「古代日本の超技術」

20.08.27
お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからとりあげた本の内容について知りたいという方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。

書名著者出版社ISBN初版価格
古代日本の超技術志村 史夫講談社ブルーバックス97840625779772012.12.20880円


五重塔

この本は大学の先生が日本の古い建築物などをみて、その素晴らしさに感動し、先人がどんな工夫をしたのか、どのように作ったのかと思いを馳せた、そんなことを書いた本である。
古代といっても学者により学問の分野によって異なるが、ここでは縄文時代も、飛鳥時代や奈良時代も、それ以降のものも含んでいる。
また超技術といっても、アリエナイというオーパーツという意味でなく、素晴らしい品物くらいの意味である。

著者は同名の本を1997年に上梓し、これは改定新版という2012年版である。取り上げているのは、五重塔の話、瓦の話、日本刀その他に使われた鉄、そして奈良の大仏の話である。


基本的に「昔の人はすごかった。技術は進んでも環境調和を考えてない現代は、長く残る作品を作れない、イケナイネー」という主張であると受け取った。よく見かける意識高い系という感じがする。そんな著者のスタンスがなんかいけ好かない。

21世紀の日本に残っている昔の文物というのは非常に少ない。そして今に残ったのは、奇跡とか偶然とかではないようだ。
まず作るにあたり永く残るように考えたようであり、作った人も永く伝わることを念頭に制作しただろう。そしてまた代々の管理者は保管も使用もメンテナンスも大事に行ったに違いない。
だって残っているのは国家的な建築とか名刀などばかりだ。田舎の安普請の寺も、半農の足軽が持っていた数打ちの刀など、現存しているかどうか知らないがこの本でも取り上げていない。ましてや瓦は割れても残るけど、藁屋根は数年、萱屋根でもせいぜい40年だろう。残るはずがない。
またこの本の著者も、法隆寺を作った工具を調べたそうだが、残念ながらそういうものは残っていない。
だから今に残る古いものは、作られた当時において素晴らしいものであったことは間違いない。そしてどこにでもある日用品や、素晴らしいものを作った道具も残そうとしなかったから残っていない。

となると、今に残る過去の品物を見て、その素晴らしさをたたえ当時を想うことはちょっとずれているんじゃないかと思っても、おかしくないだろう。
後世に残るように素晴らしいものを作ろうとして作られ今に残っているものを、素晴らしいというのはトートロジーのようで当たり前という意味だ。
完璧なまま今に残っていても、安物、日用品、庶民のものを、この先生は素晴らしいと言わないんじゃないか?
少なくともこの本にそんな事例は載ってない。


現実を振り返ってほしい。現代社会の製造の現場は、素晴らしい製品を創ろうとしているが、後世に残る逸品を作ろうなんて論理では動いていない
品物だけでない。ビルでも破壊するときのことを考えて設計される。地図に残る仕事なんて言うけど、地図には載っても歴史には残らない。昭和初期に建てられた丸ビルは76年後取り壊され、2007年に(新)丸ビルが建った。「新丸ビル」は1937年に建てられ67年後の2004年取り壊された。これらは長寿命のほうだ。鉄筋コンクリート(RC)の法定耐用年数は47年だが、一般的に30年くらいで建て替えられているという。エレベーターや空調などの変化、ビジネスの変化、生活様式の変化などに対応するためには建て替えになるのだ。
特に日常使う品物は、初めから耐用年数というより使用期間を設定して作られる。まさかユニクロを一生ものとは思わないだろう。ファミリーカーを孫子の代まで相続させようなんて考えもしないだろう。

現代はそういう価値観になっている。それは種々の条件・環境でそうなっているのだ。
トヨタ自動車が「古くなった車は修理しないで買い替えてください」と言ったのは1960年頃だった。
当時、休日には自動車修理屋でアルバイトしていたオヤジは、とんでもないことだと私に愚痴っていた。戦争中、自動車部隊だったオヤジは、自動車に限らず機械は大事に使い、メンテナンスを続けて長持ちさせるのがあるべき姿だと考えていた。

