「江戸と現代 0と10万キロカロリーの世界」

2017.07.10
お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからとりあげた本の内容について知りたいという方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。

書名著者出版社ISBN初版価格
江戸と現代
0と10万キロカロリーの世界
石川英輔講談社40621347482006.06.291800円

予約していた本がそろったと図書館からメールが来たので、受け取りに行った。毎日通っているフィットネスクラブから歩いて10分、そんなに遠回りしたわけではないが、わざわざ行ったのだからと予約した本を受け取ってから環境関連の書架をさまよった。
本棚を眺めても背表紙しか見えません。目に入る情報は書名と図書館が貼り付けたラベルだけ。ほとんどの場合、著者名も見えない。まあそんなのを眺めるのも楽しみではあります。

そして背表紙を眺めていてこの本に気がついた。
というのはなぜかラベルの分類番号が「382」なのに環境の棚にあるのだ。図書館では日本十進分類法という区分けで本に番号を付けて、その番号順に書架に並んでいる。
ところがこの本の分類が「382」なのになぜか環境の「519」の並びに置いてあったのだ。ちなみに「382」は風俗、民俗です。
雉も鳴かずば撃たれまいといいますが、他と違えば人目を引きます。いやそんなたいそうなことではなく、アレッと思ったからこの本を手に取ってパラパラと見たわけです。
発行が10年以上前、だいぶ古い本です。
ともかく環境に関するものでかつ読んだことがない本でしたので、借りることにしました。一期一会と言いますし、偶然に出会った本から大きな天恵を得ることもあるでしょう。まあそんなことがないのが9割ですけど

タイトルから想像できるように、江戸時代は一人が一日につかうエネルギーが0カロリーだったのに、21世紀の日本人は10万キロカロリー消費していると語る本であった。いや単に語るのではなく、おぬし達は滅亡へまっしぐらだぞと脅迫しているようです。

ところで10万キロカロリーといわれてもどんなものかピンとこない。すごいのかすごくないのか、美味しいのか不味いのか。まあそう銘打つからには怖いぞ大変なことになるぞと読者に脅かそうとしているのでしょうけど。

ここで誤解のないようにコメントしておくが、著者が一人1日10万キロカロリーというのは家庭での消費だけでなく、企業、交通機関、インフラなど国内のエネルギー消費すべてを国民の数で割ったものである。家庭以外も含めたのは、電車が走り放送局がくだらない番組を流しコンビニが開いてないと我々の暮らしが成り立たないからでしょう。
家庭で消費するエネルギーは日本全体の4分の1ですから、一人当たり2万5千キロカロリーとなる。

ところで10万キロカロリーとはいったいどんなものなのだろうか?
ヤカン この本では摂氏0℃の水1トンを沸騰させるのに10万キロカロリー必要で、現代の日本人が一日に消費するエネルギーと大体同じという。
しかしながら1トンの水を沸騰させると言われても、身近なことではなく全然ピンとこない。少しも判りやすくなっていない。もっと分かりやすく言うとどうなのか?
1キロカロリーは0.001kWhだから10万キロカロリーは100kWhになる。でも普通の家庭で消費している電力量は4人家族で1日18.5kWhだそうだ。

4人分なら400kWhになるはずだが、それと18.5kWhの差はなにかとなるが、嘘とか間違っているわけではない。前述したように日本のエネルギーの半分は事業活動で、四半分が輸送、残りの四半分が家庭となっている。だから4人家庭での顕在的エネルギー消費は40万キロカロリーではなく、その4分の1で1日100kWhになる。
エネルギーの用途内訳は照明35%、給湯用31%、暖房用24%、厨房用8%、冷房用2%だから全国的には風呂、厨房、空調に石油やガスを使っているということだろう。
それと家庭の電力量計以外にも電気を使っている。私のマンションではエレベーターや共有エリアの照明、空調、自動ドア、警報装置などを各家庭に割り振ると、家庭の電気使用量の20%以上になる。
車を保有している家庭も多い。自動車は100馬力とか150馬力とかカタログにあるけど、普通は30馬力くらいで走っている。(普通走っているときの回転数はタコメーターを見ればわかるし、そのときのトルクはメーカーカタログに書いてある。そして回転数×トルクが馬力となる。)1馬力は735Wだから30馬力は22kW。毎日1時間走るとして22kWh、一人当たりではこの4分の1になる。
積み上げると矛盾というか誤差が集積するところも多々あるだろうが、総量としては一人10万キロカロリー使っていることは間違いない。

