エコ生活ってなんだろう?

22.02.17

省エネでも節水でもごみ削減でもケチをつけているお前は、環境保護など無視か? ケチ付けるだけで改善提案はできないのか!というお怒りの言葉が飛んでくるのではないかと期待する。
ケチばかり付けていたのでは、立憲民主党とか枝野と呼ばれそうだ。それは恥以外のなにものでもない。
もちろん私は私なりに環境負荷を小さくするようなことは考えている。

ではどういう暮らしが環境に良いのかなんて真正面から問われると困る。というのは環境に良い悪いなんて一概に言えない。
ゴミ・廃棄物 例えば日本のごみ分別は、自治体によって千差万別だ。細かいとか厳しいという自治体をみてみれば、焼却場がないとか最終処分場(埋立地)がないとか、中には自治体が廃棄物回収をしておらず、住民が直接自治体のゴミ処理場にもって行き自分が種類ごとに置くからとか、皆それぞれ事情があるのだ。

私が住んだことのある福島県郡山市と千葉県松戸市を比べてみよう。松戸市は人口50万、面積61km2であり、郡山市は人口33万、面積757km2である。郡山市は松戸市の面積の12.4倍であり、人口は6割6分しかいない。松戸市の最大幅は南北で11.6kmだが、郡山市は東西47kmもある。
どう考えても廃棄物に限らず同じ市政ができるわけがない。

十数軒ごとにごみ収集場所があり、住民は決められた曜日にそこに出せば自治体の回収車が来て集めていく、そういうことは当たり前のことではないのだ。

もちろん住民税を払っているのだから住民が楽になるごみ処理をやれという意見があってもよい。しかしそのときは住民税と市民サービスのバランスがどうなのか吟味が必要だ。損益が取れていないなら、自治体の一員として最善策を考えなければならない。
まあ人口50万の市と5万の市あるいは3,000の町では、できることが違う。人口が小さいほうが住民の声は通りやすいが、先立つものがない。


私が住む千葉県下総地域(東葛・ベイエリアともいう)では上水道も下水道もいくつもの市が共同運営しているし、廃棄物処理も同様だ。みな人口数万の小さな市ではない。船橋市は政令指定都市を除いて最大の都市で人口61万を誇る。市川市も47万、習志野市も16万、これだけ合わせると124万になる。仮に合併すると政令指定都市20の内、中ほどより上位の第9位にあたる。それに千葉市も合わせれば合計220万、第3位の名古屋市と同等だ。
いや別に自慢しているのではない。それくらいの規模で運営しないと、上下水道や廃棄物など公共サービスを維持するのは大変だということだ。

それは同時に財源のある自治体はそれを他に分け与えたくないと考える。
浦安市はドル箱があるからベイエリア大合併しようと誘っても絶対に参加しないだろう。むしろ東京都に色目を使うんじゃないかな?

昔々、浜松市の中に可美村という2キロ四方の小さな村がありましたとさ。周りは敵に囲まれまさに四面楚歌……ではなく、浜松市の中にポツンと小さな村がある状態。
私が若い時、そこに所在した会社と取引がありまして、出張したときに担当者から可美村のお話を聞いたのであります。
なぜ合併しないのか?
その心は、スズキなどいくつも大会社の本社があり税収豊か、なんでそれを…(以下略)
1990年、突如浜松市に合併を申し入れ数か月後に合併した。
その心は、廃棄物処理、し尿処理が村内でできず、浜松市に依頼したら断られ(当たり前か)…まあそんなことだった。

財源のある自治体はゴーイングマイウェイだが、その逆はどうだろう?
田舎に暮らして不便だと愚痴をこぼす人がいるが私には理解できない。田舎は不便なのは当たり前なのだ。それは差別ではない。面積当たり人口が少なく税収が少なければ、インフラが整備されないのは当たり前だ。それがいやならインフラ整備と行政サービス向上のために高い税金を払うしかない。郡山市に比べ松戸市は面積当たり19倍の予算をかけられる。これは大きい。
もし住民が高い住民税を払うなら、都会と同等のインフラと行政サービスが受けられる。
住民税と関係ないが、郵便ポストだって日々投かんされる郵便物が少なければ撤去されてしまう。
太平洋の小島が東京都に属するというのは、大都市の責務なのだろう(注1)


