一粒の麦

21.12.20

聖書に「一粒の麦」という話がある。翻訳は文語体から口語体までいろいろあるが、私の持っている日本聖書協会1954年改訳を転載する。

ヨハネによる福音書 第12章24節 麦 一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

この言葉にある「豊かな実」と聞くと、数百数千の麦の束あるいは脱穀された麦が入った大量の布袋を思い浮かべるだろう。
実際には一粒から、いくつの麦の実が得られるのだろう?

田植え 麦の穂を見たことがない人でも、幼稚園とか小学校で田植えとか稲刈りをしたことがあるだろう。田植えは苗を数本つまんで植える。だから刈り取った1束は数粒の稲の実りである。それを脱穀したら、お米は何粒得られるのだろうか?
そういう疑問を持ったことはないだろうか?
好奇心の塊である私はいつも見るもの聞くものに疑問を持ち、百科事典、インターネットで調べる。それは金のかからない楽しみである。


話は変わる。
パッパと話題を変えるのは私の特技である。いや産まれつきではない。私の生まれ育った家庭は、会話も乏しく家族で話が弾むなんてことはなかった。
結婚して家内の家族と付き合うようになり、家族というのはこんなに仲良く楽しいものかと驚いた。そして家内の家族は話題がどんどんと変わるというか飛んでいくのだ。テレビドラマの話から演ずる俳優の好きな食べ物になり、それを食べた話になり、食べに行った経緯になり……頭が固い人(つまり私)はついていけずにフリーズしたことがたびたびある。
とはいえそんな家庭で半世紀ももまれると、私も家内の家風に染まり、話題が取り留めなく飛んでいく。まさにハイパーリンクである。
現在は娘の婿さんが我が家に来ると、家内と私の話がどんどんとワープ? 転移?するので、我々の頭がオカシイと思っているに違いない。

おっと、話題が変わる話をしていたら、ロンドンからパリに行ってしまったようだ。そういえばロンパリという言葉をご存じか? 最近はロンパリも差別語らしい。ポリティカル・コレクトネス(注1)は恐ろしい。数世紀後には、魔女狩りの代わりにポリコレなんて言われるかもしれない。パリコレであれば良いのだが。
家庭の話題からオートクチュールまで飛んでしまった。


話を戻そう。 生物は生きている。生きているから命があり、命は有限であり必ず尽きる。死ぬのは定めというと悲しいが、昔々大昔、我々の祖先が単細胞から多細胞になったとき、使っている体にガタがきたら修理するのではなく、新しい体で命をつないでいく方法を選択をした。つまり種が生き続けるために個体の死を選んだ。ということは我々が死ぬということは、ご先祖様の選択の結果であり、悲しいことではない。
生物は遺伝子の乗り物に過ぎないと語った学者(注2)もいたが、まあそんなところだろう。

だから個体の命に限界がある我々生き物は、種の命をつなぐために子供を作る。子の数は種族が死に絶えないように、そして無駄に多すぎない範囲になる。
現在の日本で人口を維持する子供の数は、夫婦あたり2.07人となるそうだ(注3)小数点以下は、子供のいない家庭や成人前に亡くなる分である。


「マンボウは一度に3億個の卵を産むが、成魚になるのは2匹程度」と言われる。だがこれは間違いというより、そもそも根拠がないらしい。

3億の謎
生物の卵子は、生れた時から持っていて、その後の成長過程で作られることはない。
マンボウ 人間の女性は思春期に30万個の卵子を持っているという。初潮から閉経までの一生に排卵する数は400〜500個だから持っている卵子の1%以下である(注4)

3億の根拠だが100年も前の書物に書いてあったのが元ネタらしい。まだ研究途上だが体にある卵の数、抱卵数は3億はなく、3000万〜8000万個ではないかという(注5)
これを産卵のたびに小出しするわけだ。
マンボウは魚だから、人間と受精の方法、胎生と卵生、子育ての有無、なによりも生存率が違うことを考えると、人間の100万倍の卵子を持っていてもおかしくない。

じゃあ一度の産卵数は? となるが、これについても研究がないそうだ。仮にマンボウが20歳まで生きるとして、20回産卵するとしても間に合うだろう。
ちなみに鮭は抱卵数が4000個という。鮭が卵を産むのは1回だから、鮭と同じく毎年4000個を20年間生んだとしても8万個で抱卵数3000万よりはるかに少なく辻褄は合う。


