みんなが勝つことはできるのか? 2006.09.15

「できるだけたくさんの人が勝つっていうのがいいルール」

電車の中でそんな宣伝文句を見かけた。
私はあら捜しやいちゃもんをつけるのが趣味ではない。そんな性悪ではありませんよ。
監査員や監査員がみなあら捜しが好きだなどと邪推してはいけない。私は虚心坦懐、無邪気に観察し、発見したことを語るだけである。
もっとも「審査とは不適合を見つけることだ」とボケを語っている方もいる。ISO審査の価値を維持するために、JRCAやCEARはそんな審査員の更新を認めてはいけない。
しかし私は、話を聞いても文章を読んでも、よく反芻して考え、本当かな? おかしくないかな? 矛盾はないかな? なんて考える習慣がある。
なんせ、私の仕事は会社が法律を守っているか? 会社のルールは法律に照らして適正か? ISO規格に適合しているか? なんてことを吟味し判断することなので、五七調で調子が良いとか、韻を踏んで語呂がいいか、なんて考えるのとは無縁である。
そういう能がないとも言えるが・・

さて冒頭のキャッチフレーズの検討に入る。
勝ち負けがあるゲームがあったとき、そのルールは出来るだけ多くの人が勝つゲームが良いのだろうか?
実は多くの人を勝つゲームを作ることは可能である。
たとえば宝くじをとりあげてみよう。
宝くじの配当率(当選金額/発券金額)はおおよそ48%だそうです。残り半分以上の52%は還元されないのです。
誰がピンはねするのか?
宝くじの主催者は政府とか自治体です。もともと宝くじというのは、お金持ちを生み出そうとしているわけではありません。自治体がいろいろな社会事業を行う財源として、人びとの射幸心を逆手にとってお金を集める手段なのです。
okane.gif しかしなんですね、寺銭(しょば代とも言います)を半分もとる賭場なんて聞いたことがありません。宝くじってヤーサンより悪質のようです。
博打とは「場が朽る」からきたと聞いたことがあります。博打をするとき、胴元といいましょうか、開催者が手数料を取ります。もちろんビジネスですから手数料を取るのはやむを得ません。
外貨に交換する時だって円からドル、ドルから円の相場が違うでしょう。その差額で銀行員の高賃金が生み出されるのです。
さて博打で勝つともらえる配当金はこの手数料(寺銭)を引いたものになります。ですから何度も何度も賭けが繰り返されると、そのたびに場所代が胴元に入り、お客様の懐はだんだんと寂しくなり、場が朽ちる → ばくち → 博打 となったそうです。
もっとも、働いて得た尊い金も博打をすると腐るということから 博打場で朽ちる → 博打 と成ったという説もあります。
しかしながら私は尊い金と腐った金の違いが分かりません。
カジノではしょば代を取らないよ、なんてボケをかましてはいけません。例えばルーレットでは「0」と「00」という二つの目が開帳者の収入です。
さて、宝くじの目的が公共事業の資金を得るためですから配当率は変えないとして、勝者を増やすにはどうしたらいいでしょうか?
そんな問題は簡単です。一人当たりの賞金を減らせばよいというか、減らすしかありません。
1等が1億なんていわずに、1000円とか500円にすればいいじゃないですか そうすると1等当選者が増えます。勝つ人が多い方がいいルールです 
ちょっと待ってください。
1等を多くするなんてけちなことを言わずに、全員を1等にしましょうよ。全員を1等にするためには、配当率が48%ですから、300円の宝くじの1等賞金は、

なんと! 144円になります。
お笑いですね

払った金より1等賞金が少ないのが宝くじといえるでしょうか?
そんなの宝くじとはいいませんよね。今はハズレ券にも賞金は1割あるのです。
あなた、この宝くじを買いますか?

実はこんな宝くじだって、まったく売れないということはありません。
福祉貯蓄ってご存じですか? これは通常の預金より利率が低く、その差額を寄付するというものです。もちろん税制などの優遇措置がある場合もあります。そういう預金に誰も預けないかというと、心の暖かい、そして懐も暖かい人々はけっこう利用したりしているのです。
ですから152円寄付することだと思ってこの全員1等の宝くじを買う人もいる・・・かもしれません。
さて、全員が勝てる宝くじ、それはステキなものでしょうか?