とまあ住むところによって大きく条件が違うが、まずは大局から考えてみよう。
環境の意識高い人は都会に多い。田舎にいると意識を高く維持できないのだろう。いや現実を体感するからおかしなことを言うはずがない。
いたちが家に侵入し台所から食い物を盗んでいくのを見れば、イタチをかわいいとは思わない。環境意識の高い人がそこに住んで、イタチが可愛いいと思うなら異常です。

娘はクマのプーさんが好きだ。しかし野生のクマが出没する国では、クマのプーさんなどクマを擬人化したものを教えるのは禁止しているところもあるという。子供が勘違いしては大変なことになる。
北海道のキタキツネでも同じ問題が起きているそうだ。本土から旅行で行った親子がキツネにえさを与えようとして(以下略)。そういえば日光いろは坂のサルも餌付けされていて危険だ。
自宅近くの道路に木が倒れたとき市にすぐに撤去しろというよりも、交通量が少ないからしょうがないと近隣の人たちが力を合わせて対処するのも常識で考えて仕方のないことだ。

環境意識とはどんなものなのかはっきりしないが、人は置かれた立場で考えるわけで、立場立場で視点も判断も変わることは十分にある。
私自身、環境を意識した暮らしとかエコ生活なんてものが、どんなものか分からない。とりあえず自分の立場で、なるべく環境負荷をかけない暮らしとはどんなものかを考えてみよう。

いくつかの条件が頭に浮かぶ。まず前提だが、環境配慮を意識した暮らしはそうしないことより環境負荷を少なくするだろうが、もちろん環境負荷をゼロとか大きく減らすことはない。そもそも我々は日々生きていくだけで自然を収奪し他の生き物の得るべきエネルギーや資源を奪っているのだ。
それは人間というか動物が、植物が太陽エネルギーを生き物が利用できるエネルギーに変換したものを掠め取る生き方を選んだときに定まった、変えることのできない生き方である。

原罪とはアダムとイブが神の言葉に背いたことではなく、人間は他の生き物の命を奪わないと生きていけないことだ。言い換えれば我々人間はビーガンとかベジタリアンとかええかっこしいの自分に似合わない生き方をするのでなく、堂々と他の動物を殺し肉食するのだと明言して良いのだ。いやそうであることを偽ることはできない。そうしないと生きていけないように神が我々を作り給うたのだから。

ビーガンという生き方が健康的なものかどうかいろいろググった。ビーガン流食生活はビタミンB12が不足するらしい。それはサプリで補えばよいとあった。
食物だけでは栄養が不足するからサプリで補うということ自体、おかしなことだと私は思った。
それはコレステロールを体内で作れない人が薬を飲むことと同じなのだろうか? 食品から栄養を取るのと、薬品から摂るのは同じことなのだろうか?

ただ肉食動物が必要以上に草食動物を殺さないように、我々も生態系全体と折り合いをつけて己の生活レベルに妥協していかねばならないということはある。収入より良い生活は長続きしないように、生態系に寄生する我々は植物や生産者や一次消費者が生み出した物以上を望むのは不可能なのだ。

当然であるが食べるほうが食べられるより多いと、食物網(食物連鎖)は成り立たない。肉食動物の総重量は、餌になる草食動物の総重量の10とか15%を超えることはないと読んだことがある。
動物プランクトンにしてもアフリカのサバンナでも、エサが不足するほど捕食者が増えるはずがない。餌が減れば食べるほうも減るのが定めだ。フィードバック機構である。
飢饉を乗り越えてしまった人間が異常なのだ。

生態系の中の生物で、光エネルギーを使って有機物をつくり出す植物などを生産者と呼び、植物を食物とする草食動物を一次消費者と呼ぶ。一次消費者を捕食する動物を二次消費者と呼ぶ。


