「街角のエコロジー」

22.01.27

お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからとりあげた本の内容について知りたい方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。


この本は20年も前に出版されたものである。なんで今頃? と思われるかもしれない。
定年退職者の私は自腹を切って本を買うなんて、文字通り腹を切るに等しい。だからもっぱら図書館の本を借りる。

私の読むカテゴリーは、技術史とか環境とかISO関係だ。図書館の書架にあるそういった本はほとんど読んだ。とはいえ大学でなく市の図書館だから、環境とか公害の棚にある本はたかが知れる。500冊はないだろう。9年間も定年退職者をしているのだから、既に読み尽くした。

今は図書館に行くたびに新しい本がないかをチェックするだけだ。もちろんあれば借りてくるが、読んでためになったと思う本はめったにない。
環境も流行を過ぎて出版点数が減っている。地球温暖化の本も、ピークは第5次報告書の2014年頃だったようだ。2021年の第6次報告書となると、もうマスコミ報道もなく専門家以外口にもしない。

注:IPCC第6次報告書が出たのは2021年8月であった。2021年8月から12月の間に発行された書籍を本を探すで「地球温暖化」をキーワードに検索したら、ヒットしたのはわずか5点であった。

というわけで今は社会科学とか自然科学の棚をさまよっている。この本は「生物学」と看板の出ている棚で見つけた。
借りてきてから著者が「トマトはなぜ赤い」を書いた方だと知った。「トマトはなぜ赤い」は1992年に発行された生態学の入門書。私が若かりし(ウソ)とき読んで感動した。この本もその名調子で書かれている。


書名著者出版社ISBN初版価格
街角のエコロジー三島次郎玉川大学出版部44723027052002.09.151700円


初めはタイトルから、街角で環境保護でもしようという本かと思った。 だが違った。 今ではエコロジーという言葉は環境にやさしいとか環境保護の意味合いで使われている。だがそれは誤用だ(注1)
本来の意味は生態学、つまり人・動物・植物の相互作用そしてそれらを取り巻く環境との関わりを研究する学問をいう。
そしてこの本は日常見かけることから生態学を考えようという本だった。

と言っても生態学を教える教科書ではない。高齢(失礼)の生物学者が日々見聞したことから思うことをつづった徒然草だ。
だから街角で生態学を学ぶといっても難しいことは書いてない。

道を歩いていて、舗装のひび割れに生えているタンポポをみて、よくぞこんな悪環境で花を咲かせたものだと感動し、 タンポポ 風で飛んでいくタンポポの種がどこかで根を張り花を咲かせられるようにと思いをはせる。

雑草という言葉がある。考えてみると雑草とはひどい言葉だ。自然界には多種多様な植物が生え栄えている。それらの草木に貴賤があるわけはなく、すべての草木は等しく生態系の一部であるわけだ。
しかし人間は、自分に役に立つとか見た目がきれいなものを高く評価し、そうでないのを雑草と呼んだと語る。その通りです。


でもどうかなぁ〜と思うものもあります。
街路樹には排気ガスに強い樹種が選ばれる。東京都の木であるイチョウ、どこでも見かけるキョウチクトウ、私の大好きなハナミズキ……私は排気ガスに強い樹木が街路樹に植えられるのは当然だと思っていました。
ハナミズキ しかし三島先生は違います。
普通の木を街路樹にできる環境を取り戻せといいます。まあ……確かにそれは正論です。

でも三島先生、ちょっと待ってください。そう言い切れるでしょうか?
植物だけでなく、我々人間も悩みも苦しみもない天国、極楽に生きているわけではありません。無常で無情な浮世に生きているわけで、人間関係で悩み仕事で苦しみ・軋轢がありストレスを受けているわけです。浮世とは元々憂世と書いたそうで憂いることの多い世のこと、タフでなければ生きていけません。

オオバコ(カエルバ)は他の植物との競争に負けて、道端で人に踏まれる環境で生きているわけです。しかし視点を変えると、人に踏まれるところでは軟弱な草は生きていけないから、踏まれても強いオオバコは道路でも繁栄しているのです。
それと同じく排気ガスに強い樹木は、そうでない樹種が生きていけない環境で繁栄していると考えることもできるでしょう。別に悪環境に植えることをいじめだ、かわいそうだとみることもなかろうと思います。


話は変わりますが、以前 街路樹にイルミネーションを付けることが是か非か論争になったことがありました。 イルミネーション まだLEDが広まっていなかったころで、小さな電球でも多数つけると熱を持つからとか、照明によって樹木の体内時計に害があるのではとか、電線を固定するのに樹木にくぎを打つのが良くないとかいろいろ意見がありました。

