異世界審査員10.紛争勃発

17.07.31

*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。

異世界審査員物語とは

人間どれくらいの金額なら悪事を働くものだろうか?
私は金が欲しいなんて思ったことはない。だって1万なら財布にあるし、10万なら家内におねだりする、100万なら諦める、消費者金融からお金を借りたら返せるはずがない。よって盗むほどお金が必要ということがない。
お金はだいじだ そもそも私の場合、欲しいものが思い浮かばない。家はある、車はいらない、本は図書館から借りる、パソコンは5年おきくらいに買うが、日割りにすればたかがしれる。退職後バイクを買おうかと思ったこともあるが、家内から歳なんだから事故って人迷惑になると言われて止めた。自分が死ぬだけならまだしも、若い人を巻き込んでは犯罪だ。
そりゃ自由に使える金があればドバイにでも南米にでも遊びに行けるだろう。でも日々近場を歩き回り、年に数回国内バスツアーができて、数年に一度ハワイとかグアムに行けたらそれ以上欲しがるのは罰が当たるというものだ。
オイ、お前は毎回ジャンボ宝くじを買っているだろうなんて言ってはいけない。あれは納税のつもりだよ。
実際、私は44年の会社人生で横領なんてしたことはない。会社の物を持ち帰ったということもない。せいぜい旅費精算で定期券区間を計上したくらいだろう(故意ではなく過失だ)。
定期券と言えば、会社から定期券を受け取りそれを換金し、他人の車に便乗通勤していて懲戒になった同僚がいた。これは単なる就業規則違反ではなく、徒歩や電車によって通勤手当の非課税限度額が違うとかで脱税になるらしい。それで会社もほっとけないとのこと。そういう行為は横領とか詐欺になると書いてあるウェブサイトもあったが、正しいかどうかわからなかった。某調査によると定期券申請者の1%はこの類似行為をしているようで珍しくはないらしい。一斉取り調べがあれば大恐慌が起きそうだ(注1)
ともあれ私はそういう悪事もしたことはない。
きゅうり 子供のときはどうかと振り返ると、子供の時からネコババも窃盗もしたことがない。もちろん小学校のとき、近所の畑からトマトやキュウリを取って食べたりした。当時はそういう行為は、愉快犯ではなく食うものがないから切実だった。だから農家の人もあまり目くじら立てたりしなかった。だけど当時としては高級果物であるリンゴやブドウを盗んだ子供は、農家の人に捕まえられて自宅まで引きずられ親が謝り弁償することになった。

私の周りで悪事を働いた人がいたかと言えば、いた。塗料屋と組んで塗料を買ったことにしてカラ伝票を切り、山分けして捕まった社員がいた。もう40年も前だが当時のお金でその額数百万と聞いた。それくらい儲かるなら悪い事をするのだろうか?
見つからないなら悪事を働くのか? それなら悪事を働くために監視されないあるいは監視が甘い職場に異動することを望むものか?
うーん、やはりそこには義務論と目的論、あるいは費用対効果、いや儲け対罰則という損益計算があるのだろう。

翌日である。伊丹がいつも通りに始業前1時間に出社して仕事をしていると、ほどなく工藤番頭が出社してきた。そして始業10分前に吉本社長と石田マネジャーが一緒に出勤してきた。とりあえず挨拶だけする。
定時になりチャイムが鳴る。
吉本社長が三人に声をかけて会議室に移る。

吉本取締役
「ええとこの会社も紆余曲折があったが、なんとか日銭を稼げるようになった。これからは一層の発展を目指していきたい。既に個人個人には話をしたが、今日から石田君が参加する。
今まで伊丹君のしていた仕事を石田君に担当してもらう。まず大手ゼネコンへの指導と砲兵工廠からの要請に対応してもらう。今日は砲兵工廠に私と石田君が挨拶だ。向こうから声がかかった話なので先行きを期待している。
工藤君は町工場の指導要請をまとめてください。そして伊丹君と二人で営業活動をして売り上げに結び付けてほしい」

