてはダメだとあるからと、それだけを書いたとしても、起案者の思いが込められていないなら読む人はそれを感じることも読み取ることもありえない。いやそれ以前に起案者は・・・実際には理事長ではなく、コンサルの指導を受けた職員なのだろうが・・・思いなんぞ持っていなかいのではないだろうか。あるのはISO認証しょうとする義務感だけ? 大勢の人にこの大学を受験してほしい、この大学が素晴らしいところだというメッセージを込めたい、いや私のこの思いをこの方針に反映させるのだと思う、そのときこんな規格の「すること」を「している」とか「します」に変えただけの文章ではしょうがない。 三木ははっとした。 方針はある面から見れば、発令者の思いを伝えるものであり、その思いを実現するための枠組みを示すものであり、施策やリソースの概要も示すこともあるだろう。三木は部長を10年間務めた。その間、年度方針を10たび出したわけだが、規格要求なんてものはなかったから、年によっては構成を変えたり項目があったりなかったりしたこともある。それでも誰に文句を言われることもない。 確かに三木が営業方針を作ったときに、本社の本部長から内容についてあれを盛り込めとか、数値が甘いとかいろいろと指示されたこともあるが、方針の位置づけについての認識は異なってはいないと思う。 しかし環境方針あるいは品質方針は発令者の思いだけではいけない。ISO規格要求を満たさなければならないのだ。となるとこれは厄介だな・・・ |
たいがぁです。 環境方針の公開について: ホームページなどで環境方針を公開している企業は山ほどありますが、品質方針を公開しているところは少数派のようです。なぜでしょうか? 環境も大事ですが、製品を買ってもらわなければ経営は成り立たないのですから、品質方針を公開して外部にアピールする方がもっと大事ではないでしょうか。 結局は、環境方針はただの飾りなのだと思います。 それが証拠に、どの企業の環境方針も瓜二つというか規格票の文言を少しアレンジしただけで、企業の特色が現れているものなどほとんどお目にかかったことがありません。 こんなものならわざわざ公開する必要はないですし、従業員に周知する必要も、復唱できるよう暗記させる必要もないでしょう。 環境方針が、企業にとって真に意義があるもので、事業活動に密接な関係があってその拠り所であるなら、それはすでに環境方針というよりも経営方針や事業方針であるはずです。であれば、上場企業ならそれはIRのページに掲示されているはずですし、飾りの環境方針など不要でしょう。 非上場企業に至っては、外部に公開すること自体が不要だと思います。 非上場なら社外秘とすることは可能ですし、従業員のベクトルを一致させるためにはそれだけ事業に密接した内容であるはずです。つまり、それが競合他社に知られれば支障が出るぐらい具体的なものであっていいはずです。 この場合、事業方針(環境方針)を非公開とすることは規格違反にあたるか? 私はそうではないと思います。 「利害関係者」とは「ある決定事項若しくは活動に影響を与え得るか,その影響を受け得るか,又はその影響を受けると認識している,個人又は組織」(3.1.6)ですが、その範囲は規格票の各項によって違うことがあり得ると考えます。 例えば、マネジメントレビューの「苦情を含む,利害関係者からの関連するコミュニケーション」(9.3のf)の「利害関係者」には顧客や地域住民を含むが、事業方針(環境方針)の「利害関係者」には含めない(従業員及び株主に限定する)とする運用はアリでしょう。 もともと5.2項には「利害関係者が入手可能である」と限定的な(あるいは消極的な)表現となっており、「すべての利害関係者に公開すること」とは書かれていません。 「入手可能」ということは、要件を満たさない場合には入手できないこともあるということです。例えば、ある地域住民から環境方針の開示の要望があった場合、秘密保持の観点から厳重に審査し、問題ないと判断したときに限って秘密保持の契約を交わすことを条件に限定的に開示することも「入手可能」に含まれます。これは規格不適合ではありません。 それを、無制限というか、深い考えもなしに安易にホームページに掲載するから、箸にも棒にもかからない、金太郎飴というか最大公約数的な、人畜無害で中身を伴わない「環境方針」(以下「アホ文書」という)になってしまうのでしょう。 だいたい、そんなアホ文書を自分の名前でホームページに掲載させている経営者の神経はどうなっているのでしょうか。もし私が経営者なら、こんなアホ文書を自分の名前で掲載することは恥と考え、断固拒否します。 こんなアホ文書を掲載しないと認証取得できないぐらいなら、いっそ認証取得など止めてしまえという気概のある経営者はいないのでしょうか? まあ、アホ文書が掲載されていることで、外部の人にもその会社が「ISOごっこ」をしていることが分かるという点では有益といえるでしょう。まったくムダではありません。 |
