ケーススタディ 環境経営3

12.09.19
ISOケーススタディシリーズとは
環境経営環境経営2をお読みになると、ストーリーのつながりがわかります。

山田は岡田から提案があった環境経営についての話に、藤本部長と五反田に同席してもらうことにした。
横山は今日、北海道の関連会社に環境監査に行っていて、不在だ。彼女は残暑厳しい東京から旭川に行けるのを喜んでいた。旭川は涼しいだろうと、山田はちょっと横山が恨めしかった。

山田
山田課長
48歳、入社後永らく営業畑にいたが、わけあって環境保護部に異動して早6年になる。今では環境に関して法規制、ISO規格、監査、事故対応などのベテランである。人を指導するのが得意である。
藤本部長
藤本部長
56歳、ずっと開発を担当してきて事業所長クラスまでなったが、役職定年となり今は環境保護部で一担当者として監査を行っている。
役職定年とは、多くの企業において一定の年齢になるとラインの長(管理者)が解任になる制度。当然、定年よりも数年早い時点に設定されている。
五反田
五反田
43歳、子会社から環境管理の修行のために逆出向してきている。元々、子会社で環境管理をしていたので、環境管理のベテランであり、特に非製造業における環境法規制やISO14001の運用に詳しい。温厚な人物である。
通常出向とは親会社から子会社に行くことで、逆出向とは子会社から親会社に行くことをいう。
岡田
岡田
26歳、今年大学院を修了して入社して、更に社内事情で環境保護部に異動してきてまだ3ヶ月。環境については、教科書と先生の話だけがインプットされた状態。現実の環境管理など見たことがない。