吉本社長が一方的に話して終わろうとする。工藤と伊丹が議題提案しようとしても話を聞かず、吉本は石田と出かけてしまった。南条さんの話では人力車を2台呼んで砲兵工廠に行ったという(注2)
伊丹と工藤は苦い顔を見合わせた。
まあしょうがない、帰ってきたら必ず話をつけよう。二人は机上整理をしてから指導要請のあった中小企業を回ることにした。


1時間ほど経ったとき、電話が鳴った。
南条さん
「はい、新世界技術事務所でございます。伊丹でございますね、お待ちください。
伊丹さん、お電話です。藤田中尉とおっしゃる方です」
伊丹審査員
「ハイ、伊丹に代わりました。いつもお世話になっております」
藤田中尉
「伊丹さん、木越少佐が怒っちゃって、大変なんだよ」
伊丹審査員
「はあ?なんのことでしょう?」
藤田中尉
「先ほどまでお宅の社長が来てましてね、なんだか伊丹さんがうちの砲兵工廠の仕事をしたくないというので、代わりの専門家に担当させるのでよろしくという挨拶だった。
対応した木越少佐は始めそれは仕方がないと納得したんですが、紹介された石田さんと話をしていて、改善とか品質保証について詳しくないので木越少佐がお前ではダメだ、帰れとなったわけですよ」
伊丹審査員
「それは大変申し訳ありません。実を申しましてそういったことを全く存じ上げませんで」
藤田中尉
「自分も藤田さんと半年近く一緒に働いていて、伊丹さんが一緒に仕事したくないと言うなんて水臭いなあと思っていたのですよ。そういうことありませんよね」
伊丹審査員
「まったく身に覚えのないことです。それで二人は帰ったのでしょうか?」
藤田中尉
「ええ、木越少佐に蹴飛ばされて、文字通りお尻を蹴飛ばされてましたよ。ほんとにもうエライ騒ぎでした。
それでね、木越少佐が伊丹さん本人の口から工廠の仕事をどう考えているのか聞きたいということで、電話した次第です。伊丹さんの口から少佐に意思を伝えていただけますか」

技術を知らん技師なぞ
いらん、出ていけ

木越少佐

木越少佐である
伊丹審査員
「それは大変申し訳ございません。しかしながら私も全くいきさつが分かりませんので、社長がこちらに戻って話を聞いてからにしたいのですが、よろしいでしょうか。
何分、藤田中尉殿のお話は寝耳に水のことでして、社長から説明を聞かねば分けがわかりません。まだ午前中ですから午後には戻ると思います」
藤田中尉
「わかりました。木越少佐は怒ると怖いんですよ。とりあえず話し合いの結果がでたら電話いただけますか」
伊丹審査員
「承知しました」

伊丹審査員
「南条さん、社長の予定は砲兵工廠だけでしたか? ほかにも行く予定がありましたかね?」
南条さん
「大手町の建設会社に行くことになっています」
伊丹審査員
「うわー、それじゃ帰りは遅くなるの!」
工藤番頭
「大声だったので話は大体聞こえましたが、工廠の方も急ぐこともないでしょう。どちらにしても社長と話をしなければ顔出しできないでしょうし。
とりあえず今日のお客さん廻りは止めて、腰を落ち着けて考えましょうや」
伊丹審査員
「ゼネコンに行ったということはガントチャートの売り込みということですか」
工藤番頭
「そんなところでしょう。
ともかく二人が戻ってからですね。それまで伊丹さんと相談したいのです。
南条さん、社長が帰ってきたら私にすぐに連絡ください」