では環境にあまり負荷をかけない暮らしとはどんなものだろう?
それは単純に環境負荷を下げるだけでなく、いくつかの条件を満たすものでなければならないと考える。

どんな条件かといえば当たり前のことでしかない。我々は浮世を離れて暮らしているわけではない。サラリーマンであったり自営業であったり、普通に働いて普通に暮らしている。我々の普段の暮らしの中でできることしかできない。
だからそこで行われる環境配慮した生活様式は、突飛なことではなく常識的でなければならない。


実行可能であること
食物残渣はたい肥にして畑に使おうといっても、マンション暮らしでできるはずがない。マンション全体でというなら 牛 住民を法的な団体とするような制度が必要だろうが、それは無理だろう。
お魚は切り身でなく一匹買って頭も尻尾も使いましょうとか、牛は一頭買って解体しましょうなんてムリです。
ゴミを出すのも曜日が決まっていて、その日まで生ごみを保存する冷蔵庫があるわけでもない。
そういう制約条件に合わない暮らしはできません。


法規制やインフラなどの制約に適合していること
自治体の運用や法規制など社会システムに見合ったことでなければ実行は困難であり、効果は見込めない。
プルタブ集めて車いすなんて運動があった(注2)あれは絶対におかしい。おっと、昔は缶を開けるとフタが取れてしまうプルタブだったが、今は取れないステイオンタブになったとかということではない。

プルタブ そもそもアルミは電気の缶詰でありリサイクルされる資源だということは昔から誰でも知っている。だからアルミ回収システムは確立されている。リサイクルにおいても鉄屑がほとんど無価値であるのに対し、アルミは有価で回収されている。

アルミのリサイクルシステムがあるのに、なんでわざわざアルミ缶のプルタブを集めて郵便で送り、車いすを寄付しようとするのか?
車いすを寄付したければ、アルミ缶を集めて業者に売って、そのお金を寄付したほうが金額も大きいしわざわざプルタブを送るエネルギーを浪費することもない。
プルタブを送るって環境に大いに悪いぞ!
1個数グラムのアルミの破片をお金をかけて遠くに送る意味を説明してほしい。
プルタブを送って車いすと考えた人の頭をカチ割って、中にパッキンが入っているのかどうか確認したい。


効果が期待できること
もう10年位前だが、使用済み割り箸をあるところに送って木炭にしようと運動していた人に会った。丸の内の大企業にお勤めの方だった。近隣企業で働く人たちに広めていた。聞くと旧帝大のマスターというから頭は良いのだろうが、常識のない人だと思った。
前出のアルミとも違うが、まったくおかしいと思わないとおかしい。

注:常識とは元からある漢語ではなく、明治の御代に作られた翻訳語である。(転用語という説もあり)
ロングマン英英辞典によると、Common senseとは
the ability to behave in a sensible way and make practical decisions
「賢明なふるまいや現実的な判断ができる能力」のこと
日本では普通 常識って社会人が持つべき知識って解されています。つまり流行の歌とかタレントを知っているとか。そうじゃないんですね。常識って持つべき知識ではなく、持つべき知恵なんです。

割り箸から木炭を作っていかほどの効用があるのか、割り箸を木炭にする費用対効果をエネルギー量でも金額でも算出してほしい。エネルギーなら送り返すエネルギーや再度利用者に送るエネルギー、そして木炭が持つエネルギーとの収支を計算してほしい。金額なら回収・郵送・炭化する費用とできあがった木炭の売価を比較してほしい。

正直言って私は試算していない。しかし割り箸を洗って荷造りして輸送して、割り箸を炭化させるための燃料などの費用を思い浮かべると、試算するまでもなくそんなことをしないほうがはるかに環境に良いと結論できる。使用済み割り箸は、市の焼却場で燃やすのが吉である。

似たような話に小銭を池に落としてしまい、人をかけてそれを探すというお話が徒然草かなにかにあったと思う。それをどう思うかというのが答えだろう。
観点は持ち主と発行者である国家、それに第三者視点もあるかもしれない。まあどの視点で見ようとも、池をさらうなんてアホなことであることに変わりはない。


