原爆ドーム 再び 2006.09.09

ヒロシマに来るたびに原爆ドームを訪ねる。最近、そんな習慣がついた。
なにしろ原爆ドームは街の中心にある。いつも利用するバスセンターから歩いてちょっとのところだし、市内電車を使ってもすぐに立ち寄れる。
今年、はじめに来たときは補修工事中で、廃墟がネットで包まれていたが、今は改修が終わって瓦礫がよく見えるようになった。

genbaku2.jpg 原爆ドームと対面するたびにいろいろと考える。というか、いろいろなことが思い浮かぶ。
正直言って、原爆ドームを見て原爆は悲劇であるとか恐ろしい破壊であるといったこととはちょっと違ったイメージを受けるのだ。
まず、見た感じがとても違和感がある。
なんと言ったらいいのだろうか、普通、建物といえばきれいにするのが改修であろうし、きれいになった姿をお披露目するのが当然であろう。
この原爆ドームの場合、工事発注者はいったい改修完成の姿としてどのようなものを期待しているのだろうか?
破壊直後の姿を示そうというのだろうか? 悲惨さをあらわそうというのだろうか?
かって建物であった廃墟を構成する瓦礫ひとつひとつ、そして周辺に散らばる瓦礫を見れば、その表面は既に破壊直後の破断面は失われ、その表面は研磨されたように滑らかと言うべきなのだろうか、破壊直後のすごさを失ったマイルドな面となっている。
かっては建物であった瓦礫が崩れそうになるたびに、瓦礫をつなぎ合わせて元の形に保とうとする行為を繰り返せば繰り返すほど、個々の瓦礫の表面は人の手に触れたりすることにより大きく変わって荒々しさはもうない。
こんなことを言っていいだろうか?と逡巡しながら(?)私は言ってしまうのだが・・
cz-75.jpg 昔縁日にくじで賞品を当てる店が出ていた。その夜店には本当に盛りだくさんの賞品が飾ってあったのだ。一等賞はモデルガンだった。ところが・・・そのモデルガンのボール紙の箱の角は擦り切れていて、絶対にそれが当たらないことが明白だった。・・・という子供の頃の思い出がある。
原爆ドームの瓦礫を見て、その角が擦り切れた賞品を思い出してしまったのである。
私をふまじめで原爆の悲劇を知らない愚か者だというご批判は甘んじて受ける。
いったいこの原爆ドームの存在意義はなんなのだろうか?
原爆ドームと対になっている「過ちは繰り返しません」という言葉はどういう意味を持っているのだろうか?
ただ、ただ、「過ちは繰り返しません」という呪文を唱えることに意味があるのだろうか?

☆☆そもそも過ちとは何をいっているのだ?
☆☆その過ちは誰が犯したのだろう?
☆☆過ちとはいかなる価値観に対する罪を言っているのか?
☆☆まずそれがはっきりしないと物事は始まらないのではないか?

原爆を落としたアメリカを批判するなら、アメリカが行った絨毯爆撃というジェノサイドの罪を問うべきだろう。なぜなら以前も言ったが、広島の悲劇よりそれ以外の空襲による死者が多い。もちろんいかなる価値基準に対しての罪なのかをはっきりさせるべきだ。
核兵器である被害が特別だという理由が重要だろうか? それなら、核兵器といういうものを持ってしまった人間の原罪を問うべきで、アメリカとか自衛隊を批判するのを止めて、アメリカだけでなく中国、北朝鮮、フランスその他既に十指に余る核保有国の首脳と政策を攻めるべきだ。
もし60年前の日本の指導者を責めるならば、その何が悪であったのかをはっきりさせなくてはならない。間違っても原爆投下の責任を彼らに押し付けてはいけない。
同時にそれはヒロシマという理由ではなく、日本国民としてであり、原爆というトリガを元にして語ることは理屈に合わない。

「繰り返しません」とは主体的な発言である。発言者の意思によって繰り返さないことができることを意味する。
「原爆を使わないと」いう意味ならば、その発言者は現在の核兵器の使用権限を持っているのですか?
「核兵器を持たない」という意味ならば、その発言者は核兵器を捨てる決定権を持っているのですか?
そんなことができもしないで、「過ちを繰り返しません」などと語っているのは道化に過ぎない。
「過ちは繰り返しません」と誇らしく語る人々は一体何を過ちと考え、何を繰り返さないと言っているのだろう。
ただ単に、そういう言うことでカタルシスを得ているのだろうか。それならそれはまったく意味のない自慰行為ではないですか?