2匹の謎
これも数字のもとになった研究はないらしい。だが前述のように人間が2.07人であることからも、経験的には正しいと思われる。というのはオス・メスがいなければ卵は成魚にならない。卵を産むのはメスだけだから、メスが産んだ卵から最低2匹は成魚にならないと種の保存ができない。過去よりマンボウが減ったとか増えたという話はないので、2匹程度だろうとは言える。
とはいえ、毎回の産卵で2匹成魚になったのでは、産卵のたびにつがいが増えることになり、計算が合わない。計算からはマンボウの一生に2匹の成体があれば計算が合うわけで……

ちょっと視点を変えてみると、マンボウも海の生態系に動物プランクトンを供給するという役割もある。何万かわからないが多くの卵と稚魚になったものを、海の食物連鎖の底辺に加えることも大事な役割だろう。

ひまわり ともかくマンボウが何個卵を産むかはともかく、種の保存を達するだけの卵を産み、成魚を再生産していることは間違いない。
野に咲く花も、麦や稲の実も、種の保存のためであり、子も種も必要な数しか作られない。なぜなら人間に限らず子を産み育てることは、大きなエネルギーを使うからだ。人間が楽をしたいのと同じく、自然界も楽をしたい、いや無駄を嫌う。


ここでおかしいと思うことがあるだろう。「豊かな実り」とはなんだろう?
ひとつの麦が地に落ちて育ち実をつけるとして、豊かな実りであるだろうか?
自然界は厳しい。動物が生存競争に明け暮れると同じく、植物も他の植物と場所や日照や水分を争い、動物に捕食される。だから一粒の麦から最低一粒成体を生み出すためには、種々の損失分をかけた数の実を付けなければならない。
しかしそれはまさかマンボウの俗説のように3億の卵で二匹というほどの数ではなく、数十粒でひとつの実りとか数百粒でひとつの実りではなかろうか?
少なくても私は、一つの種子から成長した麦やコメが、3億の種子を付けたのを見たことがない。

自然界は無駄をしないことは自明であるから、もし数十粒の中の一粒が成長し実をつけるなら数十の実をつけるのが当然だ。数百の中の一粒しか実をつけないなら数百の実をつけるのが当然だ。
それは食物網の下位にいる弱い生き物が多子多産であり、上位にいる強い肉食動物が少産少死であることでもある。
その数は、動物・植物の違い、成体までに育つ確率、成体となってからの生存競争や配偶者獲得競争の苛烈さ、などによって決定されるだろうが、種が絶えずそして無駄に多すぎない数であるはずだ。

一家族で見れば末広がりというように、子供がどんどん増えて繁栄することを望むのが普通だろう。 末広がり しかし経済でも生殖でもミクロで見るのと、マクロで考える最善は一致しない。
一人の百姓としては二宮尊徳を見習うべきだが、みなが二宮尊徳では貯金ばかり積み上がり経済が成り立たない。ひどい言いようだが、浪費で家を傾ける人もいなければ経済は回らない。
おっと経済はともかく、生殖においても、どんどん人口が増えることは良いことではない。個人の思いと、全体の最適の折り合いをつけるのが為政者である。

人口が増えすぎればまず食料をはじめとする資源不足があり、また一つの種が増えすぎると生態系が単純化して、環境の変化があれば大きなダメージを受ける。
シカが増えすぎると林が枯れるとか、孤島でヤギが増えすぎて植生が崩壊とか、人が増えすぎて地球の生態系が崩れてとかよく見かける話だ。もっともそういうのは寓話も多く、マンボウ3億個のように出典が怪しいものも多い。

今はクジラが増えすぎてペンギンがオキアミを食べられず、ペンギン人口が減少しているという。 ペンギン シーシェパードはクジラの保護団体だが、ペンギンから見ると凶悪な虐殺団体らしい。
しかしなによりも人間が増えすぎて問題だ。100年前の人口に戻せば地球環境問題は解決する。人間を減らすには、戦争、家族計画、パンデミック、自然災害、お好みしだいで、CO2削減よりはるかに実現可能だ。


話はまた変わる。
とりとめがなく先行きを心配されただろうか? 心配ない。何回か回転すると元に戻るように、私の話も何度か話が飛んでるうちに元の話につながるはずだ。

意識高い自然保護者の話を聞くと、無農薬、無肥料あるいは有機肥料で育てた野菜は素晴らしい、栄養も味も……という主張が多い。
どう考えてもそりゃ変だと思うのがまっとうな人だが、理屈からおかしいぞってこともある。

