「狩猟採集から農耕社会へ」

12.09.29
著者出版社ISBN初版定価(入手時)巻数
原 俊彦勉誠出版4-585-00161-12000/12/201500円全一巻

持続可能性について駄文を書くとき、原始社会は本当に持続可能だったのだろうかと疑問を持った。まず21世紀の現在が持続可能でないことは間違いないようだが、近代はどうか、中世はどうか、キリスト時代はどうか、と遡っていくと、国家もないどころか大きな都市もない原始社会であれば持続可能性であったような気がしませんか?
実を言ってその時まで、私は「原始社会は持続可能だった」という思い込みがあった。というのは、自分がそう思うだけでなく、そういう主張は多々あり原始社会は持続可能だと書いてある本も読んだことがある。
みなさんも「持続可能な技術水準はひとつしかない。それは石器時代だ」という言葉を聞いたことがあるでしょう。原始社会と石器時代はイコールではないが、まだ文明もなく都市もなく、農業もしていない時代は持続可能の楽園と思いませんか?

確かに石器時代は持続可能のような気もする。しかしそれは本当だろうか? その証拠はあるのだろうか? それは裏を取る必要がある。
いくら私でも聞いただけのことを根拠に書くわけにはいかない。
それで石器時代についての本がないかとインターネットで探した中に、この本があった。とはいえ、アマゾンでは新品はなく中古品が出品されているが定価の倍の値段がついている。そりゃ高くて買えませんよ。インターネットであちこちの図書館の蔵書検索をすると見つかった。ハッピー。そこから借りて読んだ。

この本は石器時代と持続可能の関係について書いているわけではない。テーマは、なぜ狩猟採集の暮らしから定住した農耕生活に変わったのかということを、コンピュータシミュレーションでその変革するための条件を考えたというものである。
農耕革命という言い方もあるらしいが、人間が農耕を行うようになって、定住してやがて都市を作ったというのが今から8000年前(紀元前6000年)という。これはいろいろな証拠があってその事実と年代は間違いないらしい。
1万年とか1万2千年前という説もあるが、ここでは大きな問題ではない。
じゃあ、8000年より前の人間は農業を知らなかったのかといえば、そうではない。それ以前、1万数千年以上前から作物を栽培して刈り取ったという証拠が各地で見られるという。単純に考えると農業という先進技術を知ったからは、それを活用して狩猟や採集生活を止めて、定住して農耕を始めるのが当然と思うだろう。しかし人は農業という方法を知っても、農業に切り替えずにそれ以前のままに狩猟や採集の暮らしを何千年も継続した。
それはなぜか?

ネタばらしはご法度なのだが、この本の要点だけ記す。
人が農業をするようになったのは、狩猟では食えなくなったためという。決して良い暮らしをするためとか、技術が進歩したから農業を始めたのではなく、狩猟で暮らしていけなくなったので、しかたなく農業を始めたという。狩猟生活で暮して行けたなら農業なんてしなかったというのだ。

美味しいものと不味いものがあったらどちらを食べるか?
楽な暮らしとつらい暮らしのどちらを選ぶか?
そういう質問をされたら、普通の人は美味しいものを食べ、楽な暮らしをしたいと答えるだろう。
野生動物がいて必要なとき狩りができるなら、家畜を飼うことはしないだろう。家畜には餌を与えなければならず、病気になったら看病しなければならず、死んだら始末をしなければならず、世話のかかることこの上ない。
農業をはじめたから競合する虫を害虫と呼ぶようになった。
・参考文献 「害虫の誕生」筑摩書房 (2009)ISBN 978-4-480-06494-3
野生の木の実が季節になると食べられるなら、わざわざ果樹園を作り世話をすることはないだろう。季節外れに木の実を食べたいなんていうのは、そりゃわがままというか、欲望の暴走です。私たちは本来「地産地消」であることはもちろん、「季産季消」でもあらねばならないのです。
「季産季消」なんて言葉はないのだろうけど、作物ができる季節に食べることです。
本来なら夏の食べ物であるスイカを冬食べるとか、初夏にみかんを食べるなんておかしいと思いませんか?
温室栽培ではないと言って南米から持ってくるとしても、そのフットプリントはものすごく大足だと思います。
フットプリント
私たちが考えると農業をすれば採集の暮らしより安定して作物が採れて安心で豊かな暮らしができると思うが、エネルギー効率から見ると、採集に必要なエネルギーと得られるエネルギーの比率と、農耕に必要なエネルギーと得られるエネルギーの比率を比較すると、採集生活のほうが効率がいいらしい。
また肉の方が野菜を食べるよりエネルギー効率が良い。食物網(食物連鎖)において位置が上位になればなるほど美味くて、エネルギーが濃縮されたものを食べているということになる。そのためにホッキョクグマ、タカ、マグロなどは、PCBやら重金属などが濃縮された物を食べることになるが、美味い物を食っているのだから文句を言っちゃいけない。
まあ、味というか好みについては、肉を食べないベジタリアンもいたりして、いろいろあるだろうけれど・・・・

