家庭の省エネその3

22.01.31

第1回第2回とも、お読みになった方は私が省エネは意味がないと考えていると思われたかもしれない。私は省エネ活動を否定・批判する気はない。だけど格好だけとか、気分だけという省エネ活動に辟易しているのも事実だ。
今回は、これは変だろうとか意味がないだろうと思うことを書く。


もう20年も前のこと、今都知事をしている小池百合子が環境大臣だった。
彼女が「丸の内仲通り打ち水大作戦」なんて行事を始めたんだよね。私の職場のキレイどころも、何人か浴衣を着て打ち水に参加した。

浴衣
わが夫婦は浴衣を着たことはない
俺は笑ったよ、まず浴衣だ。
浴衣って暑いんだよね。家内は結婚してから半世紀、一度も浴衣姿になったことがない。なぜかと聞くと、あんな暑いもの着たくないという。家内の言うには、涼しくするにはとにかく皮膚と空気が接する面積を大きくすることが必要条件だそうだ。浴衣って見た目はともかく、涼を取るためのものではないらしい(注1)
内打ち水大作戦でも、Tシャツとショートパンツにしたら、参加した乙女たちは浴衣より楽だったと思う。

それから私も知らなかったこと。
初め私はまいた水が蒸発するとき気化熱を奪うから気温が下がると考えて、巻いた水の量が蒸発するとき必要とする気化熱と空気の比熱から、周囲の気温が何度下がるか計算したこともある。

環境省のウェブサイトを見るとどうもそうではなく、湿度や気流によって体感温度を下げるという解説である(注2)確かにまいた水すべてが蒸発するわけがない。それも急速に蒸発しなければ冷却効果は薄い。
環境省の計算によると、地面の表面温度が60℃で風速0.5m/sのとき、1.5℃涼しく感じるとある。それは巻いた水がすべて蒸発して気化熱を奪うとするよりはるかに小さい。そして涼しくなるのではなく涼しく感じるというところがミソだ。

しかも地面の表面温度が60℃とは、舗装面でなければありえない。となると江戸時代の打ち水は、実際に気温を下げるより見た目が99%だったのか?
気温33℃のとき、ほんのいっとき1.5℃ 下がっても 涼しく感じても、あまり意味がないと思うのは私だけでしょうか? そんな行事に冷房のきいたオフィスから、炎天下の行幸通りに駆り出されてかわいそう。


まあ打ち水大作戦はパフォーマンスとしても、家庭での省エネとしてどんなものが提言されているのか、ググってみた。
省エネというと、実際問題として電気を減らすことと同義のようだ。石油を減らすとか、薪を大切に使うなんてのは見たことがない。


そんな見た目だけとか机上の省エネってのはたくさんある。
間違った省エネとかそもそも消費エネルギーの実態を知らない人も多く、そういった調査報告もたくさんある(注3)

もちろんまっとうなウェブサイトもたくさんある。
資源エネルギー庁というお役所のウェブサイトはまっとうなことを書いている。
無理のない省エネ節約
暖冷房はエアコンの設定温度を28℃と20℃ではなく、室温を28℃と20℃を目安にとある。前述したように事務所規則通りで当たり前といえば当たり前だが、そのように正しく書いているウェブサイトは希少である。


それから補助金の問題をあげたい。
環境に限らないが政府が国民を動かそうとするには、いくつかの方法がある(注4)
一つは法的規制だ。例えばオゾン層破壊を止めるために、使ってはいけない冷媒を定め、罰則を設けるなどだ。犯罪者になりたくなければ規制に従うしかない。

経済的な方法もある。
ひとつは一定以上使用したり基準を満たさない場合には、課徴金を科すというものがある。人間は余計な金を払いたくないから、必然的に基準を守るようになる。
補助金というものもある。太陽光発電システムを導入した家庭には援助しますとか、省エネカーなら免税するとかである。

自主的取り組みといって、業界とか製品ごとに目標を示し、業界団体などに詳細をゆだねるというものだ。目的については共通認識を得られていることであり、ゆくゆく法規制あるいは商品を評価する性能指標となるとみなされているから、必然的に競争力向上に取り組む必要がある。


ここで問題になるものは補助金である。
そもそも補助金とは将来のあるべき姿と想定しているが、今は競争力がないから損益分岐点に至るまで補助金でアシストするとき使う手法である。どう考えても将来の主流になれるはずがないものに補助金を出すなんて施策はそもそもが破綻している。
一般家庭の太陽光発電は補助金がなければ付ける人はいないだろう。もちろん東日本大震災後の停電の経験から万一に備えるとか、離島や一軒家での自家発電は必需品であるが、それは例外的だ。

