記録の重要性

22.06.09

少し前に「溺れ記念日」と題して一文をしたためた。それに外資社員様からコメントを頂いたが、「(溺れたことを)ISO認証につなげるとはすごい」とおっしゃる。

それを読んで、なるほど普通の人は、ISO規格と日々の暮らしは無縁だと思っているかもしれない、それなら日々の暮らしとISO規格の類似点や関連性を解説するのもありかと思った。
日々の暮らしの中で当たり前とか規範となっていることが、ISO規格と関連しているかと振り返ると、いや〜、たくさんありますね。というか、ISO規格とは会社だけでなく、私たちの行動全般に使えると考えている。

もちろんISO9001なんて過去からたくさんあった品質保証規格や協定の集大成であり、中身は新鮮味もない常識であるのは事実。そしてまた日々の暮らしにおいては、以前からしていたことをいちいち○○原則とか、こういう理屈だと考えて私たちが行動していたわけでもない。
要するに本質は同じであり、明文化したかしないかの違いしかない。かっこよく言えば、暗黙知と形式知の関係とでもいえるか。

慣習・習慣
ISO規格
家庭生活
会社のお仕事
暗黙知・無意識・不文律
融通がきく・ばらつく
簡単・お手軽・気楽
形式知・有意識・明文化
融通が利かない・揺らぎない
繁文縟礼・面倒くさい

いずれにしてもその目的は同じであり根本は普遍的なものであるから、エッセンスが明文化されたものを日々の暮らしに反映すれば、今までの無意識、習慣で動いていた以上の効果があるだろう……と思う。


私はISO規格と関わったおかげで、そういう過去からの習慣とかで、理屈が明確になって良かったと思うものもあり、わざわざそこまでしなくてもと思うものもある。まあ規格と習慣の比較検討も面白い。

そういうことで本日はISO規格の要求事項のひとつ「記録」から話を紡いでみましょう。
こんなことを始めるのは、いかに私がISO規格に染まっているかという証左でございましょうか? あるいはISO話のネタ切れなのか?


パット話は変わって……
日記を書いている人は何割いるか? そういう調査というかアンケートは多々行われているが、調査によって数字は相当違う。高いもので日記を書いている人が30%を超えるものもあり、低いものでは10%程度もある。
スマホ そしてまた調査時期によって大きく異なる。21世紀になりほとんどの人がスマホを持つようになり、またSNSの普及によって日記を書く割合が下がってきているという。
見方によれば日記帳に書くばかりが日記ではなく、SNSに投稿することが日記代りになってきたという。
確かに今の形態の日記とは、紙のノートがあってこその存在だ。ロビンソン・クルーソーが木の板に毎日の印を刻んだ状況では、今の形態の日記を書きようがない。数語の記録しかできなかっただろう。

そもそも日記の目的とは何だろう?
これも多くの人が語っているが、何をした・何が起きた・どこに行ったという事実の記録、書くことによる脳や筆記力や考える力の向上、自分の行動や考えたことの反省、感情の整理・浄化などが言われている。

具体的に日記に書くことといえば、その日の行動、買い物、人と会ったこと、喜び悲しみを言いたい、愚痴をこぼしたいなどだろうから、まさにSNSに投稿していることとそのまんまだ。日記に書いて一人で問題を抱えているより、多くの人の共感を得るとか、アドバイスを受けることのほうがより価値があるかもしれない。
そういう形態も含めると日記あるいは日々の行動を記録している人は半数以上いるのではないだろうか。

私は日記という形のものは書いていないが、会社員時代から毎年の手帳に、日々の予定と実施したこと、小遣い帳、天候、体調、食事などをメモっている。私が長年愛用している手帳の1日分のスペースは3センチ×9センチだが、書こうとすると結構な文字数が書ける。もちろんSVOCのある文章は書かない。自分が分かればよい。

とはいえ手帳は毎年捨ててしまう。私は昔はやった「白い本」という表紙も中身も印刷のない、 白い本 高級なノートのような本に1年を1ページにまとめて年記としている。
毎年暮れになるとその年の手帳を見返して、社会、家庭、自分自身に起きた重大なことを1ページにまとめている。もうかれこれ40年くらい記録している。これが私の人生だ!といっても過言ではない。といっても40ページだ。30歳までの分はないけど…

