目的と手段

16.01.21
本日の文は短いが意味は大きいと思う。ぜひ読んでほしい。

友人から2015年改定JIS規格をいただいてから、ヒマがあればQMSとEMSの二つの2015年版を眺めている。
とはいえ面白みがまったくない。そもそも規格の文言をいじれば品質が良くなるわけでなし、環境が良くなるわけもなし・・・一体全体規格を改定した人たちは何を考えていたのだろうか?
規格をいじるヒマと金があれば(国際会議を一回開催するといくらかかるのだろうか?)もっとできることがあるのではないかと思う。
おっと、ISO以外のものがいいというわけでもない。ナチュラルステップとかいう宗教も駄目だ。思い込みの砂漠緑化をする善意の人も、太陽光発電ならいいと電気自動車に乗るサヨク音楽家も困る。中国の緑化に毎年100億も費やすのは、緑化に貢献するよりも中国共産党の延命に貢献するのと同義である。中国独裁体制を一刻も早く崩壊させることが中国のそして地球環境保護に貢献すると考えるのは私だけだろうか。

注:「善意の人」とは法律では「ある事実について知らない人」のことですよね。
善意だけでは世の中良くなるわけはありません。いや、善意(無知)の人ばかりなら世の中進歩するはずがありません。


法を守る、規則を守る、職務を遂行するということをもっと真剣に考えてほしい。いや法を守る、規則を守る、職務を遂行するという実行こそがすべてではないのか?
「理屈は花火、実行は爆弾」という言葉もあるが、なにごとも実行しなければ無意味だ。
ましてや「虚偽の説明が・・」と言うだけで何も手を打っていないのだから花火に火も点けてないではないか。
規格で世の中をよくしようというのは、20世紀の発想で21世紀にはアウトブデートであることは間違いない。

そんなことをつらつらと数日考えていて、だんだんと考えがまとまってきたのでアイデアが逃げないうちに書く。老人は忘れやすいのだ。
ISO9001は何のために存在するのか? ということは明白である。「顧客満足の実現」のためだ。だって規格にそう書いてあるから。そして顧客満足はなんのためかといえば、会社が儲けるとか永続するためもあるだろうが、根源的なことであるが会社が存在するというか設立されたのは社会に貢献するためであり、顧客への奉仕であるわけで、顧客満足はその指標であることは間違いない。
ではISO14001はとなれば、これも誰もが知っているだろうが「遵法と汚染の予防」である。
ご確認いただきたいがISO9001もISO14001も手段であり目的じゃない。ISO認証件数が増えることが目的ではなく、JIS規格が売れることが目的ではなく、認証機関が繁盛することが目的ではなく、世の中の人々にISO認証が知られることが目的ではない。購入者が納得できる品物を提供する会社の実現、環境事故も違反もない社会の実現こそがISOの最終目的であるはずだ。

注:規格改定の説明会で「規格改定の成功とはJIS規格票が売れることだ」と語った某ISO研修機関のエライさんがいたと聞く。ご芳名も知っているが忘れたことにしておこう。
そんなことを語るのは、エライさんではなくオバカさんであろう。
規格がいくら売れても顧客満足が達成できなければ意味がない

ともかくISOに関わっているならば「顧客満足の実現」と「遵法と汚染の予防」が絶対に譲れない目的であることに納得いただけるだろう。ISO規格も認証制度もすべてそのための手段に過ぎない。目的は手段を正当化しないが、目的を達成するための手段は複数あるだろうし、手段は手段にすぎず取捨選択されるものでしかない。

ではこの前提条件を踏まえて規格改定を考えるとどうなるのか?