無農薬とか有機野菜というのは危険と語る人や本は多い。
有機物のリサイクルでの重金属などの含有や、かび毒などの危険を唱える者も多い。
しかし一番は、植物は動けず動物に食べられるばかりで反撃できない。手を打たないと種が絶滅してしまう。ということで自衛する。植物の持つ武器は手足が動くわけではないから化学物質だ。

植物が毒物を体に持てば、食べた動物や昆虫は死んでしまう。食べれば危ないという知識は遺伝しないけど、 毒キノコ それを好む捕食者が死に絶えればその植物はその後安心して暮らせる。ということで多くの植物は体に毒をもっている。食べれば毒もあるし、触れば毒もある。タバコ、毒キノコ、キョウチクトウ、玉ねぎ、ジャガイモ、漆、水仙などなど
いや毒をもっている植物があるのではなく、我々が食べているものを含めてほとんどの植物は自衛のために毒をもっている。
今我々が食べている植物は、過去の人間が毒の弱いものを見つけ、更に品種改良で毒を弱くしたのだ。あるいは毒であると知っていて、食べる前に水にさらす、熱を加える、あるいは毒の強いところを取り除くなどして食べているのだ。

毒を作るのではなく、重金属を体内に溜め込む植物もある(注6)セレン、マンガン、カドミウム、鉛などを体内に蓄積し外敵から防御するという。
害虫 研究によると重金属濃度が高いところでは重金属を蓄積して害虫を防ぎ、重金属濃度が低いと自ら毒を生成して虫害を防ぐという。
毒を生成するには大きなエネルギーを使うから、重金属があるところではそれを活用するのだ。

そして、栽培されている(無農薬以外の)野菜は、害虫や動物などに食べられることがないから、自分が新たに毒物を生成することがない。毒を製造するだけでもエネルギーを食う。生物は無駄を嫌うというか、無駄なことをする余裕がない。常に限界状態で生きている。
だから作らなくても済むなら毒を生成しない。その分余ったエネルギーを子孫を増やすべく種子・果実に回す。それはとりもなおさず人間にとっては収穫増大である。


そんなことで今我々が食べている植物のほとんどが、品種改良されたものである。原種というか品種改良前のものは、毒性があったものもないものも、姿かたちも違うのはもちろん、食べられる部分も少ないし、お味もイマイチどころか、イマニ、イマサンだった。
レタス 500年前のスイカが描かれた絵がある。今よりは食べる部分がとんでもなく少ない。
トウモロコシなど実は円錐の周囲にあるのではなく、豆のように一列あるだけキャベツだってレタスだって、今の形になったのはたかだか数百年前のこと。
子供の嫌いな野菜のトップに出てくるトマトやピーマンは、私が子供だった60年前と今ではまったく味が変わっている。もちろん苦みはなくなりとても甘くなっている。

大根は大陸方伝わってきたと言われ、古事記にも出てくる古くからある野菜だ。しかしそれらは現在の大根とは大きく異なっていた。
いや、それどころではない。過去50年間でも、野菜の病気とか食生活の変化などによって、幾たびも大根の種類の交代劇があったということだ。
 cf.れきこん

鼻血がでるぞ 私達が食べているもののほとんどは自然の恵みではなく、人間の作り上げた作品である。それは神とか自然に対する悪とか恥ずべき行いではなく、人として誇るべき偉業である。
こんなことは誰だって知っている。有機野菜信者だって、雁屋哲だって知っている……だろう?


でも今まで述べたことを考え合わせるとおかしいなってことありませんか?

考えてみると
植物は種子を必要かつ十分な数だけ作る。
豊かに実り
この二つは矛盾するのではなかろうか?

そもそも豊かに実るとは、人間が自分の価値観で判断しているわけだ。人は植物から種子や果肉を掠めて食べる。かすめる量が多いほどありがたい。となると、豊かに実る状態にするには、人間が植物の世話をする必要があることにならないか?
水が足りなければ給水する、栄養分が足りないなら施肥する。害虫が来るなら駆除する。そして人が介在するよりも多くの実りが得られたなら、その差額を人がいただくのは可能である。もし植物が子孫を残せないまで収奪すると、その植物は持続不可能となる。