ある方が「街路樹は元々そこに生えていたわけでなく、人が木々の効用を期待して植えたものだ。季節ごとに花や新緑をみせ、空気を浄化してくれる。イルミネーションで人々を幸せな気持ちにする役割もあるのではないか」と答えました。その意見に全く同感です。

街路樹は騒音をさえぎり日陰を作り人々に安らぎを与える、そういったことを期待して人が植えたのだ。当然、冬にイルミネーションをまとい人々を楽しませる役割もあるだろう。

櫻花 もうひとつ、川沿いに桜が多いのは、花見に多くの人が来ると土手が踏み固められ大雨で増水しても耐えるようにするためが始まりだそうです。
三島先生の論では、増水するのは雨が降るから悪い。桜を植えなくても良いように大雨を降らせるなとおっしゃるのでしょうか?
三島先生、どうなんでしょう?

生き物をこよなく愛する三島先生は、視座が人間サイドでなく、植物や昆虫サイドにいるのかなと感じます。

視野、視点、視座 注:視点、視座、視野という言葉がよく使われる。視点とは注目する点、視野とは眺められる範囲、視座とは観察者のいるところ。
視座と視点を混同している人が結構いる。視点を変えろとは別なところも見ろということで、別方向から見ろと言いたいなら視座を変えろと言わねばならない。

どの章も基本的に同じスタンスである。
公園の落ち葉を集めて捨て、わざわざ肥料をやるのはおかしい。生態系がクローズしてない公園は自然ではなく盆栽だと嘆く。
ホタルが生息するようにと蛍を放しても、幼虫のエサであるカワニナ(小さな貝)がいなければホタルの子供は生きていけない。

まあそういったことには同感しますし、何をするにも視野を広く生態系全体を考慮することは必要です。
だが、これはちょっとと思うのも多い。

三島先生は栄枯盛衰は世の習い、絶滅する種があっても良いという。
マツクイムシというのがある。カミキリムシにマツノザイセンチュウという寄生虫がいて、松くい虫が松をかじるとき、
松の木
これが松に移り住み松の木の中で増えて松の木を枯らしてしまう。
元々は日本におらず梱包の木枠などにいたものが入ってきて、1975年頃から被害が拡大し今や日本中に広まってしまった。

だが三島先生は松が枯れてもいいじゃないかという。元はと言えば松や杉を建材に使おうと、太平洋戦争後に日本中に植林した。同種の木が多量にあるから、マツノザイセンチュウのように病虫害は急速に広まるし、花粉の時期はたくさんの樹木が一斉に花粉を飛ばすから多くの人がアレルギーを引き起こし大災害になったという。

そしてマツノザイセンチュウ対策として殺虫剤をまくせいで、虫も死に絶え、それを食べる鳥も死に絶え食物連鎖・生態系が崩壊してしまう。松の木が一定量以下になればマツノザイセンチュウが広範囲に生息できなくなりバランスが取れるという。
そう言われるとそうかなあ〜という気にもなるが、ちょっと待ってほしい。

アメリカではマツノザイセンチュウは元々いた生物であり、マツノザイセンチュウは弱った松の木だけ枯らし、元気な木はマツノザイセンチュウに負けないように、折り合いがつけているらしい。折り合いがついていなければ、長い年月が経てば松の木が全滅するか、マツノザイセンチュウが全滅するかのどちらかだ。
そして寄生する宿主が全滅すれば、寄生するほうも死に絶えるのはモノの道理、

しかし欧州やアジアにはマツノザイセンチュウがいなかった。そこにマツノザイセンチュウが入ってきて抵抗力のない松はどんどん枯れていき、今や枯れる木があってもよいなんて言える状況ではない。マツノザイセンチュウが死滅するのは松がすべて枯れたときになってしまう。
それは単に木材の損失だけでなく、三島先生の大好きな生態系の崩壊です。


トンボを呼び戻そうとすると、トンボは食物連鎖の上位だから、そのエサとなるミミズ・ボウフラ・オタマジャクシ・アカムシなどがいる環境を作らねばならない。当然トンボが食物連鎖の下層を100%食べるわけでなく、そういった虫や水生生物が人目に付くようになる。家庭にも入ってくるだろう。
三島先生はそれが自然だというけれど、暮らしの中にそういう生き物が入ってくるのは困る。

チョウチョ 三島先生のたまわく、今の子供たちは小さいときに、虫とか花とか自然のものを摘んだり遊んだりしていない。大人は汚いとか危ないと子供の行動を抑えてしまう。自然との触れ合いを経験しないで大人になると、同じように子供を育てる。
カエルを気味悪がり、蝶に触れない子供が多い。命を理解するには自然に親しんで育たなければならないと語る。
まあ、もっともな論理だが、そうなってきたのにはそれなりの理由はある。


