正常と異常 2004.06.04
インターネットが原因で小学生が殺人を行ったということで、新聞やテレビはここ数日大変である。
罪の認識が人によって異なることを踏まえて、私は『殺人を犯した』とは言いたくない。犯罪は裁かれなくてはならないが、神の名によって悪と断じられるのではなく、我々の社会の約束事に合わないから社会契約としての法律に基づいて裁かれるということだと私は考える。もちろん異議は認める。
インターネットの世界でも被害者・加害者の彼女たちの生い立ちやいきさつを調査したり、分析したり、評論するもの、あるいは各メディアの対応を評価しているものでにぎわっている。
実は私も過去にいくたびも仲間たちを揶揄し(やゆし)反発を食らっているので、そのうち首を切りつけられるかもしれない。同志の多くが遠隔地に住んでいるのが救いである。もっとも相方は車でひとっ走りのところなので・・・ちょっと危ない。
たしかに今まで小学生同士の殺人事件というのはあまり聞いたことがない。もうひとつの要素としてインターネットが絡んでいることがある。しかしそれゆえにこれは異常な事件だといえるのだろうか?

では、本日は異常な出来事について、
なにかとんでもない犯罪が起きるとマスメディアは、原因は何か?、誰の責任か?、再発を防ぐためにどうすべきか?と大騒ぎをする。
本当はメディアが煽る(あおる)というのが正しいのかもしれない?
もちろん、事実関係を探り再発を防げるならそれはもちろんしなければならないことだ。なにも座して手をこまねいていることが良いわけではない。

しかし、というところから話をはじめる。
品質監査でも環境監査でも是正を求めるのは『現象』ではなく『問題点』についてである。
さらにすべての不具合に対して問題の究明と是正を求めるのか?
実はそんなことはない。
たとえば今、『廃棄物処理委託契約書』に不備・・・たとえば収入印紙額が足りないとしよう・・・が見つかったとする。 mankomatta.gif その事実を捉えると法に触れることであるから直さなくてはならない。しかし再発防止策をとるべきか、あるいは必要がないかは少し考えなくてはならない。それはその会社の環境管理システムに欠陥があるのか、あるいはたまたまミスが起きたのか?を把握しなければ対策を決定できない。
人間誰でも間違いはある。毎年何十件も契約書を作っていればひとつくらい収入印紙の額を間違えるのはあってもおかしくはない。・・・と私は思う。もちろん私が甘いと思う方がいてもおかしくはない。

原因が特定できないものを偶発という。
もしポカミスで発生したのなら、これを防ぐ方法はかなり困難であろう。偶発的な不具合の再発を予防することは困難だ。
しかし、契約書の決裁手順が不十分であるために発生しているならば仕組みを直すことが必要となる。そして仕組みを変えて問題が発生しないようにすれば以降の再発は防げる。
再発防止の対策できるのは原因があるときであり、原因が特定できない偶発的なものであれば再発防止の手が打てるわけがない。
もちろん、偶発やポカミスであってもダブルチェックや内部検証を強化するなどにより検出できるかもしれない。まあ、いずれにしても費用対効果というしばりはあろう。
他方、監査した結果、法的には問題がないと思われることであってもおかしなことがいくつも見つかれば、それはその会社の管理体制になにかまずいところがあるはずであり、やがて大きな不具合が起こることが予測され、予防策としてその原因の究明と対策を求めることもある。
もちろん、この世の中にはそのようなことができるISO審査員は少なく、内部監査員にはめったにいない。
私ですか まあご想像におまかせしましょう 
さて同じように、異常な事件が起きたとき、現象が異常であっても社会的な対策を必要とすると判断するか、あるいはばらつきの範疇と判断するかは一律には決まらない。もちろん、小学校内あるいは小学生による殺人というのはたくさん起きているのではない。だからといって今回の事件だけを取り上げて論じても意味がないと思う。
加害者あるいは被害者の関わりを調査してもそれを一般化できるかどうかも私はわからない。同じ状況なら同じ行動、同じ結果を生むということにはならないだろう。