要するに、狩猟採集生活が可能なら、その方が農業をするよりも、美味しいものが楽に得られるということだ。だから農業という方法を知っていても、採集生活で十分暮らしていけるなら、わざわざ手間ひまをかけなければならない農業をすることはない。
だが、野生の動物が減ってしまったとする。その原因は、獲りすぎとか、気候が変わったとか、植生が変わったとか、事情はわからないが、ともかく獲物が獲れずに狩猟生活が成り立たなくなったら、生きていくためには別の方法をとるしかない。背に腹は代えられないというやつだ。
狩猟生活はギャンブルだという説がある。だが生きるか死ぬかのことについて人間はギャンブルをしないだろう。狩猟生活をしたのは、そのときは狩猟生活はギャンブルではなかったということだ。狩りをしても獲物が獲れなくなってギャンブルになったとき狩猟生活を止めたのだろう。現在は狩猟生活は農業ができないという特殊環境下でのみ営まれていて、多くの地域では狩猟が持続不可能だからギャンブルと思うだけのようだ。

もっとも動物が減った、じゃあ農業をしようとパット変わるわけではない。大型の草食獣が獲れなくなったら、以前は見向きもしなかったような小型の動物、ウサギとかカメとかそういったものを食べるようになるらしい。そしてそれも獲りつくすと、いよいよまずい植物を食べるようになり、最後には自分が植物を栽培するようになったということだろう。
これもエネルギー効率から考えれば妥当な流れだろう。食物連鎖をだんだんと下ってきたということだ。不味いもの、エネルギー効率の低いものに。

いずれにしても、農業が始まったというか、農業をするようになったという理由はほぼそれらしいのだが、とすると狩猟採集生活は持続可能でなかったということになる。もちろん乱獲とか人口増加という人為的条件の変化だけでなく、気候変動など自然環境の変化があったせいかもしれない。だが農耕革命が起きた8000年前頃は大きな自然環境の変化はなかったことも、ほぼ間違いないらしい。とすると狩猟採集という暮らしも持続可能ではなかったのだ。

そうすると原始社会でさえ持続不可能であるなら、過去より持続可能という社会あるいは生活様式はなかったといえるようだ。そうであれば、過去より人間は存在するだけで自然を破壊し、最後に自分が滅んでしまうというシナリオが組み込まれている生物なのだろうか?
それじゃあ、あんまりじゃないか!
しかし、この著者は「原始社会も現代社会と基本的に同じだった(持続可能でなかった)という、ある意味では楽観的な展望が開けてくる(p.125)」という。
ものすごく楽観的というか前向きというか、ポジティブなお方だ。
それを聞いて、少し安心する。そうかもしれない。そうでないかもしれない。だが、食料がなくなったとき自殺を選ぶ人は少ないと思う。いや、難破したとき何もせずに、ただお祈りするだけの人もいないだろう。少しでも崩壊、破滅、死を先送りするために、人間はいろいろと工夫をするだろう。そして今問題になっているオイルピークとか、温暖化(これはかなり怪しい)とか、資源枯渇とか、そういう問題について、とりあえず急場を乗り越えることができるように思う。もちろん、100年後、200年後にはまた新しい問題が起きて、持続可能性はないと叫ばれるのだろう。