工藤は伊丹を会議室に連れていく。
工藤番頭
「伊丹さん、実は別の問題もあるのですよ。単刀直入に言いますと、社長は会社の金を横領しているようです。砲兵工廠の仕事が入ってから、毎月伊丹さんの嘱託雇用の収入がありました。あれは砲兵工廠と伊丹さん個人の契約ではなく、ウチからの派遣契約で、そのお金はこちらに振り込まれています。ところが派遣契約料は入金として計上されていないのです。わずかに非常勤のコンサル料として月2両程度計上しています」
伊丹審査員
「おかしいなあ〜、私は藤田中尉から月5両いくらと聞いてました。
それじゃ藤田中尉に向こうの支払い記録でもいただきましょう。
それと今日は無理としても明日でも向こうの会社に行って、こちらの決算報告がどうなのか調べてみます」
工藤番頭
「ぜひお願いします。伊丹さんや石田さんの問題とは別に、これは大きな問題になりそうです」


昼飯を食べ、午後になっても社長と石田の二人は戻ってこない。
工廠の藤田中尉には、今日は社長と連絡がつかないので対応は明日以降にさせてくれとお詫びの電話をする。

遅い遅いと工藤と伊丹が気をもんでいると、4時過ぎに社長と石田が帰ってきた。
工藤と伊丹を会議室に集めた。
社長はなぜか上機嫌だ。

吉本取締役
「いや四井建設では大歓迎されたよ。向こうの要求はいろいろあったが、結果として話は付いた。石田君、説明してください」
石田マネジャー
「工事日程計画作成方法については、まず論文にまとめ、我社と四井建設の共同で発表する。またこの方式について本を書いてこれも共著として出すことになった」
工藤番頭
「ハア? それってどういうことですか?」
吉本取締役
「我社は名を捨てて身を取るということだ。これで大金が入る。それで論文と本の方だが伊丹君、早急にまとめてほしい」
伊丹審査員
「なるほど、そして私には名も実も捨てろというわけですか」
吉本取締役
「何を言っているのか、我社の危機を救うのはこの方法しかない」
工藤番頭
「危機とおっしゃいますが、既に危機は脱したと思います」
吉本取締役
「ところがそうではない。本日、砲兵工廠にいったところ、向こうの木越少佐は今回の工事での伊丹君にいたくご不満であった。それで今後、我社とは取引はしないと言明された。
元々、工廠の嘱託派遣のお金は微々たるもので、過去半年収支は真っ赤だ。
双方とも伊丹君の責任だぞ」
伊丹審査員
「ちょっと待ってください。今の言葉は本当ですか?」
吉本取締役
「ワシは嘘を言わん」
伊丹審査員
「実は社長不在のとき、砲兵工廠の藤田中尉から電話がありまして、私直々に先方に出向いて今回のいきさつを説明しろということでした」

社長は一瞬ムッとした顔をしたがすぐに
吉本取締役
「藤田中尉が何を言ったか知らんが、木越少佐からはそう言われた。あのようなことを言われては、向こうが考えを変えて謝ってもウチはあそこの仕事なんぞしない。
当然こちらから改めて説明に行くことはない」