宝くじで当選するのと、ゲームで勝つのは違うとおっしゃいますか?
オカシイナア?
英語で獲得者GAINERって勝者と同語・同義ですが・・・

go.gif 私の大好きな囲碁の話をしましょう。
囲碁とは黒石と白石(本当は貝殻)を交互に置いて、少しでも広い土地を囲ったほうが勝ちというゲームです。もちろん交互に置くのですから、一方的に勝つなんてことはできません。
さて交互に石を置きますので、片方の人が先手といいますがはじめに石を置くことになります。先手は後手より一手分有利になりますから、その分よけいに土地を取らなければ負けというルールになっていて、このハンディキャップをコミといいます。
さて黒石・白石の置き方、置く順序は何百年もの間研究され、現在はさまざなま定石(じょうせき)が出来上がってきました。どの定石でも白石と黒石の利益というか損得が五分五分になっています。一方が有利な定石はありません。ですから、定石のすじ道からはずれると、そのミスを突かれて損をしてしまいます。
碁は勝つことが目的ですが、負けないようするゲームとも言えるのです。
さて勝つ人が多いのが良いルールですから、このたび黒石・白石の置き方、置く順序がどうであっても引き分けというルールに改定します。
1時間も2時間も考えて石を置いても、デタラメに石を置いても、毎回結果が引き分けになるゲームが面白いもんでしょうか?
私ならそんなことをしているより相手とお茶を飲んで世間話でもしていた方がよさそうです。

対戦ゲームとは勝つために、勝つことが面白いからするのではないでしょうか?そうであれば、囲碁に限らず、対戦ゲームでは、一人が勝ち、一人が負けるしかありません。
お姫様を育てたり、勇士を成長させたり、謎解きをするゲームもあります。ああいったたぐいならみなが勝者になれるのでしょうか?
実はそういったゲームでは対戦者の役割をパソコンが担っているわけですから、トリックや障害レベルを低くしてパソコンが負けるようにすれば人間様は常に勝てますが、そのようなゲームが面白いとも思えません。

2006年夏の甲子園大会決勝戦は延長引き分けになりました。
あのとき仮に、再試合せずに2チームを優勝させたら、双方のチームの監督、選手、応援団、そして郷土の人々はうれしいでしょうか?
123456789101112131415
駒大苫小牧 0000000100000001
早稲田実 0000000100000001
野球をする目的が、優勝旗を手にすることならそれでもいいでしょう。
でも高校野球に参加する全チームの目的は、優勝旗を得ることではなく、全国の高校チームの最上位に君臨することではないでしょうか? 全国から選抜されてきた強豪に勝つことこそが目的であり、優勝旗がほしいのではないでしょう。
だから、翌日再試合をしてただひとつの優勝チームを決めるのではないでしょうか?
引き分けたとき、次回は負けるかもしれないからニチームを優勝にしてくれなどと考えず、自分たちこそが一番になりたいから再試合に臨むのがスポーツマンでありましょう。

選挙を考えましょう。
選挙とは簡単に言えば、選ぶ人数が決まっていて応募者がそれより多いときに、人気投票で決めることをいいます。
入札もこれに似ています。仕事を発注するときに、発注する仕事量よりその仕事をしたい人が多い場合に、誰に発注するか決める方法です。
☆☆さて、全員が勝つ選挙というのがあるのでしょうか?
☆☆あるいは全員が落札する入札というのがあるでしょうか?
選挙に勝つとは当選することを意味します。全員が勝つということは全員が当選するとですから、(選出する人数)=(応募者の数)でなければなりません。選挙で定数より応募者が多いときは定数を多くしますというなら、そもそも選挙ではありません。
それとも定数より応募者が多いときは、何らかの条件を設けて立候補者を絞っても立候補者全員当選にはなります。よく談合(上品に言えば話し合い)で立候補者を決めたりすることがありますが、そういうことが良いルールなのでしょうか?
自民党の総理を話し合いで決めると朝日新聞は談合だと批判しますが、民主党の党首を話し合いで決めると朝日新聞は妥当だと評価します。
不思議なことです
もし、全員が勝つという選挙の方法をとったとき、当選者はうれしいでしょうか?
市会議員の選挙を告示します。20人が立候補しました。選挙管理委員会は定数を20に決定し、全員に当選証書を交付しました。
ookiri5.gif さあ、あなたは明日から市会議員です。左胸には金バッチが輝きます。うれしいでしょう?
そのような選挙で選ばれた者に誇りなどないでしょう。言い方が悪いかもしれませんが、人より優れていると認められた結果でなければ誇りはもてないはずです。
できるだけたくさんの当選するのがいいルールなんてはずがありません。

くだらない例を続けることはありません。
入学試験であれば、全員が入学できるのがいいルールであるはずがない。
希望すれば誰でも入学できる大学に合格して、あなたはうれしいですか?
入学試験が難しい大学に合格したときこそ、あなたは合格したことを、その大学に所属することを誇らしく思うでしょう。