でも修理して乗れという修理屋の気持ちもわかる
デロリアン
デロリアンを覚えているか?
1960年頃アメリカでメンテナンスフリーという流れになったとき、車メーカーとガソリンスタンド業界はかなり軋轢があったと聞く。
だが、時代の流れには逆らえない。その結果、セルフ給油とかが始まったらしい。
「バックトゥザフューチャー」第一作で1985年から1955年にタイムスリップしたマーティは、ガソリンスタンドに給油の車が来ると、何人もの人が車に駆け寄り、窓を拭いたりエンジンルームを点検するのを見てびっくりしていた。

だが大局的に見て自動車を修理して修理して永く使うのと、技術の進歩を考慮して耐用年数を決めて、寿命が来たら新しいものに更新するのと、どちらがいいかと考えれば、答えは明らかだ。
1960年頃のクルマといえば、キャブレターで、ディストリビューターも機械式、ブレーキは前も後ろもドラム、スバル360 ミッションはシンクロのない3速(ダブルクラッチ必須)。
エンジンは何万キロか走るとボーリングをした。ボーリングとはシリンダの内面を削って平滑にすること。そうしないと文字通りエンジンにガタが来てしまう。

現代の車は大きく変わりました。まず燃費が当時の倍も良くなった。
シートベルト、ブレーキ、クラッシャブルボディなどなど安全性が高まった。
エアコン、オートマ、カーナビ、運転もツーリングも快適になった。乗っている人だけでなく、排気ガスはクリーンになり公害も減りました 💙
整備だってメンテナンスフリーになった。始業点検で、エンジンオイルやバッテリー液などをチェックしている人いますか? せいぜいブレーキランプ、方向指示器のランプが切れているか、タイヤのエア圧くらいでしょう。最近ではランプ類がLEDになって球が切れるということがなくなった。
今から見れば原始的としか思えない1960年頃の車を、後生大事に乗っていても褒められることはありません。いやいや、お前馬鹿か? と言われそうです。


現代は耐用年数を決め、その期間は壊れにくく作り、耐用年数が来たら更新するという考えになったのです。それは経済的にも環境配慮の点からも最適解なのでしょう。

家電製品メーカーは補修用部品の保有期間を決めており、それ以降は修理部品が手に入らない。
我々消費者も補修部品の保管期間が妥当であれば納得している。いや現実には、高額なものを除き、家電品を購入して5年も経っていれば、故障しても修理を依頼する人はいないのではないか。だって修理代より新しいものを買ったほうが安い。

補修用部品の保有期間
(メーカーにより若干異なる)
カテゴリー製 品 名保有期間
空調機器家庭用エアコン10年
ハウジングエアコン10年
キッチン冷蔵庫9年
炊飯器6年
オーブントースター5年
IH調理器6年
生活家電掃除機6年
テレビ8年
洗濯機7年
住宅設備エコキュート10年
太陽光発電システム11年
その他照明機器6年
温水洗浄便座(ウオッシュレットなど)6年

不思議に思うこと
家庭用太陽光発電システムは、補助金などの制度が何度も変わり一概に言えないが、概ね設備投資した費用を回収するには9〜11年と言われる。だから「12年目から丸儲けです」と業者は勧める。
太陽 さて上表から太陽光発電の補修用部品を入手できる期間は11年である。これは故障しない期間ではない、補修用部品が手に入る期間だ。ところが太陽光発電の法定耐用年数は17年であるから、12年以降は補修部品が入手できず修理できるかどうか定かではない。
それじゃ「12年目から丸儲けです」を期待するのは非論理的としか言えない。いや「12年目から丸儲けです」と語るのは詐欺じゃないのか?
これは制度設計がおかしいのではないか? いや待て、メーカーが補修部品を11年しか持たないということは、17年も耐用年数があると考えてはいないのではないか?
考えれば、太陽光発電システムは、補助金が出なければ儲けどころか、元々ペイしないということになる。違うか?