中身は個人的プライベートなことだからここに書くわけにいかないが、概ね次のようなものだ。

そんな風に簡単であるが、経験的に10年後に必要となるような情報は網羅しているつもりだ。


毎日の出来事やその年の出来事を記録しても、そんなものが役に立つのかと疑問に思うかもしれないが、私の日々の記録と年記は、役に立つというか参考になったことは多い。

コロナ副反応で診察受けた時
私は今年3月14日コロナワクチンの第3回接種を受けた。その直後から具合が悪くなり嘔吐と下痢が続き、2週間我慢したが我慢しきれず近くのかかりつけの医院に行った。
そのとき手帳から必要と思われる情報を抜き出し下表を作成し持参した。

月日曜日主たる行動体調血圧大便体温体重食事
晩酌
3/11プール平常12375119702平熱63.2納豆・卵焼き天ぷらそばステーキ
3/12プール平常11168115632平熱63.6トースト
サラダ
揚げ餅弁当
3/13図書館平常12981107681平熱63.6シラス大根
・卵焼き
稲荷寿司そば
3/143回目
ワクチン接種
接種箇所痛み12076122661平熱63.8納豆
・玉子焼き
ケンタッキー茄子鴫焼き
サラダ
3/15外出せず関節痛み12880107621平熱63.5しらす大根焼きそばチャーハン
3/16プール関節痛み12779111701平熱64.1ピザ・リンゴサンドイッチカレライス
3/17外出せず下痢・腹痛109671067110〜平熱62.8食欲なく
食べず
3/18外出せず下痢・腹痛1086710〜平熱62.2

なお実際の表は、接種前の1か月と接種後の3週間であった。
診察の最初に上の表と、これより記載事項はプアだが家内の病状の記録を見せて、説明した。
医者は問診することなく、接種後にこのような症状が出る人は多い。その症状と同じだから夫婦共にワクチンの副反応に間違いないという。
副反応のひどさは解消しなかったが、この記録を提示したのは医者の判断とその時間短縮に寄与したと思う。

もしこれと家内の病状の記録がなければ、医者にワクチン接種してから下痢と嘔吐が始まったといっても、食中毒ではないかとか、フキノトウなどでも腹痛、嘔吐が起きることがあるとか、漠然としたことを言われ、結局整腸剤をもらって終わりというのが関の山だっただろう。なお家内も同様な症状だったが、私より早く回復して医者にはかからなかった。
最後に医者はこれはすごい資料だから置いてってちょうだいと言うので差し上げた。


議論の証拠
マンションの屋内は自転車走行、スケートボードなどは禁止されている。理由は危険だからだ。小さなといっても小学生高学年くらいになれば体も大きくなり、スケートボードで通路を疾走すると、歩行者にぶつかって転ばせたり怪我をさせたりということが起きている。

今の人は他人の子供を叱るということをしない。その親ともめるのが嫌なのだろう。私ももめるのは嫌いだが、自分が怪我してはいられない。だから屋内を自転車などで走行しているのを見ると、声をかけて止めさせる。
スケートボード しかし子供もしたたかというかあざといというか、屋内で自転車に乗って走ってはいけないというと、「ハイわかりました」と口では言うものの、降りようとしない。乗ったまま去っていこうとする。
自転車から降りて押していけといっても言うことを聞かない。そういうときはまず「何号室だ」と聞くが、半分も答えない。
だから言うまで離さずに問う。しかたなく「〇号室」というが、それが本当かどうかわからない。「名前はなんというの」と聞くとこれまた返事をしない。だからこちらもおとなしくはしていられない。自転車を足で押さえつけて持っていけないようにして「名前は💢」と聞くと小学生なら大体答える。

そしたらいつも携帯している手帳に相手が見えるようにしてメモする。
「ええと、〇月〇日○○号室○○と名乗る11歳位の男の子、○号棟○階の廊下をスケートボード走行していたので注意する。これでよいか」
そして解放する。正直なことを言えばほんとの部屋番号と名前を語っているのかどうかはわからないが、それを毎回されると屋内を自転車に乗るのは止めるようだ。