太陽光パネルへの補助金は太陽光発電をしていない人が払っているのだ。俺は払っていないと思う方がいたら、それは勘違いです。
太陽光発電 ご自宅の毎月の電気料金の内訳を見てますか?
「電気ご使用量のお知らせ」なんて紙片を見ると、まず請求予定金額があり、その下に内訳として、基本料金、昼間料金、朝晩料金……下のほうに「再エネ発電賦課金」という項目があります。再エネ発電賦課金は電気料金全体の1割くらいになる。
マンションの我が家はオール電化なので、月々の電気料金は14,500円前後、再エネ発電賦課金が1,450円くらい。

「再エネ発電賦課金」正確には「再生可能エネルギー発電促進賦課金」といいます。それは電力会社は一般家庭や太陽光発電業者から電気を買い取らなければならないという法律があり、自社で発電した電気より高い電気を買わざるを得ないために電力会社に払うお金です。そのお金は太陽光パネルをつけた家庭や太陽光発電業者に流れ、結局私のように発電せずに電気を使用している者が負担しているのです。
おかしいと思いませんか?
おかしいと思わない? ああ、お宅は屋根に太陽光パネルがあるのですか……

太陽光パネルをつけると電気が安く作れて、電力会社は自社で水力発電所や火力発電所を作るより安いから買うのではない。高い電気でも電力会社は買わなければならないのです。
どういうこっちゃ 真に効用があるものでなければ、どこかで人為的な操作をしないとその状態を維持できるはずがありません。アダム・スミスの見えざる手は絶対なのです。
太陽光パネルで作った電気を売ってお金が入るのではなく、電気を使っている人たちから強制的にお金を集めて、太陽光パネルをつけた人に援助しているのです。太陽光パネルを載せている人は良心が咎めませんか?

太陽光パネルをつけていない家庭は、補助金を止めてもらうことが省エネになるのではないでしょうか?
前回も述べましたが家庭の使用電力の5%削減など無理も無理! でも「再エネ発電賦課金」がなくなってくれれば、手間も暇もかけずに明日から電気代が1割下がります。

至上命題として、省エネとか環境保護がある。では太陽光パネルをつけた家々はどのような貢献をしているのか?
私にはわからない。
言えることは、今現在は太陽光パネルをつけた家庭は、つけてない人からお金を恵んでいただいているという事実だ。


エコカー減税も変だと思わないか?
自動車による環境影響には、運用時の消費エネルギーそれにはガソリンや電気もあるし、製造にかかわる資源やエネルギーもある。
ハイブリッド車 燃費の良い車やハイブリッド車あるいは電気自動車購入を支援するという減税であるが、果たしてそれが良いのか?
燃費が良い車の販売・購買を支援した結果、販売台数が増えて環境負荷の総量が増えたらまずいんじゃないか?

それなら環境負荷が多い車を使い続けたほうが良いのかもしれない。自動車産業は規模が大きく、売れ行きが悪くなれば日本どころか世界経済が困るのは事実。
だが経済伸長のためなら環境に良いからと言ってほしくない。
ともかく世の中しがらみが混みいっている。


もう一つつまらない例を挙げる。
トイレット 2021年の秋のこと、家内は便座カバーを廃止するという。もちろん陶器の便座は冷たいから夏以外は便座保温をONするという。それを聞いて、電気が食うなあと思った。
だが家内はいろいろと計算していた。
まずは最重要なのは衛生問題だ。マットは座り心地つまり冷たさを感じさせないのが目的だが、当然バイ菌の温床になるし、そこまでいかずとも汚れる。だから二日おきくらいに洗濯しなければならない。もしいやなら使い捨て便座シートとなるが、安いもので1枚20円から高いものは100円程度になる。
夫婦二人でも一日の使用回数は大小合わせて16回として1日320〜1600円。そりゃべらぼうだ。電気代より高くつく。

注:統計データによると、男女とも大は1日1回、小は7〜8回だそうです。

総合的に考えると家内が言うように便座マットを廃止して、保温をONというのが最適解のように思える。 いまどき便座保温も省エネが進んでいる。便座カバーをして保温をしないほうが安くかつ省エネになるように思えるが、見た目と実態は違う(注5)


私は家庭でなすべきことは、単純に消費電力を減らすことではないと考えている。単に電力を減らす省エネでなく、快適な暮らしをするためにどう電気を使うかということだと思う。

昔VAなんて流行したことがある。Vとはvalue(価値)であり、Aとはanalysis(分析)である。VAでは価値とは次のような式で考える。

V(価値)=F(機能・効用)÷C(費用)
1時間に100個作る100万の機械と1時間に220個作る200万の機械があるとき、200万の機械の価値が大きいと考える。
もちろん現実には生産数量、運用コストそれに金利とか検討事項はあるが、価値とは費用対効果ということだ。