冒頭にあげた聖書の言葉を再掲すると、
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

もしその麦が野生の原種であるなら、大地で目を出して実を結ぶときに子孫を残す以上に実る状態にはならないはずだ。それさえも厳しいタスクであろう。
もし豊かに実を結んでいるなら、植物自身の力でなく、品種改良されたものを人が栽培したからに他ならない。
そしてそれを野生に放置すれば、植物同士の生存競争に負けて数代で消えてしまうだろうし、生き残っていれば実りは少なく毒性が強くなっているだろう。そうでなければ生きていけない。

「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく意味がない」とはレイモンド・チャンドラーの小説に登場する探偵のセリフ。 ファイル名
人間ならそんなセリフが言えるかもしれない。しかし植物の場合は、前半は同じでも、後半は「優しくては生き残れない」ではなかろうか?
だがそうなるとセリフが同義反復で面白味は全くない。


世の自然愛好家、無農薬愛好家、有機栽培マンセーの人たちは、そんなことを知っているだろうが、絶対に口にしない。
彼らは「農薬を使わない野菜は生で食える、おいしい」と語る。
農薬を使わなければ、野菜が農薬工場となり、わざわざ農薬をかけなくても中に農薬が存在し、苦味が増え甘みが減る道理だ。
いやいや、もし本当に無農薬・有機農業が可能なら、苦労して農業をしなくても採集生活が可能ということではないのか? そもそも農耕革命が起きたはずがない。


我が家の家系は祖父の代まで農家だったが、あまりにも貧農だったので親父は東京に出て丁稚になった。だから私自身は親戚のところで農家の繁忙期に手伝いしたくらいしか経験がなかった。
家内の家は農家だから、結婚してからは、田植え、稲刈りはもちろん、しろかき、はせ作りなどのたびに声がかかり、家内と子供と一緒に手伝いに行った。
そのほか養蚕の時期は、専業主婦だった家内は子供を連れて毎日実家に行き、休日は私も行って、桑の葉を運んだりかけたり、食べて枝だけになったものを片づけたり手伝った。
蚕とは早い話、芋虫である。一日中桑の葉を食べる。何万匹も蚕がいると雨が降っているような音がする。当然ものすごい量のフンを出す。葉を食べたフンだから緑色をしている。桑の葉を入れかえ、糞を取り除く。だいたい2週間くらいでワンサイクルになる。年に数回蚕を育てた。
目がお金

当時、小学前だった娘は最初は怖いとか汚いとかで、蚕に触ることができなかったが、1匹10円になると聞いたとたん、人一倍熱心に蚕の世話をした。まさに瞳にマークが光っていたようだ。
そんなことをしていて私は農業というのは投資対効果が非常に悪いということを知った。それは農業の構造とかでなく、そもそも収穫倍率が低いのだ。

注:収穫倍率とは、種一粒から何粒の収穫が得られるかを表す指標。
聞いて驚くな! 麦で20倍、コメで500倍という。それで多いほうだ。他の野菜はもっと少ない。

1990年頃だろうか、絹はもう中国に負けてだめだとなった。義母は嫁に来てからずっと蚕様をやっていたが、もう買い取ってくれるところがない。蚕のエサは桑の葉だ。桑の木といっても高くせずせいぜい1メートルくらいに抑えて枝を切りやすくしている。義母も野菜を今まで以上に作るパワーもないから、桑畑は放置した。
桑の木も伸びるが、それ以上に雑草が伸び、人より高くなる。また林から飛んできた種なのだろうか? 松とかアカシアとかがあっという間に生えてくる。元からある桑の木は、ほとんどが雑草と松やアカシアとの背比べに負けて消滅してしまった。残りの1割くらいが2mとか3mくらいまで伸びてなんとか雑草との闘いに勝ち、それから義母が桑の実を食べるため桑の木の周囲を刈りはらったので、わずかな桑の木はなんとか生きている。

注:桑の実とは大きさ5センチくらいで木苺に似ている。初めは白っぽく熟すと赤黒くなる。そのままでも食べられるが、ジャムにしたり焼酎につけて果実酒にしたりする。
正直言って、今の果物を食べなれている人は、素朴な桑の実を食べておいしいとは思わないだろう。山を歩いていて、食べるものも飲むものもないときに、雑木林にある桑の実を見つけてつまむからこそおいしいのだろう。

おっと、桑を追い出して居残った松とかアカシアも、すぐにクヌギなどとの戦いに負けて消え去る運命である。だから桑の木に同情したり、アカシアやクヌギを嫌いになることはない。そして7〜8年もたてば立派な雑木林である。
自分の目の前で畑が照葉樹林帯の極相までの変移を見ることができるって、なんてすばらしいことでしょう!(半分冗談だけど、半分は本音だ)


