ISO認証制度の問題

16.10.27
私はなぜISO批判を続けているのか、本日はそんなことを書く
ものごと、形ある機械であれ形のない決まりごとであれ、問題が起きたという場合はいくつかのパターンがあると思う。いやパターンではなくフェーズと言うべきか。
  1. 偶発的に発生するエラー
  2. 運用上の不注意あるいは部品故障などによる正規状態からの逸脱
  3. 定められた手順あるいは機構が不適切なことによる不具合
  4. そのものの存在が根本的に不要あるいは存在すべきでない場合
細かく考えるともっと細分できると思うが、本日の議論には上記で十分だろう。
ではISO第三者認証制度の問題を考えてみたい。
私がISO認証制度に付き合った20年間に数々の問題と出会った。それらの問題は上記のいずれのフェーズに相当したのだろうか。

1992年か93年のこと、これは自分が体験したことではなく当時雑誌に載っていた話である。
当時の審査員は外人(ほとんどイギリス人)または外国で審査経験のある日本人だった。その会社は日系の認証機関に依頼したので審査員は日本人だった。まあ外国人のときは通訳を用意しなければならないとか、昼飯の心配とか、好みもある。
さて審査初日、審査員はやって来るなり門に立っていたガードマンにISOを知っているかと質問したそうだ。ガードマンは知らないと答えた。次に控室にお茶を持って来た女子社員にISOとは何かを質問した。こちらは認証とか審査とか事前に教育を受けていたので知っていることを説明した。クロージングでガードマンがISOを知らないのは教育不十分だと語ったという。当然それは不適合になった。
真偽のほどはわからないが、既に審査を受けた者として、私はそういうことは実際あるだろうと思った。近隣の某工場ではその話を聞いた品質課長が毎朝門に立って出勤する従業員にISOを覚えろと声をかけていたという。半分どころか7割ノイローゼだったらしい。今ならそんな話を聞いても、ジョークかよと笑い飛ばすだろう。だが当時はそれに類することは何度か体験した。まあ、そんな時代もあった。

サルでも知っているとは思うけど:
おいらはサルだけど
サルにだってわかるよ

猿だって知っているよ
ISO規格は要求事項を実施または遵守することを求めているが、ISO規格とか認証制度を理解することを従業員に求めていない。だって考えてみると当たり前だ。ISO認証制度をよく理解しているが会社のルールを守らないところと、ISO認証制度など知らないが会社のルールをしっかりと守っているところ、どっちが好きですか?
納得できない方へ、法律を知り尽くしその裏を行く人と、法律を知らないけど悪いことをしない人どっちが良いですか?
もっともそんな基本的なことを理解していない人たちが多いようで、多くの会社では「ISO教育」なるものをしている。私が管理者ならそんなばかなことをすぐに止めさせて仕事をさせる。

前述の話はジョークと受け取ってもよし、黎明期にはありがちだと言ってもいい。そのような雲をつかむようなことでなく、現実にもいろいろと大変だった。
まず当時は審査員にはいろいろと気を使わなければならなかった。昼飯、夜の接待、お帰りの際のお土産である。
イギリス人が来たとき飯には文句はなかった。日本人が来たとき昼飯がまずいと言われた。我々は1食300円の工場給食だが、審査員閣下には1200円の仕出しを用意した。私の感覚からすればご馳走で感謝の言葉があっても良いはずだった。しかしその審査員は「S●NYではステーキが出たのに」と文句を言った。
別の認証機関の審査では夜伽の女を要求された。途方に暮れてヘラヘラ笑ってごまかした。あのときデリヘルに電話すればよかったのだろうか? 昼飯とか宴席くらいは通常の取引でもあるし何とかできるが、女性まで要求されると我々は困り果てた。23年前ならあの要求も時効だろうし、それをばらしもよいだろう。

古い話だが: 当時は事業ごと、製品ごとにISO9000sの認証を受けていた。BtoBだからその製品の客先からどこそこの認証機関と指定されることもあり、A製品は甲認証機関、B製品は乙認証機関ということが普通にあった。

2000年頃からだろう、高級な昼飯を要求されたとかお土産に地元の名産を要求されたということが悪いこととして報道された。常識として悪いことだよね。それにお金をもらう方がたかるということが不思議ではないですか。ともかくそれ以降、昼飯は企業側に要求せず審査員が持参するようになった。弁当を持参する代わりに食事代を支払うところもある。それは良いことだし、当然だ。
こういったことはルールの逸脱による不具合に入るのだろう。もっとも女を用意しろなんてのは運用の問題ではなく、強要という犯罪のカテゴリーに入るのだろうか? (強要罪 刑法223条

己を絶対者、全能の神様だと信じている審査員もいる。
「私が言うのだから間違いありません」というフレーズは論理的に意味を持たないと思うが、このフレーズを語る審査員はものすごく多い。非論理的な審査員が論理的な審査ができるはずがない。

パラドックスの初歩:
ここに書いてあることは嘘です

この文章は病的でおかしいと思うだろう。数学で言えば A≠A となり、ありえない。
では次はどうだ?