省エネも同じように考えることができるだろう。快適さを仮に数値で表したとき快適さと消費エネルギーを天秤にかけて考えることになる。

快適さ100で消費電力100……快適エネルギー指数=100÷100=1.0
快適さ200で消費電力150……快適エネルギー指数=200÷150=1.3
と計算すれば、快適エネルギー効果の大きいほうを採用することはおかしくない。

注:快適エネルギー指数なんてものはない。今仮に作っただけだ。

この論理は間違いだというなら、世の中から自動車をすべて廃止しなければならない。私が子供のとき……といってもそんな昔じゃない、たった60年前だ……当時、一般庶民は自家用車なんて持っていない。洗濯機もない、冷蔵庫もない、掃除機もない。
もし私の理屈には同意しないが、洗濯機も冷蔵庫も掃除機も自家用車も必要だというなら、あなたの論理は破綻している。
人間の欲はきりも限りもない。昨日の夢は今日の現実になり、昨日のウォンツは今日のニーズだ。だが、それを非難はできない。欲望、願望、希望を持ったからこそ今文明が存在するのだ。

言い換えれば、快適さを放棄するなら、省エネはアッという間に達成できる。CO2も激減する。それがハッピーだろうか?
そもそも持続可能性の定義は「将来世代のニーズを損なうことなく現在の世代のニーズを満たす経済」である。
ニーズ忘れてなんの己が持続可能かと新しい川柳(都々逸かも)が生まれそうだ。

注:持続可能性の定義の末尾の「経済」は、訳者によって「発展」とか「開発」とかいろいろあるが、言語はdevelopmentである。個人的には「経済」と略された元の熟語「経国済民(国を治めた身を幸せにする)」あるいは「経世済民(世を治め民を幸せにする)」の意味から「経済」が最適かと思う。


総括する。
省エネは目的ではない。目的は人間が安心・安全な快適な暮らしをすることだ。
もちろん今日をそういう暮しができるだけでなく、明日も子孫の代もそういう暮らしができることだ。環境保護なんて子孫のことを思うから出てきた発想だろう。
その目的を達するためには、電気使用を減らすことはそれを実現する手段の一つだ。だがそれは最終目的ではないから、上位目的を達するためには他の事項との兼ね合いを図らねばならない。
便座の保温の実施の可否を考えるにも、洗濯機の電気使用や水道水の使用、衛生上の問題を考慮し、他の選択肢と比較をしなければならない。

環境の負荷を下げようというのは同意する。そのために省エネしようというのにも反対はしない。
しかし単純に電気を減らすとはならないでしょう。電気を減らしても使用する水が増えたり手間がかかったり、生活水準が下がっても困る。
あるいは一つの工程で節電をしても、別の工程で電気が増えては困る。そこは総合的に考えることが必要だ。
ガソリン車が環境に悪いから電気自動車にしようといって、発電所で作る電気が足りなくて、ガソリンエンジンで発電して車のバッテリーに充電している欧州のようなアホなことになってはいったい何が何だか……


もちろん私の考えを否定しても反論しても結構です。大いに議論しましょう。
でもまなじりをつり上げて正論を説く人にはついていけません。私はおちゃらけ人間で、同じことでも楽しく笑ってしたいですね。
ぐれた女の子
真剣になることは大事ですが、深刻は嫌いです。
まして語っていることが偏っていて、自分の行動が語っていることと違うと痛いよね。飛行機は環境に悪いと言いながら、ヨットで大西洋を横断するなんてなんという贅沢!

注:痛いとは不相応な恰好や言動をしていることをいう。アニメの絵を描いたTシャツを着るとか、車に萌え絵を描いたり、臭いせりふを吐くことをいう。


うそ800 本日のまとめ

家庭での省エネと言いながら明後日のほうに行って結論はないじゃないか💢
お待ちください。家庭でも会社でも問題というのは、そういうものが多いものでございますよ。
何か具合が悪いことがあり解決しようにも良いアイデアが浮かばない。そんなときはそもそもの目的に立ち返り視野を広くして考えれば、アイデアが浮かぶこともあるのです。
省エネをしなければならないと考えるのではなく、総合的判断といいますか、上位目的を果たすためにはただ単にエネルギーを減らすのでなく、総合的に環境への総負荷を下げることができたなら良いじゃないですか。




注1
「浴衣+実は暑い」なんてキーワードでググると、女性の恨みつらみがたくさんヒットする。またいかに浴衣を涼しく着るかというテクニックが見つかる。
浴衣は涼しいというのは、ハーフは美人と同じように都市伝説のようだ。もっともハーフに美人はいるけど、涼しい浴衣があるのかどうか私は知らない。

注2
環境省のウェブサイトに簡易体感温度指標による効果把握というページがあった。

注3
注4
注5



うそ800の目次に戻る

アクセスカウンター