70歳の生き方

2020.02.06
以前は節々において「引退して〇カ月」とか「引退して〇年」というタイトルで、何度も心境とか日常を書いた。もう引退して8年近くにもなるから「退職して……」という名づけでは不適だろう。ということで年齢が大台に乗ったことをタイトルにする。
これから75歳、80歳、85歳にも書くと言いたいが、明日知らぬ人の命ぞ、余計なことを語らないほうがよさそうだ。

親父が67で死んだのでおやじの歳を越そうと願っていたが、それを超えて2019年に70歳になった。そして自分がいつの間にか年寄りになっていたことに驚いた。だって歳を取ろうとしてなにかしたわけではない。なにもせずにいて高齢者になってしまったから。
今までも若いつもりでバカなことばかりしてきたが、もう若気の至りとかシャレで済ませるわけにいかない。それどころかどこにいっても十分年寄りとして扱われる身分となった。まず健康保険の自己負担分もしっかりと老人待遇となった。目に見えるものとしては、電車の中で座席を譲られる。年寄りが座席を譲られるのは尊敬されているからではなく、一人前とみなされず哀れまれているからだ。

ところで私は70歳の人がどんな生き方、いや難しい意味でなくどんな暮らしをしているのかを知らないのだ。というのは私の身近に70オーバーの人がいなかった。もちろん70歳どころか80歳とか90歳の人と囲碁も打ったし、仕事や近所付き合いで70オーバーの人と付き合いもあった。でもそういった人たちの暮らしを知っていたわけではない。

私が10歳のころ、生まれ育った長屋で70歳以上の人といえば、私の父方の祖母だけだった。ボケてはいなかったがもう本当にヨボヨボで寝込んではいなかったが、起きて飯食ってごろごろして飯食って寝てという暮らしだった。歩くときは地面をなめるような姿。1960年ころの70過ぎは、2020年なら90歳以上の感じだ。いや義母は去年90になったが、耳も目も私より良いし、今も元気に畑仕事をしている。
当時ほとんどの人は、定年後数年の内に亡くなった。1960年の男の平均寿命は65歳である。

親父は多分57か58歳で会社をやめた。定年後は友人がやっていた自動車修理屋で無給で手伝いをしていた。もちろん本人にとっては遊びのつもりだろう。休みは、私の甥、父から見れば孫が病弱で人生のほとんどを入院していたので、その看病の手伝いに行っていた。その甥は小学前に死んだ。親父もその数年後に67歳で死んだ。

私は姉妹はいても兄弟がいなかった。その代わり年上の従弟たちが、遊んでくれたり勉強を教えてくれたりして可愛がってくれた。みな私より10歳以上上だった。従弟たちはいずれも70どころか60前に亡くなった。彼らは食糧難の戦争中に少年時代を過ごしたせいか、頑健ではなかった。

結婚してから住んだ公営アパートは入居条件のために同年齢で同じ生活水準の人たちばかり、私は31歳だったが最高齢でも30代半ば。皆サラリーマンで同じような暮らしをしていた。ともかく70代の人はいなかった。

その後、我が家は戸建てを買い引っ越したが、島というか道路で囲まれた10数軒の塊の中で70歳以上の人は、元警官だった70過ぎのご老人一人だった。特段親しくはなく、町内会の草むしりとか防犯の集まりで顔を合わせるだけで、どんな暮らしをしていたのかはわからない。
町内会で集まりがあると、その老人がなんでも話を壊してしまうので有名だった。老人は頑固なのだと感じた。
その時私は30代後半で70歳になった時を想像もできなかった。
そこに13年住んだが住人の移動も死亡もなく、みなその分歳をとっただけの変化しかない。そして13年後に70歳以上の人はその元警官の奥さんが追加になっただけだった。

