探検家 高橋大輔

22.06.16

お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからとりあげた本の内容について知りたい方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。


少し前、記録の重要性という文を書いた。
島 その中でロビンソン・クルーソーが毎日々々、1日過ぎるたびに木に印を刻んだと書いた。文中ロビンソンはそれをカレンダーと呼んでいたと思う。いい加減な私だが、オフハンドでは書けないから、ロビンソンの漂流記を読みなおさねばと思った。
コンテンツのたった1行書くのに本を1冊読むのかと言われると、研究者が論文を書いているわけではないから、そこまではしていない。でも確認のため図書館にいってロビンソン・クルーソーの本を探してパラパラと眺めることはした。
記憶力がいいのが自慢だが、間違えて覚えていたというのも結構ある。中島みゆきの「時代」の歌詞「あんな時代もあったねと」を、長い間「そんな時代もあったねと」と覚えていた。指摘されたのはリリースされてから40年後だった。


図書館に行く前にネットでロビンソン・クルーソーのことをググったところ、なんとロビンソン・クルーソーはまったくの創作ではなく、モデルになった漂流者がいたのです。
そしてモデルとなった漂流者アレクサンダー・セルカークの住んだところを探している人が現代にいて、実際にロビンソン・クルーソー島(注1)と命名されたセルカークが一人で住んでいた島に行き、住んでいた洞窟とか船が通らないかと見張りをした高台はどこだったのかと探索したということを知った。 その人は日本人で高橋大輔(注2)といい、2005年にセルカークが住んでいた住居跡を発見したという(注3)

移り気な私は、ロビンソン・クルーソーを棚上げして、高橋大輔をキーワードにググってネットをだいぶさまよった。彼は子供のときから好奇心旺盛で、単なる書物を読むだけでなく、実際にやってみる、行ってみる、見てみるという行動派だったという。
例えばロビンソン・クルーソーを読んで木々をこすり合わせて火を起こしたと書いてあると、実際に火が起きるのかどうかやってみたという。私は子供のときも今も、それほどの積極性というかチャレンジ精神はない。


とまあ高橋大輔氏のことを読み、セルカークの遺跡探しだけでなくそれ以外の高橋氏の探検を読んでみたいと思い、ロビンソン・クルーソーのカレンダーのことを確認するとともに、図書館にある高橋大輔の著作を数冊借りてきた。
高橋大輔の著作は10冊以上あるが、その場で借りることができた3冊は、無人島に流れ着いた人がサバイバルをした跡をたどるという本ばかりだった。

書名出版社ISBN初版価格
ロビンソン・クルーソーを探して 新潮社 410431501X 1999.07.30 1500円
浦島太郎はどこへ行ったのか 新潮社 4104315028 2005.08.25 1400円
漂流の島 草思社 9784794222022 2016.05.25 1800円

地球儀

彼の本を読むにはパソコンが必要だ。パソコンがなければ地球儀、日本地図、世界地図、日本書紀、百科事典を座右に置きたい。
読むとき常に登場人物の経歴とか、出てくる場所の位置関係とかを、パソコンや本で調べながらでないと理解できない。また参考文献があればそれも参照しながら……となる。


無人島でサバイバルをするはめになったのは、乗っていた船が遭難して漂流したとか、あるいは船の中でいざこざが起きて罰として無人島に置いて行かれたとかいろいろだ。
そういう事例はたくさんあったのだろうけど、その多くはその島で寂しく生涯を終えたのが多いだろう。とはいえ、そういう事例はお話にならないし、そもそもそういう事態になったことさえ関係者や故郷に伝わることなく忘れられておしまいだ。生還しなければ、漂流したとか孤島に置いてきぼりされたことが伝わるわけがない。

無人島に流れ着いた人たちの生きざまが世に知られるのは、無人島から無事に生還した人たちだけである。
そういう人たちは、故郷に帰ると英雄として称えられ幸せな人生を送りました、めでたしめでたしとなってほしいが、実際はハッピーエンドになる人はほとんどいなかったようだ。

例えば、小説のロビンソン・クルーソーはイギリスに帰国後、結婚して子供も生まれ幸せに暮らしましたとある。
しかしそのモデルとなったセルカークは、帰国して国王から大金をもらい経済的には豊かになり、結婚したいという女性が大勢現れより取り見取りで結婚した。
だが奥さんとだけでなく近隣の人たちと人間関係を構築することができず、結局また水夫に戻ってしまう。そして数年後、航海中に病気になり没する。
孤島での4年間の孤独というか一人で生きて死ぬという状況に置かれたことは、肉体だけでなく精神にもものすごいストレスをもたらすのだろう。

日本の事例でもジョン・万次郎などは帰国後の幕府の処遇が悪くて晩年は失意だったろうけど、まあ英雄でなかったわけではない。
しかし何年も経ってから故郷に帰ってきた漁師たちは、既に故郷では彼らのいない秩序があるわけで、居所がなかったというのが本当らしい。殿様から金一封をもらい、勇敢だと褒められても一時のことだ。