はっきり言う。私は「過ちは繰り返しません」という言葉は偽善であると考えている。
平和を求めている人が語る言葉ではないと思う。
平和を求めることとはただおすがりすることなのだろうか?

私は平和が嫌いではない。
昔の映画「博士の異常な愛情」に出てくるドクターではないから核兵器が好きでもない。
しかし、なんと言ったらいいのだろう?
私の考える平和を求める行為とはそうではなく、積極的平和論と言えばいいのだろうか?
真に平和を実現する気があるのなら、「過ちは繰り返しません」という無意味な繰言を口にするのではなく、積極的、アグレッシブな平和論を唱えなければならないと確信する。
今年の原爆の日に広島市長は北朝鮮の核開発にもイランの核にも言及していない。彼らの言う核保有国とはアメリカのことであり、中国は眼中にもない。
そして過ちをしたのは当時の日本の指導者であるようだ。
☆☆そんなものは消極的平和論でさえない。
☆☆単なるイデオロギーのメッセージでしかない。
きれいに化粧直しされた原爆ドームを見て感じる違和感と同じく、原爆を特定イデオロギーの拡大に利用する発想に嫌悪を感じる。
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イラクまで劣化ウランの調査に行った少年がいた。なぜ、劣化ウランの害を唱えるよりもなによりも、まずこの日本を狙っている中華人民共和国の核兵器を削減し廃絶させる運動をしないのですか?
遠くにあって害がはっきりしない劣化ウランについての運動よりも、私は毎日の暮らしをより安心するために中国の核兵器、北朝鮮の核兵器をなくしたいと願っている。

改めて、誤解を恐れずに言う。
本当に原爆の悲劇を繰り返さないために行動するという気概があるのなら、「過ちは繰り返しません」などと唱えていてはだめだ。
現実世界に多数存在し、今時点増加しつつある核兵器保有国に行って核兵器廃絶を主張しなさい。
ついでに言えば、この日本に照準を向けている核保有国である中国において核廃絶を唱えないのなら、その人は核廃絶を真に考えていないこと間違いない。
それはつまり嘘つきである。
「過ちは繰り返しません」という繰言をイデオロギーのために、己に政治的主張のために使ってはいけない。
私はそのような主張には決して同意しないし、そのために原爆ドームをだしに使うとか、核の悲劇を唱える人たちの目的と手段を決して認めない。

「原爆体験者の老齢化が進み、原爆を語る人も少なくなった。」「被爆体験が風化している」と嘆く人々がいる。
私は誤った被爆体験が風化することによって、真の平和の希求、非核運動へつながるのではないかと期待したい。
原爆ドームと対面してそんなことを考えた。