工藤と伊丹はヤレヤレと顔を見合わせた。
会議は終了し、伊丹と藤田は小部屋に引っ込んだ。
工藤番頭
「なにがなんだかわからん、狂ったのか、社長の暴走は止まりそうないね」
伊丹審査員
「もうここまできたら、もう社長の好き勝手にさせるわけにはいきません。
爆弾をしかけたらいけませんか?」
工藤番頭
「危ないことはしないでくださいよ。一応戸籍とかは手を打っていますが、警察沙汰になれば徹底的に調べられボロが出るかもしれません」
伊丹審査員
「いえ、そんな馬鹿なことではないです。練兵場の工事計画については既に論文にまとめているのです。ゆくゆく石川棟梁や藤田中尉との連名で世に出したいと考えていましたので、
しかし社長があれを石田さんの手柄にするとか四井建設に売るつもりなら、その前に発表したいですね。藤田中尉の手柄にしたらどうでしょう。ありていに言えば今後、藤田中尉と長い付き合いになると思います。彼の昇進を見越して恩を売っておいた方がよろしいでしょう」
工藤番頭
「伊丹さんも策士ですね。でも私も賛成ですよ。具体的には?」
伊丹審査員
「藤田さんは皇国大学出というので、そちらから論文を公にしてもらえば、ゼネコンへの売り込みはパーになるでしょう。私は存じませんが、皇国大学の権威はあるんでしょう?」
工藤番頭
「アハハハハ、売り込もうとしたものが実は他人の功績だったというわけですか。
確かに皇国大学で論文が認められれば最高の権威付けでしょう。四井建設にも皇国大出は多いから、それが知られれば吉本社長は信用なくしますよ」
伊丹審査員
「それじゃ、実施事項をまとめますね。
私のすることとしては、藤田中尉への依頼はふたつ、
ひとつは、論文の件を藤田中尉に話をする。その前に石川棟梁に了解を得ておきましょう。なるたけ早く論文をおおやけにしてもらいます。
もうひとつは当社との契約書の写しと支払い明細の提供願い。これは今日行ってきます。
明日は向こうの会社に顔を出してからこちらに出社します。本来、月に一度は顔を出すことになっているのですが、私は最初の1回行っただけです。経理の報告書とか手に入れてきましょう」
工藤番頭
「俺はこちら側の金の流れを調べる。ここだけでは分からないので一族の長に会って話をしてこよう。今日の首尾は明日確認だ。よし、行動開始」


2010年代、東京の山手線内の移動なら、近くなら歩き、遠ければ地下鉄かタクシーということになる。だが1910年頃の扶桑国東京府では地下鉄もなければタクシーもない。
鉄道馬車 公共交通機関としては20年ほど前から鉄道馬車というものがあった。ちょうど今それが路面電車に代わりつつある時期であった。とはいえ鉄道馬車も路面電車も今の地下鉄やバスのように、山手線内を網羅していたわけではない。新橋から浅草を結んでいる程度である。結局多くの場合は歩くという選択しかなかった。
歩きたくないなら人力車ということになる。実は伊丹は人力車が苦手だ。向こうの世界にいたとき、鎌倉で観光の人力車に酔ってしまったことがあり、トラウマになってしまったのだ。

そんなわけで伊丹は石川棟梁がいると聞いた建築現場まで30分ほど歩く。
江戸時代でなくても昔の人は足腰が強かったんだと実感する。伊丹が木越少佐よりも背が10センチ高くても、体力ではかなわないだろうと思う。
大工の棟梁
「おお、伊丹さんじゃねーか、久しぶりだな」
伊丹審査員
「お久しぶりです。今日はお願いがありまして」
大工の棟梁
「なんだい、借金以外なら相談に乗るぜ」
伊丹審査員
「この間の練兵場の工事の際に、立派な木製の工事日程を作りましたね」
大工の棟梁
「ああ、あれは俺にとっても記念すべきものになったよ」
伊丹審査員
「あれを論文にまとめて学会に発表したいと考えております」
大工の棟梁
「ほう、すごいじゃねーか」
伊丹審査員
「ついてはその名前を藤田中尉としてよろしいでしょうか。あっ、誤解なされないように申し上げておきますが、あの日程の立案や検討に石川さんが参加したことは文中に記載します。論文の作成者を藤田中尉にするということです」
大工の棟梁
「おお、いいじゃねーか、藤田中尉も一層名を挙げてくれればうれしいし、偉くなってまた仕事を出してくれればもっと嬉しいよ」
伊丹審査員
「ありがとうございます。そいじゃ同意したということでこの書類に署名していただけますでしょうか。
それと石川さん以外でお名前を上げなくてはならないという方はいるでしょうか?」
大工の棟梁
「ほい、名前は書いたぜ。ほかのメンバーは俺たちが方法を決めてから話を持っていったわけで、そういう義理のある奴はいないな。オット、伊丹さんがいる」
伊丹審査員
「私の名前は載せないことにしました。それではありがとうございました。ご安全に」
大工の棟梁
「伊丹さんも、ご安全に」