効果が実感できること
前記の条件を満たせば実行は可能だろうが、それを継続するにはそれだけで大丈夫だろうか?
特段努力を要せず、社会的規制も受けず、効果もありそうだと思うだけでは長続きしない。必要なのはもう一つある。
それは効果が実感できることだ。
省エネなら月の使用電力量が減ったとか、水道代が安くなったとか、月々出すゴミの回数が減った、あるいは仕事が楽になった……そういうビジブルな効果がなければ長続きするはずがない。
ダイエット方法は数多あれど、長続きさせるには早めに効果を出さないとすぐ止める。


まとめると
実行可能であること
法規制やインフラなどの制約に適合していること
効果が期待できること
実行すれば効果が実感できること
この条件を満たさなければ、実行するに値しない。
エアコンの温度設定でも、分別回収でも、トイレの節水で、人を動かそうとするなら、これらの観点で納得させなければならない。

これらを満たさないことを一生懸命する人を意識高い人と呼ぶ。
いや、決して知能の低い人ではない。


もちろん発信者というか環境保護活動のセールスパーソンは、理屈だけでなく己の行動で人々を納得させなければならない。
節水しようというなら彼のお宅では実際に節水を行っていること、環境負荷を下げようというなら高価なヨットで大西洋を横断するのではなく、LCCのエコノミークラスで行かねばならない。間違っても特急の1等車にご招待されたにも拘らず座れなかったなどと詐欺を語ってはいけない。
ご自宅は大邸宅で一般家庭の何十倍もの電気を使っていて温暖化防止を叫んでも笑われる。そういうのを「都合の良い嘘」という。
君々「不都合な真実」なんて間違えちゃいかんよ。

そんなことを考え合わせると、我々一市民ができる環境配慮など限定されている。そして実際にも私自身が実行していることは当たり前のことしかない。
省エネは無駄な照明は付けない。気温は己が快適な温度にする。だって外が35℃のとき、室温を28℃に設定してもうれしくともなんともない。25℃くらいにしなければ……
夜寝るときは、エアコンをタイマー運転にする。夜熱中症になる年寄りが多いそうだ。タイマーが止まると目が覚めてしまうなら、連続運転すべきだ。

水道については気にしないことにしている。風呂の水量も私が入ってほぼピタリに設定している。今より減らせば膝が出る。今以上節水に努めても気分を暗くするだけだ。
トイレの水は将来便器を交換するときがあれば、そのとき最先端のものにしようとは思うが、今時点節水型にする気はない。そんなことをしても費用回収ができない。
またペットボトルをタンクに入れるなんていうアホな方法はイカン。
蛇口に節水コマをつけるのは皿洗いの気分が悪いから却下。
そもそも水道使用量が平均家庭以下だから気にすることはないだろう。


ゴミはもう減らしようがない。レジ袋は以前から必要以外はもらわないことにしていた。たまに買う本はブックカバーをつけてもらわない。食材も端材が出ないようにしている。
着るものは一つ買えば一つ捨てる……いや、ダメになれば補充分だけ買うという暮らしだからもうしょうがない。今後は断捨離で出るものが多くなるかもしれないが、それもあるものを出せば終わりだ。
おっと、レシートは必ずもらう。万引きでないことの証明であるし、本の栞、メモ紙といろいろ使い道がある。


言い換えれば、環境に配慮しようと決心したところで、そんなに改善できるはずがない。もし暮らしを変えて大幅に環境負荷が減ったなら、それは元々ムダが多い、 プリウス 環境など気にしていない暮らしをしていたに違いない。
燃費の悪い車からハイブリッド車などに乗り換えれば燃料消費量が半減するかもしれない。だが元々車もバイクも持ってない。タクシーなんて数年に一度しか乗らないような我が家では、減らすところがない。

つまるところ、私の暮らしは自治体や様々な団体が推奨しているエコな暮らしそのものだ。普通の人が当たり前にしている暮らしであり、今以上削減しようとしてもできません。
もちろん環境に配慮しようとなんてしてません。お店で普通に売っているものを買っているだけです。一市井人として当たり前の暮らしです。

そしてわざわざ海外の砂漠緑化ツアーに参加するなど環境に悪いことをしてませんし、里山保全のようなあるべき自然に反することもしません。
ぐれた女の子のアジ演説に心を動かされることもありません。太陽光パネルをつけて補助金をもらおうなんて卑しい心も持ち合わせていません。