山田
「みなさん、お忙しいところすみません。岡田さんから環境経営とは何かという疑問を出されました。正直なところ、私自身、環境経営というものがなにかわかりません。それ以前に環境経営というものが存在するのかどうかもわかりません。ともあれ、岡田さんから問題提起してもらいましょう。」
岡田
「みなさん、私のためにお付き合いいただきありがとうございます。大学や大学院で企業は持続可能社会を作る責務があり、そのために環境経営を進めなければならないと教えられました。でも環境経営ってどんなことかは教えてくれませんでしたし、先生も分っていなかったのかもしれません。まず疑問のひとつは環境経営とはどんなものなのかということです。
それから持続可能社会を作らなければならないというのが世界の論調ですが、持続可能社会とはなんでしょうか? それは実現可能なのか、そしてそれ以前に論理的に存在可能なのでしょうか?」
五反田
「では私から口火を切りましょう。
ご存じのように私は中企業の販売会社で、長年働いてきたわけです。そのとき、仕事をする上で環境を意識するとか地球環境を保全しようなんて思っていません。おっと、お金を稼ぐ、売り上げを上げることが最大目的だなんて言わないでください。今はそんな時代じゃありません。
仕事をするときは、まず法律を守る、会社の規則を守る、社会通念を守る、約束は守る、うそをつかないという昔からの価値観でしたね。そういう人生を過ごしてきた者から見ると、環境経営と言われているものは、特段新しいアイデアとか価値観ではなく、以前からのビジネスの基本というか事業上配慮すべきことでしかありませんね。なぜ、そんなものにわざわざ環境経営という名前を付けたのでしょうか?
ともかく私にとって環境経営というものは特別なものではないということですね。
当然、そのために何かしなければならないとも思いません」
藤本
「五反田さんは環境経営を、そう考えているのか、私は全く同じというわけではないんだが・・
私はISO審査員になる予定だったので、そういったことを書いてある本をだいぶ読んだんだがね、、、どうもぴったり来ないんだなあ、
なんといったらよいのだろう。私はずっと開発設計の仕事をしていたわけだが、自分が開発する製品には、省資源、省エネ、普遍的な材料を使うこと、そして危ない薬品や毒性のある物質を使わないということは当たり前のことだと思っていた。考えたというよりも、アプリオリということだよね。
それは製品そのものに含まないということはもちろん、加工工程でも、調達先での製造工程でもそういったものを使ってほしくない。だけどそれは地球環境のためという意識は全然ない。まず、そういう設計をすることが、安く、容易に調達できるから、作りやすいから、廃棄するとき問題が起きないからという理由が一番だからだ。それになんというのかなあ、そういうことをするのは倫理的に当たり前だし、そうでなければ寝覚めが悪いというのか、自分の仕事に誇りを持てなくなってしまう気がするからというのが本当のところだね。やはりアプリオリというしかないな。
ということで多くの学者や評論家が環境経営として提示していることは、当たり前以前のことにしか思えない。ただ、私が今までそういうことをしてきたのは、地球保護のためではなかった。単に、それこそ当たり前だからというのが私の思いだ」
山田
「いや、五反田さんや藤本さんのお考えというか感じに、私も同感です。
環境経営だと力説している人の話は当たり前すぎます。私もそれを環境経営というものじゃなく、単なる事業活動においてわきまえるべき常識以前のことだという感じですね。当たり前のことに新しいネーミングをしただけという気がします」
岡田
「大学の先生の話では、企業は公害防止だけでなく製品や事業そのものをもっと環境に配慮したものにしていかなければならないということをおっしゃっていました」
藤本
「私はその直接お話を聞いたわけではないが、岡田さんの話を聞く限りでは、その先生が現実の企業の実態を知らないとしか思えないね。いまどき製品と環境の関わりを無視しているような会社があれば、その会社の製品は売れませんよ。環境だけでなく、社会的配慮というべきだろうか。そういう配慮が足りないと、社会的に糾弾され、ボイコットされるかどうかは別としても製品を買ってもらえません。
途上国の年少者を使って生産していたと言われてナイキがボイコットされたり、体に良い食用油として売り出しても不具合があれば、消費者が動く前に急遽とりやめたりしている。
製品ばかりじゃない。サービスを提供する企業も、社会の常識や倫理に反することはできない。道を外すと、例えば韓流一辺倒だったフジテレビは偏向報道だと批判するデモを何度もしかけられてスポンサーが減ったとか、社長が日本の国益に反した中国におもねる発言をするとネットでその会社の不買の口コミが広がる、生活保護を不正に受給していた芸人には仕事を頼まないとか、社会的制裁を受けることになる。だから、我々はまっとうなことをしないと商売を継続していけない。だからよっぽどのブラック企業でなければ、環境も含めて配慮した企業行動をしているわけだよ。
大学で、現実に存在しないような良からぬ事例を示して、それをいけないと言ったところで、何も知らない学生や市民をたぶらかすことはできても、企業で働いている人たちは呆れてポカンとするだけだね」

五反田
「私は疑問というか、理解できないことが多々あるのですが、まず環境のためという発想がおかしいですね。社会的要求とは、環境だけじゃないんです。情報もあります。情報といっても、個人情報もあるし、情報セキュリティ問題もあります。品質ももちろんです。PL問題が起きないように、そりゃ注意しなければなりません。暴力団や総会屋との関係などは20年前とは雲泥の差です。総会屋と仲良くしているような古い倫理観の経営者が今いたら、株主総会で袋叩きですよ。それほど社会的要求水準は多方面にわたり、その水準は時と共に厳しくなっています」

PLとはproduct liabilityの略で製造物責任のこと。製品に起因して怪我や被害を受けた時、製造者に対して損害賠償を請求するには、PL法以前は、民法の瑕疵担保責任を根拠に、製造者に過失があったことを立証しなければならなかった。しかし過失を証明することは一般人には困難である。それでPL法(1994年制定)では、製品の欠陥(現実には製品によって被害が生じたこと)を示せばよくなった。

