「地球温暖化論への挑戦」薬師院仁志著goodbetter
出版社ISBN初版定価(入手時)巻数
八千代出版4-8429-1228-6 2002/22000全1巻

言い訳がましいのですが、
私はいつも環境管理の専門家だと自称しておりました。
もちろん科学者じゃありません。しかし、実際には技術者でさえないようです。
本当は単なる事務屋に過ぎないのでないのか?と感じてきました。
すべてはこの『地球温暖化論への挑戦』を呼んだせいであります。

読書は大切です この連休に本屋で見かけ、以前読んだ『地球温暖化への挑戦』と装丁が違うんであれっと手にとったわけです。
そしたら『論』という文字がひとつ多いんですね、

 なるほど内容もしっかり違いました。
『地球温暖化への挑戦』は炭酸ガス排出をいかに少なくするかのチャレンジを書いたもの
『地球温暖化への挑戦』は地球温暖化という学説へのチャレンジを書いたものでした。


この本は炭酸ガス濃度増加による地球温暖化というのは科学的に証明されていないし、実測でも裏付けられていないと断じています。
もちろん、地球温暖化を否定しているわけではありません。地球の気温は上昇したり、下降したりしておりここ約20年は上昇していることを認めています。
しかし、論点は人間活動による炭酸ガス排出と気温上昇は相関がないということです。
じゃあ、京都議定書(各国で炭酸ガス排出を削減しようという条約)はいったい??
  となってしまいます。
著者はこれら学説はエネルギー業界とつながっており要するにロビー活動でないのか?と疑問を呈しています。

本当のことを言って、私には正否はわかりません。
ひとつ感じたことは冒頭に書いたように、私は環境管理の技術者ではなく、何も知らん事務屋だったのか!という印象ですね、

もうひとつ感じたことは、ここからが大事ですよ(^^)
地球温暖化というのは一種のマインドコントロールであり、信仰であるということです。
地球温暖化を説明する会議では「過去の天候を調べて、最も気温が暑い日を選び、冷房を切って」説明会を行ったそうです。
平和主義者(?)の行事で、戦争の犠牲を大声で叫び平和、護憲、反有事法制とつなげていくのとまったく同じ手法ですね。

論理に基づく演説ではなく、催眠商法、SF商法、オウム真理教と同じ手口です。
みなさん、不思議に思いませんか?
東京大空襲、広島長崎の原爆投下、はだしのゲンがなぜアメリカの無差別爆撃、原爆投下を責めずに日本が悪かったという論理になるのでしょうか?
これは非常に問題にすべき論理のすり替えです。
毎年、なぜ私たちは『過ちを繰り返しません』と言わねばならないのですか?
 過ちを繰り返しませんと言うべきなのは
  原爆を落としたアメリカ、
  突如参戦したロシア(旧ソ連)
  負けっぱなしだったくせに戦勝国を名乗っている中国、
  分断されたのは日本のせいだ!といってる韓国、北朝鮮ではありませんか!


有事法制について言えば、
誰が、戦争の犠牲を出そうとして有事法制を作ろうとしているんでしょうか?

有事法制反対のホームページ、掲示板を拝見しますと、、
 有事法制ができると、
  ・個人財産の収用ができるようになる、
  ・自衛隊が交通法規を守らずに通行できる、
  ・携帯電話が使えなくなるから困る???


いったい彼らは中国人民開放軍(これ語義的に大きな矛盾だよね)あるいは北朝鮮軍が侵略してきたときに、個人財産を保障し、交通法規を守り、携帯電話が使えると思っているんでしょうか?
命の保障、女性ならば暴行などの心配はされないのでしょうか?
 悲劇と言うより喜劇! 嘆くより呆れるほかありません。

とにかく、正しいか正しくないかは現在不明ですが、いったん多くの人に信じられた地球温暖化論は大きな怪物に成長し、国際経済を支配してしまいました。
今現在、取引されている商品は多種多様、株、農産物、石油、勝馬投票券(可能性の取引)、金その他の貴金属、そして各国の通貨があります。
そして今後最大の商品は炭酸ガス排出権になるんだそうです。現実社会はそのシナリオに沿ってまっしぐらに進んでいます。
もし、地球温暖化がまったくの想像の産物で現実にならなかったら、
 損するのはだれでしょうか?
 得をするのはだれでしょうか?
 排出権を売ったものは空売りで大成功、
 省エネに努めたものはいずれにしても費用削減を達成できるでしょう。
   エネルギー枯渇は否定できない運命ですから、、
ここでもまた有事法制との相関を見ることができます。
事実に基づかない論理でも、多くの人たちが信じ込むと周りを見ずに人に遅れるなとばかり「はんた〜い」「戦争はいやだ」と叫んでいます。
もし、有事がないということが想像の産物で現実に有事となった時、
 損するのはだれでしょうか?
 得をするのはだれでしょうか?
 日本を破壊しようとする者は大成功、
 無邪気に有事法制反対を叫んでいた者は何を考えるでしょうか?