勘違いしてほしくないのですが……
私が車を持たないとか外国まで出かけて植林活動をしないのは、環境保護意識が高いからじゃないんです。もちろん環境なんて破壊すべきだと考えたわけでもありません。
もちろん貧乏だからということでもないのです。

今住んでいるところで駐車場を借りたり、出かければ買い物でも食事でも停める場所を探すのも大変、なら車を持たないほうがいいじゃないかと判断しただけです。
ツバルが沈むと聞いて、助けよう、募金しようとしなかったのは、素直にツバルが沈むとは信じられなかったからです。大騒ぎした2010年頃だって、ツバルは元から大潮のときは家のある所も水面下になるとか、人口が増えて海だったところを埋め立てて住んでいるためだとか報道されていました。そんなものを読むと、大変だなとは思っても、温暖化で海面上昇が起きたと思わなかったのです。

要するにニュースなどを見てそれが間違いないか、妥当なのか考えただけです。
ひとつには日本のニュースメディアだけでなく、海外のニュースや解説を見る。英語ができなくてもフランス語が分からなくても、マウスを右クリックするだけで機械翻訳は動きます。不完全な日本語でも日本語のニュースと比較すれば大体見当は付きました。
ツバルを救えでも、トンボを救えでも、砂漠緑化でも、ニュースの真偽、活動の意味、効果の有無など判断ができるでしょう。

環境問題というカテゴリーがあると考えていません。私は、人間生きていくうえで判断しなければならないことがたくさんある、そんな中に環境に関することもあると認識しています。
そして環境が大事だとか全く考えていません。環境問題と、県道に横断歩道を作ってもらうこと、マンションのロータリーにバンプを作るとか、みんな大事なことだと考えています。
環境配慮した暮らしとか、エコな暮らしとかどんな意味なのかさえ私はわかりません。
おっと、お忘れかと思いますので申し上げますが、私は企業で環境の仕事を通算20年くらいしてきましたし、ISO認証ではアホ審査員とチャンバラしてきました。そんな私ですが、環境とは何かと問われたら、生きていく上でたくさんある問題の一部とでも答えておきましょう。
環境は最重要で最優先すべきだ!なんて絶対に思いません。
100年後の地球温暖化も問題なんでしょうけど、今日の夕飯も大事なのです。フランスのトラック運転手の暴動を私は理解します。眼前に今日の問題があり、また100年後の問題もあるとき、まずは今日の問題の対策を考えないとならないでしょう。
私たちは甲子園の世界に生きているのです。今日負けてもペナントレースはまだ何か月もあると考えることはできないのです。

南の島

ツバルが沈むといわれてから10余年、まだツバルは沈まない。いや2010年頃でさえツバルの面積は増えているというニュースがあり、それは真実だったようです。今ではあの騒ぎは外国から援助をもらうためのフィクションだと言われる。
あのとき目の色を変えてツバルを救えと語った人たちは今何を思うのか? 今でもツバルを救わなければと行動しているのだろうか?

1970年頃、日本中で学生デモがあり、サヨク学生が殺しあった。新聞やテレビで見て、私はアホだなあと思った。あのとき学生運動に参加あるいは支援した人たちは反省したのだろうか? 今もサヨクを応援しているのだろうか?
私がサヨクに染まらなかったことは誇りとする。ツバルを救えと言わなかったことも誇りである。


うそ800 本日の再確認

私は絶対に意識高い人間ではない。それは間違いない事実であり誇りに思う。
私はアダム・スミスの見えざる手という考え方を信じている。経済でも環境でも、あるべきところに落ち着くように、神は配慮していると確信する。つまり人間が特定の方向にもっていこうと、力や法規制やお金やエネルギーを使うことは、そもそも間違いなのだ。




注1
伊豆諸島や小笠原諸島が、なぜ東京都の管轄になっているかについては諸説あるが、まず離島を管理する費用や交通手段の問題がある。
離島のインフラを管理・維持するために必要な多くの費用、また食料や燃料、その他物資の調達に必要な運送費は、財源の豊かな都道府県が賄う(まかなう)ことが必要なため、東京都の管轄という説が有力。また、東京港、羽田空港など、主な交通手段が東京都にあるという点も、一つの要因と言える。