藤本
「それを言ったら暴力団やエセ同和だけじゃない。インサイダー取引も、セクハラも昔どころか数年前に比べたらとんでもない状態になっている」
五反田
「とんでもないなんて言ったら藤本さんが訴えられますよ。口先だけでも良い時代になったと言わなければ アハハハハ」
山田
「先日、社内で女性に身長を聞いたらセクハラだと言われましたね。体重ならセクハラかもしれませんが、身長はどうしてセクハラになるのでしょうか?
岡田さんはどれくらいですか?」
岡田
「私は166センチです。身長を聞くことがセクハラかどうか、うーん、人それぞれでしょうねえ〜、身長が160以下では低いという劣等感があり、170以上では高いという劣等感があるのではないでしょうか? セクハラだという人は触れてほしくないところを突かれたと感じるのでしょう」
山田
「じゃあ、岡田さんはその中間で劣等感がないから、身長を聞かれてもセクハラとは言わないのですか?
ところで、横山さんは160ないだろう。彼女に身長を聞いたら危ないかな? 今度試してみよう」
山田はそう言って笑った。
岡田
「私は身長を聞かれてもどうってことはないですね。
ただ、未婚か既婚かとか、なぜ結婚しないのかと聞かれたらセクハラかどうかはともかく、プライバシーの侵害と思います」
藤本
29KB 「昔は職場で年齢を聞いたり、結婚した理由あるいはしない理由を聞いたりすることはなんでもないことだった。当時でも女性は心の中はいやだったのだろうかねえ〜
フフフ、私が若いとき、実験室にヌードカレンダーを飾っているなんて普通のことだったね。当時、取引している代理店はそういったものをもってくると、我々が喜ぶので毎年必ず持ってきたね アハハハハ
もちろん実験室には女性もいたがね、どう思っていたのだろう?」

岡田
「あのう、環境経営とドンドン離れているんですけど」
五反田
「環境経営とは離れているかもしれませんが、実際の経営とは離れていませんよ。いや、実際の経営そのものの話をしているつもりです。
まず、世の中はドンドン変わっているということがあります。そして我々、企業はそれに対応していかないと社会に受け入れてもらえません。社会的要求はたくさんあり、それには環境もありますが、環境はワンノブゼムにすぎないということです」
藤本
「現実を知らない人が語っている妄想を理解しようとして悩むのではなく、現実をみて、そこから考えないと岡田さんの悩みは解決できないのではないかね?」
岡田
「おっしゃることはわかるような気がするのですが・・・・新しく追加されてきた社会的要求はたくさんありますよね。暴力団、情報セキュリティ、インサイダー、セクハラ、しかし環境経営という言葉があるけど、暴力団排除経営とか反社会的勢力対応経営、セクハラ防止経営なんて言葉はありません。そこになにかあるのでしょうか?」
五反田
「まずキャッチフレーズとして反暴力団よりも情報管理よりも、環境経営の方が聞こえがいいからじゃないですか?
それから温暖化とか省エネというと、グローバルで国内的には行政もそういう方向にあること、具体的でないイメージだけだかで細かく突っ込んでくる人もいないこと
おお一番は、何も知らない一般市民にもなんとなくムード的に受け入れられるからじゃないでしょうか?」
藤本
「テレビに一休さんというアニメがあるんだけどね、面白くて私も年甲斐もなく見ているんだ。そこにどちて坊やというのが出てくるんだ。なにか疑問があれば『どちて』『どちて』と追及するんだなあ〜。大人は知っているつもりのことが、問い詰められると実は知らなかったということがばれてしまう。
岡田さんも先生が仮に『環境経営は大事ですよ』と語ったなら、『環境経営の定義はなんですか?』『どうして大事なんですか?』『その証拠はなんですか?』『じゃあ環境経営をしている事例としていない事例をあげて、差を説明してください』とか、いろいろ聞いてみるべきですね。
先生が語ったことがわからないからと、我々に質問するのは筋違いです。我々も、その先生の語ることが理解できないのだから」
山田
「まあまあ、岡田さんを問い詰めてもしょうがありません。いずれにしても環境経営というものが、明確に定義されていないので我々はわからないということが結論のようですね。
では持続可能性についてはどうでしょうか?」
藤本
「これまた不思議に思っているのだけど、持続可能性とは、いったいどういう意味なのだろう。いやいろいろと言われているのは知っている。先ほど言ったように、私は環境というタイトルの本は片っ端から読んだからね。だけど明確に、持続可能性とはこれこれしかじかと説明したものはなかったね。
まず持続可能といっても人間を中心した考えであることは間違いない。そのとき概念として二つ考えられる。『ある生活環境が長く続くこと』なのか、『環境変化があっても人間が長く生き続けること』なのかというだ」
岡田
「国連の報告書では『将来の世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、今日の世代のニーズを満たすような発展』とあります」
藤本
「ということは、私が今あげた後者であるということになるのかな?
であれば環境の変化や生活の変化があってよいというか、発展なのだから変化しなければならないことになる。いや、変化がなければ発展ではないわけだから、常に変化し続けなければならないわけだ」
岡田
「それはどういうことなのでしょうか?」
藤本
「どういうことって? 簡単さ、自然環境を維持する、自然保護すると言ってもいいが、それは持続可能社会の前提ではないということだ。いや、人間社会だけでなく自然環境を変革し続けることが持続可能であることになるのではないか。
更に演繹すれば、自然を破壊することによってのみ持続可能と言えるようにも思える(参考図書1)。
もし、持続可能が自然環境の改変を行わないということであるなら、発展をどう定義するかという別の問題が起きる」
五反田