50を過ぎて仕事を変わり都会に引っ越した。どの会社でも定年があるから嘱託の方でもせいぜい65歳まで、老人はいない。こちらに来てからの10年で、市川市、船橋市、習志野市、千葉市と引っ越したが、いずれも近所の人間関係が希薄で、70歳以上の人がいたのかどうかさえ定かではない。どこも賃貸マンションだったから町内会も隣組もない。近所付き合いをしなくても、日々暮らしていけるということに驚いた。

全く関係ない話だが、私がこちらに来て住んだ、市川市、船橋市、習志野市、千葉市合わせて436km2しかない。元居た郡山市は757km2とその倍である。郡山市内で引っ越した距離よりこちらに来てから引っ越した距離の合計が短い。田舎と都会では日常生活でも感覚は相当違う。

田舎の暮らししかしたことがないと、近所の人とのやり取りがなければ生きていけないような、先入観というか刷り込みがされてしまうのだろうか。例えば近所の人と会えば挨拶はもちろん近況を話すとか、誰かからお土産をもらったらおすそ分けするとか、葬式があれば請われる前に手伝いに行くとか、それが強制とかではなく呼吸のような当たり前のことと皆が認識していた。都会にはそんなものない。

70代の暮らしを知らないといっても、もちろん近所に住んでいる人の名は知らずともしょっちゅう見かける。 碁盤 だから毎日散歩をしているとか、囲碁クラブで会えば囲碁が好きだとか情報は入る。
私が言う70代の暮らしを知らないというのは、年を取るとどんなふうに体がきかなくなるとか、家で何をしているのか、テレビを見ているのか、年とともに食が変わるのか、家を出た子供たちや孫たちの関係、そんなことを知らないということだ。
もちろんそんなことは他人を真似することはない。しかし70代の人の暮らしを知らないのだから、自分が70になってどんな暮らしをするのか全く想像つかない。


いやいや、70代の10年間を生き残ることができるのか?

2019年発表の「平成30年(2018)簡易生命表」によると、70歳男性の平均余命は15.84年である。私はあと16年近く生き残ることが期待できるわけだ。もちろん日本人の70歳男性全体のことだから、私個人は明日にも死ぬかもしれず100歳まで生きるかもわからない。
しかし私が生まれた頃、昭和22年(1947)で70歳まで生きる可能性は30%くらいだったのだ。昭和50年(1975)にはそれが67%になり平成30年(2018)では82%まで伸びた。
表現を変えると平成30年に70歳まで生きる確率と、昭和50年に62歳まで生きる確率と、昭和22年に20歳まで生きる確率と同じということになる。正直言って、信じられないほどの変化である。

生存曲線

今の70歳が電車で「年寄りだから座らせろ」というのは、昭和22年に20歳の若者が座らせろというようなもので、笑い話である。元気な大人がみっともないことをしてはいかん。
日本では高齢者とは65歳以上としているが、65歳で年寄りとは笑止千万。仮に平均寿命以上を年寄りとするなら、84歳まで電車では立っているのが日本男児であろう。

ところでいくら長生きになったとはいえ、70歳ともなると男子の2割は亡くなっているわけです。生存曲線からわかるように、50歳までに亡くなる人は5%もありませんから、高校とか職場の知り合いのほとんどは50歳まで生きています。だからそれからの20年間でその15%がいなくなるわけです。そう思うと70歳まで生き残ったことは、すごい幸運だと思います。
とはいえ2020年の今も生存曲線は70歳くらいからジェットコースターのように真っ逆さまに下っているから、終末であることに変わりはなく、それなりの対応をしておかねばならない。


ともかく日本人は長生きになったものだとつくづく思う。
となると私が50年前あるいは20年前の70歳の暮らしを知っていても、今の自分の70代の暮らしの参考になりそうはない。