さて現在の私たちが、どんなことにいかほどエネルギーを使っているかということは確認した。では私たちが使うエネルギーは過去からどのように推移してきたのだろう。
図は「日本の一次エネルギー供給の長期推移」である。

エネルギー使用量推移

おっと、この本は10年前だからデータが古いのではないかという声がありそうだ。だが上図からわかるように日本はバブル崩壊後エネルギー消費はほとんど増えていない。だからその懸念はない。

江戸時代から一部では石炭とか石油が使われていたが微々たるもので、主たるものは水力、牛馬、人力だけであった。著者は動物や人間は化石燃料を使わないからゼロカロリーとみなしている。

注: 厳密に考えるとこれは正しくはない。温室栽培では再生可能エネルギーだけではない。そしてそれは江戸時代からあったのだ。まあ大きな割合ではなかったが。
ちなみに現在の農業は石油がないと成り立たない。ある意味、石油エネルギーは食えないので、石油エネルギーを有機エネルギーに変換しているとみなすこともできる。残念ながらその変換効率は非常に低い。
そのことからいっても著者石川センセイの論は破綻していると思える。

著者は江戸時代のほぼゼロから10万キロカロリーまで150年というあっという間に増加してしまったことを嘆き、生活を見直して消費エネルギーを減らそうという。しかし江戸時代までさかのぼらなくても、昭和30年頃のレベルにすればいいのだという。
本当だろうか?
ところでなぜ嘆くのか? 誇りと思ってもおかしくない

私の考えを旗幟鮮明にしておく。
まず私は著者の考えに同意できない。
そもそもエネルギー消費を減らすならその理由を明確にすべきであり、その目的を示す必要がある。エネルギー資源の持続可能を図るなら昭和30年であっても持続可能ではない。トトロの時代の帰れば大丈夫なわけではない。著者は10万キロカロリーは壊滅的だけど、1万キロカロリー(昭和30年)は妥協できると考えているようだ。その理由は不明である。
それから人間の生活は欲求の従属変数であり、いかなるレベルにおいても停止できない。著者はさかんに昭和の生まれだ、戦前の生まれだ、オレは文明の利器がない時代から暮らしているから、そんなものなくても大丈夫と語っているが、ホンマカイナ?

持続可能社会を実現しようと語る人は多い。いや最近はそう語らないとテロリストとか人種差別のように反社会的とみなされるようである。よろしい、私は反社会的人物で結構である。言いたいことを言おう。
大前提から考える。
人間が増えその生活水準が向上していることにより、エネルギーや資源を消費し廃棄物を出し、それだけでなく二酸化炭素を放出して地球のアローアンス(許容量)を超えてしまっているという事実は共通認識だろう。
じゃあ人口を減らすとか消費するエネルギーを減らすことが対策になるだろうが、そんなこと可能と思うならおかしい。できないと考えるのが常識だろう。
私が子供のとき家にあった電気製品と言えば照明の白熱電球だけだった。蛍光灯もない、ラジオもなかった。それが私の生きていた昭和20年代である。
著者石川氏が俺は戦前生まれで家電品がなくても大丈夫と言っているが、彼は都会に住み金持ちだったから私より15歳も上だけど、私以上の電化生活、文化生活を送っていた。だから彼の認識の電化される前の生活は私の子供時代よりもはるかに現代的であり電気製品があふれ生活レベルが上だ。
さて、彼の子供時代の生活水準は持続可能であったのかといえば、持続可能であるはずがない。持続可能というなら0カロリー社会でなければならない。
1かゼロかというとき、10万はだめで1万はOKという発想はない。まあ資源枯渇という尺度で考えれば、百年後に死刑執行されるか、千年後に死刑執行されるかくらいの違いはあるだろう。でも死刑が執行されることは間違いない。もっとも百年後はもしかしたら生きているかもしれないが、千年後には間違いなく死んでいるから心配しなくてもよいと考えているのかもしれない。
それならそれは老人の独善だろう