有事法制を作り、実際に有事が起きなかったら、
 損するのはだれでしょうか?
  誰もいないじゃないですか!
 得をするのはだれでしょうか?
  国民全部じゃないですか!
 日本を破壊しようとする者は大失敗、
 無邪気に有事法制反対を叫んでいた者は何も気づかないでしょう。


平成の志士はこの愚かな者を見ると胃潰瘍になってしまいそうです。
中国に日本まで侵略する能力がないなんて言っている人がいます。
わざわざ、中国が日本に上陸する必要もないんです。
日本がエネルギー、食料の大半を海外に依存している現実を見れば、中国の東の海域を封鎖してしまえば日本は壊滅です。

まあ、こういう手合いは何を言っても信仰心が目を見えなくしているので話になりません。

ちなみに、有事法制の賛成反対の構図は簡単に言うと下表のようになります。

有事法制反対!
有事法制は必要だよ
戦争は悲劇だ!避けなくちゃいかん、

外国(特に中国、朝鮮)はみな平和国家

日本が悪いから戦争がおきるんだ

日本は武装しちゃいけない

戦争に備えた法律を作ってはいけない

有事法制って戦争に備える法律だ

有事法制、はんた〜い
戦争は悲劇だ!避けなくちゃいかん、

すべての国は国益を追求する

外国が攻めてくることを想定しなくちゃ

日本にも武装は必要だね

戦争になった時の法律が必要だ

有事法制を作って戦争に備えなくては

有事法制を整備しよう



あっ、この本は思想的なことはありません。
ぜひ地球環境問題の理解のためにご一読願います。


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東京大空襲、広島長崎の原爆投下がなぜアメリカの無差別爆撃、原爆投下を責めずに日本が悪かったという論理になるのか?
あるいは、広島長崎の原爆がなぜ私たちが悪かったと反省しなければならないのか?


toxa様からお便りを頂きました。(2005.02.27)
「推薦する本」について質問
初めまして、toxaという者です。
以前からこのサイトを見て、その内容の濃さに驚いていました。
大学生の僕には本当に勉強になります。
最近、ふと思い出したように訪れて、推薦する本を拝見していたのですが、「地球温暖化論への挑戦」の記事の中で気になる所があったので、少し質問させていただいた次第です。
東京大空襲、広島長崎の原爆投下、はだしのゲンがなぜアメリカの無差別爆撃、原爆投下を責めずに日本が悪かったという論理になるのでしょうか?
これは非常に問題にすべき論理のすり替えです。
毎年、なぜ私たちは『過ちを繰り返しません』と言わねばならないのですか?
過ちを繰り返しませんと言うべきなのは原爆を落としたアメリカ・・・
とありますが、日本は悪くなかったのでしょうか?
大東亜戦争自体を否定はしません。日本は戦争をせざるをえなかったと認識しています。
ただ、原子爆弾の投下に関しては、日本も悪かった部分があるのではないかと思います。マリアナ沖開戦あたりで既に日本の機動艦隊は壊滅。ここまで来ると誰が見ても戦力の差は歴然であったはずです。ここで日本が方針を変えていれば、原子爆弾が投下されるということはなかったし、日米両国の戦死者も大幅に減らせたはずです。
 また仮に、米国が原子爆弾という選択肢を捨て、本土決戦ということになっていれば、一体どれだけの被害が起きていたのか想像に難くありません。
と、今のところはこのような意見を持っているのですが、もしよろしければそこの所の考えをお聞かせくださらないでしょうか?

すこし前、私はアメリカ盲信主義者、あるいは拝米主義者であるというお便りをいただきましたが、toxa様のメールを拝見しまして、私がアメリカ盲信主義ではないことを再確認しました。それどころか反米主義者ではないかとさえ思ってしまいました。
戦争していても非戦闘員を殺してはいけない、毒ガスを使っちゃいけない、ダムダム弾を使ってはいけない、無差別爆撃をしていけないというルールがあります。口径20mm以上での兵士へ直接射撃も禁止なんだそうです。
そういったルールは最近できたのではありません。でもアメリカは第二次大戦で日本に対して無差別爆撃や赤十字船を魚雷攻撃しています。
どうしてでしょうか?
トラトラトラの真珠湾で日本は積極的に非戦闘員を殺しましたか?末期の特攻で非戦闘員や都市攻撃をしましたか?
一説によると日本の都市を無差別爆撃したのは、日本は中小企業が多くそれがしもた屋と区別がつかないからという理屈だったそうです。
toxa様は納得しますか?