ここに書いてあることは本当です

一見まっとうだが、数学的には A=A で前者と同じく論理的には意味を持たない。
「私が言うのだから間違いありません」もそれと同じである。不思議なことにそう語る審査員は間違っていることが多い。

もっともどこの馬の骨かわからない審査員閣下のお言葉を信用するほど世間は甘くない。少なくても私なら畏れ入ることなく即座に否定する。
権威が足りないと自覚している審査員閣下は、「JABが言っている」とか「UKASの通知で」とかのたまわく。私も初めの頃はおとなしく承っていたが、あるとき問い合わせてみようと頭に浮かんだ。会ったこともないISOTC委員やUKASにEメールで問い合わせした。ありがたいことに回答がもらえたので、それを見せて反論した。しかし「UKASの通知で」とのたまわった審査員閣下に「そんな通知は出していない」というUKASの回答を見せても「間違っておりました」などと語った審査員にあったことがない。「そういう考えもあるかもしれません」とか「実態を知らないからです」などという。天上天下唯我独尊とはISO審査員を表す言葉らしい。
このような倫理の問題も論理の問題も、ルールからの逸脱による不具合に当たるだろう。
いや、審査員が検事と裁判官を兼ねる現行制度は根本的に間違っていて、次に示す手順の不具合あるいは制度の欠陥ではなかろうか?

定められた手順が不適切なことによる不具合というケースとはなんだろう?
ここでいう手順とは認証を受けようとする企業が定めた手順(会社規則とか規定類)のことではなく、認証制度が定めたルールである。具体的にはISO17021以下のISO17000シリーズや、IAFの基準それにJABの基準ということになる。認証機関が統一見解なんてのを定めていればそれも含まれる。
みなさんはISO認証制度の手順や基準についておかしいぞと思ったことはないだろうか?
私はISOに取り掛かった頃はそんな疑問をもったことはなかったが、何度も審査を受けるうちに、この制度は基本的に不完全であることを体感した。
まずその筆頭は審査の非対称性というか審査の仕組みそのものである。審査員は裁判官ではなく検察である。規格要求事項に対して被告側である企業がそれを満たしている証拠を提示し、検察側である審査員がその適否を見て有罪を求刑する。そして裁判官が両者の主張を比較して妥当な方を正当とする判決を下すのがあるべき姿だ。しかし現実は検察である審査員が裁判官を兼ねて判決を下し、審査員も認証制度もそれを不思議に思っていない。
更に不思議なことは裁判なら三審制といって、一審判決に異議あれば更に二度審議を求めることができる。しかし現在の認証制度には、企業側が審査の判断に疑義を持っても対処する手段がない。異議申し立てなどをしても、認証機関は肯定立論、否定立論、判定という最低限の仕組みを整えていない。異議申し立てを受けると、審査と同様に認証機関幹部がナアナアの検事役を兼ねる会合を持つだけだ。そしてまたその知識レベル見識レベルの低いこと、法律の知識がない人が法に関わる争点を判断できるわけがない。過去に法違反だと言われたものについて、行政に相談に行った結果問題ないと言われて、不適合を取り消してくれと言ったことは数回ある。すべて拒否された。ISO審査員は行政よりも権威があるのか、根拠を知りたい。

具体例1:
マニフェストにサインをしていたら押印でないとダメという。都環境課の回答をもって行ったがB認証機関は審査結果を変更することはできないと言った。
具体例2:
危険物保管庫が法基準を満たしていないという。消防署に問い合わせた結果を持って行ったが、J認証機関は不適合であるといった。
具体例3:
環境目的の実施計画と環境目標の実施計画のふたつがないから不適合と言われて、ISOTC委員に問い合わせた結果、問題ないというコメントをいただき撤回を要求したら、J認証機関は本当にTC委員ですかと言い信用しなかった。
これで足りないと言われれば、私は100件くらい挙げることができる。

環境側面は点数で決めなくてはならないとか有益な側面がないと不適合なんて問題は、企業にとっては重大な脅威()、大問題である。だがそういったことは、審査員の無知、勘違いで発生する運用上の問題であろう。
だが、そういった問題が沈静化せず、何年もトラブルを引き起こしているということは認証制度の問題であることは間違いない。
ISO審査でいうじゃないですか、「昨年の問題が再発しています。是正処置が不十分です」と。人には言えても自分では実行できないのか?
ピカピカの一年生 環境側面が点数じゃないといけないという間違いは10年間、有益な側面なる妄想が現れてからでさえもう5・6年になる。生まれた赤ちゃんが小学生になるまで対策できないようではISO認証制度は子供に笑われるぞ、

