ケーススタディ 環境経営2

12.09.15
ISOケーススタディシリーズとは

非製造業の関連会社に対する泊まり込みの環境教育が一段落して、山田は監査報告書のチェックなど溜まった日常業務を片付けている。
いずれ横山を育てて監査事務局を務めさせようと考えているが、彼女に任せられるようになるには半年や1年はかかるだろう。
監査員に必要な力量と監査事務局に必要な力量は相当異なる。レベルの違いもあるが、なによりもカテゴリーが違う。もちろん単なるスケジューリングとか納期フォローならだれにでもできるだろう。しかし、監査方針案の策定、プログラムの立案、監査員の力量を見てアサインすること、出てきた報告書の内容を確認して、不明点や問題点があれば・・それは常にあるのだが・・それを究明して、内容によっては被監査部門やその上位組織である事業本部の管理者と交渉したりして処置・対策を打ち合わせ決定して、監査報告書を遺漏なく問題なくまとめて役員へ提出する、そして監査員の力量を評価して、育成していくべきか、あるいはもう次回以降は仕事を頼まないかを決めるなど、単なる監査員とは少しばかりレベルが違う。
もちろん藤本部長のように初めから力量のある人もいるが、彼は別格である。彼は元々が事業所長だったのだから。言い換えればここにいるのが間違いなのだ。
ともかく今、山田は机にたまった書類とパソコンのメールを一つずつ片付けている。目の前の仕事を片づけるのに、今日一杯、いや明日も半日はかかるだろう。もちろん、明朝になればまた新しい仕事が積み重なるのだが・・
監査事務局の仕事がどんなものかを知らず、またその力量がなくて監査事務局を担当している人は多いだろう。それではすばらしい監査は・・できないはずだ。
まあ、オママゴトで報告書を役員にださないならそれでいいのだろう。
いや社長や役員に報告するにしても、監査が重要でないならばそれでも問題ない。

いつのまにか、岡田が山田のそばにいて話しかけてきた。 岡田
岡田
「山田さん、先日環境経営のお話を伺いましたが、もしお時間があればまたお話を聞かせていただけませんか?」

だいぶものの言いようというか、スタンスが変わったものだと山田は心中思った。先日はだいぶタカピーだったが、今日は下手に出ている。

山田
「申し訳ないが、ここ数日出張していて、溜まった仕事の処理でバタバタしているので、今日はだめだね。ご相談の内容をメールで送っておいてください。話し合いをする前に、それを拝見しておけば話が早いでしょう」

岡田はうなずいて自席に戻った。

山田は山となっているペンディング事項を片端から処理していった。一段落したともいえないが、夜も8時になったので、切り上げるとした。省エネ規制が厳しい今は、夜7時になるとエアコンが止まり、8時になるとかなり室温が上がりオフィスワークはつらい。
帰宅前にメールをチェックすると、たくさん入ってはいたが、岡田から件のメールをみつけてプリントして持ち帰った。
夜8時過ぎの千葉行総武快速は混んでいる。もちろん東海道や常磐線に比べればまだ良いほうだとは聞いているが、通勤するものとしては楽しい時間ではない。山田は吊り輪をつかむと窓の外をながめていたが、岡田のメールをと思い出してポケットから取り出した。

岡田からのメールは一瞥しただけで、かなり長文であることが分かった。A4サイズで1ページぎっしりと文字が詰まっている。


山田は岡田のメールを読んで、岡田という人間は単に自己主張が強いのではなく、まじめというか几帳面というか神経質な人だと思った。なにごとについても納得しないと心理的に落ち着かず、仕事が手につかないのだろう。横山にしろ藤本部長しろ、五反田氏にしても、みな会社ってお金を得るためとある程度割り切って、仕事をしていると思う。山田自身がそうだ。環境のために仕事をしているという認識はない。家族を養うために働いているわけで、環境でなくても営業でも資材でもいやではない。それは不純というのか、大人というのかわからないが、世の中はそういうふうに割り切らないとならない面はある。
しかし岡田は幼いというのか子供じみているというのか、まじめというべきかは、わからないが、自分のしていること、いやすべきことを真剣に考えて、納得しないと動けないような人なのだろう。