注2
都市伝説ではなく、実在する社団法人が行っている。
(一社)環公害防止連絡協議会





外資社員様からお便りを頂きました(2022.02.18)
おばQさま,いつも本旨に無関係な部分ツッコミで済みません。
ご主旨やご指摘には賛成なのですが,どうも突っ込み待ちな気がして...
>小銭を池に落としてしまい、人をかけてそれを探すというお話
『太平記』に青砥藤綱の逸話の記載がありますね,徒然草は無かったような...
内容は,十銭を川に落として五十銭かけて探させた。
太平記には藤綱の考えを記載「十銭小なりと雖も、失すれば則ち永く世の宝を損なふ。五十銭は布く民間に在り、彼此の六十銭、終に一銭も失はず。其の利亦大ならずや。」
無駄だという指摘は当時もあったが,国家としてのマネーフローで考えれば正しいのだと説明していますので合理性はあります。 当時の日本は国家による鋳造銭が無い一方で,経済活動が活発になりつつあり貨幣経済が必要であるにも関わらず銭が無い状態。
このため明から永楽通宝を大量輸入。つまり経済活動に対してマネーサプライが極度に不足しています。故に十銭が川の中で使われなければ市場でのマネーフローは減る,それを探すのに銭五十文を使えば,マネーフローは減らず,その分経済は回るという,理屈の上では合理性あり。こんな理屈が出るくらい,経済活動に必要な銭が無かったのでしょうね。
現代でも1円硬貨の製造コストは3円かかって,発行コストまで入れるともっとかかるらしいので,国家ぐるみで更に大規模な事をしている気がします。

つまりマネーフローの為には,硬貨には金額以上に価値があるという事ですね。青砥藤綱は現代にも通じる価値観をもっていた(笑)
一方で政府が必死にキャシュレス化を進める原因も見える気がします。

>1970年頃のサヨク学生
東大闘争や「お茶の水カルチャラタン」の時に小中学だった私は,迷惑だった実感しかありません。授業中に催涙ガスが流れてきて泣きながら授業をした経験があります。
当時大学教授だった方が,「少し前まで教室を封鎖し,教員に「おいてめえ」呼ばわりした人間が,就職が決まると髪を切って背広を着て,「推薦を下さい」ですからね」と仰っていました。当時でも反省していないから,その後も知れてます。いわゆる全共闘世代の人が「あれはハシカみたいなもんですね」とケロッと言っているのを聞いた時は腹が立ちました。

外資社員様 毎度ご指導ありがとうございます。
家にお金を落とした話。
徒然草かなと思いまして、池と言えば榎の僧正かと思いまして、前後を当たったのですが見当たらず、見当違いで済みません。
時代小説を読むと戦国時代前から中国から銭が入らなくなって、経済が回らなくなったとかいう記述が多いですね。
通貨さえ自国で作れないとは悲しいと思いましたが、なんと今現在世界170か国の内、120か国が外国に紙幣印刷を依頼しているのです。いや先進国以外は自国で印刷していないのが普通のようです。驚きです。
我が日本は外国から受注して印刷したり印刷機を輸出しているそうです。素晴らしきメイドインジャパン! といっていると中国のように電子マネーにチェンジするのが遅れてしまうという一長一短があります。
つまらない話ですが、1970年代初め、大会社で工作機関を使う技能者のレベルが高く、中小は技能者がおらずNC化が中小のほうが先んじていたということがありました。スキルに驕れる平家は久しからず、いや大会社は元々地力があるから、必要と判断したらあっという間にNC化しちゃいました。
電子マネーではどうなのでしょうか?

デモ 私は高卒ですから大学紛争とは関りありませんでしたが、高校の同級生や社会人になって知り合いになった人……というか向こうからカモとみて近づいてきたのでしょうけど……民青とか社青同とか何人もいました。
1980年頃、そんな中には「私は間違っていた」なんて自己批判した人もいましたが、2010年頃30年ぶりに会った人は今も反安保で頑張っているなんて語っていました。もう毒を食わば皿までという心情なのでしょうか?
日本を悪くしないでほしいと願うばかりです。


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