「ひとりでもやる、ひとりでもやめる」

2001.08.26
著者出版社ISBN初版定価(入手時)巻数
小田 実筑摩書房4-480-86323-02000/32900全1巻

これは反面教師として掲示しましたので誤解なきよう(^^)
このお方はもともと61年に「なんでもみてやろう」でデビュー、幼かった私はこれを読んで遠いアメリカやメキシコの風景を想像したものです。でも、数年後読み返すと東大のエリート臭が鼻につきほおりなげてしまいました。
その後ベ平連「ベトナムに平和を市民連合」の指導者として活動しました。言葉だけ見ると戦争反対、平和を求める人のように思えます。では、その後ベトナムのカンボジア侵攻や中国がベトナム侵攻したとき何をしたのか??何もしない。小田実様は平和主義者じゃなくて単なるサヨクだったのでしょう。
副題として「良心的軍事拒否国家」とあります。この人にホントに良心があり、ホントに平和主義者ならチ平連(チベットに平和を市民連合)を設立して活動してください。そして中国の脱走兵を救出してスカンジナビア諸国に亡命させてください。
ついでに言えば、「ひとりでもやめる」なんて遠慮せずにみなさんサヨクを止めてください。



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小田 実 命日に思う

2015.07.30
7月30日は小田 まことの命日である。いまどきの人は小田 実なんて知らないかもしれない。この男は1960年代半ば、若者のそしてサヨクの教祖様だった。
彼は1961年に「何でも見てやろう」という本を書いた。「何でも見てやろう」は東大にいた小田 実がフルブライトの奨学生に受かりハーバートで学んだ後に、1年かけて世界を回ってきた、その留学や漫遊の旅での体験や考えたことを書き連ねたものである。
お金さえあれば海外旅行に行ける時代になる10年も前のことだ。この本は若者の聖書的存在だった。もちろん私も読んだ。当時は海外旅行なんて一般人には不可能だったから、海外の話題、旅行記に飢えていた我々は一生懸命に読んだ。ちなみにジャルパックなるものが始まったのは1969年である。
正直言って「何でも見てやろう」には猛烈な、俺は東大だ、東大スゴイダローという驕り、ゴーマンさがあふれていた。高卒の低辺である私にはそのスノブ臭が耐え難かった。また文中に反米・反日、共産主義マンセーの主張があふれていた。それは保守の家に生まれ育った私の好みには合わなかった。とはいえ最後まで何度も読んだ。それほど海外の情報に飢えていた。
中学、高校時代はいつか小田 実のように海外を歩いてみたいと心底思っていた。

彼がさらに有名になったのはベトナム戦争である。「ベトナムに平和を、市民連合(べ平連)」なる団体を作り、サヨクを結集してアメリカそして日本政府を攻撃した。デモだけでなくかなり過激な活動をしていた。アメリカの脱走兵の支援をして、サヨクがかくまっていた脱走兵たちがさまざまな悪さをしトラブルを起こした。私と同年配の方ならまだ覚えているだろう。
ともかく小田 実はそんなサヨクの指導者・象徴であった。

チベットに平和を おっと、彼を平和主義者だと反論されるかもしれないが、彼は決してチベットに平和をとか、中国のベトナム侵攻を止めろとか、アフガンに平和を市民連合を作って運動をしなかった。彼は共産主義が他国に攻め込むことには寛容というか、賛同していたのである。そういう人物が平和主義者ではありえない。そういうのを共産主義的帝国主義者という。

ヒノマル 建国記念の日が祝日になったのは1967年であるが、そのとき小田 実はどういう立場なのか、建国記念の日の会議で反対の立場の人を「バカ」「アホ」と怒鳴っていたのをテレビで観た。私の小田 実熱はますます冷めた。自分の主張を通すために大声を出す、恐喝する、相手の人格攻撃をするなんてところは、辻元清美とか有田よしふに相通ずるところがある。いや、サヨクのテンプレなのだろう。

前述したように1960年から1970年にかけて小田 実をテレビや雑誌でよく見かけた。ベトナム戦争が終わってから、こいつの顔も名前も見なかった。1980年頃「通販生活」というサヨクの副業の通販カタログを購読していて、その中で小田 実が商品の宣伝をしていた。おっと、責めないでください。当時は「通販生活」とか「カタログハウス」「生協」がサヨクの金儲けとは知らなかったのです。サヨクは金儲けもうまいのだ。
そのとき小田 実の肩書が哲学者となっていたので笑った。思想家ならともかく哲学者ではあるまい。小説家といっても間違いなだろうが、日本国憲法を名文であると語っているのだから、文才がないのは間違いない。
ちなみに石原慎太郎は「日本国憲法は日本語になっていない」と語っている。私も主語述語がはっきりしない日本国憲法(正式名称はマッカーサー憲法という)を読むと、揺れる船に乗っているような気がして訳が分からない。