山田は環境経営っていったいなんだろうかと思いめぐらした。正直言って山田は今まで環境経営というもの、あるいはそういった概念が存在すると考えたことはなかった。企業いやすべての組織の目的は、ありていにいえば存続することだ。1970年頃ドラッカーがそう語っている。ドラッカーを持ち出すまでもなく、すべての組織はなにごとかの目的を実現するために設立される。しかし一旦生まれると、それが存続することが目的となる。存続するために存在するというと再帰代名詞のようだが、現実には間違いなくそうであろう。
ともかく、経営とは己の組織が将来にわたって存続するために、行動や思考をコントロールすることである。

考えが飛んでしまった。会社あるいは組織は存続するために内部・外部に諸活動を行うが、その企画統制を行う機能が経営である。環境経営と呼ぶものは、その経営の中で環境と関わる部分だと山田は考えている。
いや、山田が考えるだけではなく、ISO14001序文にそう書いてある。
環境経営とは、経営から環境を考えるのではなく、環境から経営を考えるのが環境経営だと語る人もいるが、言っている意味が分からない。じゃあ、その違いはなんだと聞きたい。どうもそのニュアンスは経営という仕事の一部が環境経営ではなく、経営において環境というものを尊重することを意味するように思える。あるいは経営全体が環境に染まるのか、経営よりも環境が上位にあるのか?
それも変だ。
会社の業務のひとつをとりあげて経営においてそれが重要だというのもおかしなことじゃないか。類似のものに品質経営という言葉がある。これまた定義もなくいい加減に使われている言葉だ。ともあれ、それなら調達経営という言葉があるのか、財務経営という言葉があるのか、人事経営というものが・・
会社の仕事はたくさんある。経営においてそれらすべてが重要であるが、ワンノブゼムであることも間違いない。トリプルボトムラインというように、利益だけでもダメ、環境だけでもダメ、いろいろな社会的要求すべてに対応して合格点をとらないと企業は存続できないのだ。なにものかひとつが特に重要とか突出しているわけではない。現代の企業は損益だけでは存続できない。倫理遵法はもちろん、社会が期待するようにマナーを持って上品に立居振る舞わないとならない。品質や環境は要求事項のひとつだと考えればいいじゃないか。

ところで社会が遵法を求めるのは当たり前すぎる。かっては工場から公害を出さないとか、工場省エネや廃棄物削減がテーマであったが、今は製品が環境配慮というのがテーマとなっている。それはつまり製品の原材料調達から、使用、廃棄までのライフサイクルを通じた環境負荷をミニマム化することが要求されている。その趣旨はわかる。しかし、環境配慮設計というのも、現実に可能なのだろうか?
実現する以前に、評価することも不可能のように思える。
東日本大震災以降、省エネは至上命令であるが、それ以前から産業界、一般家庭においても省エネが重要であることは論を待たない。

しかしである、
省エネのためモーターの能率向上をはじめとして、さまざまな製品でレアアースを使う例が多くなっている。しかし尖閣列島での中国人の不法領海侵入に起因した中国のレアアース輸出禁止でそれにも冷や水がかけられた。だがレアアースは中国の環境破壊そのものといえるような採掘とひどい労働条件において産出されている。だからレアアースを使うことは、総合すれば真に環境に貢献しているのかいないのかは定かではない。レアアースなど使わずに従来の効率の機器の方が環境配慮かもしれない。もちろん従来の原材料で効率向上が図れればもっと良いが・・
おっと、ライフサイクルアセスメントによる評価をすればいいじゃないかと言う声が聞こえる。しかし多くの企業、特にアッセンブリー産業においては、素材更には原材料採掘のデータがなく、流通と組み立て限定のLCAにとどまっている。中国の採掘を含めたら、環境負荷以前に、倫理道徳に反するという結論に間違いなくなるだろう。

一体、環境経営を主張している人、あるいは環境経営と言う言葉を使っている人々は、その言葉にどのようなイメージをもっているのだろう? あるいは明確に定義している人や組織はあるのだろうか? 定義をしっかりしないで議論してもしょうがないと、山田は環境経営を考えるのを止めた。
そんなことを考えているうちに、山田は降りる駅に着いた。山田は混み合った車内から出てほっとした。

../train.gif../train.gif../train.gif../train.gif../train.gif

夕食の後、妻と娘としばし団欒してから山田は自室にこもり、インターネットを使って環境経営というものがどのような意味で使われているかを探ってみた。
まず環境経営とか持続可能性/サスティナビリティというタイトルの本はどれくらい出版されているのだろうか?