伊丹はその足で砲兵工廠の藤田中尉を訪ねる。
藤田中尉
「これはこれは伊丹さん、木越少佐は今会議中です。どうしましょうか」
伊丹審査員
「いえ、これは別件です。といっても関連しているのですがね。ちょっとナイショ話なのですが」
藤田は小さな会議室に案内する。

伊丹審査員
「時間がないので要点だけ言います。今回の練兵場建設の際の日程計画について論文をまとめました。それを藤田中尉殿が皇国大学で講演するか、紀要への掲載を申請してもらいたのです。あるいは工学博士の申請をされてもいいのですが、さすがそこまでは無理かもしれません。老婆心ですが工廠長の推薦文をいただければ間違いないと思うのです」
藤田中尉
「はあ? あのアイデアは伊丹さんで、実物を作ったのは石川さんですよ」
伊丹審査員
「石川さんの名は論文の中で記載しています。私は名を載せないことにします。
藤田さんがこの論文を書いたという実績を作りたいのです。実を言ってこのアイデアの先着争いなのです」
藤田中尉
「ちょっと見せていただけますか・・
おお!これは印刷ですか、立派なものですね。いったいどうやって」

藤田中尉は伊丹がワープロソフトで書きプリントアウトした論文を見て驚いた。こちらの世界では活字印刷した書籍以外はすべて手書きだ。(注3)

伊丹審査員
「そうか、論文は手書きでないとまずかったですか。それじゃ申し訳ありませんが、それを藤田中尉が手書きしてくれませんか」
藤田中尉
「これを読むと、不肖私が考えたことになっている。ほんとのところを言えばアイデア段階では私は参画していないのですが」
伊丹審査員
「実を言いまして私は目立ちたくないのです。石川さんには了解を取りました。先ほど言いましたように先着争いになっているので急ぐのです。もし他人にこれについての論文を先に出されてしまうと、名誉を横取りされてしまいます。そしてそれで大金を稼ごうとする人がいるのです」

藤田中尉は斜め45度を見上げ目玉をキョロキョロさせる。そして口を開いて「アッ」と小さな声を出した。伊丹の言葉の裏をわかったのだろう。

藤田中尉
「なるほど、そういうわけですか。了解しました。
60ページか、早急に、そうですね三日くらいで大学の指導教官に出して紀要に載せてもらうようにします。工廠長の推薦文については、今回の練兵場の件をお褒めいただいたので間違いなく頂けるでしょう」

藤田中尉の論文が、英訳も添付されて紀要に掲載されたのはその2か月後である。
1年後、アメリカでヘンリー・ガントがその論文を読みいたく感心したと伝えられている。もし伊丹がいなければガントがそれを書くはずだった。
もっとも伊丹は単なるガントチャートに止まらず、コストを含めたもの、図形の描き方を工夫して仕事量に面積を比例させる方式や、クリティカルパスの解説とその取り扱いも盛り込んだ。
更にPERTについても章を設けていた。だからガントがそれを見ても、自分のアイデアを盗まれたと思うはずもなく自分よりも先進的のアイデアだと感じたに違いない。
やがてそれは世界中で多くの人に活用され"フジタチャート"と呼ばれた。後年、扶桑経済連盟から扶桑国産業に貢献したとして藤田中尉(そのときは退役将官であった)が表彰されるのだが、それはまた別の話。


福山取締役
福山取締役
翌朝、伊丹はどうせ机もないことだからと、始業時より1時間ほど遅くに元の世界の新世界認証に出社した。昨夜、伊丹の元の勤め先から新世界認証に来ている福山取締役と会う約束をとっていた。
約束の時間まで、審査に出掛けていない同僚に挨拶と近況を聞いて時間をつぶす。