北朝鮮 小田 実は「北朝鮮はすばらしい」、「北ベトナムはすばらしい」、「北ベトナムを支援する中国は正義である」と語っていた。しかしその後、北朝鮮の実態が明らかになると北朝鮮について語ることがなくなった。中国がベトナム侵攻すると中国について語ることがなくなった。ソ連がアフガン侵攻すると(以下略)
私は、小田 実がベルリンの壁崩壊についてコメントしたものを知らない。そういやソ連崩壊について何かコメントしたのだろうか? 北朝鮮拉致問題についてのコメントも聞いたことがない。
要するに奴は単にサヨクの広報官だったに過ぎない。そして都合が悪くなるとほっかむりである。ひどいもんだ。

次に彼の名前を見たのは、1990年頃、「九条の会」であった。サヨクは宣伝活動、アジテーションが得意だ。また面倒なものを作ってくれたものだ。
「九条の会」の設立のいきさつはいろいろ言われているが、私は1991年のソ連崩壊を受けて、日本のサヨクが崩壊するのを防ぐために、一つのシンボルとして立ち上げたのだろうと考えている。
なにせ平和憲法(?)はサヨクのシンボルだからね、
話はそれるが「憲法9条を世界遺産に」とか「憲法9条にノーベル賞を」とか、サヨクのアイデアには参りますよ。
小田 実が2007年に没したとき私はホッとした。2010年に井上ひさしが亡くなった。このサヨク団体の発起人は9人いたが、既に9人の内5人は故人となった。残り4人も早く片付いてほしいとせつに願っている。
もっとも後継者は蛆虫のように湧いて出てくるのだろうが・・・

ストップサヨク 何度考えても、小田 実が良いことをしたのは浮かばない。悪いことばかりしたように思う。
ともかく、小田 実は日本を貶め、ウソを騙り、若者を悪の道に引き込むことに努めて人生を終わった。彼は人生を終えたが、いまだに悪魔の影響力を持っているのが残念というか困る。死しても悪霊のごとく祟るとは、まさに亡霊、ゾンビである。
死して早8年、一刻も早く悪さしないように悪魔祓い、調伏、加持祈祷をせねばならん。

本日のお断り
死んだ人を悪く言うものではないというのが日本人の考えである。だが、そうは言っていられないこともある。この輩はそれに該当する。



I様からお便りを頂きました(2015.08.12)
最近特に思うことです。
本当に、安保法案の反対派のメディアの報道は酷いですね、賛成の報道はしません、
そもそも、国民の理解って必要なのでしょうか?
そんなことを言っていたら何も決まりませんよね!
自分の意見ですが、核ミサイルを保持していない国が戦争など仕掛けられる分けありませんよね。
テレビ朝日の報道ステーションとかTBSとか反吐が出ます。
自分の親は教養は有りませんでしたが、愛国者で戦争に行き、誇りを持っていました。

I様 お便りありがとうございます。
お盆で田舎に帰っておりまして、返事が遅れましてすみません。
マスメディア全体がもう左に傾いていますね。その原因は二次大戦後、GHQが日本を弱体化させようと右を追放し、左巻きにマスコミを預けたからということらしいです。それと韓国系がごねるために、放送局関係が口封じにドンドンとその系統を採用し、完全に乗っ取られたと聞きます。
真偽のほどはわかりませんが、「竹島は日本の領土」と語った芸能人が干されたとか聞きますと、信じたくなります。
昨日も古い知り合いと飲んだのですが、彼は「従軍慰安婦に謝罪と賠償を」とクダを巻いておりました。あの朝日でさえ強制連行はなかった、狭義の十分慰安婦はいなかったと語る時代なのに、もうお前は何を信じているのかと小一時間。。
沖縄の基地外知事にも困ります。反論を承知で言いますが、私個人は太平洋戦争も沖縄決戦も、もうたくさんです。それよりも目の前の危機である尖閣列島をどうするのかということを明示してほしい。沖長が尖閣は中国に差し上げようと語るなら、その公約で選挙に挑むべきでしょう。まあ、それを言えば舛添もいっしょ、ひとつ穴のムジナですがね、
私のオヤジも尋常小学校しかでていない丁稚あがりの海軍兵曹長でしたけど、多少暴力がすぎたところはありますが、考えはまっとうだったと思います。そんな親父に育ててもらったことに感謝!
家に帰って来たばかりですが、今日は靖国に参拝してきました。ものすごい人で混雑していました。そんな風景を見ると、日本も捨てたもんじゃないと思いました。

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