ところでどんな生き方が望ましいか考えると、何事か達成できた瞬間に天寿を全うするというのはありえないだろう。となると目標を達成せずして亡くなるのか、達成したのち目標なしに生きるという二つが考えられる。
スイミング いや大げさとか深淵ということではなく、私の場合引退後にスイミングを習い今も習っている。クロール、平泳ぎときて、次は背泳、バタフライとなるのだろうが、例えばバタフライをマスターせずに亡くなるのと、バタフライをマスターして次にするものがなく無為に生きるのとどちらがいいのかということだ。
いや、多くの方は向上心があるから常により高い目標を目指し、たとえどぶの中で倒れても前向きに倒れたいと志士のような生き方をするのかもしれない。ただ個人的にはどうかなあ〜という気はあります。
ともかく自分自身、難しい研究()をして、成果がまとまらずに終わりというのは不満なので、ある意味高校野球的生き方をせねばならないかなという気はしております。
つまりあまり高くない目標を次々と攻略していく、そんなことです。

いずれにしても健康が最重要なのは間違いありません。私の先輩・知り合い・同級生の多くが、会社をやめて70歳までの間に、脳梗塞とか事故とか病気でバタバタと斃れています。
私は今のところ高脂血症と高血圧の薬を飲んでいるが、たいした病気ではなさそうだ。とはいえ高脂血症と高血圧のデュエットは脳梗塞の恐れ大である。
更に親父は不整脈があったから最強のトリオで、まさに脳梗塞大当たりであった。
ただ私はタバコを吸わないし、運動不足でもないし肥満でもない。だから親父よりは脳梗塞から遠いかなと期待している。

そのためというわけでなくほぼ毎日2キロ泳いでいる。ルーの法則というのもあるから、無理せずに中庸に努めたい。特に私は前科があるから要注意だ。
しかし休館日以外フィットネスクラブに通うのが習慣になると、具合が悪くても行こう、嵐が来ても行こうという固定観念ができてしまう。不祝儀やマンションの集会などがあると予定が崩れたという感じになる。会社や学校と同じく、行くのがデフォというか義務になってしまうのだ。考えてみればフィットネスクラブは老後の暇つぶしだったはず。用事があればわざわざフィットネスクラブに行くこともない。
なにごとにも没頭しないこと、プライオリティをよく考えるようにしよう。

友人
年賀状 今は田舎とほとんど縁がない。今でも片手くらいの小中学校の同級生と年賀状のやり取りをしている。とはいえ40年以上会ったことはない。顔を合わせてもまず誰が誰だかわからないだろう。
高校の同級生はほとんどが都会に就職して、今は連絡が付くのはいない。田舎に残った数人だけ住所・電話番号を知っているのみ。これも付き合いはないに等しい。
会社の同僚もほぼ無縁。
知人レベルを除いて、今私が友人と認識しているのは元同僚で二三人、フィットネスクラブで仲良くなった数人、大学院の仲間数人、ネットの知り合いでオフラインで会うようになった数人というところか。
そんなことを書くと、寂しい人生と思われるかもしれないが、そうでもない。

年賀状は家内のほうが多い。小中学校の同級生は田舎だからほとんどダブっている。高校の同級生。そういった人たちと、ここ数年縁切りを始めた。確かに特段付き合いもなく思い出もない人と、年賀状を交換する意味もないのだろう。
家内の友人といえるのは、郡山時代の数人、今のスポーツクラブの数人、こちらにきてからの隣人で仲良くなった人数人、都合20人はいない。それで十分というかそんなものだという。毎年みっつのグループと泊りがけで旅行に行っているから、ボッチではないのは確かだ。

年齢に関係なく、友人が多いということはメリットではない。もう30年も前だが、当時の同僚が書道の塾をしていて生徒たちに出す年賀状が300枚とか言っていたが、あれは老後への布石だったのだろう。もっともその同僚は定年前に亡くなった。

趣味
昔、老人の趣味といえば、盆栽、囲碁将棋、菜園といったところだろうか。
盆栽 残念ながら私はそういう趣味は肌に合わない。いや能がないというところか。
今はほぼ毎日フィットネスクラブに行くこと、ネットに発信すること、年に一二度バスツアーとか安い一泊旅行に行くことくらいかな。
プラモとか若い時やったことの再チャレンジをしたが、老眼となって思うようにいかず、イライラするばかり。止めてしまった。
現在、フィットネスクラブだけでは芸がないと、新しいチャレンジを考えているところだ。

