「国民の修身」

2020.01.23
お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからとりあげた本の内容について知りたいという方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。


小学校に道徳という学科はいつからできたのか?
Wikiをみると1958年にできたとある。私が小学3年生のときだ。じゃあ小学校でそんな科目があったのかと振り返っても、ちょっと記憶がない。いや習わなかったという記憶がある。
そういえば授業参観のとき、同級生の父兄から「道徳教育をしているのか?」という質問が出たのを記憶している。
そのとき受け持ちの男性教諭が「私なりの道徳教育の考えがあり、私が納得いくようになれば…」なんて答えたのも覚えている。まあそれは婉曲話法というやつで、その心は「俺は道徳教育なんてしたくないんだ」ということだろう。
60年も前のことを覚えているかと問われるか? 私は昔から記憶力が良い。残念ながら還暦を過ぎてから記憶力が低下しつつある。

なぜその先生は道徳教育をしたくなかったのか。
当時の小学校の先生たちは、組合活動とかでしょっちゅう出かけていた。それも近隣の町でなく遠くの県まで行っていた。学校でも集まってはなにか議論していた。職員会議ではないから組合だったのだろう。先生に相談したくて話しかけても「組合が忙しい」といわれることが多かった。当時、私は組合といえば農協のことだと思っていた。先生が言う組合は日教組のことだった。日教組のお考えでは道徳なんて有害無益、絶対に学校で教えるものではなかったようだ。
ともかく教室で道徳教育というのを受けた覚えはない。
もちろん子供にはそんなことはわからなかった。彼らが真っ赤と知っていたら、先生を尊敬するという念は持てなかっただろう。
おっと、私が先生を尊敬していたわけではない。私の経験では小学校の先生とは、ひいきとか暴力とかきまぐれとか児童を人間と扱わない存在であった。

先生が組合活動にいそしんだためかどうかしらないが、学年が終わるまでに教科書が最後まで終わらなかったことが何度かある。とはいえ当時は中学校を出たら7割が就職する時代だから、勉強できなくて残念なんて思うわけがない。むしろ自習とか臨時の体育なんていうと歓声が上がった。
それにしても中学や高校ならともかく、小学校の教科書を最後までやらないっておかしいよね。ついでにいえばその先生の左胸に「勤務評定反対」とか「道徳教育反対」というリボンがあったのも記憶にある。

当時、授業では先生は当時の政治家が悪いアメリカが悪いと教えていた。もちろん当時のソ連は先生の聖地であった。
さすが算数はいくら共産主義でも1足す1は2になるわけで、教科書通り教えていた。しかし例えば歴史とか国語では教科書に書いてあってもなくても、共産主義的解釈というものを教えていた。それ以外の教科、図画工作でも音楽でも共産主義を教えることはできた。この絵を描いた○○は王侯貴族のパトロンに養ってもらっていたのよ、だから尊敬しちゃダメということになる。

当時の首相は安倍総理の祖父の岸信介だったが、先生たちは首相を悪の親玉のように言っていた。とはいえ先生の話が子供たちに信じられたわけではない。
B29 当時の小学生の父親たちはみな戦争に行ったし、母親も郡山市駅前や金谷飛行場のB29の爆撃とか戦闘機による浄水場への機銃掃射を体験していたから、日常そういう体験を話して聞かされた。
当時は父親が戦争で戦ったことが立派なことで、母親が飛行場を作る勤労動員に行ったとか、アメリカ軍が阿武隈山地を超えて攻めてきたら子供を殺して戦うつもりだったという話を聞かされて、母は立派だったと思うのが普通だった。
ひめゆり部隊の話を聞いて、かわいそうとは思わなかった。我々も同じ状況なら同じことをするだろうというのが1960年頃の子供たちの感覚である。私は今もその考えは変わらない。
だから先生がまっかかでも、親の話を聞いて子供たちはニュートラルに育ったと思う。
それに子供というのは大人を馬鹿にしたりするのが大好きで、先生が語ることを鵜呑みにするわけはなかった。
高校に行ってからは、なぜかわからないがまっとうな先生が多かった。