かって外国で日本人がガールフレンドを殺して食べたという猟奇殺人があった。このときその原因を探り、再発を防ごうとしただろうか?私はそういった動きがあったことを知らない。
1件異常な事件が起きてもかの国の人は日本人を悪魔だとは思わなかっただろうし、日本人の多くも教育や育ちに欠陥があって事件が起きたとは考えなかったと思う。
大多数の日本人は『大勢の人間にはいろいろな人がいる。中には社会生活に適応できない人や、犯罪を犯す人もいるというのが現実である』と認識したのではないだろうか。1億人いれば一定割合で人殺しをする人もいるし、その中には猟奇殺人をする人もいるというだけである。
それにしても、外国人犯罪が多いのは、統計的にあきらかである。
もちろん今回の事件の背景を調査した結果を一般化できるかもしれない。ある条件下で育ち、ある条件の環境に置かれれば殺人を犯すという結果がでるのかもしれない。しかしそれは統計で言う危険率などを根拠に主張できるようなものではないだろう。
では、なにもしなくていいのか?ということでもない。私はひとつひとつの事件をとらえてどうこう考えるのではなく、トレンドというか全体的・統計的なものを見て対応すべきだと考える。
事件が起きた、起きないに関わらずに、
過去から今に至るまで学校教育はどう変わってきたのか、学校内の犯罪、凶悪犯罪の推移、家庭環境の変化、兄弟の数の変化、表で仲間と遊ぶ時間、遊びの変化・・・・といったものを見てそれらが時代とともにいかに変化してきたのか?相関があるのか?どの変数をいじれば何が変わるのか?ということを(事件がおきたときではなく)考えているべきなのである。
そして文明の進歩と共に犯罪の形態も変化する。
スーパーマーケットあるいは商品を客が手にしてレジに持っていくという形態の商店がないときに、万引きは現在より実行困難な犯罪であった。あるいはクレジットカードがないときにカード犯罪があるはずがない。
インターネットを使った犯罪であるということが異常なことではない。インターネットがないときに、チャットのもつれによる殺人や掲示板での議論の末のストーカーが発生するわけがない。

1件異常な事件がおきると日本中が大騒ぎをして、監視カメラや防犯機器メーカーが儲けて、やがて忘れ去られるということが、いくたびも繰り返されているということがおかしいのである。
仮に、最近の子供は注意力散漫になっている、友達と外で遊ばない、不登校が増えている、引きこもりが増えている、切れやすくなっているという事実があったとしたときに、これでは将来大人になったときに社会に適応できない人が増えるとか社会の健全性が低下すると判断してアクションを取るべきなのである。

これは事実を基にしているのではなくあくまでもたとえとして述べている

異常な事件が起きたから、即教育やレギュレーション(法規制)あるいは社会規範を変えるべきだと判断することは危険だ。異常な事件であれば手を打つ必要はなく、異常でない事件にこそ手を打つ必要があると言えないでしょうか?
1件の異常ではなく、多くの現象を分析した結果でなければ、危険率という概念での判断と処置の提案はできないと思う。


quest.gifところで何を持って正常と判断し、異常と判断するのだろうか?
昔、アメリカの宗教団体『人民寺院』がガイアナに理想を求めるコロニーを作った。やがてそこで集団自殺(というより集団無理心中なのだろう)が起きて何百人も死んだ(殺された)
そのとき多くのマスメディアがアメリカの異常さが生んだと報じたが、山本七平氏はアメリカの正常さがもたらしたものと評した。

チョット違うが、正直とは何だろうか?
サポーズ、地震が起きて町じゅうが混乱している。多くの商店のショーウィンドウも割れている。あなたは宝石店のショーウィンドウで素敵なものを見つけたときそれをとるかとらないか?
自分に正直なら宝石を取るだろうし、自分の気持ちより遵法意識が強ければ盗らないだろう。正直と犯罪は関係ない。


exp.gif まとめなんていうわけではないが、
この世は何を持って正常とするかは人によって異なるだろう。
犯罪がなく、隣人が仲良く暮らしている状態が正常なのだろうか?
非常に主観的な見方だが、私はそれが正常とは思えない。人間が多様であるかぎり犯罪は発生するのが正常とは言わないまでも当然だろうし、殺人も起きて当然なのだろう。