企業でも同じである。
何か設備が欲しいというときは、投資を申請するとき導入によるメリットを示さなければならないが、改善効果があるだけでなく、減価償却といって定められた年月内に投資額を回収しなければならない。つまり機械や設備は予め寿命を決めて使うことになっているのだ。

いや最近では固定資産税ばかりではなく、安全の観点から古い電気製品の再販規制とか、省エネの観点からの買い替えの推奨など、長く使うな、早めに買い替えろという方向にある。

メーカーとしても、20年間も家電品を使われ続けるのは正直勘弁してほしいだろう。
ときどきテレビや新聞で家電品のリコールの社告を見ることがある。チョンボでもしたのかとよく読むと、なんと30年以上前のファンヒーターの寿命が来て安全性に問題が起きるからメーカーに連絡してくださいとある。メーカーさんお疲れさんというしかない。
なんでそんな昔の製品を保証せねばならないのか? 単なる部品寿命じゃなく安全問題だと言われても困ってしまうだろう。

製品寿命が短くなったのは、プラスチックの多用のせいもある。
家電品に限らず現代の機器にはプラスチックが多用されている。車のヘッドライトは昔はガラスだった。今はみなプラスチックだ。プラスチックは軽くて丈夫で成型ができて便利だが、紫外線や高温で劣化する。洗濯ばさみがボロボロになるのを見たことがあるでしょう。
私が昔関わったことだが、添加剤などでプラスチックの長寿命化を図ると、今度は廃棄物となったときの処理が簡単でなくなる。プラスチックの性能を良くしようと特殊な難燃材を使うと、最終処分が遮断型処分場でなければならないものもあり、実質的に採用不可能となる。
プラスチックに限らずすべての材料には寿命があるから、安全に長く使おうという方針を徹底するなら、車検(自動車検査登録制度)と同じく家庭電気製品登録制度(略して電検?)でも作って、定期点検をしなければなりません。定期点検を受けずに使用すると逮捕だ!それでいいのか?
どんな問題にも対策は考えられるかもしれないが、現実には費用対効果がバランスしなければ制度として成り立たない。どんな方法でも費用がかかるわけで、結局それを誰かが負担しなければならない。

昔のものが後世に残ったのは時間の経過が材質や性能に影響しないことも大きい。
プラスチックはもとより、コンデンサー、半導体、潤滑剤、現代の部品材料はすべて寿命がある。それも何百年なんてもんではなく、モノによっては何年というオーダーだ。半導体など集積度が上がるほど寿命が短くなる。
五重塔が現代の耐震装置付き、日本刀がマイコン付き、瓦が湿度センサー付きなら、今に残るはずがない。原始的なモノだからこそ、今に残り、当時の機能を果たしたということに過ぎない。
これ重要!


昔、勤めていた会社で、ある日、部長が事務所のみんなに集まれという。
スクーター なんだなんだと部長席の周りに3・40人集まった。
部長は設計者を集めて一説ぶった。部長の奥さんが乗っていたスクーターが壊れたという。壊れたことが不満だったのではない。
「ホンダはすべての部品の寿命が一斉に来る。お前たちもそういう設計をしろ」と語った。

100年も1000年も使えるものを作るのは難しいだろうけど、ひとつの機械やシステムを形作る部品類が同時に寿命が来るように作るのはそれ以上に難しいだろう。

そういえば昔「ソニータイマー」という言葉があった。ソニータイマーとは製品の保証期間が過ぎると故障するという都市伝説である。巷では、ソニーはすぐに買い替えさせるために製品寿命を設定していると言われた。
上記のホンダは寿命が短いのではなく、<各部品の寿命が同時に来る> ことだよ。