「イギリスがゴルフ発祥の地と言われていますが、あの草原は森林を切ってしまったからあるわけで、その理由は造船や製鉄だったのですよね。欧州の森林を食い尽くす前に・・・」

藤本
「幸いに新世界が見つかり、欧州を食べつくす前にアメリカ大陸を食べ始めたわけだ。
人間社会は常に自然を消費することで回っていたんだ。自転車操業が続けられるのは、新しい資源と市場がある場合だけだ。そういう意味では発展が無限に続くことはありえないように思うが」
五反田
「借金とか国債の借り換えのようですね」
山田
「私はずっと持続可能とは生活環境が変わらないことと考えていました。だから、人間の長い歴史の中で持続可能な社会は旧石器、新石器時代だけと思っていました。持続可能社会とは、発展が持続するという意味にとらえれば、私はまったくの勘違いだったのですね」

『持続可能社会とは原始社会しかない』という研究者もいる。

五反田
「石器時代は、どうして持続可能といえるのですか? 石器時代から環境破壊は進んでいたと主張する人もいますよ。(参考図書2
それに、気候変動、いや単に短期間の雨不足とか日照不足でも、餓死者が出たと思います。そんな脆弱な生活や社会を持続可能といえるでしょうか?」
山田
「旧石器時代は何万年も続いたと言われている。当時の人間の寿命はせいぜい20数年から30年でしょう。平均寿命じゃないですよ、長寿者でそんなものでしょう。
だから1万年は当時の人の感覚からいえば永遠でしょうね。だから私は持続可能社会と思っていました。
石器時代がそれほど長く続いたということは、進歩がなく生活様式が変わらないということですが、それは自然破壊があったとしても、きわめて少なく、人間が変わらなくても良かったということです」

ハーバード大学の呉 柏林助教授によると、石器時代の平均寿命は15から20歳という。

五反田
「でも農業が始まってからも人間の歴史は続いていますよ」
山田
「そこは見解の相違というか、何が持続しているか着目しているところが違うのですが・・・
ともかく時代が下って古墳時代以降になると人間の暮らしの変化というか進歩が激しくなります。私はその頃の生活がどんなふうか知りませんが、平安時代になれば100年経てば暮らしが相当変わっていたと思います。それは進歩でしょうが、同じ生活様式が続いていないという意味では、持続していないわけですよね」
藤本
「我々に身近なゴキブリは1億年前から『あの姿』のままだという。持続することを目的とするなら進歩がないのが一番かもしれないな。それを人間のあるべき姿と言えるかどうか・・」