社会での勝敗といっては間違いかもしれないが、会社で昇進するものもいれば、私のようにリストラ組み、あるいは定年まで平社員という人もいる。いやそういう人の方が多いのではないか?
さて、みなが出世する会社がいいのだろうか?
社員全員が社長になったらどうなるのか? ちょっと想像がつかない。
公務員の場合は差別が明白である。同期入省であっても時間と共に選別され優秀な者が残っていく。そして最後に一人が次官になり他は全員去っていき、30年以上かけた椅子取りゲームは終わる。
同期入社すると、定年まで横一直線という社会もある。公立学校の先生である。
そのような閉鎖社会ではどのようなことが起きるのか?
考えるまでもない、上昇志向は薄れ、保守的になり革新という名の保守主義にひたり、結果の平等という環境で40年を過ごし、その間、お花畑の子供を作り続ける。
おっと、もっとティピカルな事例を忘れていた。ソ連をはじめとする共産主義国家である。そこでは結果の平等を保証するという、歴史的な実験をして・・・・もちろん失敗に終わった。

じゃあ、結果の平等など保証しない方が良いのか?
そのような問いが来ることを予測する。 その問いに対しては、私は結果の平等を保証できるのか? と問い返したい。
koizumi.gif 小泉首相が格差社会を作ったと言われている。 本当だろうか?
☆☆格差社会とはなんだろうか?
☆☆格差社会でない社会とはどんなものなのだろうか?
☆☆格差のない社会がありえるのだろうか?
バブルがはじけ、失われた十年があり、そして今格差社会になったといわれる。
今は格差社会なのか?
格差社会という定義も不明であるが、それはまあ置いておいて、バブルの時は格差社会ではなかったのだろうか?
私にはどうもそうとは思えない。バブルの時期こそ動乱の時期であり、不動産売買、株式投資、為替相場などの手段で金をもうけた人もいたし、損をした人もいたのではないか?
今は太陽光発電や液晶で有名な某家電メーカーは、当時は本業と同じくらい、投資で稼いでいると喧伝されていた。製造業がそのようなことをするのが実業とは思えない。
虚業であろう。
その会社が今もそんなことに手を出しているかは知らない。
国民所得も伸びず、経済の活性が当時より低迷している現在、あの時以上に勝ち組負け組みが分かれつつあるとは思えない。
そりゃ現時点、ホリエモンを筆頭にIT関連で稼いでいる人もいるだろう。しかし、バブル時期には遺産相続したが相続税が億単位だと青い顔をしている人がそのへんにたくさんいたのである。私の周りにも何人もいた。
いや格差というのはバブル時期になって言われたのではない。マルキン、マルビという言葉がはやったのは80年代初めである。それは冗談半分の表現であったろうが、当時であっても豊かな人とそうでない人はいたし、その差は大きかったのである。
60年代、持てるもの持たざるものの差は21世紀の今より大きかったと私は思う。
二十歳頃まで麦飯しか食べたことがなく、就職して1年間学生服で通い、寿司刺身なんて会社に入るまで食べたことがない私が言うのだ。
1億総中流という言葉が言われたのは1970年代である。もちろん、1億国民がみな中流になったという事実を言ったのではない。それは1億国民全部が平等であると考えたことでもなく、貧乏な人がいなくなったということではないだろうか?
あるいは「1億国民がみな中流である」ということではなく、「1億国民みなが中流であると考えている」ということだろう。そう考えたとすれば、それはもちろん誤解、勘違いである。みなが中流になるはずが絶対にない。中流とは、賃金が平均であるという意味ではなく、平均以上であるということなのだよ。おれは中流だと誤解していた人もたくさんいただろう。でもね、それは蜃気楼であり、勘違いであったと私は思う。
1960年頃の話だ。当時はソ連とアメリカがいつ核戦争を始めるかと毎日が心配でたまらないという生活だったのである。そのとき、ある週刊誌に次のようなことが書いてあった。
「ソ連とアメリカが戦争をして、アメリカが勝ったら世界中が金持ちと貧乏人に分かれるだろう。ソ連が勝ったらみなが貧乏で平等になるだろう。」
幸い核戦争は起きなかったから本当にそうなったのか、今となっては分からない。ともかく戦争にならなくて良かったことは事実である。
しかし、これを書いた人は真理を知っていた。みなが金持ちになるだろうとは書かなかったのだ。
みなが金持ちになるなんてことは論理的にありえない。
社会の富が一定であるとき、みなが勝つルールとはいったいどんなものなのだろうか?
まずどんなことを勝つというのだろうか?
実はこんなことはゲームの世界では昔から研究され尽くしているのだ。ゲーム理論はゲームだけでなく投資にも人生論にでも国家戦略にでも活用できる。
投資をするときに、リスクがあってもマキシマムの見返りがあるものを選ぶか、見返りが少なくてもリスクがミニマムのものを選ぶか、あるいはこの間のどのへんを選ぶのか? なんてのは大昔から考えられてきた。
残念ながら、リスクがなく高配当というのはないし、みなが儲かる投資もないし、世界中の国が貿易黒字になることもできないし、ひとつの会社の社員全員が社長になることもできない。