周りにいるお母さん連中は私を見てドン引きだが、そういう子供に注意しない若い母親に私のほうがドン引きだよ。
一度はそう問い詰めた子供が「ママー」なんて2mも離れていない女性に抱き着いたが、その母親は私を睨んだだけで、私にすみませんとも子供に対してお前が悪いとも言わないのだ。

ともかく日常そういうことをしていると、私のメモ帳にそういう記録が蓄積される。
あるときマンションの集会で屋内を自転車やスケートボードで走る子供がいて困るという動議を出した年配者がいて、そんなことはないとか、問題じゃないという反論がでた。
そこで私が過去の記録の日付と部屋番号を読み上げたら反論者は口を閉ざした。

ISO審査ばかりでなく、物事を議論するときは証拠を出さないと水掛け論になり、声の大きなほうが勝つのは会社と同じだ。
我々は社会生活を営んでいるが、そこでの認識は人によって異なり、重大問題ととらえる人もいるし、問題でないと考える人もいる。
現状が問題であり改善しなければならないと考えるならば、そう認識していない人に現状を証拠で示し理解させなければならない。
私はそう考える。そして考えるだけでなく行動している。
年寄りがーとか、細まけえことは良いんだよという大人、特に私と反対の利害に立つ人はそういう意見が多い。議論というと大げさだが事実は事実として認識させ、改善をしようと意識付けする必要は多々感じる。

救急車 マンションの通路を自転車で疾走するわが子をを止めない母親は、わが子が老人に怪我をさせたときどうするのか?
監督責任を果たしてくれるのだろうか?
たぶん、わが子を連れて実家に逃げるんじゃないだろうか?

記録の話とはだいぶ離れてしまったように思うかもしれないが、そういう母親を逃がさないためにも、記録は重要だ。


家計簿
ここで家計簿のことを話しておかねばならない。
家計簿は国家予算と同様に家庭の経営に重大な帳簿である。というか土地も財産もない一般家庭では唯一の帳簿だろう。
普通は複式簿記ではなく、単に収入と支出を記録しているだけだ。それでもお金の流れはわかるし、これからの予算も立てることができる。今はどうか知らないけど、50年前は女性雑誌の新年号の付録に家計簿は定番だった。
今はどのくらいの家庭が家計簿をつけているのだろう? 2018年の調査では3割の家庭で家計簿をつけているという。もちろん日記と同じく、家計簿も紙でなくパソコンの家計簿ソフトとか、エクセルを利用している人は多いだろう。
私が結婚したのが半世紀前だから、私は当然家内が家計簿をつけるものと思っていた。当時は基本的に夫が稼いでくるもの、奥さんは出産まで働きそれ以降は子育てをして、子供が10歳とか中学生になったらパートなどで働くというスタイルが基本だった。そしてお金の管理は奥さんで、夫は給料をまるごと奥さんに渡し小遣いをもらうというのがメジャーだった。

ところが家内は家計簿など付けないという。えっそれじゃお金の使い道も分からず、将来の計画も立てられないと私は言った。

私は天才なの
天才
老妻愚妻である
すると家内は少しも騒がず、そんなことはすべて自分の頭の中にある。先月の給料でも支出でも知りたいなら聞いてみろという。
私が聞くと100円単位まで種々費目について日付、使途、金額を立て板に水で語る。
そしてそれから今に至るまで半世紀、我が家では紙の家計簿はなく家内の脳内にある。

単なるスタティックな家計簿と違い、大きなものを買う時の予算案とかローンの計画などが家内の口から出てくるのだから、紙の家計簿より高度で家計簿ソフトよりも優れている。
実際に家内の天然コンピューターのおかげで家を2度買ったし、二人の子供たちはローンも奨学金もなしで大学を出した。夫の給料が良いなら当たり前だが、夫の給料が悪くて計画を達成したのだから、天才というより手品師かもしれない。
ただ問題というかリスクはある。家内が死んだら残されたものは、預金の口座も知らず、前年の予算と実績とか今年の予算案も分からず途方に暮れるだろう。
と言ったら家内に、私より長生きするから心配するなと言われた。心配するのをやめたよ、