とまあ、そんな私も大人になって結婚して子供ができた。しかし子供たちが小学校でどんな道徳教育を受けたのか全く分からない。
私だって長女のときは算数でも国語でもけっこう面倒を見た。あるときあまり私がカッカするほど一生懸命になったものだから、家内から手を出すなと怒られたこともある。しかし道徳という科目を見た記憶は全くない。
息子の小学時代の1990年頃は、仕事漬けの日々で平日は遅く土日出勤も多く、子供たちの勉強を見た記憶はない。息子に申し訳ない。

そんな私であるから学校での道徳とか修身は全く知らない。しかし私の子供時代、子供たちは野放しであったが、親が食うために必死に働いて、その環境は道徳と無縁であったとは思わない。道徳は学問ではなく考え方や行動だから、親が口にしなくても日常生活を通じで子供に教えることができる。いや、親の姿を見て学ぶというのが本当だろう。

じゃあみんな道徳を身に着けたのかといえば、そんなことはない。当時だって泥棒とかいじめとか今と変わらず多々あった。ただ面白半分で、そういう悪さをやったということはなかったと思う。なにしろ国民全部が貧乏で、欲しいものがあっても変えず、食べたいものも食べられない。それどころか三度の飯にも事欠き、おやつなどない。腹が減るのはどうしようもない。
食うために農家の畑からトマトやリンゴを盗るのは、もう犯罪というよりも生存のための行動に近い。当然盗むほうも自制がかかっていて、トマトならセーフ、リンゴは微妙、桃やブドウを盗むのはアウトという判断基準があった。子供であっても安いものなら良くて、高価なものを盗るのは犯罪と認識していた。
トマト
リンゴ
桃
盗んでもセーフ微妙盗んだら泥棒

もちろん中にはブドウを盗ったり、すごいのは留守の家に入ってお金を盗む者もいた。とはいえ犯人は小学前かせいぜい下級生だから、盗まれたほうも親に文句を言って弁償してもらうという程度であった。
我が家の隣の兄弟、上は私より二つ上、下が同年だったが、その兄弟は盗みを繰り返した。長屋の盗難くらいはなあなあで済んだが、その後本格的な泥棒となり少年院に行った。
やがて大人になりやくざにはなりませんでしたが立派な泥棒となり、正業に就かずシャバと刑務所を行き来するようになりました。弟のほうは40くらいのときけんかで殺され、兄のほうは還暦頃病気で死んだと聞く。
子供時代一緒に遊んだ者として、彼らも悪い人間ではなかったと思う。ただいくら食うに事欠く時代だったといえ、心の欲する所に従えどものりを踰えずである。

同じく、先生も矩を踰えてはダメだ。
道徳教育が実施できるようになったのは、おかしな先生が減ったというか日教組の力が減じてきたからだと思う。私が子供のころの日教組に加入していた先生は85%、それが高度成長期となると5割を切り、21世紀は2割となった。衣食足りて礼節を知るというのは真実だと思う。良いことだ。

日教組組織率

先生たちが日教組離れを起こした結果、教員の視野が広くなり、考えもまっとうになったと思う。とはいえ今でも先生をはじめとして地方公務員は優遇されている。国鉄や郵便が三公社五現業から民営化してサービス向上したと同じく、これからもっと地方公務員に競争原理を取り入れてほしいと思う。
NTT、JR、郵便事業が民営化されてから、労働が厳しくなったとかいわれているが、民間企業はそういう激しい競争を昔からしていたわけで、そんな話を聞いてかわいそうなんて思わない。親方日の丸は楽で当然なんて理屈はない。
そしてこれからは公立校と自治体の職員がその試練を受けるべきである。


