*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。但しここで書いていることは、私自身が過去に実際に見聞した現実の出来事を基にしております。また引用文献や書籍名はすべて実在のものです。
審査員物語とは
審査員研修をしているものには認証機関もあり、審査員研修専門のところもあるが、木村はナガスネで働くのだからナガスネで受講するのはもちろんだ。どちらにしても受講料はかかる。受講料は時代と共に安くなってきているが、当時は30万ほどかかった。もっとも最近はJIS規格票を自分で用意するとか昼飯は自前とかになっているので、本当に安くなったのか見た目だけなのかよくわからない。 木村はそれまでに環境側面とか法規制などの講習を受けたが、そのとき受講料は会社持ちだった。しかし。今回の受講は会社業務ではないので自腹だ。総務に交渉してみたが、補助はできないという。会社も木村が我を通して転籍をせず審査員になることに決めたことを面白く思っていないようだ。まあ、それは仕方がない。 ホテルに泊まろうかとも思ったが、それより静岡・東京の新幹線往復運賃の方が少し安い。とはいえ5日間となると大金だ。審査員研修を受けると総額40万近くなる。 これほど投資して審査員になって元が取れるのかという思いが一瞬浮かんだが、審査員の仕事、そしてコンサルをして稼ぐことを思い浮かべると、審査員にならずにおけるかと思うのだった。研修の週の前の金曜日の夜、久しぶりに静岡の我が家に帰って来たものの、妻も息子もよそよそしくもう自分の場所がない。単身赴任も7年半になると自分がいないのが平常になるのも当然だろう。 研修初日は東京駅からナガスネまでの地下鉄の時間を読み誤り、着いたのは研修開始のわずか5分前だった。事前の注意事項に、欠席や遅刻などで所定の時間を満たさない場合は、最終試験を受けることができないと書いてあった。冷汗をかいた木村は、翌日から1本早いのに乗ろうと思う。 オリエンテーションで概要説明などの後に受講者の自己紹介があった。そのとき木村は初めて三木の顔を見た。本社の本田から今年出向する人の名前が三木だと聞いていた。研修は五日間あるから機会を見て話をしておこうと木村は思う。 初日は環境科学、環境技術、環境側面抽出と環境影響評価である。既に木村はその科目をISO認証時に受けており、中身も当時と変わってはいなかった。そのためついうとうとしがちであるが、教室の後ろの小部屋の小窓から居眠りを監視している人が座っているのを知っていたからひたすら睡魔と戦った。 講義終了後に三木に声をかけようかと思ったが、三木は彼のグループになった白髪頭二人と飲みに行く話をしていた。まあ先は長い明日でも声をかけよう。 木村は二日目も予定していた新幹線に乗り遅れてしまった。始業すれすれに入りながら明日こそはと反省する。 二日目は監査と監査技法と文書審査の練習だった。木村にとってそういったものはISO9001のときからしてきたことで聞くまでもなかった。同じグループになった人が、監査とはこんな簡単なもんじゃないなんて愚痴っているのを聞いて、木村はこの人はISOを知らないなといささか優越感をもった。 二日目も三木に声をかける機会はなかった。その代り三木の発言を聞く機会がたびたびあった。講師の質問には教科書通りの回答をし、受講者同士でロールプレイしたときは筋道たてた話をする。更に感心したのは丁寧な話し方と言葉使いで、部長風をふかすようなことはなく腰が低い。それを見てさすが長年お客様と交渉してきたからかと思う。木村は三木のような話し方をする審査員に会ったことがない。自分が会社側よりエライと思い込んで、上から目線の話をする審査員ばかりだった。三木が審査員になれば評判が良いだろうと思う。とはいえ木村は自分を顧みることはなかった。 三日目は絶対に1本早い新幹線に乗ろうと、朝食を取らずに出かけた。新幹線で朝食を取ろうと思っていたが乗る前に買うのを忘れて車中居眠りをしてきた。まあ昨日よりも1時間早いからとナガスネの入っているビルの1階のコンビニでサンドイッチとコーヒーを買い、コンビニの中にあるベンチで道行く人を眺めながら食べた。 会場に入ると今日は1番乗りのようだ。いや、違った、会場にコーヒーが置いてある片隅に一人いた。おお、三木ではないか。これは都合がいい、話をしてみよう。 | |||
「おはようございます。お早いですね」
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コーヒーの紙コップを持って外堀通りを眺めていた三木が振り向いた。
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「おはようございます」
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「昨日と一昨日は時間ぎりぎりでしたので、今日は絶対に早く来ようと決心しましたよ」
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「どちらからいらっしゃっているのでしょうか?」
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「静岡です。昨日と一昨日とスレスレでしたからね。なんでも遅刻や早退すると修了させないと聞いてます。それで今日は朝食を食べずに家を出たので、下のコンビニでサンドイッチを食べたところです」
