ちょっと未来の話 2006.03.26

えー本日はちょっと未来のお話であります。
ちょっと未来と言っても、これから先どうなるかなんて予言や予測ではなく、私が子供の頃、21世紀はじめあるいは20世紀末がどんなふうになるだろうかと考えていたかというお話でございます。

私が高校生か会社員になった頃、ウルトラマンというテレビドラマがあった。まあ、子供向け、荒唐無稽なお話で私は真面目に観るには歳が行きすぎていたが、でてくる小物には目を引かれた。特に私は田舎者であったから・・・
そのひとつが自動ドアである。
隊員が部屋を出入りするとき、ドアが音もなくひとりでに開き、閉まった。
コレハスゴイ!
私は自動ドアに恐れ入った。
ものすごい兵器や乗り物が出てくるより何気なくでてくる小物に未来とはこんなふうなのか?と感じたのである。
21世紀の日本には自動ドアなんてどこにでもあります。日常の生活でも、出勤するにはまずマンションの出口が自動ドア、駅で電車に乗ろうとすると自動ドア(実際には車掌さんが開け閉めしてますけど)、オフィスビルの入り口が自動ドア、エレベーターも自動ドア、帰りにスーパーによると自動ドア、パチンコ屋も自動ドア、古本屋も自動ドア、床屋に入ろうとすると自動ドア、居酒屋に入ろうとすると自動ドア、自動ドアでないところを見つける方が困難です。
セブンイレブンは自動ドアじゃないけど・・・

電車は自動ドアではないという声が聞こえたような気がしたのでちょっと寄り道、
私は高校のときは蒸気機関車で通学していた。うそと思われるかもしれないが本当の話である。昭和40年頃は東北本線を蒸気機関車が客車を引いて堂々と走っていたのである。
もちろんさすがに複線になってはいた。私が小学生の頃は単線で、ぶつからないようにするために列車は瀬戸物の卵のようなものを皮ケースに入れてそれを持っている列車のみが走れたのである。本当の話である。
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蒸気機関車はこれまた古い客車を引いて走っていた。椅子は堅く照明はひとつの客車に数箇所白熱灯が付いていてそれは夜だけ点灯した。また今の電車と違い、乗降するところは客車の前後のみしかなく、乗り降りするときは大変な混雑であった。
私たちはデッキに乗るなと言われていた。デッキとは乗り降りするドアの外にある客車の床より一段低い幅30センチくらいの木の板である。満員だからドアなどは閉めない。閉まらないのである。だから我々は列車の中だけでなくデッキの上にも立っていた。列車はそのような鈴なりの乗客を乗せてドアを閉めずに走った。
今考えると怖いですね〜 
もちろん十代半ばの男の子だから怖いなんて言うはずがない。もっとも鉄橋に差し掛かると足元がなくなった感じでちょっと怖かった。
まあ、当時の感覚は今と相当違った。
走っている汽車からの飛び降りも珍しくなかった。いえ、自殺というわけじゃありません。
自分の家が線路沿いにあって駅まで行くと戻らないとならないような位置関係の人は、汽車がカーブに差し掛かってスピードを落とすと学生カバンを放ってからエイッと飛び降りたのである。線路沿いの土手は草で覆われておりうまく飛び降りると怪我などしないのであった。
もっともたまに着地のさいに受身がとれずにギャと叫ぶ人もいた。それから数日して顔に包帯をして学校に出てきた同級生もいた。
しかし当時は車掌も乗客もそんなことに気を止めなかった。
自己責任の世界である。 
今毎日、駅で「駆け込み乗車はしないように」などというアナウンスを聞くと、いかに乗客が子ども扱いされているかが分かる。列車から飛び降りるほどではなくても、当時は駅で走り出した汽車に乗り降りするのは珍しくもなんともない日常風景であった。それも男子生徒だけでなく、女子高生であろうとネクタイをしたサラリーマンでも駅のホームで列車に飛び乗り飛び降りるのは日常であった。
そういう事情に比べると今の電車のドアは自動ドアと呼んで悪いことはなかろう。