さてこの本の話になる。

書名著者出版社ISBN初版価格
国民の修身渡部昇一産経新聞出版97848191122222013.08.061200円

この本は大正時代から昭和初期の修身という科目の教科書から、いろいろなテーマを抜き出しまとめたものである。英和対訳のように当時の文章と現代文を併記している。とはいえ漢字が旧字体であることを除けば、言葉も送り仮名も違和感なく読める。現代語を見るまでもない。

ちょっと疑問に思ったのだが、教育勅語を読んでサッと頭に入る人はあまりいないのではないだろうか。それに対して修身の教科書は抵抗なく読めるのはなぜだろう?
明治23年(1890)発布の教育勅語と大正初期(1915頃)の修身の時間差は25年で、言葉がそれほど変わるとは思えない。一方修身の教科書と現在は100年の差があるのだ。
修身は子供向けで漢字も難しいのを使わず、言い回しも易しいからなのだろうか?

一読して感じたのは、とにかく載っているお話すべてが、起承転結ではなく起承結である。昔の人はあまりひねったお話は好まなかったのか、あるいは現代のように、小説やドラマのストーリーが複雑怪奇なのは、過去のものを乗り越えようと作家が努力した結果なのか。
そしてお話が400字から1500字と短く、すべてのお話のテーマはひとつである。親孝行と勉学とふたつのテーマを盛り込んだものはなく、親孝行は親孝行、勉学は勉学だけで完結している。

テレビドラマ水戸黄門はマンネリと言われていたが、それはマンネリ以前に物語が単純で起伏がないということがあると思う。 水戸黄門 悪だくみをしている人がいる。それを水戸黄門が聞きつける。時期を見計らって悪事を働いた者どもを懲らしめる、毎回それだけである。現代のどんでん返しが何度も続くようなドラマを見ていると、水戸黄門は退屈だと感じるだろう。
昔の人はそういう芝居でも満足したのだろう。あまりにもストーリーが複雑とかどんでん返しがあるとか、見る人によって解釈がいくつもあるようなお話は、手に負えなかったのではないだろうか。
この修身に載っているお話はみな、テーマは一つ、どんでん返しなし、後出しなしという単純なものばかりだ。そして登場するのは善人だけで悪人は出てこない。
見方によれば退屈極まりないが、昔はこれで満足したのだろうか? あるいは修身には誰にでもテーマがわかり誤解されないものでなければならないのだろうか?

ともかく書いてあるお話のカテゴリーは、郷土愛・祖国愛、国民の義務、祖先を敬う、勤労、向学、自立というようなものだ。まさに人間の基本、教育勅語を具体例で示したもの、あるいはマッカーサー憲法に書いてある国民の権利と義務の解説である。
もちろん郷土を愛せとか、祖先を敬えというだけでなく、なぜ親孝行をするのかということを、偉人とか庶民の暮らしを例にとって簡単に説明している。

内容が悪いわけではない。これにケチをつける人は、文章を読んで考えたのではなく、古いものはなんでも悪いという発想としか思えない。おっとリベラル(サヨク)が大好きなマッカーサー憲法そのものなんだよね。まあ、現実にはケチをつける人は大勢いるんだけどね。教育勅語なんて目の仇にしている人は多い。そういう人に限って読んだことがないのではなかろうか?

私はこの本を読んで大いに感動した。
親孝行の話とか経済的に傾いた家を再興するとか、その努力についつい感情移入してしまう。もちろん目的達成のためには、真面目と努力だけでなく、才覚も勇気も学問も必要だろうと思うが、まあそのへん細かいことを言っちゃいけない。

ではこれを今の子供に読み聞かせたらためになるか、道徳心を植え付けることができるかとなると、私はだめだろうと思う。
まずこの脈絡のないのんびりしたテンポのお話では、今の子供は飽きてしまう。 二宮尊徳
それに今の社会は100年前に比べて複雑であり、社会インフラも大きく異なっている。かぐや姫のお話を理解するには竹を取って細工して生活していた人がいたということを知らないと話にならない。桃太郎のお話では、川で洗濯をすることを想像できないと進まない。二宮尊徳では道路は人と牛馬しか通行しないという…(以下略)
だから今の時代の状況に合わせて、勤労とか納税ということの大切さを教える物語でなければならない。それはお話を複雑にすることではなく、興味を引き付けるストーリーにして、今の子供たちに共感を得られるものにする必要がある。