人の手が入らないで、たわわに実るという状況はまずない
桑の木にしても、桑畑と称するほど雑草を刈り他の木々が根付かないように取り除いて肥料を与えなければ、毎日蚕のために枝を切られては生き残れないだろう。

「奇跡のリンゴ」というお話があった。10年ほど前に本や映画になった。無農薬でも素晴らしいリンゴが実るというお話だった。
私は本屋で立ち読みしたが、とても信じられない。そんなこと不可能だろう。

もしそんなことがあり得るなら、品種改良や耕作法などの何千年もの人類の努力は無駄だったことになる。そして人類は長い間、飢饉との限界を生きてきたという現実を否定することでもある。
そんなことはありえない。
その真偽は決着がついていないが、収量が通常のリンゴ園の4割程度だったのは事実のようだ。

私は無農薬のリンゴがたわわに実るわけがないと思う根拠はある。
リンゴ
結婚前、義父は農業経営拡大を図り、雑木林を切り払いリンゴを植えた。しかしその年に義父が入院して収穫するどころでなく多少の実りはあったが、家族がとって食べた程度だった。
近所の人たちがとって食べるはずがない。なぜなら自分の家でもリンゴ畑を作っているから、それより劣るリンゴをもいで食べるわけがない。
1回も収穫することなく義父は亡くなった。

その後、義母だけではリンゴまで手が回らずリンゴ畑を放棄した。私は義父の残したリンゴ畑が原野に戻るまでいつも眺めていた。
二年目は肥料もやらず下刈りもしないから草木との競争に入り、少し実ったリンゴはプラム程度の大きさ。
三年目はリンゴとは思えないゴルフボール程度で、とても食べられる代物ではない。ほぼ全数が虫食いだった。
リンゴ畑がクヌギや楢に負けて雑木林に戻るのはアッという間だった。5年もするとリンゴ畑があったとは思えない。軽トラが入った道など消えていた。

それから数年して、炭焼きの人が一山売ってくれと義母のところに来た。もちろん売り買いするのは土地ではなく上物の雑木林だ。
炭焼きの人はひと冬そこにいてクヌギやナラを切り、炭窯で炭に焼いていた。家内の実家に行くたび、小学前の娘は炭焼き窯のところで遊んでいた。

日本は植物にとっては天国ではなかろうか。雨が降り温暖である。台風が来ても固定資産を持っていない植物にはどってことない。木々が倒れ崖が崩れても、新陳代謝が図れるし、劣勢だった草木が下剋上するチャンスでしかない。


うそ800 本日のしどろもどろ

今日はいったい何を言いたかったのだ?
そう問い詰めないでくださいな。
環境活動家とか、そこまでいかないロハス大好き、有機農業素敵という人は多い。素晴らしいヨットに乗り、遠い外国から運ばれた果物を食べて、環境を守れと叫ぶ女の子もいる。

ぐれた女の子 彼ら意識高い人たちは感覚的、雰囲気的な主張が多い。我々は、彼らの主張がおかしいと感じても、目的を否定しがたいので大いに困る。
まあそんなことばかり耳にしているので、フラストレーションが溜まっているのです。
なわけで、お前たち、自分が変なのを自覚しろと言いたいだけです。

キリストが本当に一粒の麦を語ったのか、イエスの教えを広めるときにヨハネが自分の考えを語ったのか分からない。しかし例え話にしてもあまり出来が良いとは思えない。当時だって農家の人がその言葉を聞けば、「地に落ちただけで実を結ぶわけがない」「たわわに実るはずがない」と突っ込んだのではなかろうか?