冷蔵庫って枯れた製品だとお思いでしょう。そうでもないのです。
家内と同棲していたときは、先輩からもらったホテルの部屋にあるような缶ビールが何本か入り製氷皿があるくらいのものでした。それで間に合ってたんですね。
その後、家族が増えるにつれてだんだん大きなものにしてきました。 家族 最初の1台は貰い物でしたが、その後4台買いました。1台10年というところです。
そして重大なことですが、容積が大きくなっても、買い替えるたびに消費電力は下がってきたのです。エコ製品を買いましょうなんて声は2000年以降でしょうけど、日本の冷蔵庫メーカーは1970年代から消費電力削減を頑張ってきたのです。
モーターはインバーターになり、断熱材はどんどんと進化し、ドアのパッキンも、温度制御も、騒音も振動も、
それから大事なことですが、環境保護者の大嫌いなフロンもオゾン層を破壊しないように、また温暖化係数の少ないものに変わりました。
すごいですね、もちろんそれは技術者の努力・技術の進歩であったわけです。
仮に結婚した1970年代に買ったものが故障せずに家族も増えずに、使い続けてきたならば、その結果は家計にも優しくなく、環境にも優しくなかったのです。それに冷蔵庫メーカーも日本経済も困ったことでしょう。
おお!技術の進歩に合わせて買い替えるというのは三方良しではありませんか!

住宅も同じです。
私のオヤジが念願の家を建てたのは1950年代末、私が小学生の時です。6畳二間、4.5畳二間、汲み取り便所、ガラス戸のサッシは木製、雨戸は木製で塗ってあるのは柿の渋ですよ。塗料じゃないんです、信じられますか?
風呂は文字通り風呂桶でマキで沸かしました。ぬるくなると裸で外に出てマキをくべました。小学生でしたから恥ずかしさなんてありません。
各部屋にコンセントは1か所一口です。部屋の照明は裸電球に傘があるだけ。暖房は炭のこたつ、冷房があるわけがない。当時は素敵と思いましたが、今なら住みたくないですよ。

私が結婚したのが1975年、貸家にはコンセントが各部屋に一か所ですが二口ありました。便所は汲み取り、風呂はガスでバランス釜、ガラス窓はアルミサッシでした。立派だと感激しましたね。

1986年、子供も小学生になり戸建てを買いました。築20年の中古で中身は1970年代そのままでした。便所は浄化槽、風呂はガス。テレビアンテナからのフィーダー線はガラス戸のレールの隙間を通しましたし、電話線は廊下のかもいにステープルで留めました。コンセントも一部屋に1か所しかなく、小学生だった娘・息子はステレオ、電子楽器などが、同時に使えないと文句を言いました。

2007年に今のマンションを買いました。実を言って最寄り駅でタクシーに乗り、「○○マンション」というと、運転手は「ああ、あの安普請の……」と返してきます。実はその通り、近隣の同程度のマンションに比べて2割、数百万は安かったのです。まあ、身分相応ということで。
とはいえ時代が違うから設備は進化しています。もちろん水洗ですし、エコキュート付き、だから温水がでます。トイレ、玄関、キッチンすべてが蛍光灯電球でした。コンセントは各部屋3か所で、そこにはテレビの端子もインターネットの端子もあります。もちろんインターネットに接続しています。もっともそれは管理費に上乗せになってますけどね、いやあ、すごいって感動しましたよ。
残念ながら二重ガラスはオプションで財政が許しませんでした。

洞爺湖サミットで蛍光灯電球を使おうなんて盛り上がったのは2008年のこと。2020年の今は、10年前にもてはやされた蛍光灯電球は悪者、LEDが正義の戦士のようです。

白熱電球
白熱電球
矢印 電球型蛍光灯
電球型蛍光灯
矢印 LED電球
LED電球
俺は最初から、
最後まで悪者か
以前は褒められたけど
今は悪者、悲しい
俺もすぐに悪者さ