「環境経営」という語を含むタイトルの本は1998年以降に発行されている。他方、「持続可能性」あるいは「サスティナビリティ」のいずれかの語を冠した本は、1993年以降発行されている。例のリオの会議からのようだ。
つまりそういった言葉は古くからあったのではなく、本が出版されたはじめた頃から使われるようになったと思われる。

環境経営やサスティナビリティというタイトルで発行された本
環境経営やサスティナビリティというタイトルで発行された本

そしてその増減であるが、持続可能性は2005年頃から興隆を極めているようだ。他方、環境経営はあまり数としては多くはなく毎年5冊くらい発行されている。環境経営となると、対象者が企業に限定されるからだろうか? サスティナビリティとあれば、一般市民から、学生、企業まで全方位だから・・
果たしてそれらの本では、環境経営や持続可能性をどのように定義しているのだろう?
岡田と話す前に、これらを調べる必要があると考えた。

山田は本棚を見渡した。山田はけっこう環境に関する本を買っている。中には読まずに何年もほおってある本もある。本棚にも「環境経営」「持続可能性」あるいは「サスティナビリティ」のいずれかの語を冠した本は何冊もあった。山田はそれを引っ張り出した。都合8冊あった。すべて読んだことのない本だ。家内に読んでいない本がこんなにあると知られたら、お叱りを受けることだろう。いや環境以外の読んでいない本もあるわけだから、読んでいない本全部合わせるといったい何冊あるのか、何万円になるか想像もできない。
なになに「環境経営とは一定の利益を確保しながら、環境保全のための諸活動を推進する経営の考え方と方法論である」(参考資料2
当たり前すぎてまったく無意味な文章だ。そんなものならなぜわざわざ環境経営という語を作らなくても良い。いや、言い方を変えると日本のすべての企業は環境経営をしていることになる。
この本には電気自動車のすばらしさが書いてあるが、その電気をどうして作るかが書いてない。魔法で発電するのかもしれない。
ある本では環境経営を熱烈にほめたたえている、しかしそれがどのようなものか定義も説明もない。
おっと、「環境経営が会社の将来を決める」(参考資料3)で環境経営のテーマとしてとりあげているのは、CO2削減、土壌汚染対策、リサイクルなどだ。そんなものわざわざ立派な環境経営なんて名前を付けるまでもなく、当たり前の会社なら対応していて当たり前じゃないか?
「環境経営のルーツを求めて」に至っては、環境経営とはISO規格あるいはその認証をすることのように考えているようだ。見当違い、お門違い、勘違いも甚だしい。山田はこういう発想は環境管理をしたことがない人でないとしないだろうとあきれた。

持続可能性に関する本も、ただひたすら大仰に世を憂いて声を張り上げている感じが否めない。
持続可能性の定義は1987年の国連の報告書の「将来の世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、今日の世代のニーズを満たすような発展」を引用しているものが多い。ハーマン・デイリーとかナステップチュラルを引用しているものもある。(参考資料4、5
ハーマン・デイリーの語る「3つの不等式原則」はもっともらしく聞こえるが、それが可能とは思えない。ナチュラルステップも同様だ。
山田は本を読むのが早い。文章を全部読むのではなく、文節の冒頭、末尾に要点があるから、まずそこを読む。そして興味があればその文節を読み、重要でないと判断したら次に進むのだ。