キ-44様からお便りを頂きました(06.09.13)
「原爆ドーム 再び」を読んでふと思ったことですが、劣化ウランについてどれだけの知識をもってマスコミが報道しているのかということです。
まず、劣化ウランの大部分をしめるウラン238では被曝しないということです。放射性同位体(ラジオアイソトープ)であるウラン235が放射性物質として有害であるということを認識していなければなりません。
(微量に含まれるウラン235と、重金属としての化学的な毒性はあるかもしれませんが、私はよく知りませんのでどなたか解説お願いいたします。)
新聞やテレビ等の報道を見ていると、「放射能」と「放射線」という言葉、]線やγ線を浴びることによる被曝とα線やβ線を発する放射性物質を体内に取り込むことによる被曝、の意味を混同して、間違った恐怖心を日本国民に与えているように思います。特に、有名なジャーナリストやコメンテータは、ほとんどでたらめに報道しているように感じます。
「放射能」とは放射線を発する力や性質のことで、「放射線」には]線、γ線、α線、β線、中性子線があります。
]線やγ線は紫外線や可視光線とは波長が違うが、同じ電磁波(エネルギー)の一種です。遺伝子が修復不可能になるほど浴びない限りは怖がる必要はありません。
レントゲン撮影をしたり、γ線滅菌をした食品を食べても、決してゴジラやジャミラになることはありません。
α線、β線は、原子核を作る素粒子です。]線やγ線のように遠くまで飛ぶ性質はなく、比較的簡単に遮蔽できるので、それらを発するものによほど近づかなければ問題ありません。ただ、体内に取り込んでしまうと]線やγ線より人体が受けるダメージは大きく、注意が必要です(ストレートパンチとボディーブローの違いといったところでしょうか)。
ウラン235やプルトニウム239はこちらに該当する上、半減期が長いため原発等で問題になっているようです。
しかし、放射性を取り込んだとしても、新陳代謝で大半が数日で排泄されてしまうので実際の被害はどれほど?という感じのようです。
私達も日々自然放射線を浴びておりますし、旅客機の乗務員はさらに大量の宇宙から降り注ぐ放射線を浴びています。劣化ウランを大きく取り上げている人たちにしてみれば、宇宙飛行士など自殺志願者でしょう。
それよりも中国が毎日大量に排出している化学物質のほうがよほど生命の危機に直面しているように思います。
(製造関係の仕事で中国に行ったことがあるのですが、水と空気が臭い。とても子供を連れて旅行に行こうと思える環境ではありませんでした。テレビや新聞では臭いは伝わりません。今までかなり騙されていたように思いました。)
もともと劣化ウラン弾は核兵器としてではなく、大きな比重を活かして金やタングステン並みの破壊力がゴミで得られるから使っているということをどれだけの人が知っているのでしょう。
わざわざイラクまで劣化ウランの調査に行くのも良いですが、科学的な根拠もない報告をするのであれば単なる話題作りだと思われてもしかたがないので、少年には、その辺も注意して頑張って欲しいと思います。
(以上、私は特にこれらについての専門家ではありませんので、もし、間違っているところがあればどなたか訂正お願いします。)
キ-44様 毎度ありがとうございます。
正直言いまして、私は核物理なんて高尚な学問とは無縁でしてどちらとも判断しかねます。
しかし、キ-44様のおっしゃるように、劣化ウランが高比重であることを利用してジャンボのバランスにも使われているといいます。ジャンボの乗客危うし・・・私の子供の頃、危うし鞍馬天狗というのがありました。関係ないです。
おっしゃるとおり、悪意あるいは放射線を利用しようとして劣化ウランを使っているのではなく、ウラン精製段階で出るゴミをリサイクルして使っているというだけでしょう。
劣化ウランの害、従軍兵士の被害、などなど報道されていますが、いまだ確たるソースのものはないようです。
劣化ウランの害があるとして、いまだ埋められたままの対人地雷の害はそれとは比較にならないほど大きいでしょう。毎年毎年不具になる人びとが大勢います。そして中国などでは今でもジャンジャンと対人地雷を生産していると聞きます。
劣化ウラン反対者は対人地雷に反対しているのでしょうか?
それならぜひ中国で反対運動をして欲しいものです。
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そして、第三世界に大量に広まったカラシニコフをはじめとする小火器の害は劣化ウランより直接的であり、劣化ウラン以上に死傷者を出しているようです。
そういったことを客観的に比較できない人は、やはりどこかに欠陥があるのか、あるいは特定の思想、国家の利益のためとしか思えません。


たにがわ様からお便りを頂きました(06.12.20)
失礼ながら
はじめまして。
さて、2006.09.09 の記事を拝見し、失礼ながらどうしてもメールをお送りしたいと思いました。私は反対意見を申し上げるつもりはありません。
ただ、
「『原爆体験者の老齢化が進み、原爆を語る人も少なくなった。』『被爆体験が風化している』と嘆く人々がいる。
私は誤った被爆体験が風化することによって、真の平和の希求、非核運動へつながるのではないかと期待したい。
原爆ドームと対面してそんなことを考えた。」