日本の事例としては伊豆諸島の鳥島に限定して、そこに漂着した人々がどのように生き残ろうとしたのかということを、今に残る記録と現地での跡地の調査をする。
鳥島は過去より遭難して漂着した事例が幾たびもあり、そして脱出を成功させた人たちも過去何度もいた。

鳥島は生存にはものすごく条件が悪い。食べられる植物や木の実などがない。 アホウドリ 釣りをするにも島が海底から立ち上がった火山の頂上だから、海岸には砂浜もなく全周断崖で安全に釣り糸を垂れるようなところもない。島の動物といえばアホウドリだけ。
何よりも活火山でいつ爆発が起きても不思議でない。火山が噴火すれば2キロ四方もない島だから逃げるところはない。明治時代開拓しようとしたが、火山が爆発して島から逃げ遅れた住民は全滅した。楽園とは程遠く条件は最悪だ。

一方、ロビンソン・クルーソー島の場合は、まず島が大きくて危険な動物もいない。その代わりヤギやウサギがいて食料に事欠かない。植生も豊かで木の実も食べられ、釣りもできると、鳥島に比べたら天国だ。


帆船 島からの脱出だが、セルカークは船を作ることは初めから考えていない。通りかかる船を見つけて救助を頼むことしか頭にない。それは絶海の孤島だからそれしか手がないということもあるだろう。
だから食べること以外は水平線をウォッチするだけの日常だ。とはいえ大変だったことだろう。衣食住全部ひとりで賄わなければならない。

鳥島の場合は、そもそも島の近くを船が通ることは期待できない。日本の国内航路からは大きく離れているし、有人で最南端の八丈島より南に来る船は難破しない限りない。
だから脱出するには独力で船を造らなければならない。漂流した人はみな船乗りだから、そういうことは知っていた。だから自分たちで船を作り、最低でも八丈島まで行かないと故郷に戻れないということも知っていた。
ちなみに鳥島と八丈島の距離は290キロ、ロビンソン・クルーソー島と南米大陸はその倍以上の650キロである。

注:八丈島は昔から島流しするところであった。有名なのは罪人ではないが宇喜田秀家もいる。
ところで八丈島から島抜け(脱走)したのはいるかとなるが、未遂や行方不明は過去何件かあるが、無事本土にたどり着いたのは一組二人だけだそうだ。このときは大きく流されて茨木県鹿島郡荒野浜で直線で330km、実際に漂着している。房総半島を突っ切っては行けないから、おおよそ400km以上流されたことになる。
なお八丈島から大島までの距離は170km、八丈島から本土で一番近い伊豆半島先端まで185kmである。
これを考えると鳥島から八丈島まで290km、鳥島から本土で一番近い伊豆半島先端まで480kmはいかに遠いかということだ。

だが鳥島の場合、喬木が生えていないから、船を作ろうにも、材木がない。だから流れ着く流木を集めて加工するしかない。数人が乗る船を造るのに、流れ着く木材を集めるだけで何年もかかっている。その努力も忍耐もまねできない。

これらを読むと須川邦彦の「無人島に生きる十六人(注4)は本当に難破して漂流したのではなく、アホウドリの不法なというか無許可の狩猟を目的に、難破も救助もあらかじめ計画したものとしか思えない。


亀 一方、浦島太郎は伝説のかなただから、サバイバルとか帰還することはそんなに真剣に考えてもしょうがないということもある。そこで生きるために何をしたのかなんてことは議論の俎上に上がらない。
高橋も各地に残る浦島太郎の伝説を集めて、竜宮はどこにあったのかを考えるのがメインだ。まあ考えることが夢なのだろうからそれで良いのだろう。

浦島太郎の本は……まあ、面白いって言っちゃ面白いけど、行き当たりばったりというか、論理的ではない。
研究というなら先行研究を調べて、確実なことを積み重ねていくはずだ。実際はどうか知らないけど、高橋の本を読む限り高橋は僥倖が重なったおかげで目的を達したという感じが否めない。あるいはそもそもそんなに困難なことではなかったのかもしれない。

高橋大輔は「自分は冒険家ではなく探検家である」と語っているけど、研究者でないのはもちろん探検家でもなく、冒険家ではなかろうか?
もちろんお話として読む分には研究者の本より、山師の本のほうがおもしろいことは間違いない。


これらを読んで私が考えたことは、少年時代にいろいろなあこがれや夢を持つ人は多い。ロビンソン・クルーソーのような体験をしたいと思う人もいるだろう。パイロットになりたいと思う人もいるだろう。スポーツ選手になって有名になりたい人もいるだろう。
でも子供の時の夢をかなえられる人はごく少数だ。