面白いことが書いてある。持続可能性が崩れたのは18世紀以降だとある。環境破壊が進んだり、持続不可能になったのは、産業革命以降ではない。人類が行った最大の環境破壊は農業であり、メソポタミア文明はそれによって崩壊したのではなかっただろうか?
焼畑農業から定着農業になったときが、持続不可能になったときだと山田は考えている。
もっとすごいのは「トトロの時代に帰れば自然は守れる」というのもある。トトロとは宮崎駿のアニメで、時代設定を昭和28年(1955)としている。まさか、あなた、昭和28年の日本なら持続可能だと思う方はいらっしゃらないでしょうね!
いや、もっとすごいのがある。持続不可能になったのは20世紀後半だというものさえある。(参考資料6
いくらなんでもそりゃありえない。それは持続可能性のある社会を作ろうと言った時に、一般人から生活水準が下がるのは嫌だという反発を受けないためなのだろうか?
ともかく、この本は突っ込みどころ満載だ。金属は半永久的に再生できるのだそうだ。鉄についていえば、日本の建物や構造物になっているものが10億トンあり、もう採掘しなくてもこれらを屑鉄として再利用すれば間に合うという。そうであれば大変すばらしい。しかし山田には大いに間違っているような気がする。単なる鉄、つまり性能がどうでもよいというなら再利用できるかもしれない。しかし現在の主力である鋼材、例えば高張力鋼、ステンレス、その他高機能、高性能の鋼材を屑鉄からは作るのは難しい。
とにかく、この本の著者は持続可能性というものを簡単に考えていることは明白だ。サスティナビリティ経営の事例をいくつもあげているが、3Rの推進、セル生産方式、ノンフロン冷蔵庫、ハイブリッド車などをあげている。持続可能(サスティナビリティ)ってそんなに簡単に実現するものだったんだ 笑
「持続可能な発展」(参考資料7)という本は、過去の書籍や講演などの集大成であるが、ミルの「富及び人口の停止状態」という発言をとりあげている。確かにこれは「持続可能な発展」という詐欺的表現よりはまじめな言い回しのように思える。だが「富及び人口の停止状態」であれば持続可能であるという説明もない。オイオイ持続可能というものは、可能なりや?

これら持続可能性や環境経営の本を書いている人は、深く考えず、単に環境が流行だから、それに乗って本が売れるだろう程度に考えているのではないだろうか。いずれにしても新しいアイデアがあるとか、己の主張を聞いてほしいというコンテンツ、中身はないようだ。

時計をみると、とうに真夜中を過ぎていて、12時40分を指していた。もう遅いから寝ようと思う。しかし、山田は正直、岡田との話は重いなあと感じた。岡田がまじめに悩み考えているなら、山田もそれなりに対応すべきだ。通り一遍の考えで回答するのもはばかれる。
とはいえ、山田自身がそういうことを突き詰めないと真の環境保護部の運営は難しいだろうという気もする。単なる遵法と事故防止の監査や指導なら、哲学的な環境保護の意味を知らなくても済むが、環境担当役員や環境保護部長となればそういう哲学的なことを理解していなければ務まらないだろうと思う。今の環境担当役員や廣井はどうなのだろうか?
ふと山田の頭に思いもかけない考えが浮かんだ。自分が環境保護部長となって、鷽八百グループの環境管理を行っている風景だった。
一瞬の後、山田は笑ってその考えを打ち消した。

うそ800 本日の裏話
このくだらないお話を書くために、環境経営を語っている人はどんなイメージを持っているのだろうと、図書館にいってタイトルに「環境経営」とか「持続可能性/サスティナビリティ」という語を冠している本を何冊も斜め読みしました。そして、これはと思うもの借りたのですが、それだけでも8冊になりました。もちろんそれは読破したわけです。しかし環境経営って定義もないし、気分だけの言葉のようですね。気分だけで環境保護とか持続可能が実現するなら簡単です。

うそ800 本日の言い訳
ここに書いたように山田が一晩で今までに発行された本を調べたり、中身まで読んだりできるはずがないとおっしゃる方もいるだろう。
そりゃそうだけど、まあ、物語の筋をつなげるには多少の無理はやむを得ない 笑

うそ800 本日の懸念
いやあ、だんだんとあぶないことを書いてますね。
ISOだけでなく、大学の先生までまな板に載せてしまいました。

続きを読みたい方は→環境経営3


 参考資料
 1.実在するが、あまりにもおばか本なのでタイトルは実名ではない。
 2.「環境経営論」秋山ほかISBN978-4-7944-2301-6 1200円
 3.「環境経営が会社の将来を決める」唐住尚司 ISBN4-8061-1867-2 1600円
 4.「実践環境経営論」堀内ほか ISBN4-492-50156-8 2800円
 5.「サスティナビリティ学」小宮山ほか ISBN978-4-13-065121-9 2400円
 6.「サスティナビリティ経営」三橋規宏 ISBN4-06-282034-X 2200円
 7.「持続可能な発展」淡路ほか編 ISBN4-641-07191-8 4300円