ぶらっくたいがぁ様 ご無沙汰しております。 環境方針はどこも公開していて、品質方針は公開しないというのは、単純至極、ISO14001では方針を公開することが要求事項であり、ISO9001では要求事項でないからでしょう。 これは方針だけでなくすべてにわたって、認証のため、認証が目的という発想というか立ち位置だからと思います。要するにISO規格要求なんてどうでもよくて、免状があればよい、免状がないと困るからそのための最低のことをしようという、最低な発想だからでしょう。 いやISO14001をないがしろにしているなんて憤ることもなく、そもそもISOMS規格とか認証制度というのはその程度のものにすぎないのかもしれません。少なくても認証制度側として一層の改善に務めている気配はありません。 ところで私自身長年会社員をしていましたし、今も一消費者という立場であります。それはたいがぁさんも同じですよね。 さて、私が購入するとき、例えば冷蔵庫、あるいは家具でも布団でもなんでもいいのですが、そういったものを買おうとしたとき、品質方針を見て購入するかしないかを決めますか? 環境方針を見て購入の参考にするでしょうか? 私はまったく考慮しません。 もう15年くらい前のこと、息子がオウム真理教の作っているパソコンが安いけど買うのは犯罪集団に貢献することになるのではないかと悩んでいました。明らかに反社会的団体であれば、その利益になることはしてはいけないことだろうと思います。暴力団経営のクラブに行くことは避けるでしょうし、子供がいじめをしているならその親が営んでいるお店では買わないということはひとつの意思表示であると考えます。 もう20年以上前になりますが、ナイキが発展途上国の幼少者の労働によって生産していると言われてボイコットを受けたことがありました。そういうこともあります。 じゃあ、環境方針に感心して購入を決めるのと、環境方針に関心を持たないというしきい値はどこにあるのか? それは環境方針の質、購入者の環境に対する関心と知識レベルによって決まるのではないかと思います。たいがぁ様がおっしゃるように、いま日本の環境方針の9割は金太郎飴でISO規格のコピーです。私はそれを見てなんの感情も持ちません。たいがぁ様も同じでしょう。環境方針がすばらしいものであるなら方針を読もうとするでしょうし、そうでないから現状があるわけです。 では購買者が環境意識を持っていれば高くても環境に配慮したものを買うのかとなりますが、その環境意識が知的裏付けがあるのかどうかということも大きなファクターでしょう。怪しげなマイナスイオンとか水素水とかプラズマクラスターとか、まあなんでもいいのですが、カタカナ言葉に惑わされて高い金を出してガセを買って心理的だけ満足している人が多すぎです。太陽光発電が環境にいいと信じて取り付けている人も大勢いますが・・あれは国家的詐欺なのか? 常識で考えれば、環境方針よりも排水のデータとか事故時の対応状況を公開してもらった方が近隣住民としてはありがたい。消費者としては使用時に安全や健康のために配慮すること、廃棄時の手順や禁止事項を明示してもらった方が環境方針や品質方針を公開するよりも意味があります。 たいがぁ様の問題提起とかみ合わないと思いますが、私は現実があまりにも低レベル、どうしようもない状況であると考えています。それはISO規格の問題もあるし、企業側の問題も、消費者側の問題もあります。そしてその結果として環境方針のみならず認証も意味のないものになっていると考えます。 たいがぁ様の問題提起に対して私の見解は、環境方針を公開する意味などない、品質方針を公開してもらうこともないということになります。 またたいがぁ様のおっしゃる「環境方針の非公開」については、それ以外の問題がありすぎて論じるまでもないと思っております。ただ規格文言から言えばpracticableがないから通らないんじゃないかなという気はします。まあそんなことどうでもいいことですね。 書いているうちにだんだんと考えもまとまってきたのですが、ISO14001がまっとうにならないのは認証制度の問題もあり、企業の問題もありますが、一般消費者の意識が低いからというのが本質かも知れませんね。 環境方針なんて公開することはないから、製品のフットプリントを公開しろ! 工場の工程管理を公開しろ! 製品のクレーム・事故情報を公開しろ! 仕向地向け、客先による安全性、化学物質管理状況に差はないのか? そういう圧力をかけるだけの知識レベル、認識レベルの向上があれば生産者も認定制度も少しは襟を正すでしょう。 おっと、そうなるとISO認証制度なんて無用ですね。 |