ゴキブリのたとえ話のアイデアは、同志 名古屋鶏様より拝借しました。

山田
「そんなことを考えると持続することに価値があるとも言えないですね。単に長期間持続することを追求しないで、一時だけであっても頂点を目指すという生きかたもあってもいいかもしれないですね。
自然は子孫から借りているという言い方もあります。でも個人生活で遺産を残そうとする人と、残さなくても良いという人がいますね。それと同じく、地球環境を子孫に残すことはないという考えも間違っていないともいえるんじゃないでしょうか?
ともかく、持続可能性が至上の価値とする根拠もなさそうです」
藤本
「そう言われると、そんな気もするが・・・持続可能性を至上とする理由はなんだろうか?」
五反田
「単に人間という種が長く存続したいという、生物としての欲求じゃないのでしょうか?」
岡田
「先ほど申しましたが、国連の定義というか報告書では『将来の世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、今日の世代のニーズを満たすような発展』というのですから、そこで示している持続するものとは人間の暮らしが豊かで幸せで、それが続くことなのではないでしょうか?」
藤本
「見解の相違といえるかもしれないが、『発展すること』が『持続可能』というのは語義矛盾のような気もするね。発展することを否定はしないが、それを持続可能というのは?」
五反田
「それは単なる政治の問題でしょう。いい暮らしをしたいという途上国と、自然を残したいという先進国の間を取った妥協の産物にすぎませんよ。そんなキャッチフレーズを真理だと思うことはありません」
山田
「疑問なのですが『同じ生活を続ける持続可能性』はありえるかもしれない。でも『発展するという状態が続く持続可能性』は存在可能なのだろうか?」
五反田
「山田さん、ツッコミじゃありませんが『同じ生活を続ける持続可能性』は存在したことがありません。それをしているのを動物と言います。
さきほど山田さんは旧石器時代は進歩がなかったとおっしゃいましたが、進歩がなければ旧石器時代が新石器時代になりません。人間はイブの時代から常に進歩してきたわけで、『発展するという状態が続く持続可能性』のみが存在したにすぎませんよ」

山田は五反田のツッコミでうーんとうなってしまった。
確かに、人間は進歩しなかったという時期がない。イブといってもアダムとイブのイブではなくミトコンドリア・イブの時代から、ずっと継続して人間は進歩してきた。山田が考えていた旧石器時代だって進歩があったから新石器となり青銅器時代となり、今があるわけで、つまり人間社会は常に進歩が持続していた。
持続可能は存在するのか 進歩することによって存在できるとすると、いや進歩することによって人間たり得るのかもしれない。すると、人間というものは、回転しているから立っていられるコマのようなものか? 回転が止まればコマは倒れるように、進歩が止まれば人間でなくなるのだろうか?
そして進歩の過程で必然的に、環境を改変し、他の生物を滅ぼし、資源を消費するとなると、人間の原罪だな。いや、まてよ、始めの生物はすべて植物、つまり自分が栄養を作り出すものだった。いつのときか、植物が作った栄養を横から盗んで生きるという動物が現れた。人間の食べているものはすべて他の生き物の死体だ。それこそが人間の原罪なのだろう。
持続可能性というものを『発展すること』=『変化すること』ととらえるなら、藤本の言うように語義矛盾だ。持続を優先するなら、どのような変化も拒否するべきではないのではないだろうか?
反対に発展を人間の性(さが)と考えると、地球を食いつぶした後は、宇宙に出るしかない。昔、唯物史観では永遠の生命を得るには宇宙に行くしかないと言っていたが、あれは真理だったのだろうか?
そう考えている山田の耳に藤本の言葉が聞こえてきた。