問題はまだまだある。審査で疑義があったときの対処手順が整っていない。
審査でもめて認証機関にイチャモンを付ける企業は、ISOTC委員や行政と相談しているという事実を知らずに、俺が大将という思い込みでは・・
だが何を言おうとディベートあるいは裁判のような客観性、対称性がないのだから成果は期待できない。これを定められた手順が不適切と言わずして何と言おうや?
組織にとって忘れてならないリスクは、審査員によるマネジメントシステムの改悪である。
企業に残された選択肢は泣き寝入りか認証機関の鞍替えしかない。
認証機関は異議申し立てや苦情を受けたときの手順を定めておかなければならないとISO17021で定めている(ISO17021:2011 4.7/9.7)。何年か前のこと某認証機関が苦情窓口を明示していなかったので、そこの取締役にそれを伝えたら感謝された。認定審査ではそんなことチェックしていないのか?

もうひとつのというか、より根本的なことだが、裁判とは推定無罪といって有罪を立証できなければ無罪と言う考え方で成り立っている。ISO審査は推定不適合というべきか、適合を立証できなければ不適合と言う発想で成り立っている。

注:
ISO17021:2011 4.4.2
認証機関は、審査の結果に基づいて、適合の十分な証拠がある場合には認証の授与を決定し、又は十分な証拠がない場合には認証を授与しない決定をする。


これはつまり下図のような関係となる。

裁判なら
 有罪の証拠
ありなし




ありこの組み合わせは
論理的にありえない
無罪
なし有罪推定無罪

ISO17021なら
 不適合の証拠
ありなし




ありこの組み合わせは
論理的にありえない
適合
なし不適合不適合

安全をみて適合でなければ不適合と判定するのだという声が聞こえそうだ。だがこれは論理的に間違っている。なぜなら悪魔の証明はすべてに言えることであり、適合を立証できなければ不適合というのは論理的に間違っている。組織の義務は規格適合にすることで適合の立証責任はなく、認証機関が不適合を立証しなければならないのだ。(ISO17021:2011 4.4.1)
つまりISO17021は欠陥規格なのだ。欠陥規格の上で運用する制度は欠陥でしかない。

悪魔の証明とは: 悪魔の証明とは、ある事実がなかったことを証明すること。
ツチノコがいるかどうか誰も分からない。しかし「ツチノコはいない」とは世界中、人跡未踏の地を探さなければ言えることではない。何事も「ない」と主張することは不可能であり、裁判でもなんでも「ある」と主張する人が証拠を出すことになっている。
ちょっと気になったのだが、まさかツチノコを知らない人はいないだろう・・・

ISO認証制度は存在が不要なのだろうか?
いや無用な存在ではなく、運用上の不具合や認証制度の仕組みが悪いだけで、認証制度は社会財なのだろうか?
注:
JABはよく社会財というが、社会財とはどういうものなのか定義を見たことがない。ひょっとすると社会に必要のないものを言うのかもしれない。

ISO認証制度は世界共通のグローバルな制度だから間違っているはずがないという論理はどうか? まあ世界中の人が信じても間違いはあるだろうさ。かって天動説が信じられていた時代もある。重いものが軽いものよりも早く落下すると考えられていたこともある。
少なくても不肖おばQが体験してきた過去20年間でISO認証が有効だとか、認証制度があってよかったと感じたことは一度もない。

まとめに入る。
自分が一工場でISO認証担当であったときは、出会う問題も少なくバリエーションも少なかった。だからISO認証制度に疑問など持たなかった。せいぜい審査員が横暴だとか、金に汚いと感じた程度である。
しかし複数の、いや多数の認証企業の実態を見る立場になると、類似の問題があちこちで起きている。それは偶発的でないことの十分な証拠だろう。
問題が偶発的でないのなら、認証制度の運用がまずいのかルールがおかしいはずだ。そして問題が時間とともに減っていないことは、フィードバックが機能していないことでルールではなく制度そのものに欠陥がある証拠だろう。
このうそ800の10数年にわたるコンテンツ約1200件を眺めていただければ、私の関心が目の前の具体的、即物的な問題から、ルールからの逸脱の問題へ、そしてISO認証のルールがおかしいというフェーズに変わり、ここ2・3年は認証制度の存在意義を問うフェーズに変わってきたのが見えるでしょう。
その先は、認証制度に引導を渡すことになるのだろうか?

うそ800 本日の主張
2年前「旗幟鮮明」というタイトルで似たことを書いた。あれから少しは私も進歩したと自分自身思う。いや私が進歩というよりも対象であるISO第三者の評価が下がったというべきか?
悪は許さない
私は悪を許さない
おばQはISO認証制度に憎しみを持っているなんてお考えの方、それは大きな勘違いです。
私は企業の活動において無駄あるいは阻害するものを排除しようとしているだけです。それは30年前、予定調和の小集団活動なんて無意味だと叫んだ時と変わっていません。
そしてそのときに周りから総スカンを食っても信念を貫いたように、今もISO認証のあるべき姿を究明しようとしているだけです。
なにかご質問は?



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