「未来は値するか」

2019.06.17
お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからとりあげた本の内容について知りたいという方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。

書名著者出版社ISBN初版価格
法の臨界(3)
法実践への提言
井上達夫他東京大学出版会97841303503341999/03/303200円

もう10年も前のこと、某大学で環境経営に関する公開講座があったので聴講に行った。当時の職場は繁忙の山谷が激しく、忙しいときは頑張らにゃアカンが暇なときは公聴会や講演会などに行っても良いという雰囲気があった。もちろん仕事がらみのものだが…
いくつかの講演がありひとつは持続可能性(注1)について、いかにそれが素晴らしいか、それを実現しなければならないと大学の先生が力説していた。私から見て老人だったから、当時で60代なかばか後半、とうに退官されていることだろう(注2)
お話の後にご質問受けますというアナウンスがあったので、私は手をあげた。私は落語家ではないが、早いのが取り柄である(注3)そしてどちて坊やである私は、疑問があれば臆することなく質問する。どこでも一人か二人しか手を上げないから間違いなく指名される。しかしある講演会で安井 至は他に質問者がいなかったのに、なぜか私の質問を拒否した。忘れないぞ。
おっと、話を戻す。私は持続可能性とは何年間を想定しているのかと質問した。その先生は「永遠です」という。私は人間が考えられる期間とは、せいぜい数百年か長くても千年程度ではないかと再度質問した。その先生、少しも騒がず「永遠とは永久で終わりがないことだ」とのたまわく。そして私がクレームでも付けているかのように罵られた。イヤハヤ

定年になり嘱託のとき大学院に入り環境マネジメントを考えた……研究と言えるほどのことはしていない。一人の教員が講義で、未来といっても長期と短期があり、環境問題にでは短期の未来しか取り扱えないんじゃないかと話したのを覚えている。長期の未来というのは文学的な意味合いではるかな将来であろうし、短期の未来とは数10年からせいぜい100年程度の政治家が政策として考えられる範囲ではないだろうかという。

太陽である 地球温暖化というのが人類最大の危機らしいが、その真偽は置いといて……
理屈から化石燃料が枯渇したら温暖化は止まるはずだ(注4)もちろん可逆変化の臨界点を超えてポジティブ・フィードバックが起きれば、どんどんと発振(電子回路の意味で)していく可能性はある。しかしそうでなければいつかは平衡状態で安定する。
実際、多くの学者は地球温暖化といっても時代的には今後100年ないし1000年以内における問題であり、それ以降は資源枯渇によって人為的な地球温暖化は止まり、地球が本来持っている周期によって氷河期になるという認識だ。むしろ現在は人為的な地球温暖化によって次の氷河期が始まるのが遅れているという説もある。一瞬にして地球温暖化は悪から正義になるのだから恐ろしい(注5)
まあ、誰もわからないから予防原則(注6)なんてお念仏を持ち出して、触らぬ神に祟りなしを決めているのが現実である。

人類が増えすぎて地球はパンクしてしまう、食料が足りない、人が立つスペースもなくなる、あと100年で地球の人口は100億になる、140億になる、まあ、心配するのが好きな人はそんなことを語っている。 スノーボード いや、頭の良い人は恐怖を語ってお金儲けをしているのだろう。
温暖化、人口爆発、資源枯渇、人類の懸念は、両手両足で足りないほどたくさんあるのは間違いない。生態系を心配する人もいるし、温暖化による熱帯の動植物に温帯の生物が制覇されるのを心配する人もいるし、スキーやスノボが日本でできなくなるのを心配している人もいる。

最近、生態系かなにかの本を読んでいてこの論文を引用していたのがあり、20年も前の本だがとてもユニークな考えが述べられているとあった。ならば読まねばならぬと図書館から借りてきた。
実はこれ、一冊の本ではなく「法の臨界」という法曹界の論文集的な本に収録されている論文である。ボリュームはたった20ページしかない。
実を言って数式もないし引用も少なく、書いた人は研究者のようだが(注7)論文というよりもエッセイというか覚書程度のしろものである。

この論文(?)を要約すると、「持続可能性の期間を永遠と解すれば不可能なことである。それならば使用可能なリソースを基に、我々のリソース消費スピードとその持続期間を決定するのもありではないか」というものである。
つまり将来の人類を思い、今をケチケチ生きるのではなく、今後X年だけ文明社会を維持しよう、確認埋蔵量をX年で使い切る生き方をしようという発想だ。持続させるX年間は我々現代の人類が決めることで100年でも良し1000年でも良い。
まあ、そういう発想があってもおかしくない。正しくないとは言えないし、正しいと言い切る根拠もない。