「できるだけたくさんの人が勝つっていうのがいいルール」
というキャッチフレーズを考えた人は、みなが勝つのではなく、誰も負けない社会、つまり貧乏でも平等ならいいという発想であろうか。
☆☆私はそういう思想を否定しない。
しかし、みなが勝者で金持ちになる社会がいいという発想なら、それは間違いである。
もし、みなが勝者で金持ちになれないと知っていて、みなが勝者で金持ちになろうよと呼びかけているのなら、それは嘘つきである。
そんなことがあるはずがない



あらま様からお便りを頂きました(06.09.17)
人生の勝者
佐為さま あらまです
今回も、おおいに勉強になりました。
小生の近所に、一人暮らしの男性がいて、一代で何百億の財産を稼いだのだそうです。
その方が、倒れて、今は高級な介護施設に入所しています。
このように、地位、名誉、財産があっても、健康を損ね、家族離散であったら、はたしてホントに幸せなのか、疑問符です。
小生は、負け惜しみもありますが、自分が幸せだと思えたら、それで立派な人生の勝者であると思うことにしました。
ある人の言葉で、女性の幸せとは、子供の頃は親に愛され、大人になれば男性に愛され、年をとれば子供に愛される、そんな人生が、女性の幸せなのだそうです。
で、男性の幸せとは、そうした幸せな女性を見ていることが男性の幸せなのだそうです。
その言葉を聞く以前は、「自分の夢が実現した人」が、人生の勝者だと思っていましたが、どうも小生の場合は、怪しくなってきました。
そこで、この言葉に接して、案外、身近に幸せってあるものだと思いました。
そこで、人生に感謝できれば幸せだと思うことにしました。
このルールは、いかがなものでしょうか ?
あらま師匠、毎度ありがとうございます。
私は、あらま様と同じくだれでも人生において成功者になれると考えています。
歌の文句のように、愛し愛されるために生まれてくるのですから、あらま様の基準ではみな成功者、勝者になることができ、それ以外になりようがありません。
しかしながら、そういった考え方と違い、この宣伝文句では、同じルールで成功者とするために無理やりルールを変えるという発想のようです。
小学校の運動会でお手手つないでゴールするという話がありました。これは都市伝説のようですが、多くの人を勝者にしようという発想そのものです。ちょっと見た目にはうるわしく感動的な話ですが、考えれば腐ってイヤに臭いがするような気がしてきます。
「男たちの大和」では敵機の攻撃でバタバタと周りの者が斃れていきます。しかし斃れたものにかまわずに、持ち場を離れず敵と戦うことこそが斃れた同志への直接的な介護であり、貢献であると思います。
yamato2.gif


SLEEP様からお便りを頂きました(06.09.22)
矛盾
「できるだけたくさんの人が勝つっていうのがいいルール」ですか・・・岩波風に書くと僕らの共産主義や社会主義はまだ死んでないぞって言いたいんでしょう。
それにできるだけということは誰かはやっぱり負けるんですよね?
その誰かさんに私はなりたくないなあw

この文句の背景は何かと言えば、結果の平等つまり勝敗の固定化であり自由競争の廃止です。社会主義国家がなぜ身分制国家となるかと言えば誰かが常に負け続けることを制度として強要するからです。
反革命分子とか言う名前で「論理的に」奴隷を作れるわけです、日本軍の捕虜を荒野で強制労働させたのはソ連と中国だったのもむべなるかな。

社会主義がどうなるかは昭和10年〜30年ごろの日本を考えれば明らかです。つまり明治維新以来の経済成長が止まり、その後また高度成長が訪れました。官僚統制などやって自由競争がなくなればトラバントのような車しか乗れなくなるんですけど、そういうことが理解できないのが結構いるようです。
野党と与党の違いはなんだろうか?
万年野党であれば何を言っても公約違反にならない。
 ・税金をなくします。
 ・年金は国民所得の何倍も出しましょう。
 ・軍備は廃止します。
 ・北朝鮮との問題を解決します。
 ・東アジアでの日本の地位を向上させます。
だって、政権をとらないのだから、決して実現する必要はなく、言いたい放題である。
できるだけたくさんの人が勝つ・・・なんて胡散臭いだけです。

まあ、日本人も少しづつ利口になって、だまされないようになって欲しいものです。
オット、この宣伝文句の会社はサヨクと関係なさそうです。


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