IBMは毎年、『昨年度の使い込みは何件で何万ドルでした。事故が何件発生し、罰金をいくら支払いました。』と公表している。これはすぐれて公明正大、フェアとはまさしくこういうことをいうのではないかと思う。

『当社は社内犯罪はありません。事故もありません。製品はすべてが完璧です。』
そういうフレーズに触れると、疑問に感じる私は疑い深い罪びとなのでしょうか?

私は犯罪をゼロとすることはできないと思う。それが実現するのは警察国家だけである。
誤解を怖れずに言えば、一定率の犯罪発生率であるならば(殺人を含めて)、それは正常の範疇であると断じるのは間違っていないと思う。




参考までに、ISO9001やISO14001では是正とか予防というのを定義している。
  • 処置とは
    不具合を直すことである。
    収入印紙が足りなければ追加すること、法に則れば追徴分も含めて貼り付けなくてはならない。
    処置には実施可能なものと不可能なものがある。
  • 是正とは
    原因を取り除き、不具合の再発を防ぐことである。
    収入印紙が足りなければ、それが発生した原因を検討し再び発生しないようにすることである。
    多くの事業所の内部監査や外部監査の是正処置とは『処置』であることが多い。
  • 予防処置とは
    まだ発生していない不具合の原因を除去すること。
    多くの場合、真の予防処置を見かけることはない。たいていは水平展開を予防処置と称している。

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正常と異常 その22004.06.05
正常と異常と考えていて、ハタと思うところがあった。正常と異常とは紙一重、いえ状況によって異常は正常に、正常は異常になるのである。
では本日は正常と異常のパート2である。

インターネットの世界にまったく存在意義のないホームページが多々ある。これは異常なことであると思う。
どんなホームページかって?
それはこのウェブサイトをはじめとするおびただしい正論派ホームページのことである。
kabu.jpg 私のウェブサイトを取り上げると我田引水的と思われるから、師であり同志であるKABU先生のホームページを例に取って検討(?)しよう。
KABU先生は憲法や教育やボケメディアや外交を熱く(「暑く」かもしれない?)語っている。個々の論をじっくり読むと、まったく同感であり、いったい何でそんなに熱くなっているんだ?と疑問に思うことばかりである。
KABU先生の論に間違っているとか、エキセントリックとかいうものはない。当たり前のこと、常識なことばかりである。彼は常識を大声で叫んでいるのだ。KABU先生、なぜ当たり前のことを大声で叫んでいるのだ? それこそ、異常ではないか?
誰もが分かりきっていること、理解していることを街中で大声で演説していたらおかしいと思われること、間違いない。

そもそも演説とは皆が知っていないことを知らせめようとして行うものである。みなが知っていることを演説したら、罵声か紙くずでも投げられるのがオチというものだ。
キリスト教の宣教は信じていない者に行うのであり、教会の説教は信者が知らないことを語るわけだ。
コマーシャルは自社製品を知ってもらうために行うものであり、政党のマニフェストは政党の公約を知らない選挙民に自分たちの正当性を訴えるためのものである。
算数でいえば『1+1は2である。』とか『2+3は5になる』などと大書しているホームページなどはない。
もし『1+1が3である』という新たらしい発想が生まれたなら、ウェブにアップしたり論文や本にする価値がある。
だれでも知っていること、常識とか当たり前ということはウェブに載せる意味がないのだ。誰でも当たり前と考えていることを本にしても売れない。

hokkaido.jpg ところが現実には、当たり前のことを叫んでいるウェブサイトは数え切れない。
相方をはじめ、北斗様水城様、もう数えあげればきりがない。そんなウェブサイトでは開設者はみな、日本人よしっかりせい!、従軍慰安婦なんてなかったよ、戦争を防ぐには戦争反対と叫んでもだめだよとか書いている。なぜ、そんなに一生懸命叫んでいるのだろう?それは当たり前なことではないのではないか?
このように当たり前のことを大声で叫んでいる人がいるということは、異常なことではあるまいか?