ともかくここまででわかったことを繰り返すと、狩猟や採集生活は持続可能でなかったということがひとつであるが、暮らしの方法を変えることによって人間は生き延びたということだ。持続可能というのをどう定義するかであるが、同じ暮らしは続かないが、いかなる手段であろうと人間という種が生き延びたなら、持続可能と言ってもよいのではないだろうか?
そして現代でも、たぶん持続可能なのである。要するに持続可能の定義次第だ。

現実に、大昔の人たちが狩猟から農業に移ったように、今だってそういうことは行われている。
資源についていえば、初めは金塊とか砂金のように自然にそのものの姿で存在するものを採集しただろうが、その後高品位の鉱石から採集し、それが枯渇した場合は、やむを得ずだんだんと低品位の鉱石を使うようになる。また石炭や石油は、より掘りにくい深いところ、へき地、深海まで探すようになる。
食料が少なくなれば、今まで食べなかったものを食べる。シシャモの代わりにカペリンを食べる。マグロやタイが獲れなくなれば、今まで見向きもしなかった深海魚を食べる。タイと名前が付く魚はたくさんあるが、本当は黒鯛とかを食べたいんだけど、しょうがない、似た魚をタイと呼ぼうかということも多いのではないだろうか?
・参考文献 「江戸前の旬」・・・冗談ではありませんよ

前述したが食物連鎖の上位を食べた方が効率が良く美味しいが、それを食べつくせば、だんだんと食料の階層を下げるしかない。そればかりではない。食物連鎖の階層がひとつあがるとバイオマス(生物量)が1割になってしまうという。クジラを食べて良いか否かはともかく、クジラを食べるよりも、クジラが食べているオキアミを食べた方がより多くの人間を養えることは間違いないようだ。そしてオキアミを食べるより、植物プランクトンを食べた方が・・となる。
燃料も同じだ。代替えの燃料を使う、ということは過去何度もあった。
石炭を使うのは木材がなくなったからだ。そういうとエッと思われるかもしれないが、製鉄に石炭を使えるようにするには大変な工夫発明が必要だった。木材が豊富だったら石炭を使わなかっただろう。
・参考文献 「鋼の時代」 岩波書店 (1964)ISBN4004160618
ロンドンの暖房が石炭でなく木材を燃やしていたら、スモッグもなければ、排ガスによる死者もいなかったと思う。

風力発電 風力発電というのもそういう移行ととらえることができるだろう。風力と聞くと、クリーンだとか、自然にやさしい、進んだ技術というイメージがあるだろう。しかし風車そのものは大昔から存在したし、現実にはバードストライクをはじめ、騒音問題、台風や落雷での破損など問題は非常に多い。
水力発電は運動エネルギーを直接に電気に変えることができる。水路式は特にそうだ。ダム建設となると、準備段階が大変になる。
火力発電になると設備は大事になるし、電気に変換する元のエネルギーを採掘し運んでくるという大変な手間がかかり、他のエネルギーを電気エネルギーに変える変換のチェーンが複雑で長くなる。原子力となるとウランを掘って濃縮し、廃棄物の処理なんてこと考えると、サプライチェーンはとんでもなく長くなる。
風力発電とは非常に希薄な運動エネルギーを風車で濃縮していることになる。このように今まであまり効率が良くなく、いろいろ問題があって普及しなかったけれど、背に腹は代えられずに風力発電をしなければならないという流れというのが本当だろう。
太陽光にしても、波力発電にしても、新エネルギーと呼ばれるものは総じて在来のエネルギーに比べて、コスト的に劣る、扱いが不便、供給が不安定で競争力がないということは、実は当たり前のことなのだ。人間はバカではないから、コスト的に優位で、扱いが便利で、供給が安定しているなら、新エネルギーなんていうまえに、とうに活用していたはずだ。

まあ、そういう問題を解決していくことが持続可能なのだろうと思えば我慢もできるだろう。
ともかく、人間は頭を使えるのだから我々もがんばるが、子孫にも頑張ってもらおう。
だけど、そう割り切れば、自然は子孫からの預かり物だという論理は、間違っているようだ。今の自然は今の世代が自由に使えるものであり、子孫は子孫で勝手にしろというのが過去からの流れではないのだろうか?