というところで被爆者の方がたがお聞きになったらどう思うだろうと考えてしまいます。

私は、日本が非武装であるだけで戦争がなくなるとは言いません。しかし、世界から戦争をなくす方法を考え、実現させる努力はしたいのです。そうすると、将来的には日本も諸外国も非武装にしなければなりません。この中では、確かに中国などにも改善してもらわねばならないことはあります。また、北朝鮮も態度を変えてもらわねばなりません。
コスタリカは常備軍が現在ないようですが、これについてどう思われますか。
日本の自衛隊は、未来においては災害時被災地のの援助・救助と人道援助・国際貢献などを専門または主務とする組織に改編させなければならないと思います。
もう一つ思うことは、北朝鮮も何かを恐れているのではということです。
最後に北朝鮮に同情的だと思われかねないことを書きますけれども、それぞれの国・地域・集団が恐れている事柄や幻想をなくすことも非常にたいせつなことだと考えますが、いかがでしょうか。
たにがわ様 お便りありがとうございます。
私の全文をお読みになられていると思います。私は「過ちは繰り返しません」という言葉を意味不明な呪文でおかしいと語っているのであって、被爆者をちゃかしているわけではありません。
それと同時に原爆の被害者のみが被害者ではないと語っております。東北でも中部でも裏日本でもB29の絨毯爆撃で数多くの人が犠牲になりました。それらの人々と原爆の被害者はまったく同じく被害者であると認識しております。
そしてまた、A級戦犯というものがいかなるものであったのかを理解しなければならないということを述べております。
感傷だけでは平和は得られないのです。そして平和とはお金のような形あるものではなく、天候とか景気のように状態であり揺れ動いているものであって、常に維持しようと努力しないと傾きがひどくなり倒れてしまうものなのです。
さて、平和主義者の方々には理想郷と思われているコスタリカですが、コスタリカにももちらん軍隊類似組織はあり、その兵員は8000人(5000人というデータもある)いるそうです。人口が400万ですから日本の人口1億3000万なら28万人になります。日本の自衛隊は24万人です。
それをいかがお受け取りになりますか?

北朝鮮が恐れているものは、私の認識では国家の崩壊でしょう。そして韓国も北朝鮮の崩壊を恐れていると考えます。
確かに中国などにも改善してもらわねばならないことはあります。また、北朝鮮も態度を変えてもらわねばなりません。
とおっしゃいますが、過去60年間の現実から演繹されることは、話し合いでは決して問題は解決しないと言うことです。
おお、戦争をしようということではありません。
中国の台湾侵攻を思いとどまらせたのは、アメリカ第7艦隊であり、ソ連の太平洋潜水艦隊を押さえ込んでいたのは日本の海上自衛隊であったという事実を認識しなければ論は進まないでしょう。
現実は現実です。