ウルトラマンの系列は永らく続いたが、自動ドア以外にも出てくる小物には気になるものがあった。
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腕時計がテレビ電話だったりする。これもすごいというかマサカという感じがした。私もラジオ小僧だったので、少しは頭を働かせた。電波の波長や、伝えないとならない情報量からいってとてもあんな小さなものができるはずがないと考えた。ICというものが広く知られたのは1967年か68年頃だと思う。もちろんそれ以前だってトランジスタはあった。トランジスタラジオやステレオから類推して、どんな電気製品でもサイズが小さくなり高機能になるというのは定向進化であることは規定の事実であった。しかしテレビの場合何よりもアンテナのサイズは波長で決まり決して小型化できないはずだった。そしてまた到達距離で波長が決定され単純に水晶発信子を小さくすれば良いというものではないことは私の頭でも考えられることだった。
田舎ではテレビの室内アンテナというのは存在しなかった。電波事情が悪いから屋根に多素子の八木アンテナを上げないとテレビが映らなかったのである。そのような状況下では腕時計にアンテナが仕込めるとは思いもよらなかった。
しかし今、腕時計と同じくらいのサイズでテレビ電話付き携帯電話が実現した。言い訳がましいが、私はテレビ電話がシステムで構築されるとは思っても見なかったのである。独立した無線機が相互に通信することを前提に考えれば腕時計サイズはやはり無理だ。今の携帯電話は基地局を初めとする非常に大規模できめ細かなシステムによって始めて運用できるのだ。それはそれですごいことだが、またスタンドアロンではまったく機能しないという脆弱性を持つ。アマチュア無線なら世界が崩壊しても使えるが、携帯電話は基地局が停電しただけで機能しない。

当時、私の年長のいとこが都会の大学に行っていた。彼が言うには、校舎にエレベーターがあり、自分がボタンを押すのだということを聞いて驚いたことがある。
私が当時見た唯一のエレベーターとは20キロも離れた隣町のちいさなデパートにあるもので、そこではエレベーターガールという職業の人がボタンを押して操作していたのである。
それを大学生が自分で動かすとはさすが都会だなーと驚いた。
エレベーターというものの操作が簡単だとは思えなかったのである。

未来とはものすごい変革ではないような気がする。
それはちょっとした変化であって、意識をまったく変えてしまうようなものではないのだろうか?
50年前から見たとして今あるもので想像されたものはたくさんある。
電気自動車、太陽光発電、携帯電話、高速鉄道、垂直離着陸機、そんなものはあまり人々に大変革をもたらさなかったようだ。
もちろん実現していないものもたくさんある。不死、過去を見ること(タイムトラベル)、核融合など
私が子供の頃は原子力自動車とか大規模埋め立てで日本の面積を広げるというアイデアもあった。そういったものは需要がなくなったというか、発想そのものが立ち消えたものも多い。

しかしインターネットはアーサーCクラークやハインラインのような預言者を除いて想像した人は少ない。
未来とは大々的に宣伝されてやってくるドラスティックな変革ではなく、静かにそっと忍び込んでくるような変化のようだ。
今、中国がインターネットを管理し、韓国も反国家的なウェブサイトは禁止している。北朝鮮はインターネット利用以前の状態である。
そういったことを見ると、インターネットこそが自由の尺度であり未来そのものかもしれない。

インターネット万歳!






あらま様からお便りを頂きました(06.04.01)
あらまです
小生が紅顔の美少年 ? の頃、「好きなものは何 ? 」と、問われれば、「巨人、大鵬、卵焼き」と、答えた世代です。
アームストロング船長が、月面に立ったその頃、「壁掛けテレビ、絵の出るレコード、自動焦点カメラ」が夢の商品でした。今では「液晶テレビ、DVD、デジカメ」という形で実現されています。
そして、ケータイ、インターネットなど、当時夢にも及ばないものが当たり前に存在しています。
小生の場合、未来を予感させるグッズは、今も昔も、007シリーズのボンド・グッズですね。水陸両用スポーツカーなどがまぶしかったです。最近のボンドカーは、透明になるようです。そこまでいくと、未来を予感と言うよりも空想の世界ですね。
このように、技術の世界では、夢を思うと現実になるようですが、それは、健全な人が想う夢の世界だと思います。
独裁政治、丸腰国家を夢見て、それが実現されてしまうようでは、その国民の不幸は計り知れないと思います。
巨人、大鵬、玉子焼き、これを知っているかいないかが、中年かそうでないかということでしょうか?
おっと、老人かそうでないかの違いかもしれません。
星飛雄馬が巨人を目指したことの意味が今の野球少年には理解できないでしょう。
そういう年代も老い、ただ消え去るのみか・・・
でも護憲、9条を守れというのは、どう考えても非論理的で、日本を中国や朝鮮に売り渡す行為としか思えません。
せめて、私が生きているうちは日本という国がなくなりませんことを
アーメン


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