もうひとつ大きな問題がある。
昭和30年に戻ろうということが可能か?
昭和30年は私が小学2年くらいだった。学校まで4キロあった。バスなんて走っていない。子供の足では1時間かかった。新興住宅地と言えば聞こえがいいが、引揚者住宅は開墾地にあり、そこから街の小学校までゾロゾロと歩いた。5年間通った。5年も経つと国も自治体も少しは豊かになったのか2キロくらいのところに新しい小学校ができた。みんな喜んだが、片道2キロは近くはない。
私が子供の時はみんなが貧しかったし、社会インフラがプアだった。水道は長屋に1か所蛇口が5つ6つあった。長屋の奥さん方は朝からそこに行って洗濯をし、桶に水をくんできて炊事をした。風呂屋は2キロくらい離れたところにあった。
引揚者住宅というくらいだから建物が安普請もいいところ。屋根は杉の皮で、窓や引き戸は直角がでていなくて隙間があった。天井はない。見上げると屋根裏が見える。もっともそのおかげでネズミはいなかった。少し豊かになると借家ではあったがみな大家に断りなく天井をつけた。するとネズミが住み着いた。間取りは6畳と4畳半の二間に便所があり、水道のない台所があった。それがすべてである。
武士は食わねどとは
カッコつけてんじゃなくて
食えないからだよ

侍じゃあ
我が家は7人家族でそこに住んでいた。冬になると窓とか戸口の隙間から雪が盛大に吹き込んだ。母は12月生まれの私が赤ちゃんのとき顔に雪が積もってかわいそうだったとよく言っていた。
暖房は木炭のこたつがひとつ、それに7人が入った。著者の石川氏は戦争時は物資が乏しくしもやけになったと書いているが、冗談じゃない。私は小学校のとき足袋も履かず素足で下駄で通学した。学校に行ってからしもやけがかゆくて、アカギレが痛くて辛かった。中学に入った頃にゴム長を買ってもらった。それでも毎年しもやけになった。石川氏がいかに庶民とかけ離れた豊かな生活をしていたかがよく分かる。
当時だって熱帯夜はあった。暑いときはパンツ一丁で戸を開けて寝た。ほかにしようがない。よく昔のドラマで、井戸水にトマトやスイカを冷やしておく風景が映るが、我が家ではそんなことはなかった。トマトはぜいたく品、スイカもぜいたく品、年に1度食べるくらいなものだ。私が風邪で寝込んだ時、トマト1個食べたのが思い出にある。それはすごいごちそうだった。
私が生まれたとき既に電気はきていたが、電気製品は裸電球が数個あっただけ。ラジオもない、扇風機もない、電気で動くものが全くなかった。
石川氏の家庭にはラジオもあり、電蓄もあり、早くから冷蔵庫もあったという。彼は昭和30年の庶民の暮らしを知らないのだ。