約束した時間に福山の席に出向くと、福山取締役は書類ファイルを一つつかんで会議室に連れて行く。苦虫を噛み潰したような顔をしている
伊丹審査員
「ご無沙汰しております。定期報告は入れておりますが」
福山取締役
「いや、お前からは何も来てないぞ。吉本取締役から週報があるだけだ」
伊丹審査員
「そうしますと私の日常業務をご存じないのですか?」
福山取締役
「いやいや、いろいろと吉本取締役から来ている。
お前、なんだ!業務怠慢とか吉本取締役の指示に従わないとか、俺の顔は丸つぶれだ」

伊丹はなにがなんだかわからない。
福山取締役
「これを見ろ、吉本取締役からの週報のファイルだ。
いかに吉本取締役と石田君が頑張っているか、伊丹がダメかってことがてんこ盛りだ」

伊丹は最近の週報を見る。そこには練兵場建設の現場監督が石田マネジャーとなっている。そして下の方に伊丹が怠慢で仕事をせずに困っているとある。これはいったいなんなんだ!
別の週報を見ても似たようなことが繰り返し書かれていた。他に気が付いたのは入ってきている金額がかなり少ない。軍との契約で毎月現地のお金で5両20文入ってきているはずだ。しかし週報には2両10文とある。これは工藤番頭が言っていたことだな。
伊丹審査員
「この週報はまったく事実無根です。吉本取締役の報告は事実と違います」
福山取締役
「俺もお前を知っているから、こんなことはないだろうと思っている。しかしこの週報が唯一の報告だから、毎週の取締役会は針のむしろだよ」
伊丹審査員
「福山取締役、まず石田マネジャーは初日向こうに行ったものの、それ以降、昨日まであちらに顔を出していません。そしてここに石田さんの活躍として書いてあることはすべて私がしていたことです。練兵場の仕事は私が4か月も現場にいました。
昨日突然半年ぶりに、石田マネジャーが来ました。そして吉本取締役が今まで私がしていた仕事は石田マネジャーが引き継ぐと言うのです」
福山取締役
「伊丹が言うのを信じたいが証拠がない」
伊丹審査員
「それとお金の話ですが、それもおかしいです。毎月2両10文とありますが、実際には5両20文です。1両10万円くらいですから、毎月30万半分以上抜いていますね。抜いたのは吉本取締役しか考えられません」
福山取締役
「いろいろありそうだな。吉本取締役の週報もあまりにも一方的で、何か裏がありそうな気はしていたのだが、
経理に向こうの開業以来の金に係る書類一式のコピーを用意させる。向こうの帳簿と照らし合わせておかしなところを見つけろ。それから石田が向こうで働いていないという証拠も欲しい。
大至急だ、半月以内に証拠を見つけないとまずいな。
こちらではお前のことが大問題になっている。それでも今まではお前には困ったものだという話だったのだが、先週、吉本取締役が来て、お前をすぐにこちらに返したいといい、社長は吉本取締役の話を信じていて、お前がこちらに戻り次第、出向元に返すつもりだ」

練兵場の仕事が終わったので、もう伊丹は不要だと考えたのだろう。それどころか工廠とか建設会社とか伊丹がいるとばれる恐れがあるからだ。
伊丹審査員
「分かりました。早急に調査して報告します。私の名誉のために」
福山取締役
「頼むぞ、俺の名誉のためにも、出身会社の名誉のためにも」


伊丹はすぐに内幸町の駅を経由して新世界技術事務所に出社した。
会社には工藤と南条しかいない。
伊丹審査員
「南条さん、おはようございます。社長と石田さんは?」
南条さん
「ちょっと伊丹さん、なにか問題が起きているんですか?
工藤さんは何も教えてくれないし、社長は朝一にものすごい形相で石田さんと一緒に砲兵工廠に行ってしまって、それっきりなのよ」
伊丹審査員
「うーん、私も問題だということは感じてますが、いったい何が起きているのかさっぱり」
南条さん
「伊丹さんもご存じないの! どうなるのかしら」
伊丹審査員
「南条さん、大丈夫ですよ。南条さんが失業することはないから」