ちょっとまてよ、
私が当たり前と考えていることは、現代の日本では当たり前ではないのだろうか?
なんと、そういったことは当たり前ではないようなのだ。
現在の日本では、愛国心は間違っている、首相が靖国神社に参拝するのは間違っている、従軍慰安婦はいた、日の丸を揚げてはいけない、君が代を歌ってはいけない、などなどという考えや嘘が正常なものとしてまかり通っているのだ。
そう信じるのが正常となっているから、それに異議を唱えるウェブサイトがあるのは正常ということになる。
勘違いなされないように、
世間の常識に対して、反論を唱えるというならその存在は正常なことである。
世間の常識と同じことを唱えることは正常なことではない。
ということは我々、正論派は自らの存在を否定するがために存在しているという矛盾したものなのだろうか?
実は私はそう考えている。

一刻も早く、私たちの主張がこの日本の主流となり、存在意義がなくなり私は囲碁三昧、相方は仕事一筋に日々を送れるようになること、それこそが正常なのではあるまいか?

これは白日夢なのでしょうか?





Yosh様からお便りを頂きました(2004.06.05)

私が当たり前と考えていることは、現代の日本では当たり前ではないのだろうか? なんと、そういったことは当たり前ではないようなのだ。
多分現代の日本でなされている捏造の歴史や走狗の書く報道記事は当たる前であつて当たつていないことではないですか?
とうた様をはじめ皆様がなされているそれらに異議を唱えることは当然(当前?)であるはずです。
正常が「normal」ならばまさしくそれは正義とか真実ではなく「大多数」という意味と思います。
そして異常が「abnormal」であるならば、それは悪とか間違っているという意味ではなく「多勢ではない、少数派」のようです。
しかし、現実の世の中では多数が真実と見なされることが多いようです。
以前書いたことですが、私が小学校の時に子どもたちが問題の答えについて議論したとき、先生が「多数決で決めろ」といったことがあります。
呆れてしまいますね、
真実は多勢とか少数とかに関係ありません。現在当たり前となっていることの多くは初めに唱えられたときは少数派であることが普通です。
逆説的に言えば、もともと多くの人に支持されている論を改めて唱える必要はありませんものね、
現在少数派である私たちが多数派となれば、そんな当たり前の論をわざわざウェブサイトに書いたり、大声を出すことはなくなるだろうという、これまた当たり前のことだけのようです。




解法者様からお便りを頂きました(2004.06.07)

ここの管理人さんが「佐為」さんでしたか。
前にも「賛辞」したしましたが、感覚が鋭いですね。
短い文章の中に<含蓄>が散りばめられており、感嘆しております。
こちらは現役の<法学者>という範疇に入りますが、専門は「破産法・民事再生法」、「民事法」です。
『異常な事件より、正常の中の事件』に力点を置くべきだ、との論考は刑事法専門家にも聞かせてあげたい言葉です。いや、聞かせてあげます。
盲点ですね。鋭い指摘です。我々も含めて<法の専門家>は、刑事に限らず<異常な事件・事案>についつい目を向けてしまいがちですね。
それと、何かしら、『責任追求』ばかりで『息が詰まり』ます。
もう少し、逃げ場を作ってあげたらと思います。
どうも、最近はギスギスして困りますね。
会社も破産するのは責任もありますが、好きで破産した訳ではありませんから。
何でもかんでも責任では、責任を負う人がいなくなり、かえって『無責任』時代になります。<法の専門家>として「心しなければ」ならないところでもあります。
解法者様、恐れ入ります。私はあなた様のような法律家ではなく、KABU先生のような学問もありません。
正常と異常という言葉は、法律の世界ではどういう定義なのでしょうか?
私は単純に国語辞典とか英英辞典などの語義を基にしています。(手ぶらでは書けませんから)
英英辞典によると正常とはnoramlであり、大多数を意味するようです。
話が飛んでしまいますが、私はコレステロール値が正常ではないといわれていますが、いろいろな学会があり、ある学会によると私は正常値に入るようです?白血球の数も私が子供の頃とは正常値がかなり大幅に増加しています。
ということからも正常とはあるべき姿とか正しい状態という意味ではなく、モード(最頻値)あるいはマジョリティ(大勢)というだけのようです。
当然、異常とは正常の裏返しですから悪とか間違っているということでもなさそうです。マイナリティ(少数派)というだけのようです。
異常なものではなくその裾野で良く見かけることに手を打てというのはハインリッヒの法則といい、安全では昔からの手法です。日常、自覚していない不安全な状態や行為は相当あるでしょう。いつもやっていることだから、今までも平気だったので……、という不安全行為が、いつ重大災害になるかも知れません。
いつやって来るか分からない災害を未然に防ぐには、不安全な状態や行為を認識し、ヒヤリ・ハットの事象に対策していくのがセオリー。
ということを安全では当たり前のことを言ったまででございます。
ちなみにニューヨークの犯罪を激減させたのは割れ窓理論というそうです。重罪をいかに防ぐかではなく、ちいさな犯罪を漏れなく正していくという地道な活動が治安の回復につながったそうです。