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二人は名刺交換をする。木村は三木の名前も勤め先も知っていたが、三木は知らないはずだ。 木村は三木の名刺を見て初めて知ったように声を出した。 | |||
「あれえ、三木さんは本社の方ですか。私も元は静岡工場にいたのです。2年ほど前に子会社の照明機器メーカーに出向しました」
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「ほう、これは奇遇ですね。木村さんはやはり審査員に出向予定なのですか?」
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木村は自分が出向が決まっていることを言わない方が良いだろうと思った。
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「審査員になりたい気持ちはあるのですが、なかなか難しいようです。三木さんは審査員になるのを希望したのでしょうか?」
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「実は私は役職定年になったとき、関連会社に出向とばかり思っていましたが、思いもよらないことに審査員に出向せよと言われましてね。私が希望したわけではありません。とにかく今は審査員になる勉強中です」
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「うわー、それはうらやましい。かたや審査員になりたいと願っていてなれない人もあれば、こなた審査員になりたくなくても審査員になれと言われる人もいると、世の中は不条理ですね」
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「審査員になりたいと思ってらっしゃるとは、木村さんは環境法規制などについては詳しいのでしょうね?」
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「一通りは知っています。今の勤め先でISO14001を認証したときの中心になりましたし、ナガスネの法規制や環境側面の研修も受けてますから」
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「そうですか。じゃあベテランですね。私は全くの素人です。実は私は出向する条件として公害防止管理者の水質1種と大気1種に合格することと言われているのです。木村さんは公害防止管理者の資格はとられたのですか?」
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「いやあ、公害防止管理者の資格はありません。審査員になるのに特に必要とは聞いていなかったなあ。ああ、それ以外の資格ならいくつかもっていますが。特管産廃とか」
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「そうですか。じゃあ資格の方も心配ありませんね。 公害防止管理者試験まであとひと月です。私は受験しますがとても自信がありません」 | |||
木村は自分も受験するとは言わなかった。余計なことを話すことはない。 今まで聞いたことから推察すると、三木はまだ出向できるかどうかはっきりしていないようだ。たぶん公害防止管理者試験に合格しないと出向できないのではないだろうか。従来の人と違い営業部門だし環境や品質と関係ない仕事だったから木村よりは出向のハードルが高いのだろう。二人とも出向できたとして、自分の方が優位に立てるだろうと考えた。 休憩時にまた木村は三木に声をかけた。木村は三木がISO認証制度とか審査の実際などをどれほど知っているのか確認したかった。 | |||
「三木さんは審査員になるためにどのような勉強をされているのですか?」
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「いやあ、参りましたよ。審査員に出向しろと言われたときは途方にくれました。なにしろ審査員という言葉も初めて聞いたくらいでしたから。出向するまで本社で勉強しろと言われましたが、なにをしたらよいかを誰が教えてくれるわけでなし、自分があちこち聞き歩き、計画を立てて勉強している有様です。 もう半年になりますが、今までナガスネの各種講習を受講しました。ISO規格解説、環境法規制とか環境側面とか、今回の審査員研修というと高度なものかと思っていましたが、そういった講座を集めただけという感じですね」 | |||
「確かにそのようですね。ただそういった講習だけでなく実際の審査も知らないといけませんね。 三木さんはISO審査に立ち会ったことがありますか?」 | |||
「出向を言われるまで審査を受けたことがありませんでした。いや支社も認証を受けていますから審査を受けていたのでしょうけど、私は営業で出かけていて審査のときにいなかったのでしょうね。 今は環境管理部の本田さんにお願いして二三度工場の審査を見学させてもらいました。来月以降もいくつか見学させてもらうつもりです」 | |||
「審査を見学すると勉強になりますか?」