お金
2019年に定年後、年金以外2000万円必要ということが話題になった。年金で暮らせないなら、年金制度がおかしいというような風潮であった。老後は自分で備えるという意識がないのが理解できない。
私が子供の頃、年金制度なんてなかった。国民年金ができたのは1961年である、それ以前の人は老後どうしたのだろうか?
当時多くの会社の定年は55歳前後だった。その頃は長子が親と同居するのが普通だったから、定年になれば子に養ってもらい、せいぜい65前後でお亡くなりというのがパターンだった。
サラリーマンでなくても長屋の隣に住んでいた大工は、60くらいで体がきかなくなったと仕事を止めて、孫守りをしていたが、62くらいで亡くなった。当時はそんなのが普通だった。
兵士 ただ従軍した人は恩給という名の年金があった。親父は支那事変から大東亜戦争まで相当期間応召していたから働かなくても十分暮らしていけた。しかもポツダム少尉ならぬポツダム兵曹長だった。もちろん私も高卒で働き、小遣いを除いたお金を親に渡していた。
当時、同年配の者と「親を養う最後の世代で、子に養ってもらえない最初の世代だ」と嘆いたものだ。

ともかく我々の世代は、勤め人なら厚生年金があり、これは今のところ破綻の恐れはない。贅沢をしなければ平均寿命までは大丈夫と考えている。お断りしておくが我が家には車もなければ乾燥機もない。腕時計は7000円でブランド品などあるわけがない。つましく生活しているのは間違いない。

免許/資格
免許/資格には維持するだけでもお金がかかるものがある。
私はQMS審査員補とEMS審査員補を持っていたが、会社をやめるとき両方とも返上した。EMSの登録番号は500番以内で自慢であったが……いや何を自慢するのだろう 😄
同僚は退職してからも審査員補の登録を維持すると言っていたが、コンサルもしていたからだろう。
使いもしないものを維持するために、毎年1万何千円もかけるのはアホである。

ところで私は過去にいろいろと資格を取った。
危険物取扱者はガソリンスタンドで働くとき役に立つかと思ったが、もう働く気はありません。公害防止管理者もする気なし。環境計量士は試験合格しただけで、それに今ではppmなんて単位は使わないし……作業環境測定士もガスクロも検知管も40年も使ったことがない。
無線機 2アマの無線従事者免許証というのもある。免許証に張り付けてある写真は退色してエクトプラズマのようだ(笑)。ほんのいっときであったが、ツーツートントンなんてやったこともある。
退職したときもう一度やろうかと無線機のカタログを集めて眺めたこともあった。でもなあ〜、もうアマ無線の時代ではないよね、
運転免許も次回更新時に返上する予定だ。運転せずにゴールドを更新してもしかたない。身分証明には運転経歴証明書をもらおうと思っている。
年寄りが資格を持っているとか自慢にもならない。むしろ使いこなせないことが恥ずかしいだろう。
とはいえ金のかからないものを返上することもない。もっともアマ無線とか作業環境測定士の返上なんて聞いたこともないが、

断捨離
私の持ち物で大きなものは本棚ふたつとその中身だ。暇があれば中身を見て、2年以上紐解いたことのない本は捨てることにしている。ただ入手困難なものとか図書館にないものは捨てるのを躊躇する。
家内は私が死んだらみんな捨ててやるから処分などすることはないというが、今不要なら今捨てたほうがいいかなと思っている。断捨離しなくちゃならないと思うとストレスになると家内が笑う。


ぬれ落ち葉 本日の諦念
まっとうに生きてまっとうに死ぬこと、それがこの世のことわり
遺産も悔いも何も残さず、


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