家内の知り合いの夫が亡くなった。その夫婦は長年お金のことはすべて夫が仕切っていたので、買い物などに使っていた銀行口座はわかっていたが、それ以外の取引していた銀行とか証券会社などいくつあるのかもわからず途方に暮れたという。最後には株などあれば年に一度配当とか連絡があるだろうと開き直ったらしい。
でも株だって名義変更したのかどうかさえ分からない。
それに隠された借金があったりして……

金勘定 私の住むマンションにもジュラ紀からの生き残りのような亭主関白夫婦がいる。日常の買い物も都度旦那さんからお金をもらっていると奥さんがこぼす。もし夫に先立たれたらお手上げだという。
お金の管理を誰がするかは夫婦の間で決めればよいだろうが、口座とか残高など重要なことは情報共有していないとまずいだろう。厳密にいえば経済DVといえる。
でもさそういう夫婦を何十年もしているなんて奴隷乙と言われちゃうよね。

小遣い帳
私が会社をやめてからも、家内は私に小遣いをサラリーマン時代と同じ金額を毎月渡してくれた。私も当初は会社員時代と同じ感覚で使っていた。会社の元同僚から飲もうと呼び出しもあるし、本屋で立ち読みして面白そうだとその場で買ったりした。
だが1年も経てば、元同僚からお誘いもなくなるし、本を買っても溜まるばかりで一度読めばよい本なら図書館から借りるようになった。プール友と週一ランチをしても、1000円なんてところにはいかない。せいぜいサイゼリアとか大戸屋だから1000円でお釣りがくる。となると月に使う金がどんどんと減る。ということで家内にベースダウンを提案して今では当時の半額だ。

それで足りなくなるのは健康診断で精密検査を指示されたとか、水泳パンツが破けたので買ったとか、趣味の会の年会費を払う月とか、購読している有料ブログなどしかない。
ではいくら必要かといえば、何事も過去の記録があれば将来の予想はつく。当たり前と思うかもしれないが、現状を知らないと改善も将来計画も立てられない。
特に年1回払いの会費などは記録していないとうっかりする。
私が設計から製造現場に異動になったとき、暇を見て流れている部品の寸法を測って記録を取っていた。不良が出たときに、その測定結果が大きな力となった。己を知らなければ百戦危うい。


思い出
アンドロイド付属のフォトアプリを立ち上げると、1年前、2年前……の写真を表示してくれる。
今(6/7)アプリを立ち上げると、家内が薄いパーカーを羽織った写真が出て来た。2016年6月7日成田と表示されている。はて、なんだったのだろうと例の白い本をめくると、その日家内とグアムに飛び立ったのだ。
写真アプリをスクロールすると、ホテルのプールで泳いだりラグーンでカヤックを漕いだりした写真が出てくる。6年前は家内も私もだいぶ若い。
2020年正月明けからはコロナ流行で、国内・海外どこにも出かけていない。
こういったものの検索機能が強化されると確かに日記などいらないのかもしれない。


反省
私のしたことの2割くらいはよい結果となり、5割は悪い結果となり、3割はなるようになったというイメージである。 経験を積めば成功する割合が向上してほしいが、そうでもないのが現実だ。
せめて同じ失敗はしたくはないのだが。

私もバカで欲深だから、たびたびとは言わないが、何度か詐欺メールに引っかかったことがある。iPadが当選しました、今すぐに振り込んで……うれしくてすぐにクレジットカードの番号を打ち込んじゃったことがあります。
一度だけじゃなく、そんなことを繰り返しているのです。ISO審査なら、是正処置が不十分と不適合を出されそうだ。
とまあ日々反省している私ですが、記録がなければ反省もありません。
エッ、記録があって反省しても行動が伴わないですって まあ、そうなんです。


うそ800 本日の要求事項

ISOの要求事項にあるものが必要な記録のわけじゃない。
それぞれの会社や人が書き残してきたものが必要な記録のはずだ。
そもそも記録とは他人に見せるためじゃなくて、己のPDCAにつながるもののはず。
顧客要求ならともかく、ISO規格要求にあるものが真に記録に値するのかは疑問である。




うそ800の目次に戻る
ISO14001(2015年版)規格解説の目次に戻る

アクセスカウンター