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「まったく審査というものを知りませんでしたのでそれは勉強になりますよ。 ただ、どういうもんですかねえ〜、ISO14001の意図は遵法と汚染の予防だそうですが、実際の審査を見ていると質問も回答も形式とか建前という感じが強くて、審査で適合になることが遵法と汚染の予防になるのかと思うとちょっと違うように思えます」 | |||
「実を言いましてね、私はそういう形式的な審査をもっと実のあるものにしたいと思い、審査員になろうと考えたのですよ」
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「それはすごい、著しい環境側面の決め方が点数というのもおかしいなと思っているのです」
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「まあ確かにおかしなところってたくさんありますね。ただですよ、三木さん、ここでは教えられたことを疑うことなくその通り覚えて試験を受けないと合格しません」
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「そのように聞いています。まあ、しょうがありません」
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審査員研修の合格通知がきた。まあ当然という気はしたがうれしくはあった。これで山内取締役に言われた要求は満たした。公害防止管理者は不合格でもいい。あれはプラスアルファだ。 木村はすぐに、卒業証明書を取り寄せ申請書類を書き込んでCEARに審査員補の申請をした。 |
木村は公害防止管理者試験を受けた。試験解答はすぐには公表されないが、受験者がインターネットに正答案をアップし、大勢が吟味するので数日後には自分が何問正解したかは推定できる。試験問題は過去問とほとんど変わらず、対数の計算は大丈夫だったが、法律と公害概論の文章の正誤問題を読み誤りひっかけにやられた。やっちまったなあという感じだ。 12月に来た合否通知のハガキにはしっかり不合格とあった。 |
木村は出向の内示を今か今かと待っていたが山内取締役からも本田からももう半年近く連絡がない。 3月はじめになって、木村に本田から電話が来た。 | |
「木村君? 4月から出向できそうだね」
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「本当ですか?」
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「俺も今は審査員の出向には関わりがないんだけど、今日ナガスネの山内取締役から来週あたり三木さんに話をしにウチに来るという電話をもらった」
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「へえ、三木さん出向が決まったんだ」
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「そうそう、三木さんは公害防止管理者の水質1種と大気1種の二つとも合格した。これはけっこうすごいことだぞ。 木村君はどうだった?」 | |
「いやあ、騒音を受けたんですが・・・ダメでした」
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「アチャー」
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「まさか公害防止管理者が不合格だったら出向がダメってことはないでしょう?」
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「そりゃないけどさ、俺を含めて周りの人は見ているからね、君と比べれば三木さんが際立つ。 前にも言ったけど、今年は長年ISOを担当してきた木村君と、全く素人の三木さんの二人が審査員に出向するわけだ。君が優秀なところを見せないと、今後ISOあがりとか環境管理出身者の口がなくなってしまう」 | |
「すみません、今年もう一度受験します」
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「来年頑張るよりも、認証機関で審査員としての力量を見せてほしいね。 話は戻るけどさ、山内さんが来たとき、三木さんと木村君と飲みたいと言っていた。もちろん正式にはウチの人事からお宅の会社に連絡するだろうけど、早めに知らせた方が木村君も安心するかと思ってね」 | |
「それはありがとうございます。正直ホッとしました。長年、今の会社に転籍しろと言われたり、まあ、いろいろありましたので」
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「木村君は審査員になるのを自分で選んだんだから頑張ってくれよ。帰りの切符はないからね」
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電話を切ったあと、木村はニヤニヤしてしまった。やっと念願の審査員になれる。審査員になりたいと思ったのはもう5年も前のことだ。審査員になったら、思い通りの審査をして、コンサルもして、ウハウハだなとまた顔がほころぶ 5年前審査員になりたいと思ったとき、自分は傲慢無礼なふるまいをしないぞ、おかしな規格解釈をしないぞ、お土産やホテル代などたかるようなことをしないぞ、範を垂れる審査員になろうと思っていたが、今の木村にはそのような気持ちは全くなかった。 |