2020年8月現在、新型コロナウイルスCOVID19の世界的流行でテレビもロケなどできないためか、10年前とか20年前のドラマなどの再放送が多くなっています。
10年前はともかく、20年前になるとはっきり違います、昔のだってわかるのです。
何が違うのかといわれるとこれだと言えませんが、服装なのか、化粧なのか、古さを感じます。たった20年、当時だって21世紀ですよ。それでも違うのです。

なにをダラダラと書いているんだ!とおっしゃるな。家電品も、くるまも、住宅も、ファッションも10年で中身も性能も一新してしまい、古いものを大事に使う意味があるのかというダメ押しです。


五重塔を作った人たちの技術技能がスバラシイ!
それは否定はしない。でもさ、それが価値あるのかどうかはまた別だ。
法隆寺が作られたのは7世紀初め、一般庶民はどんな家に住んでいたのか?
竪穴住居 竪穴住居というのは旧石器時代に作られ始め、縄文時代、弥生時代、古墳時代、そして奈良時代まで使われた。都から遠い東北地方では室町時代まで使い続けたという。
五重塔を作った人もすごいのだろうけど、竪穴住居を作った人たちも評価してほしいね。
いや、五重塔は住居じゃない。多くの庶民は竪穴住居に住んでいたはずだ。ならば、法隆寺が飛鳥時代を代表する建築なんて言わないでほしい。竪穴住居が飛鳥時代を代表する建築ではないのか?

飛鳥時代の寺院に使われている鉄釘は錆びにくいそうだ。現代の補修工事では、使われている釘を抜いて鍛冶屋が叩き直して再度使うという。著者はすばらしいという。
だが、補修工事の棟梁が「釘が1000年持ったのではなく、建材の樹齢が1000年以上の良い材だから1000年もったのだ」と語ったとか。建材の樹齢と建物の寿命は同じとは知り合いの大工も語っている。
今の一般庶民の家の材料は樹齢1000年どころか、パーティクルボードとかプライウッドなど合成木材だ。安普請の家なら安い材を使い、それが長持ちしないのは当然だろう。別にソニータイマーが付いているわけじゃないし、ホンダほど緻密な設計をしなくてもすぐに寿命が来るよ。

合成木材の接着剤からはホルマリンとかいろいろ出る。ニューハウススメルというやつだ。昔は新築の香りというと、木材から発散する木の香りだったのだろうけど、現代では建材や内装材の接着剤とか可塑剤の匂いである。
それが人体に悪い、アレルギーの元になるというのも正しいだろう。でも今じゃむくの木材で家を建てるのはとても高くつく。しかも在来工法では暖冷房も効かない。そういう家にするのか否か、これは難しい選択であるが、大多数の国民は現代風を選んでいるのだ。ない袖は振れないということもある。
著者は在来工法の立派な家で、夏は暑く冬は寒いのを我慢しているのだと想像する。ご苦労なことだ。それも悪いことではない。昔から武士は食わねど高楊枝という。現代人、特に私が持っていないのは矜持だ。
いや、冗談だよ、頑固に旧守ではしょうがない。良いものは古くても新しくても認める柔軟性が必要だ。費用対コスト、環境影響対効用で、使い捨てを選択する知恵も必要だ。


刀の目的は人を斬ること。善悪ではない、単なる事実だ。刀を作るとき、それが何世紀も後に美術品になることなど思いもしない。数打ちと呼ばれても、ある程度切れ味が良く数度かの戦いの間折れずに使えるなら、それは目的を果たす立派な刀である。

日本刀
今、博物館に飾られている名刀は、いくさで斬りあい、曲がり折れ錆びて地に還った刀に対して忸怩たる思いではないのか。決して己を美術品と誇るほど卑しくはないだろう。
もし初めから美術品としての刀を作ろうとしたなら、できたものは美術品であり人を斬るためのものではない。現代作られている刀の本質はレプリカなんじゃないか?
見るための茶器、投資のためのスーパーカー、私はそんなものの価値を認めない。