ところで学術論文とは何かといえば、その要件は明確だ(注8)
  1. 新しい情報・アイデアであること(新規性)
  2. 世の中に役に立つ情報であること(有用性)
  3. 内容が信頼できること(実験・証拠・理論)

(1)については環境問題の議論でこのアイデアは聞いたことはある(但しこの論文以降かは不明)、(2)これを読んで引用した人がいて、その結果私がこれを読んだということから影響はゼロではない、(3)論文のアイデアを裏付ける実現性やそのときの有効性は記述されていないので大きく要件を欠く。
そんなことを考えると論文ではない、やはりエッセイだろうか?(注9)

上記を読んでお分かりのように、私がこの論文()を読んで感動もせず同感しなかったのは言うまでもない。頭に浮かんだのは バカじゃねえの? ということでした。
それはこの論文()を読んでの感想でもあるし、前提あるいはスタートラインから違和感があるからだ。

まずこの論文()を読んで変だな? おかしいな? と感じたことをあげる。


では私の考えを述べる。
私はこの著者が想定している人類の滅亡というものは、現実と異なるのではないかと思う。
「人類は滅亡する」ということは「恐竜は滅亡した」ことと同じくらい正しいだろう。同時に「恐竜は鳥となって生き続けている」という表現も真ならば、「人類は進化した新しい種となって生き続けるだろう」ということもまた真ではないだろうか。
もちろんそのときの新しい種が、今の人類よりも理知的で論理的であるとは限らない。資源が枯渇してエネルギーが手に入らず機械も使えない状況においては、知力よりも視力・聴力が優れているほうが生存に適しているだろう。そのとき傍目には大きめのニホンザルに見えるかもしれないが、進化したヒト種であることは間違いない(注10)
人類が永遠に万物の霊長であり続け、そして人類が今以上に理知的に進歩して生きながらえて欲しいというのは人として生を受けたものなら、願うことだろう。だがそれは願望であり、現実はそうではないというのは間違いない。

科学でもSFでも種とか進化にさまざまな説(アイデア)があり、種には寿命があるという論もある。つまり新しい種が出現して滅亡するまでの期間が、例えば200万年というもの。
過去から今まで存在していた生物たちの多くは既に死滅している。現在存在している生物は、過去より出現した生き物の5%とかいう記述を見たことがある。95%の生き物が滅亡したなら、その種はどれくらいの年月、繁栄していたのだろう?

ティラノサウルス 恐竜愛好者のアイドルであるティラノサウルスは約6850万年前〜約6550万年前に生息していたというから約300万年、トリケラトプスは約7,210万年前〜約6,600万年前で600万年となり、同じ恐竜でも長短がある。
ネアンデルタール人は40万年前〜2万数千年前というから38万年……おお、だいぶ短いぞ。現生人類(ホモサピエンス)の出現は20万年前というから、ネアンデルタール人と同じとするとあと10数万年は大丈夫か?
人の方が種の寿命が短いと言えるわけではない。恐竜が跋扈していた時代は、酸素の成分の変化、気候の変化が少なく、進化スピードが遅かったのではないかと考えられる。それに恐竜滅亡はそのとき地球に落ちてきた隕石のせいだとなると、滅亡したのは種の寿命とは関係ない。
シーラカンスは生きている化石と言われ、白亜紀(6500万年前)に生きていたシーラカンスと形態的な差がほとんどないと言われる。それは種の寿命が長いというよりも生息環境がほとんど変わらなかったということだろう。
なおゴキブリは3億年前と同じ形と言われるけど、その間に種が何代も生まれ滅んできたという。形が似ていても別の種なのだ。
要するに生物は生息環境によって淘汰され、また進化する。環境が変わらなければ種も変わらず生き続ける。

さて、人間のこれからについて考えよう。
地球温暖化が事実だとして、地球が温かくなると生息環境が変わるわけで、淘汰圧がかかり寒冷に適化したスカンジナビア人やロシア人はちょっと辛いことになる。またオゾン層が薄くなって紫外線が強まれば、碧眼の人はソコヒに色素の薄い人は皮膚がんになりやすいし、そこまでいかずとも皮膚の劣化・老化はネグロイドやモンゴロイドに比べて激しく淘汰されることは間違いない。紫外線にはサングラスをかければいいといっても、サングラスの入手が困難になれば大変なことは間違いない。
もっとも皮膚の色が変わる年月は意外に短いようで、白人とか黒人といっても先祖代々そうであったわけではない。数世紀でコーカソイドがメラミン色素を持つようになっても驚かない(注11)