うそ800 本日のまとめ
薄い本ですし、その多くはモデル化の説明です。そのへんは私のような素人は読んでも分りません。どんな条件ならどうなるということだけでも読めばよいと思います。
ぜひお読みください。もっとも蔵書している図書館を探すのは大変です。

うそ800 本日最大の疑問
原始社会が持続可能ではなかったとすると、人間を除いた生態系は持続可能なのだろうか?
これも何とも言えない。
都市伝説なのか田舎伝説なのか分らないが、昔、五大湖の無人島にオオシカが流れ着いて天敵である肉食動物がいない新天地でわが世の春を謳歌していたが、やがて増えすぎて草木を食べ尽くし全滅の危機になったというのです。ところがまことに都合よくそこにオオカミが流れ着きオオシカを食べてくれたおかげでオオシカの数が減り、みながハッピーとなったという話があります。
このときオオシカが600匹、オオカミ20匹だったそうです。
つまり食物網がバランスしていれば持続可能なのだろうか?
だがこの島のお話は、短期間限定だ。この状況が今後1万年、2万年と続くとは思えない。なにしろ五大湖ができてまだ1万年しかたっていないのだから。

原始時代といっても、ホモサピエンスは考える力で必要以上に狩りを行ったということが動物との違いなのだろうか?
本能だけの原始社会において、食うや食わずの状況であれば持続可能なのだろうか?
あるいは、ライオンが我が子を谷に落とすように(これは実話ではなく中国の説話らしい)、強いものだけが生き残り、弱い個体は救わないという処置をする・・というか限界状態の社会ではそれしか出来ない状況だろうけど・・もちろん肉食獣も草食獣も、すればバランスが取れるのだろうか? この辺になると優性主義となりそうでアブナイけど。
../deino.gif 妄想ははてしないが・・・そういう弱い個体を集団が育てることによって、体は弱いが頭の良いのが生き残り人間を持続不可能にしてしまったということもありそうだ。
ひどい骨折の跡があるティラノサウルスが発見され、仲間が治癒するまで餌を運んでいたといわれる。とすると、恐竜が滅んだのは、隕石ではなく、知恵がつきすぎて持続不可能になったためかもしれない。
そういう説は私の知るかぎりないから、私が最初に唱えたとしておこう。

あるいは、人間を含めてすべての種には寿命があって、一種類の生き物が一人勝ちすることは長く続かないのかもしれない。王者が数百万年程度で入れ替わるなら、人間が持続不可能であっても、自然の摂理ともいえる。
「恐竜でさえ1億5千万年続いたのに、人類はたったの数万年だ」と語った方がいる。そんな気もするが、それは詭弁だ。
恐竜が1億5千万年も栄えたというのは、さまざまな恐竜が生きていた時代全体をいうのであって、それと人という種を比べるのは間違いだ。つまり恐竜が1億5千万年も栄えたというなら、哺乳類は今まで5千万年栄えていたし、これから1億年くらいは続くかもしれない。恐竜だって一つの種をとらえれば、たとえばティラノサウルスが生きていたのは約6,850万- 約6,550万年前(ウィキペディアによる)の300万年である。
人という種も300万年くらいは続くのではないかな?
おっと、研究が進むにつれて人の始まりはさかのぼる一方だ。すると、人という種はこれからそう長くは続かないのかもしれない。


名古屋鶏様からお便りを頂きました(2012/9/30)
ある学者は「人間は進化の果てに、肉体を捨てて精神体になるのでは」と語ったそうです。そうすれば何も消耗しませんから「持続する」かも知れません。うーむ、サードインパクトだな。

鶏様
岡崎二郎の国立博物館物語ってところですね
ということは、私の妄想は誰でも考えているってことか

ぶらっくたいがぁ様からお便りを頂きました(2012/9/30)
そういえば、もうすぐ「Q」公開ですね。

たいがぁ様
Q公開の意味が全然分かりませんでした
ネットえググったらエバなんとかとありましたが、それさえもわからず・・・嗚呼、年代が違う
私は明治生まれか


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