失われた技術がもったいないとか、継承されていればよかったということもないだろうと思う。
世界最初のジェット戦闘機 昔の戦闘機はプロペラの後ろから機関銃を撃った。非常に低い確率だが、弾丸が己のプロペラに当たる。それでプロペラが銃口の前を通り過ぎたとき発射するように工夫された。
プロペラのないジェットエンジンになって、そんな工夫は無用になった。

1980年頃、私はNCフライスやNCボール盤のプログラムを作っていた。自慢であるが、当時私が作ったプログラムは神業と呼ばれていた。
当時だってNC機械には自動プロと呼ばれるNCプログラムを作るソフトとハードがセットでついていた。OSはCPMで、のちにハードもソフトも向上してOSはCPM86になった。
自動プロに加工形状のデータを入力するとパソコンが紙テープを作ってくれた。

NCテープ

しかし自動プロで作るプログラムは最短距離を移動するものではなく、冗長で不満があった。それで私は一から自分がプログラムを書いていた。ホームページビルダーでウェブサイトを作ると余分なTAGがたくさん入るから、手で作ったほうがいいというイメージだ。
加工時間は種々条件があるから革新的な短縮はできない。移動時間とツール交換時間を短くするのが、NCプログラムの腕の見せ所だ。私は最短距離を移動する順序を考えた。多数点を一番短いルートで移動するだけでなく、NCボール盤にはターレットが回転するものと、ドリルの軸が間隔をおいて複数ついている形式があり、それぞれターレットの回転と座標移動の時間などを方程式にして、多数のキリ径の異なる穴の加工順序を決めるプログラムを考案した。能力の小さな8ビットパソコンで最短距離(数学的な意味じゃなくて実用的なレベルであるが)を移動するアルゴリズムの自動プロを自作したのは自慢だった。
たまたま来たNC機械メーカーの人がそれを見て、話を聞いた自動プロのソフト屋が私に教えを請いに来た。
実を言って、そんなもの今ではだれも見向きもしないだろう。でもあれだって失われた技術だ。見向きもされなくなった技術というのが正しいかも?

言いたいことは、必要な技術技能は時代によって変化するのだ。古代の作り方が今では忘れられたとしても、それはおかしくない。忘れ去られる理由があって忘れられたのだ。
鉋かけ、釘打ち、墨ツボ、そんなものが使えても、現代ではタッカーとかインパクトレンチが使えなければ大工ではない。下げ振りと水準器は2000年前から変わらないと思っていたら、今はレーザーの時代らしい。

もちろん状況が変われば、古い技術が復活することもある。
ロラン、オメガ航法、GPSとどんどん位置を把握する技術が進んできて、アメリカ海軍では六分儀を使うのを止めてしまったそうだ。
アーレーバーク級駆逐艦 しかし最近は高高度核爆発によるEMP(電磁パルス)によって電子機器を使えなくする戦術が考えられた。これによるとコンピューターをはじめ半導体を使う機器はすべておじゃんになる。そのため2019年から再び六分儀を使うようになったとか。
非常時に備えてろうそくを置いている家庭は多いだろう。それと同じかな?
手旗信号は一般の船舶ではもう使われていない。わずかに海上自衛隊で生き残っているそうだ。でも災害のときは、声の届かない距離のコミュニケーションにはもってこいだと思う。失われないように願う。


私の考えは、持続可能社会とは反対方向だという指摘があるかもしれない。
ちょっと待ってくれ、まず持続可能社会というのが成立可能かどうかという疑問はあるが、とりあえずそれはおいといて……
持続可能社会とは永遠に続く社会という意味ではない。ブルントラント報告書などにも書かれているが、それは「地球環境や自然環境が適切に保全され、将来の世代が必要とするものを損なうことなく、現在の世代の要求を満たすような開発が行われている社会」である。
だから進歩がなく停滞した社会ではない。科学技術の進歩とそれによって我々の生活や社会環境(物理的・制度的・意識的に)を変革していく社会なのだ。
むしろ持続可能社会を作っていくために、無駄に寿命の長い製品、機能や仕様の進歩のない製品を作るのを止めていくべきではないのか?