その1 規格の構成
規格の章立てや用語がマネジメントシステム規格によって異なっていて組織が負担だということでJTCG(Joint TechnicalCo-ordination Group = 合同技術調整グループ)によってマネジメントシステム規格の標準化が行われその対応があった。まあそれはそれでよいとは思う。
ただ私は思うところもある。
用語の定義を合わせるというのは当然としても、そもそも規格ごとに定義するというのもおかしな話だ。ISO9000において環境やその他も合わせて定義するとか、ISO14001でISO9000を引用規格にすればいいだけではないかという気がする。そして環境でのみ使う用語であればISO14001で定義しても他には影響しないだろう。
なんとなればQMSもEMSも会社の統合的MSの一部であり(ISO規格にそう書いてある)そこで使われる言葉が会社の環境に関わる業務と品質に関わる業務で異なるとは思えない。その程度で社内方言が発生するならその組織は異常である。

それからMS規格の章立てを標準化するというのも実は変ではないかと思う。それは元々が規格の章立てに合わせた「○○マニュアル」を作成させていたということがあったからではないのだろうか。
私は規格要求なんてのは、それぞれの規格策定者が勝手に書けばよいのではないかと思う。
それじゃ企業は困るなんてことも実はないのだ。日本には法律が1800本くらい存在する。その中で企業の仕組み体制についての要求をしているものは結構ある。例えば消防法では職場防衛組織、安衛法では安全や衛生の管理体制、省エネ法では省エネの体制、推進する仕組み、輸出管理、公害防止法、会社法、薬事法・・まあいろいろな法律で会社はこういう体制を作れ、こういう機関(管理者や担当者)を設けろということを定めている。もちろん法律を作るときは関連官庁で協議しているのだろうが、担当者の役割や名称は法律ごとに異なる。安衛法では安全管理者や衛生管理者や作業主任者、公害防止組織法では公害防止統括者や公害防止管理者、薬事法なら責任技術者、省エネ法ならエネルギー管理士やエネルギー管理員などなど、このように責任者の呼称も資格の名称も多様である。それで企業は困っているのかと言えば日本中の会社は別に困りもせず文句も言わずそれらに対応しているという事実がある。
論点は何かと言われそうだ。簡単だ。
要求事項が異なっていても企業はそれが妥当だとみなせばちゃんと対応するということだ。文書管理の要求事項が環境と安全とで異なっていてもそれでは対応できないなんて文句を言わない。そんなことは本質じゃないのだ。そもそも文書管理の要求がQMSとEMSで異なるから問題だというのは、審査において規格の記述と一字一句コンペアしていたから問題となったのだろうか?
問題となったのだろうか?とは疑問文ではなく反語である。

無能な審査員はいりません
いや、本当の問題は項番順にしか審査できなかった無能な審査員がいたということにすぎない。プロセスアプローチ審査ができる審査員ばかりであったならマニュアルもいらなかったし、規格の構成や記述などどうでもよかったのだ。
と言っても、その意味さえ理解できない審査員も多いだろうと嘆く。
本質はなんだって
それは愚問だ。先ほど書いたように、ISO9001は顧客満足、ISO14001は遵法と汚染の予防だ。要するに規格構成を合わせるなんてことは本質ではないということだ。
おっとそうはいっても、同じ項目であれば要求事項とか文章を合わせることはベターではある。しかしこれについても私はまた別のアプローチをとるべきだったと思う。
そんなことを以前も書いたことがある。
私の考えは、カテゴリーごとのMS規格が文書や是正処置その他共通事項をワンセット持つのではなく、MS規格の基本要求事項を合わせてしまい、品質は品質に関することだけ、環境は環境に関することだけにしてしまえということだ。
それこそを構造化とか標準化というんだ。

規格のあるべき体系
cf.「2015年改定説明会資料」

普通の会社で品質に関わることだけを分冊なり編なりにまとめるということはないだろうと思う。私が過去複数の会社の文書体系を読んだ結果や複数の社内規則体系をを作りあげた経験でそう言える。いやそういう会社もあるかもしれない。そういう会社は社内文書をISO対応で作り上げたのかもしれないが・・
通常は総務、営業、経理、開発、製造というふうに機能ごとに編を構成する。品質に関わることお金に関わること環境に関わることはそれらの中で業務に流れ毎に関係する事項が規定されるのが一般的である。決して品質編とか環境編というものがあるわけではない。