解法者様から更なるご指導を頂きました(2004.06.08)

<法>の「正常」と「異常」
法律用語としての「正常」とは<「一般人の知識をもってすれば」予測することが可能>ということです。
この一般人とは日本国民という意味です。例えば、外国人にとって「正常」であっても日本国民にとって「正常」でなければ、「正常」とは言えません。
どこの国の<法>も同じですが、その国の人を律するためのものであるのが原則だからです。
「異常」はその反対です。予測することが<可能>とも<不可能>とも判断がつかないときも「異常」範疇に入ります。
例の<佐世保事件>は管理人さんのご指摘のように「異常」です。
解法者様、ご指導ありがとうございます。
なるほど!と理解しました。
山本七平氏の「アメリカの正常」とはまさしくそういう意味だったのですね、
言葉の意味を良く噛み締めて使いたいと思います。




ルーイ様からお便りを頂きました(2004.06.07)

ファンレターです
佐為様、こんにちは。
最近の佐為様、シリアスですね。哲学的とでもいうのでしょうか。
正常と異常その2は難しいデス。本当の意味を理解するのに苦労しました。(私だけ理解できてないかも?)
私の個人的な事なのですが、とにかく身内ぐらいには、私の考え(例えば「サヨクに騙されたらダメ!」みたいな)を分かってもらわねばと頑張っていても、ちっとも効果が上がりません。もう、くたびれてしまいました。
そして世間を見ると、相変わらずおかしな報道がまかり通っています。
そんな時、佐為様のホームページはオアシスです。
「我々、正論派は自らの存在を否定するがために存在しているという矛盾したものなのだろうか?実は私はそう考えている。」
私もそう思います。 なんか、矛盾した存在ってつらいですね。
1日も早く主流派になる日が来ることを祈るばかりです。
ルーイ様、シリアスとは何です!そんなボケをかましていては「メッ!」ですよ! 
私はシリアスとは対極にいるダジャレとボケ人間(大いに怪しい、動物かも?)です。
いかなることにおいても人間、深刻真剣になることもありますまいというのが私の生き方です。
もちろん仕事もです。といってもこれは諦念というのかもしれません。人と同じ努力(あるいはそれ以上)しても昇進などがそれにリンクするわけじゃあありません。自分の親族・家族などのしがらみなども人それぞれです。人間を40年以上してきた結果、一生懸命は自分によくないいんじゃないか?と考えて何事も気楽お気楽に見るようになりました。
断っておきますが、仕事を手抜きとか自分自身努力をしないということではありません。同じ事をしていても少し斜めに見ると気楽にもなれるし新たな視点も開けるという気がするだけです。(本当かどうか怪しいですよ)
ということでなにかお役に立ったでしょうか?立たなくても元々ということで・・・テケテケ(太鼓の音)


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