藤本
「ところで五反田さん、さっき石器時代の生活が脆弱だと言ったよね。それって、逆じゃないか? 現代文明の生活の方が脆弱だと思うよ。
例えば、東日本大震災を考えてごらんよ。現代だから財産を失ったり田畑を失ったりインフラが壊滅してしまう。もし野生の栗を食べていた縄文時代だったら田畑はなくインフラもなくダメージは少なかったろうし、もっとさかのぼって家もないような暮らしの時なら、失うものがないのだからまったくダメージを受けないわけだ」
五反田
「おっしゃるとおりそういう論を唱えていた人がいましたね。フェイガンでしたっけ(参考図書3.4)。そうそうロンボルグもそんなことを言ってましたね(参考図書5)。確かにそうも言えますね。
確かに人間が発生したときから天災はあったわけで、いやそれそんな大規模な異常でなくても天候不順や病虫害で生きるのが精一杯の時代が長かったでしょうね。とても持続可能なんて語っていられなかったはずですよね。そうしますと、持続可能を考えるようになったのは、社会や個人の暮らしの将来の見通しができ、安心できる暮らしになったからとも言えますね」
藤本
「なるほど、そうか! 私の親父の世代では老後という考えはなかったと思う。私が生まれたころ、日本人の平均寿命は60歳で、その頃の定年は55歳だったから老後を心配する必要がなかった。
年金問題というが、働かない人が生きているということ自体、人間の歴史では異例なことだろう。働かぬもの食うべからずというのは、生物として当たり前のことだからね。持続可能性を心配するということは、人間が相当豊かになったということなのだろう」
五反田
「年金問題といわれていますが、根本的な原因を突き詰めれば少子化とか不払いなんて関係なく、寿命が延びたので、若死にする時代に作った制度が合わなくなっただけと違いますか」
藤本
「まあ、そうだろうね。もちろん働かない時期をもつことは悪いことじゃないけどね、
いや、私がそういう年代に近づいているのでそう思いたいだけかもしれないけど」
五反田
「ギリシア時代、学問は有閑階級の知的遊びだったと言います。今、持続可能が問題になっているのは文明国で働かなくて良い人が出現して、その人たちの知的ゲームかもしれません」
藤本
「そりゃそうだよね。HIVや栄養失調などで平均寿命が短い国々で、若い人だって明日を知れない身なら、何世代も後の世界を考える意味がないよ。
日本だってほんの60年前までは結核は若い人たちの恐怖だったからね。」
五反田
「正岡子規ですか、もっと古いけど、沖田総司や高杉晋作も結核だったそうですね。
そういう社会は、今日生き残る、今日の勝負を勝たないと明日がないという甲子園のような状態ですからね。持続可能を語っている人は、今日は負けても明日があるし来年もあるというプロ野球のような余裕があるのでしょう」
藤本
「死亡率が高くて、産めよ増えよ地に満てよと言わなければならない世界が持続可能なのかもしれないね」
五反田
「うーん、ある意味そうかもしれませんねえ。そういう社会は人間が増えすぎるということがないでしょうから、自然に対する圧力が低いかもしれません。
おっと、ちょっと待ってください。ギリシア時代は寿命は短かく今より人口が少なかったでしょうけど、彼らはエーゲ海の森林を食いつぶしてしまいました。よって今の私の発言は事実に反しますね。山田さんがさっき語ったように、石器時代から環境破壊はあったということは、持続可能は本質的に存在しないということに尽きるのかなあ」
山田
「ちょっとちょっと、お忘れではないですか?
そんなこと40年も前にメドウズが回答を出していたじゃないですか。どんなシナリオでも未来はないってね(参考図書6)」

岡田はふたりの唾を飛ばす激論をあっけにとられてみていた。
山田はその様子を見て、これが真の勉強だろうと思う。山田は岡田との話に、藤本部長と五反田に入ってもらって良かったと思った。
大学では正しいか否かよりも、先生が期待していることを回答すれば合格点はもらえる。しかし、会社、いや社会でぶつかる問題にはどのような方法でアプローチしたらよいかわからないものが多いし、そもそも解答があるかとうかもわからないのだ。
二人がそれぞれ思うことを話してくれて、岡田も勉強になっただろうと思った。山田一人では岡田はそういう現実を認識させることはできなかっただろう。
このとき山田は、横山横山が帰ってきてから、なぜ私を除け者にしてこの話に参加させなかったのかと、文句を言ってくるとは予想もしなかった。