名古屋鶏様からお便りを頂きました(2012/9/15)
中世における錬金術の「成果」は金の人工生成ではなく、その過程において発明された硫酸や硝酸といった化学物質だという説があります。「持続可能性」もまた、そうして夢物語から有用な副製品を生み出すお題目となるのでしょうか。
それとも森田■作よろしく「皆んな、あの夕陽に向かって走るんだぁぁ!」で「走ることそのもの」に意義を見出すのでしょうか?その場合は「いや、地球一周走っても追いつきませんから」と正論を吐くのはヤボなのかも知れませんw

鶏様 毎度ありがとうございます。
最近は早い飛行機なら日没を追いかけることができるそうですよ。
昔、手塚治虫のまんがで太陽が西から上るというのがありましたが、知らんでしょうなあ


外資社員様からお便りを頂きました(2012.09.18)
岡田さん 面白いですね。
キリストの弟子トーマスにみたいです。
トーマスは、復活したキリストに向かって、別人ではないかと疑い、槍で刺された傷口を確認した人です。
キリスト教でも、納得してから信仰するというのは大事だとしている代表みたいな話です。
言いかえれば、傷口が無く、復活が事実として納得できないならば、信じないという事です。
ですから、自分が納得できるように「持続可能な社会」について掘り下げてゆくことは良いことですね。

持続可能な社会の一例は、鎖国で成り立った江戸時代や、老荘思想が理想とする「隣村の鶏の声が聞こえるくらい近くても行き来しない」世界でしょうか。
江戸時代の場合には、輸入品は殆どありませんが、情報は入ってきています。
ですから、自国の輸出入は閉鎖して、情報のみ取り入れるというのはありかもしれません。
とは言え、情報のやり取りで、若い人は海外の物品に憧れや渇望を持ちますので、その情報は遮断するか、強固な意志か信仰でも持てない限り実現が不可能に思えます(笑)

現代の工業をささえる鉄は、高度な精錬技術が必要で、それを無視した毛沢東の大躍進運動は散々な結果になりました。
現代の出雲で、古代たたらを再現して、日本刀用の鋼を作っていますが、微小な需要を満たすだけでも複数の山も持ち大量の木が必要です。 宮崎アニメを見れば、中世の武器用の鋼を作るだけでも、山をいくつも丸坊主にして、川や湖を汚染してゆく様が描かれています。
トトロの世界を夢見る人は、不都合な描写は無いものとするのでしょう。
武器用で無くとも、農具、木工加工用の刀、建築用機材にも鋼は必要なので、それをあきらめるならば上古レベルの生活を受容する必要です。となると老荘が夢見る村が持続可能な世界なのかもしれません。

そこまで時計の針を戻すには、どれだけの人口が減り、寿命が低下する必要があるかが興味深いです。

外資社員様 毎度ありがとうございます。
まず、トーマスの件
私もキリストがよみがえったとき、疑った使徒がいたという記憶がありましたが、トーマスという名前は知りませんでした。外資社員様は聖書をそらんじているのでしょうか? それはすごいですね。
ただ、キリストがトーマスに「あなたは私を見たので信じたのか。見ないで信じる者は、幸いである」とのたまっているので、疑い深いというか論理的な考えではだめだということかとおもってました?

それと、私はすっかり「もののけ姫」を忘れていました。宮崎駿は古代であっても持続可能ではないと回答をだしていたのですね。トトロの時代なら持続不可能であるのは間違いないでした。

どれだけの人口が減り、寿命が低下する必要があるか
数か月前に、外資社員様に中国の本を読めと教えられてからいくつか読んでますが、中国では過去何度も戦乱や飢饉などがあると、人口があっというまに数分の一になっています。もちろん全員死んだのではなく、タイやベトナムのほうに流れて行ったりしたのでしょう。しかしそういうのをみると、今の60億の人口があっというまに数億になるのはあり得るという気がします。まさにカタストロフです。
キリストの時代、世界の人口が2億から3億といいますから、そうなってもう一度やりなおしというのがありそうな筋書きに思えます。
いつか? と言われると、私が死んでからにしてほしいですが・・・


ケーススタディの目次にもどる