例えば少年ジャンプのテーマは「友情、努力、勝利」と言われている。「友情、努力、勝利」は道徳のテーマそのものである。つまりそれを子供に教えるには、かび臭い文章でなく、萌えとか熱血の漫画でもできる。
じゃあ今道徳を教える手段は漫画なのかといえば、漫画も凋落の時代だ。新しい手段を考える必要がある。例えば文化省で各学年対応の修身ゲームを作り、それをクリアすることで国家とか国旗とか納税とか脱税について学ぶということもできるだろう。
ついでに壮年向けに向学心や勤労精神を持たせるものも必要だろうし、定年諸君のためにシニアプランとか定年生活というゲームを作ってもよい。

著作権の懸念があるけど、国旗についての話をひとつ引用させてもらう。

この絵は紀元節(建国記念日)に家々で日の丸の旗を立てたのを、子どもたちが見て、喜ばしそうに話をしているところです。
どこの国にもその国の印の旗があります。これを国旗と申します。日の丸の旗は、我が国の国旗でございます。
我が国の祝日や祭日には、学校でも家々でも国旗を立てます。そのほか、我が国の船が外国の港に泊まるときにもこれを立てます。
国旗はその国の印でございますから、我ら日本人は日の丸の旗を大切にしなければなりません。また礼儀を知る国民としては外国の国旗も相当に敬わねばなりません

 この短い文で一話である。

これをシミュレーションゲームにするなら、例えば
悪い王様と倒そうと戦うとき、志を同じくする人たちは同じ印の腕章をつけて戦います。みごと勝利して新しい国を建てたとき、その印を国の旗にします。ゲームを通じて、国旗の意味を理解する、国旗を大切にする、国旗そのものだけでなくその印が国民統合のシンボルとなる、だから自国の国旗も外国の国旗も取り扱いに注意し敬意を表さねばならないことを学ぶだろう。
ゲームにするなら国旗だけってことはなく、国家とか権利とか義務とかいろいろと盛り込むこともできるだろう。
なお掛け算九九でも英単語でも既にゲーム化されている。深く考えない記憶とかしつけというものはゲーム化するに適しているのではなかろうか。

新しい酒は新しい革袋にである。教育勅語や修身の内容が良いからそれを復活しようとするのでなく、同じメッセージを伝えるにも今のインフラと技術でやることを考えたほうが良い結果が出るのではないかと思う。
教育勅語を復活しようと考える人たちもいるが、換骨奪胎して新しいツールで新しい表現をもって行うのがベターではないだろうか。
紙メディアは新聞も本も負け続けている。学校のテキストも紙メディアに拘ることはない。
そんなことを思う。


老人マーク 本日の教訓
素晴らしいものは時代が変わっても素晴らしい。だけど今の時代で最適かと考えれば、そうではないだろう。時代に合わせて、そのとき手に入るリソースで最適を目指さねばならない。