子供のときの夢を追い続けて、会社を辞めて探検のスポンサーを探して……それだけで十分に冒険である。
高橋氏は「君はリスペクトされているか」と聞かれて、日本国内では有名でもないしリスペクトされてないなあ〜と思う。確かに一般的な感覚では、高橋はプロスポーツ選手より無名だろうし、経済的にも富豪とはいえないだろう。

しかしお金が目的ではないだろうし、有名になることが目的でもないだろう。自分の夢を実現することが目的のはずだ……と自分が納得しているのだと思う。
私を含めほとんどの人は、自分の夢を実現できず、経済的に成功もせず、名声も得ることもなく、人生を終わるのだから、高橋氏は大成功だろう。

極論すれば高橋氏の行動は、夢を忘れた私たちに代わって夢を追い続ける素晴らしさと苦しさを教えてくれる、私たちの代行行為というとちょっと変だが、そんな感じなのだろう。
彼は私たちにいっときでも子供に戻って夢を持つことを思い出させてくれる。


彼の書いているお話は興味深く面白いのだが、彼の文章は私にフラストレーションを引き起こす。
私はまず先行研究を調べなければならない。それから研究の三要素、つまり新規性・有効性・信頼性の観点で作戦目的や達成基準を考え、アプローチを考え、準備を行い、現地調査があり、と構成してほしいと思う。
そこに心理描写はいらない。また苦労話も役には立つだろうけど、研究とか探検という観点でみれば、 わけわかんねえ〜 失敗談は重要だが、苦労話は必要ではない。

だが彼の文章はいよいよ目標達成となったときに、子供の時からのあこがれとか、今までの調査や準備の苦労、感情が入り乱れ、読んでいて調子が狂う。
彼の著作は探検記とか冒険記というよりも、ルポのようだ。いやまさにルポルタージュそのものだ(注5)

そして実際に彼の著作の書評を読むと、私と同じように旅行記(注6)だとか心象風景ばかりだというコメントを散見する。そんなことを思うのは私ばかりではないようだ。

ちなみに今回読んだ本の図書館の分類は「ロビンソン・クルーソーを探して」は916でルポルタージュ、「浦島太郎はどこへ行ったのか」は388で伝説、「漂流の島」は291で探検や紀行といろいろだ。
いずれの本も内容は、昔漂流した人の言い伝えやわずかな証拠を基に、彼らが暮らした場所を探し求めるものであるが、図書分類はこのようにさまざまである。司書がこれらの本を研究や探検ではなく、そのように捉えていることは、私の感覚もあながち間違いでないのだろう。


老人マーク 本日のお話を一言でいうと、

子供の時の夢を、大人になっても忘れず実現しようする男の物語。

少年の夢 家族を持ちそれを養うのが大人というもの。
少年の夢をいつまでも持ち続けるのは難しい。
自分ができないからこそ少年時代の夢を持ち
続けそれを実現する人を尊敬する。



注1
Google mapの検索に「ロビンソン・クルーソー島」と入れると一発で出てくる。
縮尺を小さくすると、その西側180キロにロビンソン・クルーソーのモデルとなった実在の人物セルカークの名がついた島がある。小説の主人公より、そのモデルとなった人の島が小さいとは少しかわいそう。
いずれも日本から何もない太平洋を1万6千キロも航海した太平洋の孤島である。だがセルカークの故郷イギリスからは、南米を迂回してその航路は1万7千キロと日本より遠い。
江戸時代初めにこんなところまで航海していたということはすごいことだ。もちろんセルカークが乗っていた船の目的は、アフリカや南米の財宝を略奪するとか、外国の船を襲う海賊だったわけだけど。

注2
高橋大輔という同姓同名の方は複数いる。このロビンソン・クルーソー島を探した高橋大輔はスケート選手でも声優でもなく、探検家を名乗る。
探検家といっても、もっぱらサンタクロースは実在したかとか、浦島太郎はどこに住んでいたかなど、古い伝説を調べたりしている。

注3
注4
「無人島に生きる十六人」須川邦彦、新潮文庫、2003
1898年(明治31年)遭難して無人島で生きのびて1年後に生還した実話を書いたもの。漂着したのはミッドウェー島からハワイの方向約150キロにあるパール・アンド・ハーミーズ環礁である。
しかしこの難破も救助も計画されたものではないかと語る人は複数いる。
理由として長期滞在に備えた食料とその航路から、たてまえの目的地ではなく漂流先(?)が本来の目的地と考えられること、漂着先で一生懸命ウミガメを獲りべっ甲にして、帰国後大金を稼いだことなど、要するにアホウドリの羽毛やウミガメなどを獲るために行ったという。本を読んでも誰も悲観せず漂着しても余裕綽々で、すぐにウミガメを獲りはじめたりするところからそんな感じがする。

注5
ルポルタージュとは「事件/出来事が発生した現地から報道すること/報道されたもの」の意味。

注6
紀行と旅行記は何が違うのかというと、紀行は文章のみでつづるもので、旅行記は文章だけでなく画像や音声その他を利用して旅行に行った際の感想や記録などをまとめたものだそうです。



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