たにがわ様からお便りを頂きました(06.12.20)
私の拙い文にお答えいただき、まことに有り難うございます。
記事の一部に過剰に反応してしまったようで、申し訳ございません。
ご返信頂いた後、コスタリカや軍隊がないとされている他の国についても調べ直しております。
私には戦争をなくす方法を考えること、それを実現させることをあきらめなくてもよいという個人的な、強い思いがあります。
また失礼いたし、申し訳ございません。
このメールはここで終わります
たにがわ様、ご返事ありがとうございます。
他意はありませんが、たにがわ様は真面目で良心的で優しいお方だとおさっしいたします。しかし、私にはどうもたにがわ様に同感することができません。
中国の核ミサイルが何発日本を狙っているかご存じでしょうか?
北朝鮮のミサイル、核爆弾をお忘れでしょうか?
日本の自衛隊が中国、あるいは北朝鮮を侵攻する力があるとお思いでしょうか?
航空自衛隊に渡航能力はなく対地攻撃はたかが知れてます。海上自衛隊に巡航ミサイルはありません。弾道弾もありません。
自衛隊が持っているのは飛んでくる飛行機を墜すこと、対潜水艦能力、せめて来る水上艦相手にする能力しかありません。
それを踏まえて、一体
そうすると、将来的には日本も諸外国も非武装にしなければなりません。この中では、確かに中国などにも改善してもらわねばならないことはあります。また、北朝鮮も態度を変えてもらわねばなりません。
という発想が出てくるものでしょうか?
あまりにも、自虐史観というか、そこまで言わなくても日本人が攻めて行かなければ何事もおきないという考えに囚われているのではないでしょうか?
現実の世界は、そんなに甘くないようです。
平和を守るため、戦争を起こさないために軍備を持つことは現実世界では必要であり、常識でしょう。
武装しなければ戦争が起きない、まず自国から武装を捨てようというならば、あっというまに近隣諸国に食いつぶされます。
現実に中国の西域、チベットみなそうなめです。
ベトナム戦争が終わってから、ベトナムは中国から侵攻されましたが、ベトナム軍は中国軍を排除することができました。
主義思想に関わらず、それが現実で、それを認識しなければこの世を生きてはいけません。


たにがわ様からお便りを頂きました(06.12.24)
佐為様
世界の現実について詳しく教えてくださり、本当にありがとうございました。
私の考えがあまりに未熟なまま意見を出してしまい本当に失礼しました。
私は、先日書きましたとおり日本が非武装であるだけで戦争がなくなるとは考えません。ですので、自衛隊の兵器をなくすのがよいのだとは言いません。
世界の常識からすると、世界を非武装にせよとは言いにくい状態だと判ります。
佐為様が戦争しようという考え方ではないことはよく承知しております。これ以降の文は佐為様への意見ではなく、未熟な私の心の中を表してみたものです。
「将来的には日本も諸外国も非武装にしなければなりません」というのは、本当に個人的な思いで、100年を超える先かもわからない仮の未来の目標の設定として頭の中にあるものです。
私の頭の中では、その計画・過程の枠のようなものができ始めていました。
遠い未来において、諸外国同時軍縮や国同士の武力闘争と大きな内戦・大きなテロだけでもなくすことを目標にして世界が動くようにすると誰かが考えることは、社会に許容されてもよいのではないかと思ってしまうのです。
誰かが個人的に、将来的に戦争がなくなるようにと思うことはこの世の中で許されてほしいと思ってしまいます。
また、極端な話ですが、もし本当に日本が戦争に巻き込まれてしまったとき、自衛隊員だけでは足りなくなった時、できれば家族や親しい人・日本に住む人を守りたいですが、「自分自身が戦いに行っても役に立てるだろうか、足手まといにならないか」と思いますし、それより前に、ものすごく「怖い」と思います。
また、勝手な考えをまた並べてしまいました。改めて言いますが、佐為様が戦争しようという考え方ではないことはよく承知しております。「将来的には〜」以降の文については佐為さまへの意見を書いたつもりではありません。しかし、これではやはり反論とおとりになるでしょう。再び失礼申し上げました。大変申し訳ございません
たにがわ様 恐れ入るのは私のほうです。
私が戦争は素敵だなどと考えているわけはありません。特に私は子供のときから小柄で体力もなくイジメられっ子でした。格闘技どころかすべてのスポーツは不得手です。だからけんかをすれば痛いし血も出るということを十分経験し体に染み込んでいます。戦争では命をなくしてしまいますから絶対起きてはほしくありません。
しかしながら理想は理想ですが、現実としてとりえる選択肢は限られているということだと思います。
結局、平和というものを固定したものと考えるのではなく、バランスしている状態と認識しなければならないということではないのでしょうか。
平和を維持するには、あるときはタカ派的行動が必要であり、あるときはハト派的な行動が必要であるということが真理というか現実なのでしょう。
私は戦争しません、武器もありません、いつもハト派ですよと明言していたら、諸外国に足元を見られむしりたかられてしまうということは間違いないでしょう。
またお便りをお願いいたします。


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