ともかく温暖化の結果、ネグロイドが覇権を取るかと言えば、そう簡単ではない。前述したように化石燃料を使い果たせば、元々のインターバル通り氷河期に入るのは間違いなく、そうなれば高温のとき我が世の春だったネグロイドはくる病になりやすく寒さに苦しみ、強者たるを得ず。
じゃあ間を取ってモンゴロイドかとなると、それはワカリマセン

何を言いたいのかと言えば、簡単です。ダーウインは適者のみが生き残るといった。ホモサピエンスにはバラツキがあるから、そのなかの新しい環境へ適合した者が生き延びるだろう。あるいは突然変異によって新しい種が出現し、それが広まっていくかもしれない。
となると著者が語る「我々のリソース消費スピードとその持続期間を決定するのもありではないか」という仮定そのものが成り立たないことは十分にあり得る。新しい環境に適応した新種の人類が、これからは我々の時代だ、古い種がいる間はリソースを温存して我々の時代に消費したいと思うはず。
だから著者の意見というかアイデアは現生人類として、資源枯渇・環境汚染が進んでいくときの対応策としては分かるが、実際に環境により淘汰圧を受け、すべての生物は常に進化していくということを踏まえるとその前提は大いに不適当ではなかろうか。

次に死というものを考える。死と一口に言ってもいろいろと考えられる。
個人の死、血族の滅亡、人類滅亡、地球の死、宇宙の死、あるいはもっと考えられるだろう。自分の死から人類の滅亡までを考えると感情が入ってさまざまだろうから、まず地球の死、宇宙の死を考えてみよう。
太陽は生まれてから46億年と言われる。46億歳の今は壮年の時期らしい。しかし地球を暖め私を日焼けさせるために、太陽は一生懸命水素を核融合してエネルギーを生み出している。だから燃料である水素はどんどん消費されている。宇宙にはガソリンスタンドも充電スタンドもない。生まれたときお腹にあった水素がすべてだ。
あと50億年で太陽は燃料切れのため赤色巨星になって、温度が下がりブヨブヨに膨張し水星も金星も地球も飲み込み、そして最後に燃え尽きてしまう。当然そのときには地球は消えている。
宗教によらずに永遠の生命を得るには……なんて唯物史観の宣伝文句だったのは半世紀以上前のこと。太陽の寿命を超えて生きながらえようとするなら太陽系を脱出して新たな若い太陽系に旅発つしかありません。
でもそそうしたところで宇宙にも寿命があります。いろいろな見方がありますが、多くの星が中性子星やブラックホールになって新しい星が生み出されなくなるのは10の後ろにゼロが14個くらいついた未来。もう物理的に変化が起きない究極の安定状態である熱的死というもの。まあ熱的死は10の後ろにゼロが33個もついた未来だそうですから、心配するにもどう心配したらよいのか分かりません。
ちなみに地球に生物が発生してからは10の後ろにゼロが9個、人間の祖先が現れてからならゼロが6個、心配することはなさそうです。

さて、そこまでは手に負えないとして、人類の滅亡とはどういう状況になるのでしょうか?
恐竜だよ 恐竜が滅んだのは隕石だというのが定説のようです。しかし実際には隕石落下までに多くの恐竜が滅んでいて、隕石は最後の藁になったにすぎないといわれています。なぜそれまでに多くの恐竜が滅んだのかとなると、気候の変化、それに伴う植生の変化、酸素濃度の変化、哺乳類が卵を盗んだとか多種多様です。
もちろん過去に大絶滅(大量絶滅)と呼ばれるような多くの生物の死滅が、五たびありました。そして今も多くの種が死滅し、新しい環境では新しい種が生まれています。
著者は人類が文明的な生活を放棄するまでを考えているけど、環境問題はそんな甘いものではなく、文明が崩壊するのではないだろうか。場合によっては人類が絶滅ということもあるかもしれない。
となると子をつくる・つくらないというレベルではなくなる。
おお、実はこれこそが私が言いたかったことです。

環境問題とは文明が維持できるかとか、持続可能性が維持できるかとかいうレベルでなく、人類が生物が生き延びるか・滅亡するかというレベルだということです。
おっと、私がそういう考えをしているのではなく、IPCCなどがそう語っているわけです。
建前としては皆、持続可能性(注1)と言っているが、誰が考えても持続可能性は不可能だと思うだろう。私もそう思う。
持続可能性は無理、著者が語る文明の放棄でも無理、生物としての存続が無理かどうかということではないのだろうか?
そして私はホモサピエンスという種も存続できないだろうという気がする。しかし人が滅んでしまうのではなく、進化したヒト、それは前に述べたように理知的な生き物でない可能性もある、に代替わりするのではないかということだ。