その2 アプローチの勘違い
そもそもISO14001はなぜ改定する必要があったのかということが要確認である。もちろん直接的にはISO規格は定期見直しをしなければならないということがあったからだろう。2008年の定期見直しはパスしたが、ときが経ち2013年にまた見直しのときが回ってきただけであり、また同時にJTCGの要求があったというのはあるだろう。
だがなぜ改定が必要だったのかというのはどうなのか?
「ISO14001:2015要求事項の解説」(吉田敬史ほか)(p.22-23)によると「EMS将来課題スタディグループ勧告事項」というものがある。そこでは、組織の責任とそれへの認識、パフォーマンスや遵法とその指標の明確化などが列記してある。
それが課題としよう。じゃあ規格の文言を追加すれば遵法レベルが向上し、パフォーマンスが向上し、環境が良くなるのでしょうか?
そこんところが大きな間違いと思う。
世界で一番ISO14001認証件数が多いのが中国であるが、公害がひどく違反が多いのも中国である。ISO14001規格の文言を厳しくすれば中国の公害が減り違反がなくなると思う人がいたらそれはオメデタイ。
先進国なら・・・・そんなことはない。環境先進国()のドイツの自動車メーカーは排気ガスのデータを良く見せるために詐欺的手法を使った。

注:()というのは中に記載漏れをしたわけではない。2ちゃんでは何かの言葉の後に()を付けると、「あざ笑う」とか「突っ込みどころですよ」とか「()の中にあなたの思いを入れて読んでね」という意味を付加するために使われる。つまり「環境先進国()」とは「オイオイあれが環境先進国だって、笑えるぜえ」あるいは「あんなことをするのが環境先進国なことないだろう」という風に読むこと。

要するに中国の大気汚染の改善もドイツの排ガスねつ造も、ISO規格の守備範囲ではなく出番ではないのではないだろうか? そもそも環境を法規制を超えてボタンタリィに一層改善するためにISO14001はあるわけであり、法規制を守らないような精神風土、国民性のところに規格の文言を盛っても意味がない。
おっと日本ではISO関係者は「企業が虚偽の説明をしているからISO認証の信頼性が高まらない」と言っている。JABの専務理事が代わればいうことも変わるかなと思っていたが、少しも変わらない。私は企業の虚偽の説明しているという証拠と信頼性の関連を示すデータを見たことがないのだが・・
むしろ我々国民も行政も、事実無根のことを騙る認定機関、認証機関に対して厳しい監視と指導を行うべきではなかろうか?

責任はどこにあるのだ?
仮に100歩譲ってJABが言うように日本で虚偽の説明というのがバッコしているなら、規格改定をするのではなく審査で虚偽の説明を見逃さないような少しはましな審査員にするとか、虚偽を見逃したら認証機関や審査員の席を問うと改めればよいのである。
おっと認定機関、認証機関が事実無根を騙っているなら、それは徹底的に是正処置を取らせなければならない。

ともかく世界的にも日本においても、現状の問題と規格改定に提示された課題は全くと言っていいほど無関係と思える。
要するに規格改定のアプローチ、いや改定そのものがまったく課題と見合っていない。いや待てよ、課題についての認識が現実とかけ離れているのだ。

その3 フィードバック
年末に日テレの鉄腕ダッシュという番組を見ていた。いろいろなスポーツや職種のプロフェッショナルにトッピでとんでもなく困難な仕事をやってもらうというものだ。
その中にサッカー選手に走っているスクーターの後部の荷物を入れる箱の窓にサッカーボールを入れてもらうというのがあった。テレビなど大事件が起きた時しか観ない私だが、これには興味を持ってみていた。
初めは後ろすぎ、二発目は前すぎ、三発目は窓の縁にぶつかってはじかれたが、4発目は窓の真ん中に入った。さすがプロとうならせる。
鉄腕ダッシュ