うそ800 本日のお願い
私のような浅学な者の持続可能性や環境経営の論には、皆様ご異議がございましょう。ぜひともご教示をお願い申し上げます。
とはいえ、環境経営とは植林することとか、電気自動車にすれば石油がなくなっても大丈夫という知的、いや稚的レベルのアイデアは願い下げでございます。

 参考図書
  1.「緑の世界史(上・下)」ISBN4-02-259603-1 クライブ・ポンティング(1994)
  2.「狩猟採集から農耕社会へ」ISBN 4585001611 原 俊彦 (2001)
    「石器時代の経済学」ISBN 4588001337 マーシャル・サーリンズ(1984)
    「旧石器時代の社会と文化」ISBN463454010X 白石 浩之(2002)
    「石器時代文明の驚異」ISBN4309223524 リチャード・ラジリー(1999)
  3.「歴史を変えた気候大変動」ISBN978-4-309-46316-2 B・フェイガン(2009)
  4.「古代文明と気候大変動」ISBN978-4-309-46307-0 B・フェイガン(2008)
  5.「環境危機をあおってはいけない」ISBN-4163650806 ビョルン・ロンボルグ(2003)
  6.「成長の限界」ISBN・・なし ドネラ・メドウズ他(1972)
お暇ならこちらもお読みください
しかしあれから9年も経っているのに、私の考えが変わらないとは、いかに私が成長しないかということです。


さっそくぶらっくたいがぁ様からお便りを頂きました(2012/9/19)
「環境経営」ってのは、いわゆる環境ビジネスのことでは?


たいがぁ様 まいどありがとうございます
なるほど、普通経営と言えばマネジメントかと思いましたが、辞書を引くとビジネスというのもありました。しかもビジネスは商売とも
つまり環境経営とは環境と名前を付けた金儲けか・・・

名古屋鶏様からお便りを頂きました(2012/9/19)
無印良品を展開する良品計画では、エジプトで作った非農薬栽培のコットンを中国の縫製工場で草木染めを施し、日本に輸出して「オーガニック・コットンのタオル」として販売しているそうです。これがいわゆる世間さまでいうところの「環境経営」なのでしょうか?
いや、「素直に日本でつくった方がエコじゃね?」と聞くのは「環境ビジネス」を邪魔するヤボってものなのでしょうか。

名古屋鶏様
そうです、それは野暮ってものです
環境に良いとは、真に環境負荷が少ないことではなく、環境に良いと思わせることなのです キリッ
そして稼いだ金で反日デモをするのが環境に良いのです。
そんなわけあるめー


たびろ様からお便りを頂きました(2012.10.21)
はじめまして、サイトータ様のファンです。
おいらもISOの内部監査員の免状(STS住友電工の子会社)主催のやつ)を持ってまして、曲がりなりにも「専門家だ」という意識もあり(笑)頑張ってきましたが、願わないまま会社の籍が変わってしまう状態だったこともあり(´・ω・`) 「一生懸命頑張る」って意味があるんだろうか?などと疑問を持っている状態だったんです。

眼からウロコって簡単にハナシできる内容ではない話に本当に感動して書き込みさせてもらいました。
ありがとうございました。読み続けます。
おいらも、おいらが置かれている立場で頑張ります。
おやすみなさい♪

たびろ様 おたよりありがとうございます。
ISOというものといいますか、仕事や部門があるのかといえば、ないというのが答えでしょう。
会社の仕事はしっかりやっているはずです。それを外部の人に説明するときのチェック表というか、チェック項目がISO規格なのだと思います。
今の仕事に自信を持って、それを説明することがすべてかと思います。
またお便りくださいね


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