文明が崩壊するといっても驚くことはない。地球が46億年というが、猿のようなものから現在の人類まで100万年だ。執行猶予がこれから50億年あるなら、自然が試行錯誤する時間は十分どころか、5000回もトライアルすることができる。もちろんその間に石油でも石炭でもまた地球はお代わりしてくれるだろう。
トライアルを5000回もすれば、1回くらいは現生人類より賢い生き物が現れるだろうと期待する。それは霊長類でないかもしれないし、哺乳類でさえないかもしれない。だがその生きものを人類の後継とみなしてもおかしくないのではないか(注12)
つまり、私は地球温暖化も資源枯渇も全く恐れていない。生物の盛衰とはそういうものだろうし、人類は十分楽しんだのではないか?

濡れ落ち葉 本日の結論
この論文は、言葉の遊び以外何物でもない
あまり真面目に考えることはないのかもしれない。



注1
持続可能性という語句が法律で使われているかというと、環境関連では使われていない。使われているのは年金関係7件の法令で使われているが定義はされていない。京都議定書、アジェンダ2030などでも定義はない。
ブルントラント報告書(我々共通の未来)において「将来世代のニーズに応える能力を損ねることなく現在世代のニーズを満たす発展」と定義されているのが援用されている。
それが実現可能かどうかはもちろん検証されていない。

注2
大学教授の定年は大学によって違うそうだ。早いところは63歳、遅いところは67歳くらいだそうです。ただ一般企業の定年延長に合わせて、これからは68から70歳くらいになりそうとのこと

注3
落語家 1970年頃「月の家圓鏡」は大喜利などで真っ先に手を上げて「早いのが取り柄の圓鏡」と称された。本人は自分が恥をかいて他の出演者が回答を考える時間を稼いでいるのだと語っていた。
注4
釈迦に説法であるが、地球温暖化とは地球の気温が上昇することではない。「地球温暖化対策の推進に関する法律」では第2乗第@項で地球温暖化を「人の活動に伴って発生する温室効果ガスが大気中の温室効果ガスの濃度を増加させることにより、地球全体として、地表、大気及び海水の温度が追加的に上昇する現象」と定義されている。翻訳のせいか多少の言い回しの違いはあってもIPCCなども同じである。
つまり地球温暖化と言えるには、「人為的であり」かつ「温室効果ガスの作用によるものであり」かつ「地球規模の大気や海水の温度上昇」である。人間でなく火山など自然現象による温度上昇は非該当、人間が起因でも化学反応や電気的な温度上昇も非該当なのである。

注5
氷河期が悪で間氷期が善というつもりはない。ただ過去の農耕革命や文明の発達はすべて間氷期に起きた。氷河期は食うにもことかき学問も技術も停滞する。
地球温暖化によって農業生産は増えるかどうかは、海面上昇によって農耕地が減るかどうかに関わる。もし海面上昇によって農耕面積が変わらなければ食料大増産間違いなし。

注6
予防原則とは本来は重大かつ不可逆的な影響を及ぼす恐れがあるものは、科学的に因果関係が十分証明されない状況でも規制しようという考え。
しかし現実には疑わしきものは罰するという運用がされている。まさに推定有罪である。

注7
注8
注9
岩本素白によるとエッセイと随筆は異なるものである。「随筆とは、本当にあった出来事の見聞や感想を自由に描いたもの。エッセイとは、出来事の描写ではなく、書き手のパーソナルな心の様子を描いたもの、告白的なものである」そうだ。

注10
進化とは生物の形質が世代を経る中で変化していく現象。進歩とか向上する意はない。

注11
エジプト文明を作った人たちは黒人だったそうだ。同時代のモーゼやソロモン王も黒人だったという。古代ローマ帝国皇帝セプティミウス・セウェルスは黒人だった。
イエスキリストも黒人だったという説もある。1世紀のことは文書があると思うけど、どうなんだろう?

注12
ホモサピエンスの後継者はシリコン生物……電気回路と機械で作られたロボット……だろうというSFなども多い。我々が作り育てたものなら、それは我々の子供であると考えてよいだろう。自分の弟子は我が子と同じだ。
cf.「国立博物館」岡崎次郎、小学館、1997



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