私は虫に触っちゃいけませんと言われた世代の前だ。子供時代は終戦直後で、みんな貧しい。おもちゃもない、絵本もない、野球をするにもバットどころかボールもない。
そしてまた母親たちは共稼ぎではなかったが、電化される前の生活だから、炊事・洗濯・お掃除・裁縫その他の家事が大仕事で子供たちにかまうなんてできなかった。また当時はみな貧乏だから、幼稚園などに通う子は田舎にはいなかった。

だから小学生も小学前の子供も、近くの池に行ってはザリガニを採って闘犬ではなくザリガニを闘わせて遊んだり、雑木林に行ってアケビとかグミとかキイチゴを採って食べたりしていた。
当然ケガや病気はしょっちゅうしていた。雑木林で踏み抜きして破傷風になったのもいたし、木登りして木から落ちて骨折したのもいたし、草藪でマムシに噛まれて病院に運ばれた奴もいた。ハチの巣をつついて大勢が逃げ回ったこともある。

私が通った小学校は、ひとクラス55人くらいいて一学年で6クラスあった。そしていつでも一学年に一人は腕とか足にギブスをしているのがいた。
骨折 骨折の場合ギブスが取れるのにひと月かかるから、年間骨折率3.6%。卒業までに72人、学年330人だから4人に一人は小学校在学中に骨折したことになる。当時は交通事故などまずなかったから、ほとんどが遊んでいての骨折だ。
ちなみに現在の小学生の年間骨折率は1.33%である。私の周りでは、今の3倍近く骨折していたことになる。
もちろん骨折以外のケガもそれと同じくらい多かっただろう。
ところで私は小学から高校まで骨折したことがなかった。だがバイクに乗るようになってから、肋骨3度、左ひじ、左手首、指と両手に余るほど骨折した。

私は用水路に頭から落ちたことがある。水深は20センチもなかったが、幸い水底も土で頭蓋骨を割ることはなかった。後で聞いたが一緒に遊んでいた連中が引き上げてくれたが、引き上げてからかなりの間失神していたそうだ。
今なら笑えるけど、そのとき連中は私が死んだと思って修羅場だっただろう。
自然は危険である。


だが時代は変わった。
私の子供時代は4人兄弟がメジャーだったが、今は子供の数が減って一人とか二人がほとんど(注2)三人いるのは珍しい。その結果、子供の命がとても貴重になり、若くして亡くなるなんてとんでもないことになった。

若くして病気で亡くなることは少なくなったが、事故や事件に巻き込まれることは皆無ではなく、子供が多ければ、例えば4人もいればひとり亡くなっても諦めがつくかもしれない。しかしひとりっ子なら親御さんのダメージは計り知れない。
私の言葉が無神経と思われるかもしれないが、それは現実である。私は戸籍上6人兄弟であるが最初の誕生日を迎えることができたのは4人である。4人共60まで生きたが70を超えたのはふたりだけだ。昔はそんなこと普通だった。
だが今は子供にスペアがないから危険なことをさせられない。

おとうさん こども こども 娘 娘 こども おかあさん 矢印 おとうさん こども 娘 おかあさん
1950年頃2020年頃

もちろんしっかりした指導者がいて、危ない虫とか、スズメバチからの逃げ方、怪我したときの救急処置などを現場で教えてくれるならいい。だが親の目の届かないところで山遊びするのは危険だ。
もちろん三島先生なら責任をもって指導してくれると思う。


まあ、何にでもいちゃもんは付けられる。しかし自然と親しむのはよいが、自然の持つ危険とそれへの対応を教えないと事故ばかり起きるだろう。そして危険の予知、予防、対応を教えることは非常に難しい。
またあまりにもマニュアル的に教えると、教えられたことだけしか分からない・できないという、冒険心とか自然に親しむ心を育まないものになってしまうのも主客転倒だ。

技術でもビジネスでも今までなかったことを切り拓くには好奇心、想像力、忍耐心、体力が必要だろう。それには子供時代に野山を遊びまわることは大いに役立つと思う。だが死とか怪我のリスクを考えるとおいそれと勧められない。
誤解を恐れずに、一定割合は事故を覚悟しても自然に親しむ効果は大きいのだと言ってくれないと、できないことではなかろうか?
そこまで言うなら三島先生を尊敬します。


まだ働いていた頃、皇居外苑で野鳥を見る会に参加した。そのときガイドの人が「今年 生まれた野鳥で来年まで生きのびるのは1割いません」と語った。
生まれたばかりの野生の生き物は、天敵に食べられ、餓死・怪我・病気で年に9割は死んでしまう。だが生き残った1割は肉体も頑張りも感受性もすぐれているはずだ。そうでなければ生き残れない。