そもそも「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のまま」は本当なのか?
一粒の麦として食べることはできるだろうが、発芽する可能性は年とともにどんどん下がる。数年おけば発芽率は5割を切るだろう。なお、農業では発芽率95%以上でないと実用と言えないらしい。
奈良・平安時代のお米が発芽したなんて報道がときどきあるが、あれは稀有なことだからニュースになるのだ。



注1
ポリティカル・コレクトネス(political correctness)とは、特定のグループや人たちに不快感や不利益を与えるような言葉をいう。ところがそれを判断するのはマスコミや権力であり、一般人の考えではない。
ポリティカ・ルコレクトネスを直訳すれば「政治的に正しいこと」だろうけど、実際には「一部の者にとって正しいこと」のようだ。
オスネジ 製造現場では突き抜けていない穴を「めくら穴」といったが、今は「止まり穴」という。「オスネジ」とか「メスネジ」(英語でもMale screw・Female thread)と言うのは下品、卑猥というなら、これからは「ご主人ねじ(Gentleman screw)」とか「奥様ねじ(Lady screw)」とでもいうのか

注2
「利己的な遺伝子」リチャード・ドーキンス、紀伊国屋書店、1980

注3
内閣府資料 次世代を担う「人づくり」
当然であるが病気とか事故などによる死亡率によってこの数字は変わる。

注4
日本生殖医学学会 加齢に伴う卵子の質

注5
注6
国立環境研究所 毒を貯める植物 植物はなぜ重金属を貯めるのか?




外資社員様からお便りを頂きました(2021.12.20)
おばQさま
いつも楽しい話を有難うございます。話題が飛ぼうが,いつも細かい突っ込みで済みません。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」
英語の聖書NIV(New International Version)の記載では
「unless a kernel of wheat falls to the ground and dies, it remains only a single seed. But if it dies, it produces many seeds.」
つまり「沢山の種を作る」であって豊かにという意味はなさそうです。
生物学者に言わせれば種も活きているので,死んでいたら(if dies)発芽しないというのが当たり前ですね。
お書きのように,種にも歩留まりがありますので,たまたま採った一粒が発芽できる確率も考えないとダメなのですが,でもキリスト教のたとえ話としては,こういう表現になるのでしょうね。
でも気になるのは「死んだら成果がある」という表現ですね。
自然豊かな所の農耕異民族ならば,「食べずに植えれば増やすことができる」という表現になるのでしょうね。
キリスト教の発生は,シナイ半島の厳しい自然だから「死んだら成果がある」なのかもしれません。
何よりもイエス様が磔刑にあり復活というプロセスが重要だから,こういう表現になったのかと邪推してしまいます。

外資社員様 毎度ご指導ありがとうございます。
〜、「豊か」じゃなくて「たくさん」ですって
「many seeds」が得られれば「豊か」かと言えば、確かにイコールじゃありませんね。程度問題ではなく意味が違います。
ネットに載っている新約の日本語訳を見てみました。()内は新約の版などです。いろいろありました。
  • (不明)多くの実を結ぶべし
  • (不明)豊かな実を結びます
  • (新共同訳)多くの実を結ぶ
  • (不明)豊かな実を結ぶ
  • (1954年改訳)豊かに実を結ぶようになる
出典というか翻訳の版を明記していないものが多くて困ります。
新約聖書の原典はギリシア語とあるので、公開されているものを探して該当箇所を自動翻訳しようとしたらニッチモサッチもでした。

しかし上記の日本語訳をみて、もっと驚いたことがあります。
「結ぶべし」は命令形、「結ぶ」と「結びます」終止形ですか。但し終止形に「ます」を付けると丁寧になると共に意味合いが弱くなる。
「結ぶようになる」は「ように」付けたことで更に一歩下がった表現になり、結ぶかもしれず結ばないかもしれずと「結びます」より弱い表現でしょう。
日本語訳が英語訳からの翻訳なのか、ギリシア語原典を参考にしていたのかわかりませんが、英文のIt produces many seeds.を素直に訳せば、「実を結ぶ」でしょう。命令形でもなく、例え話にしても関連は弱くないように思います。
ともかく「豊か」と「たくさん」の違いより、「結ぶべし」と「結びます」などの方が大きな違いに思えます。
スタインベックの「エデンの東」ではありませんが、「結ぶべし」なら神がそうさせるという意思でしょうし、「結びます」ではイエスが単に例えに挙げただけということになり、重みは非常に違います。
強い  中  弱い
結ぶべし
結ぶ
結びます
結ぶようになる
翻訳した人たちはそれぞれ思いがあったのでしょうけど、神の力をどう見ていたかというのが現れてしまったのかもしれません。
外資社員様からのお便りを拝読して、1時間も考えてしまいました。
結論は「わかりません」でした。

>農耕異民族ならば,「食べずに植えれば増やすことができる」という表現になるのでしょうね。
この文を読んで受けた印象は外資社員様とまったく同感です。
我々は基本的に「死ねば」という表現をしないのではないでしょうか? 死ぬと仏になると信じているからかもしれません。


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