外資社員様からお便りを頂きました(2020.02.03)
いつも興味深いお話し有難うございます。
私も、あのまま「教育勅語」を復活するのも、全くの全否定も、どちらもナンセンスだと思います。近代史の観点でとらえれば、明治政府の教育面での方針ですから、そのようにとらえれば良いのだと思います。その観点で見れば、従来は士農工商の世界で、武士以外は直接は政治にも防衛にも無関係。それが、四民が等しく「国民」となって国を盛り立てようと言っているのであって、近代国家としては当然の事ですね。
歴史の教師が学校で、「テニスコートの誓い(仏革命)」やら「名誉革命(英)」を熱く語るのに、なぜ日本の同様な理念を説明しないのか、とても不思議に思っていました。
「日本は天皇を頂点とした大きな家族のようなものだ」というのも、藩や村が社会の全てだった世界から見れば、国家というのが新しい概念だから必要な説明なのですね。
大きな家族の中の規範として、「夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シコ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ」という、当然の事を言っております。
なぜ、これを言う必要があるかと言えば、国家には世俗法を補う道徳(または宗教法)が必要だと明治政府が理解していたからです。
明治政府は、キリスト教に対抗できる国家宗教を模索しますが、結局 内務省の一部組織として、神社神道が出来て、あれこれあって戦後の神社本庁につながります。神社は、あまりにも宗教的だから、信仰にかかわらない普遍的なものを「修身」としたのですね。ですから、本来「修身」は宗教と対立するものではありません。
昭和の始めから敗戦までの一時期、本来 宗教でない国家神道や修身が、妙な使われ方をされた事を取り上げて、否定的にとらえる人も多いですが「修身」は、近代国家としての日本での普遍的な道徳概念だというのが適切な位置づけだと思います。
当然ですが、現代の日本は国際化しております。 日本人と言いながら、帰化外国人も増えている今、新たな日本人の定義と、それに必要な普遍的な道徳は何かという事は、改めて議論して、新しい「修身」は常に教育されるべきなのだと思います。
右や左の旦那様方は、全否定や全肯定がお好きなようですが、「日本人」の定義は何かと聞いても明確な答えがきけません。国籍ならば、白鵬だって、日本語が上手くない大阪なおみだって日本人。日本で生まれようが、ノーベル賞の南部陽一郎も中村修二も米国人。
都合の良い使い分けでなくて、何が日本人であるという定義は、私達 現代の日本人にとっても必要であり、同じように「修身」も教育の場で必要なのだと思います。

外資社員様 毎度ありがとうございます。
政治家というのは清濁併せ呑むというように、主たる目的を果たすためならそれ以外は妥協しようと柔軟性というかいい加減なところがあると思います。しかし志士とか現代の愛国者たちは純粋!で、そういうことができずイエスかノウか、イチかゼロかという感じが多いです。三橋貴明とか倉山満なんて語ることはいいんですが、己の意見に少しでも合わない人とは共闘できないんですよ。
昔、全共闘時代の人たちはみな純粋(バカ)だったのですよ。ですから己の主義に同意してくれないともう殺しあうしかない。大目的を達するためなら枝葉末節は妥協すればよいという考えが持てないんですね。だからどんどんと派閥ができ、分裂し、最終的には己以外はみな敵になり崩壊する。純粋だからですね。
民進党も同じ原理で分裂分裂で、民主党から分派したのを含めば後継政党がよっつもいつつも支離滅裂。
同じく私の同志というか仲間も端から端まで一致しないと納得できないですね。
何を言いたいかといいますと、みなさん頭はよく論理的ですから教育勅語は素晴らしい、これを生かさないとならないとなるわけです。仲間のウェブサイトの多くはそう語っています。
私も教育勅語の中身にいちゃもんをつける気は毛頭ありませんが、ちょっと待てと言いたいですね。カビの生えた教条を後生大事ってのは共産党に任せておけばよく、今の時代の価値観となるものは何かと考えなければなりません。そして場合によっては譲れないところを確保すれば、あとは意見が合わないならとりあえず棚上げしておこうというような現実的な手段でないとにっちもさっちもいきません。
私自身はそういう考えをしているつもりですが、私が譲れないと考えているものが他の人から見ればどうでもいいことかもしれません。
とまあ教育勅語の取扱いだけでも、意思統一をするのは困難というより不可能ですね。過去にも「期待される人間像」なんてのもありました。当然「左」はダメダダメダと連呼し、それっきりです。
この本を読めば面白い、そしてためになる。だけど時代には合わないなという感じは否定できない。実を言いましてこの本はシリーズ物で、高学年向けの修身とか国史など、読めば面白いのですが今風ではないですね。
教育勅語の前に、民主主義とはなにかを討論して納得してからでないとなにもできなそうです。もちろん納得するはずがないでしょうけど


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