ところで現代の品物を1000年後に残そうというなら、何が選ばれるだろう?
私は芸術品、高級品、個産品の類はオミットしたい。間違ってもスカイツリー、スーパーカー、オートクチュールなどは対象ではない。
実用品、量産品、廉価品をメインにしたい。だってそれが多くの人に使われているわけだ。飛鳥時代なら五重塔を残さなくても竪穴住居を残したい。
現代で残すべきものは、飛行機ならボーイング737、モペットではスーパーカブを取り上げたい。建物なら標準的な建売住宅、どの家庭にもある家電品一式、衣類は若い人が無理せず買えるもの。それを見れば1000年後の子孫は、我々の真の姿を知るだろう。
ボーイング737スーパーカブ
ボーイング737はダグラスDC-3(16,079機)に次いで10,314機(2018年)と旅客機生産台数史上2位
ジェット旅客機では第一位。
スーパーカブは2019年に累計生産台数4億台を超え、今も記録を更新中
もちろん世界一


まとめである。
著者がスゴイスゴイと書いていることが、私はちっともすごいと思えない。
そもそも時代・時代によって、人の考えも暮らしも全く変わる。発明・発見や外力によるパラダイムシフトもあるだろうし、日々の地道な改善による継続的な変化もあるだろう。だから時代が変わればまったく意味のないこともある。

しかしいつの時代においても、その時代が必要とした重要なものを作った人たちは決して名を残すこともなく、作られたものも残ることはなかったということを認識してほしい。
そしてありふれた日用品やどこにでもある普通の住まいを作った人たちと、作ったものの価値を認めてほしい。生涯一平社員として製造業にかかわってきた者としてそう思う。


うそ800 本日のひと言
少し前に読んだ「精密への果てしなき道」の最終章にあった言葉を取り上げたい。
ロールスロイスA型フォード
ロールスロイスA型フォード
「最高品質と言われたロールスロイスよりも、安い値段で大衆車を作ったフォードのほうが、高い技術を必要とした」

現場技術者として生きた者として、この言葉を私へのエールと受け取りたい。
現役時代 安物の家電品しか作らなかった私である。私が関わった製品は、既にすべてが廃棄物になったことは間違いない。しかしいっときでも、人々を幸せし、社会に貢献したと信じたい。




コマゴマ様からお便りを頂きました(2020.08.27)
究極、失われた技術は不要だから失われたのでしょうね。なんにしても自然の摂理ということでしょうか。
しかし先日のISO審査員はそうは思わなかったようで、去年末に日本の技術が失われていっており、嘆かわしいとご高説を垂れて帰って行かれました。その分、他の技術や進歩があるはずですが、見えていないのかついていけていないのか。

サイト開設19年おめでとうございます。19年といえば赤ん坊がもう成人です。その間に審査員や認証機関等のレベルは進歩したのでしょうか…

コマゴマ様 毎度ありがとうございます。
御社を訪問された審査員に限らず、持論を語ることが付加価値だと妄信している審査員が多いようです。
審査を依頼した我々は、「審査」をしてほしいのであって、バカバカしい話とか、くだらない話とか、思い込みを垂れ流すアホは願い下げなんですよね。
でもものは考えようです。ISO審査とは企業で役に立たないもうろくジイイに生きがいを与えるボランティア活動と思えば心も休まるというものです。
言うじゃありませんか、「侍とは死ぬことと見たり」って。「ISO審査とは介護だと見たり」と諦めましょう。
年寄りはせめて笑われないような人生を送りたいものです。……こんなウェブサイトを主宰しているだけで笑われているでしょうけど。

ご祝儀ありがとうございます。
虚仮の一念、岩をも通すといいますが、どうもISO第三者認証制度は岩より硬いようで変化がありません。それとも暖簾に腕押しでしょうか? トホホ



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