注:っと実際には何度も何度もトライしていて、成功したのを選んで放送しているという噂もあるが、それは置いといて・・・

単にシュートが成功したから、さすがプロと思ったのではない。最初は右にずれたのち、次に左にずれ、三度目はその間にしてだんだんと偏りを小さくしていったというアプローチが素晴らしいからだ。仮に同じく4発目に入れたとしても図の順序が違ったら「さすがプロ!」とは言えないのだ。
サッカーボールに限らず、射撃でも機械の調整でも塗料を混ぜて色だしするにも、目標と結果を比較して理想は3回、できれば4回か5回で目標に合わせるたい。それがプロ、それがフィードバックというものだ。

さてISOの話に戻る。規格改定は理由というか目的があって行うわけだ。
では問う
ISO14001の2004年改定は「1996年版の要求事項の明確化とISO9001との整合性向上に限定した」と「ISO14001:2015要求事項の解説」(p.19)にある。それでは改定した結果、要求事項が明確化されて審査における間違いミステイクはいかほど減ったのか?
もう前回改定から12年がたったのだから十分その結果は把握されていることだろうと推察する。
過去より目的目標の理解、環境側面の特定・決定の誤解、いや規格の読み方の間違いは多々あり審査で言いがかりと言えるような不適合がじゃんじゃんと出された。2004年改訂の結果、それは改善されたのでしょうか?
審査の第一線で審査員とやりあってきた私の体験から、要求事項の明確化という観点では2004年改定は全く意味を持たなかったと断言する。むしろ規格改定の言い回しを環境マニュアルに反映していないとかいう言いがかりが増えただけであった。
ISO14001ではマニュアル作成を要求していないのにもかかわらず、マニュアルの文言が規格通りでないことが不適合になるという理由も理解困難ではある 
ともあれ2015年改定では改定の効果はどのように測られるのだろうか? もちろん偉大なるISO委員たちであるから、改定の効果として遵法としては環境法違反の減少、汚染の予防としては環境事故の減少、そしてパフォーマンスの大幅向上を期待できるのであろう。そして最終的には、顧客満足と遵法と汚染の予防が成就されるはずだ。
もしそれが保証されなければ規格改定は壮大な無駄であると言えるだろう。
ISOの預言者としては、改善は期待できずに壮大な無駄に終わるだとここに予言する。
なにしろ目的と手段を取り違えているのだから・・・

うそ800 本日のきっかけ
この文を書いたのは以前私のブログに書いた下記の文章が始まりである。

友人からJIS規格改定版をいただいてから、ヒマさえあればQMSとEMSの2015年版を眺めている。
とはいえ面白みがまったくない。規格の文言をいじれば品質が良くなるわけでなし、環境が良くなるわけもなし・・・
規格を作った人たちは何を考えていたのだろうか?
規格をいじるヒマと金があれば(国際会議を一回開催するといくらかかるのだろうか?)もっとできることがあるのではないかと思う。
ナチュラルステップとかいう宗教でも駄目だ。法を守る、規則を守る、職務を遂行するということをもっと真剣に考えてほしい。
「理屈は花火、実行は爆弾」という言葉もあるが、なにごとも実行しなければ無意味だ。
ましてや「虚偽の説明が・・」といいながら何も手を打っていないのだから花火どころか火が消えたようだ。
規格で世の中をよくしようってのは20世紀の発想で21世紀にはアウトブデートであることは間違いない。

上記ブログを書いたときにここに書いたことまで考えていたわけではない。後で自分の書いたものを読み返したら、どんどんと考えが膨れてきて短いと言ったもののけっこう長くなってしまった。
まあいつものことだけど・・・

うそ800 本日気が付いたこと
まさか規格規定は審査員研修機関や講習会が繁盛するためにってことはないだろうなあ?
いや・・・そうかも?



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