伊丹は工藤を会議室に連れていく。
伊丹審査員
「本日朝、向こうに行ってきました。向こうでも問題になっていたのですが、それはこちらの問題とは正反対でした」
工藤番頭
「正反対とは?」
伊丹審査員
「石田さんは一度も休まずにこちらで働いていることになっていました。そして練兵場の仕事は私ではなく石田さんがしたことになっていました。
驚いたことに、私はダメ社員で怠け者で仕事をしていないそうです」
工藤番頭
「はあー、面白い、実に面白い」
伊丹審査員
「本人にとっては面白くありません。
向こうに真実を伝えるために、こちらの実態報告とその証拠が必要です」
工藤番頭
「やりましょう、なにをすればいいのでしょう?」
伊丹審査員
「まず経理の不正があります。社長から向こうに報告されているものを持ってきました。これとこちらの収支と比較して異常を見つけてほしいのです」
工藤番頭
「分かった、それは俺の仕事だ」
伊丹審査員
「それから練兵場の仕事は私がしていたという証拠が必要なのです。どうしたらいいでしょう」
工藤番頭
「それは藤田中尉に就業証明書を書いてもらえばいいでしょう。私から電話をして依頼しましょう。昨日伊丹さんがもらってきた工廠との契約書ですがね、ウチにあるものとは相当違っているのですよ。吉本取締役が細工したんでしょうなあ〜
ともかく伊丹さんが働いていたという書類だけでなく、石田さんとは全く縁がないという文書も作ってもらいましょう。異世界の書面だって向こうで通用するでしょう。
そうそう、今朝、藤田中尉から、論文についてお礼の電話がありました。部下に清書させているそうです。明日にも仕上がるだろうとのことです」
伊丹審査員
「それはよかった。
ええと、それから今までの社内の状況、石田さんの欠勤とか日々の業務を記したものはありませんか。これから作成するとなると大変です」
工藤番頭
「それは南条さんが毎日つけているからそのコピーをとればいい」
伊丹審査員
「コピー? 今この国にはコピー機はないですよね。どうするのです?」
工藤番頭
「南条さんにちょっと向こうのコンビニに行ってきてと言えばいいんです。歩いて10分以内に三つや四つありますよ」
伊丹審査員
「えー そんな反則技アリですか?」
工藤番頭
「気にしない、気にしない。
伊丹さんの緊急の用件はわかった。すぐにまとめるから安心してください。
それよりもさ、今日は朝からおおもめだったよ」
伊丹審査員
「南条さんの話では、社長と石田さんが砲兵工廠に行ったそうですが」
工藤番頭
「木越少佐という人は疑問があると、徹底的に解明しないと気が済まないようです。昨日、伊丹さんに説明に来いと言ったけど伊丹さんが行かないものだから、もとい、本来ならば社長が説明に行かなければならないわけだ。木越少佐もそれで考え直し、今朝早く説明に来いと言ってきたわけよ。
はじめ社長は伊丹さんが来てからとか、俺にも一緒に来いとか言ってたんだが、俺は無視してた。そしたら督促の電話が来て、青い顔して石田さんと二人で行ったよ。どうなるのか、帰ってくるのを楽しみにしている」
伊丹審査員
「工藤さんと話をして少し安心しましたよ。そいじゃ私も社長が戻って来るのを楽しみに待ちましょう。
おっと、私の無実を証明する書類頼みますよ」

うそ800 本日の予想される異議
えっ、社長が悪人だったなんて反則だって? 昔、アガサ・クリスティーが「そして誰もいなくなった」を書いたとき、犯人の設定が反則だと言われたそうです。でもそもそもルールはあったのでしょうか?(注4)
ところで、本日は1,1000字以上とあいなりました。5,000字以下にするという初回のコミットメントは雲散したようで・・・