さて、そういうことを踏まえると、昭和30年の生活に戻ろうという発想はどうでしょう?
まず通用しないでしょうね。石川氏の考える昭和30年の暮しは、私にとって昭和40年の暮らしであるということは置いといて、なぜ時代が下るにつれて人々の暮らしが豊かに贅沢になってきたかという根本を認識していないからだ。もっとも石川氏がそれを認識していたら、この本は書かなかっただろう。いや書けなかっただろう。要するにこの本は無知の産物である。
なぜ昭和30年にラジオがなかった我が家が昭和35年にラジオを買ったか、昭和43年に木炭のこたつから電気こたつにしたかといえば、豊かな暮らし、楽な暮らしをしたかった、しもやけになりたくなかったからだ。
人はより良い暮らしをしたいという欲求を抑えることができない。それは悪いことではない。人間が人間であるのは、ひとえにその向上心、欲求のおかげである。
過去にそれを抑えたのは独裁体制だけ。だけど人間の欲求を制限したすべての体制は崩壊した。いや今現時点の抑圧体制も崩壊することは間違いない。イスラムの原理主義、中国の情報管理、北朝鮮の奴隷制度、すべては崩壊していくだろう。もちろん今後も抑圧する権力は現れるだろうが、永続しないことは賭けてもよい。
石川センセイは己は昭和40年代の暮らしをして、他人には昭和30年の暮らしをさせようとするならそれはわがまま、ジャイアニズムというべきかもしれない。

書籍のカテゴリーは図書館で決めるらしい。この本が環境でなく民族・風俗の分類にしたのは図書館の司書なのだが、これは学問的でなく環境分類には入らないと考えたなら、それは正しい判断であった。いや、文学・ファンタジーのカテゴリーにすべきだったのかもしれないが。

石川センセイはこの本に限らず、「大江戸神仙シリーズ」でも、江戸時代をほめたたえる記述が多い。
きっと石川氏は汲み取り便所で、寄生虫やごみの多い神田上水を使い、お住いの中野から神田に行くにも歩いていく生活が楽しくてならないのだろう。
私は就職したとき会社の先輩から、将来どんな暮らしをしたいか聞かれたことがある。そのときは迷いなく次を条件に語った。
こたつでない暖房があること、水洗便所であること、自宅が幅4mの道路に面していること、舗装ならなおよし、その程度の望みだった。そしてそれは昭和40年代には夢だったのである。私がそれらすべてがかなった所に住めたのは、はっきり覚えているが1995年であった。多分石川センセイは私にとって夢の暮らしをそれより30年以上前に達成していただろう。恨めしいことである。
坂本龍一が太陽光パネルの電気で
演奏するコマーシャルがありました。
雨の日や夜は演奏するなよ

坂本龍一
坂本龍一は原発が嫌いだそうだ。
電気を使わない暮らしをしてから
言ってほしい。
私は江戸時代に住むか死ぬかと問われたら、江戸時代に住むしかないだろうけど、住みたくないことは事実である。

この著者の「大江戸神仙シリーズ」も読んでいる。
一口で言うと意識高い系()というべきか、繰り言語る爺さんとみるべきか、年寄りの妄想というべきか。美味しんぼの雁屋哲や、反原発の坂本龍一と同様に、お近づきにはなりたくない人物である。
自分が原発の電気を使い、世界中から運ばれた食べ物を食べ、毎日シャンプーをして、世迷いごとを語る人は好きになれない。
最後に憎まれ口を言わせてもらうと、かっこいいことを言っても意味がない。発現するなら整合性のある建設的なことを言ってほしいね、

老人ドライバー 本日の推理
なぜ民族・風俗カテゴリーの本が環境の棚にあったのだろうか?
ちょっと頭に浮かぶのは、誰かがまず民族カテゴリーでこの本を見かけて借りようとして手に取り、そのあとに環境の棚に来て他の本を見ているうちに誤ってこの本を棚に置いてしまったということが考えられる。あるいは借りる気が失せて元の棚に戻すのがめんどくさいとこの棚に置いていったのかもしれない。
はたして真相はどうなのだろうか?

おっと、本の内容はお勧めしませんが、おかしな人がいるものだということを認識するためには一読すべきかもしれません。


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