再認識しておこう。
野生ワイルドというと大げさだが、自然は危険だ。
日本で一番人間を殺傷している危険な生き物は熊でも蛇でもない。クマによる死者は年平均ふたりくらいだが、身近にいるスズメバチによって、毎年数十人が死んでいる(注3)
またツツガムシによって毎年2名程度亡くなっている(注4)昔職場にいた人が山菜取りに行ってツツガムシに刺され、意識不明となり長期間入院していたが最終的に亡くなった。
これは現在の被害であり、私が子供の頃は被害者はこの数倍いたのは間違いない。

家内の実家の畑には21世紀の今も夜イノシシが出る。今までのところ被害は農作物を荒らされるだけだが、もし人と出会ったら危険極まりない。


危ないのは動物だけではない。植物も危ない。
我が家のお墓への道に漆の木が何本も生えているところがあって、人によっては通るだけでかぶれた。それでお墓参りで通るときは手拭いなどで顔を覆った。伐採すればいいのにねといつも話していたが、村の人もめったに通らないから触らぬ神に祟りなしだと聞いた。いつのまにか漆の木は伐採されて、皆幸せになりました。

私が子供のときよく親父の実家に遊びに行った。農作業していると畑でおにぎりとか弁当を食べるが、お箸が必要なときはその辺の木の枝を切って鉈で形を整えて箸にした。あるとき食べようとしたら従弟が私の作った箸を取り上げて、これは毒だからいかんと叱った。その木の名前は忘れた。

そればかりではない。
前に述べたが破傷風は身近な危険だった。だから親は破傷風については口を酸っぱくして危険を教えた。近所の子供が破傷風になったとき、一家全員破傷風のワクチンを打った家庭もあった。しかし親父は副反応もあると我が家ではワクチンを打たなかった。
知らなかったが1968年からワクチン接種が義務になっていた。ワクチン接種前は毎年数百人いた死亡者が、接種義務化してから急減して1995年を最後に死亡者は出ていないという。科学の進歩だけでなく社会の進歩はすごいと思う。

それから狂犬病も毎年発生していた。おやじばかりでなく近所の人が、舌を出してよだれを垂らした犬がいたら近くの家に飛び込めと言っていた。
幸い身近に狂犬病になった人はいなかった。


自然は決して優しくない、それどころかそこに生息している動植物すべてが弱肉強食の生存競争をしている。だから人々は安全に快適に住みやすくするために、いろいろ工夫してきた。
日本脳炎なんて21世紀の今は毎年全国で数人しか発生していないが、1960年代までは全国で2.000人くらいいた。死亡率30%、後遺症が50%というからただごとではない。だから蚊に刺されないように蚊取り線香をつけて近寄る蚊を殺し蚊帳をつるし、近所の水たまりを埋めた。
ハエは気分が悪いしばい菌を広げる。だから見つけ次第ハエ叩きで殺し、どぶをきれいにし、トイレを水洗化した。
いやそうじゃないですね、三島先生流に言えば、人間はハエや蚊やゴキブリを大量殺戮して生態系を破壊してきたのです。

でもエコロジーには語義から言って、植物や動物だけではなく人間も含むはずだ。だから人間が自然を変えてもそれも自然なことだと言わないと理屈が合わない。
三島先生そうですよね。

私世代のようにケガ、病気、蛇に噛まれ毛虫に刺され、生き残った人は強いだろうけど、生き残れない人、後遺症が残った人、自然にチャレンジする勇気のない人はどうするのだろうか?
いやチャレンジするまでもなく、日常生活に虫や雑草が入り込んでくるのに耐えられない人はどうするのか?


うそ800 本日の質問

昔、親戚の農家に行ったときのこと、梁に青大将がまきついていてギョッとした。(当時の農家には天井がない)実はネズミ捕りや害虫を駆除するのに飼っているのだ。
そしてときどきヤスデ(ムカデかもしれない)が落ちてきた。私は日常雑木林で遊んでいた子供だったが、そんな子供でも我慢できず外に出てしまった。
現実の自然は、危険で、快適でなく、テレビゲームのように楽しくありません。
三島先生の語る自然は、先生の脳内にあるバーチャルな自然ではないのでしょうか?


うそ800 本日の訂正

ワカンナーイ 前のほうで「三島先生は立ち位置が植物や昆虫サイドだ」と書いた。
いろいろ考えるとそれは間違いで、三島先生は人間サイドでもなく植物や昆虫サイドでもなく、唯我独尊というだけではなかろうか?




注1
英英辞典でecologyを引くとまず最初に「生物と他の生物を含むそれらの環境との間の関係と相互作用を扱う生物学の分野」とある。
古い英英辞典はそれでおしまいだが、最近の英英辞典では、その次に「汚染またはその影響から天然資源を保護すること。環境保護」という意味が記述されている。

注2
日本人の兄弟・姉妹の数
リンク先をスクロールすると下のほうにグラフがあります。

注3
注4



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