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注1
判例集でググると定期券の不正取り扱いに関する判決は見当たらなかった。
注2
日本の初めてのタクシーは1912年開業とのこと。この物語の時代にはまだなかった。なお駕籠かごは明治維新以降も残ったが、明治5年(1872)までにほぼ人力車にとって代わられた。
注3
和文タイプが製品化されたのは1915年で、この時はまだない。
写植が発明されたのは1924年、これもまた存在していない。
コピー機がないだけで昔は大変だったろうと思う。ちょっと待てよ、私の子供の頃だって学校ではガリ版しかなかった。プリントゴッコなんて現れたのは1977年、イヤハヤ文明の進歩はとは(以下略
注4
実を言って推理小説には約束とかルールと言われるものが多々ある。とはいえそれが作家を規制するものではないはずだ。コナンドイルだってコロンボ警部だってその他有名どころにもご都合主義、掟破りは多い。要するに面白いか論理的かでしかない。面白くないか非論理的ならそれは論外だ。


外資社員様からお便りを頂きました(2017.07.31)
おばQさま
お話しの急展開に、ワクワクしております。

>社長の不正
これは、意外に多いですね。 前の会社で、出資しているベンチャーのお守りをしていたので、色々な社長を見ております。
体験した中で多いのが元オーナー社長で最大株主。
会社が個人のものである事が習慣になっていますから、経理関連が大変です。
個人的な出費を会社の経費で済ます、経費精算などもいい加減。
株主への利益配分という点ではオーナーであるから文句が言いづらい。。
とは言え、お書きになっているように税金、経理処理上は問題で、放置するとダメ経理体制になりますので、何とかするしかありません。
最後は、出資を辞めるといいう選択になりますが、散々 事前に注意していながら、いざその段になると大騒ぎされた記憶があります。

>どのくらいの金額なら不正するか?
これは金額というより、不正ができてしまった体験が主因と思います。
おばQさまの様に、過去を振り返っても恥じる事なき自己管理ができる人は少ないのです。
小さな金額だろうが、出来てしまうと、次は更に大きな金額になります。
これがバレルまで続き、時にはエスカレートします。
ですから、経理や購買にかかわる部門は要注意なのです。

こういう切っ掛けは、偶然もありますが、借金や小遣いが無いなど、人それぞれの理由があるのだと思います。
結局、こういう不正が起こり得る前提で、監査やチェック体制を作るしかないですね。

お話しの事例ですと、社長だろうが入金には、伝票が必要なはずです。
または、相手は海軍さんならお役人様ですから、当然に記録があるはずです。

入金の際に顧客側の資料は支払い伝票が必須ならば、このような不正は出来ないのです。
(当然 お判りと思うので、以降のネタバレでしたらご容赦を)

>社長として
会社の順法体制を作るには、社長自らが社内規定に服することを周囲に見せるべきなのです。
社長といえども規則の下にあります。
大きな会社の偉い人の不祥事の原因として、役員や社長は別なのだという思い上がりがあるのかもしれませんね。

外資社員様、毎度ご指導ありがとうございます。
実を言いまして私は課長のお仕事をしたことがありません。肩書は課長でも部下なしのフェイク課長でした。
伝票云々ですが、経理も営業も一手にしている社長なら伝票も現金の扱いも自由自在になるのかなと思いました。実際はどうなのでしょうか?
まあ架空の世界のことで、その稼ぎをこちらの世界に持ってくるという魔法を使わなければならないわけで伝票処理、簿記いったいどうするのか想像もつきません。
まあ次回でこれは終わりますから抜けが多くても目をつぶってください。
次回はこの問題の終息、そして次々回から伊丹と工藤と上野陽二が、いかに管理や能率向上を指導するか悩み、そして自分たちが食っていくことに苦しむという本来のお話を始めるつもりです。
吉本取締役の役回りは、伊丹が異世界に来るという状況を作るためだけです。

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