広島の原爆を日本人が悪かったと反省するなら、イラクにおいてアメリカ軍の誤爆による一般市民の死者はフセインのせいですよね。
今イラクで起きている血を血で洗う無差別テロは、フセインがさっさとアメリカの軍門にくだらなかったからということになるのでしょうか?
日米両国の戦死者とおっしゃいますが、アメリカは第二次大戦ではなく太平洋戦域において何万人の戦死者をだしたかごぞんじでしょうか?(インターネットで調べてください)
昔、アメリカ映画でエノラゲイの機長に「このボタンを押すと多くの人の命を救えるのだよ」というシーンがあったのを思い出します。アメリカ人にとって人の命とはアメリカ人の命のことだったのです。
ものすごい話を聞かせましょう。
私が小学校の時に先生が教室で写真を見せたのですが、アメリカ兵が戦場からフィアンセにみやげに持ち帰ったのが日本兵の頭蓋骨でフィアンセがそれを飾っているのです。
toxa様は何を感じますか?
彼らにとっては騎兵隊が悪いインディアンを成敗して記念に頭の皮をはいだような感じだったのでしょうか?
ウラン原爆はアメリカ本土では実験されませんでした。完成してから実験する時間的余裕がなく・・・へたをすると使う前に戦争が終わってしまうかもしれませんから・・・日本の広島で使いました。
わざわざ日本で使うこともなかったのにね。
なぜだと思いますか?
私個人の考えですがアメリカは核実験で爆発させるだけでなく人体実験がしたかったのだと思います。ウラン爆弾は広島で、プルトニウム原爆は長崎で行いそして非常にさまざまなデータを入手することができたのです。インターネットでABCCと検索してください。
日本は悪くなかったのでしょうか?というご質問にはアメリカは悪くなかったのでしょうか?オランダやイギリスは悪くなかったのでしょうか?とお聞きしたいです。そして現在の中国も北朝鮮も、アフリカや中東の多くの事変、内戦の当事者はどうなのでしょうか?
誤解なきよう
アメリカは悪でもなく善でもなく、そしてまた過去現在、日本も悪でもなく善でもない。もちろん中国も善でもなく悪でもない。私のスタンスはそういったことです。
ものごと斜めに見なくてはいけませんよ。
広島の原爆ドームが世界遺産になったのが1995年、アイリスチャンがレイプオブ南京を書いたのは1997年です。これは広島・長崎の原爆が世界に記憶されることを防ぐために日本とアメリカを相対化するためとも言われています。
南京虐殺とは本多勝一が1981年に書いて以来いくつかの本が細々と出版されていますが、それに確たる証拠はなく、そしてもちろん国際的に話題になりませんでした。大々的に取り上げられたのはアイリスチャン以降です。
toxa様、反省は大事です。でもすべて日本が悪かったとか、日本の努力で防げたはずだと考えることはありませんし、考えても防げないこともあるのです。
この世はすべて相対的であり、絶対的な善も悪もないのではないでしょうか?
それが現実世界であり、私たちはこの現実世界を生き延びていくには誠実であると共にしたたかでなければならないのです。

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馬の骨様からお便りを頂きました(05.03.02)
遅ればせながら追伸(余計なツッコミ…?)
フセインはバグダッド市民の避難を禁じていた、という説もありましたね。
それでなくとも首都が空爆され、住民が危険に晒されているにも拘らず住民の避難・疎開などの手も打たず、爆撃で殺されるがままにしておいて「悪いのはアメリカだ、アッラーの名の下に団結せよ」と吼えていたフセインは、間違いなく死後、イスラムの地獄に落ちることでしょう。
(イスラムでは「偽信者」といえば、異教徒以上の大罪人とされていますから)
「手を下したのはアメリカだが、お膳立てをしたのはフセイン」というのが、実際のところではないのでしょうか?
ちょっと、広島との比較対象としては不適切な気もします。

馬の骨様、ツッコミありがとうございます。
イラクの混乱はフセインのせいであるのは明白で、広島の被爆は日本のせいではないと理解します。
確かにそうなのでしょう。
しかし、現時点ではイラクの混乱はアメリカのせいであり、広島の被爆は日本のせいだという人が多いのは事実のようですね。
これは不思議なことです。
落葉様からお便りを頂きました(05.03.01)
SAITOTA様
つまらない投稿文に対してご丁寧なご挨拶有り難うございます。
これこそ、日本人度100点満点なのでしょうね。
ところで toxa という大学生の未熟な質問に対してのご説明にも感嘆いたしました。
小学生にも分かるように、そして噛んでふくめるような丁寧な説明など短気な私などには到底できそうにありません。
解説されたご趣旨は、常日頃から私が言っていることと全く同一なのですがなるほど、今時の若い者にはこういうふうに説明すれば良いのかととても勉強になりました。
あれで理解できなかったならば、もはや救いようもありませんね。

落葉様、お便りありがとうございます。出歩いておりご返事が遅くなり申し訳ありません。
toxa様が未熟というのはいかがなものでしょうか?
正直申しますが、私も未熟者に過ぎません。お互いに思うところを発言し、相互に検証し、真実を見出そうとするのではないでしょうか?
噛んで含めるとおっしゃいましたが、私自身が積み木を重ねるように、基本的な公理から形ある結論を見出そうとして自分の中で思考実験していることを文章にしたにすぎません。
自分の考えを文章にしないと、悟りに近く超論理になってしまうのではないかと心配です。
またご指導をお願いいたします。