頭は使うためにある 2006.11.11

人間は考える葦であるなんてこと語った人がいましたね。もちろん葦でなく考えるサルでも、考えるえもん掛けでも、考えるたんぱく質でも良かったのでしょうが、このお方が思いついたのが葦の原っぱだったのかもしれません。
まあ、それはさておき、本日は考えることについて考えましょう。

 理科

100点


私は半分自慢であるが小学・中学・高校と成績が良かった。といっても頭が良かったわけではない。以前も書いたことがあるが、子供のとき体も小さくけんかも弱く、人に認めてもらうにはどうすべきかと考えて、成績を上げるという戦略を選択したのだ。学校の成績というのは学校で教えていることを理解すればまず確実に成績が上がる。うそだなんて言ってはいけない。昔だって今だって、どの学校でも教えたこと以外試験に出るはずがない。
子供のときに一度身に付いた習慣はそうは変わらない。私は先生が教えたことはしっかりと理解し、理屈を覚えて応用動作ができるようになった。
お断りしておくが、勉強とは理屈を覚えるのであって暗記することではない。以前書いたが、掛け算の理屈を知れば九九を全部覚えなくてもいいのである。
要するに学校では教えられたことを覚えるのではなく、理解して、応用が利くようになれば一定の成績は勝ち取ることができるのだ。
しかし、会社あるいは社会というのは習ったことだけではなかなか物事は進まない。特段、人間関係とか世間のしきたりや常識というようなものを持ち出すわけではない。例えば、生産ラインで不良が出たとき、あるいは生産性をあげようとしたとき、その対策方法を見つけるには今までに習ったことや本に書いてあることをひっくり返してもできるわけがない。そもそも、解決策があるのか? ないのか? ということさえわからないのだ。
要するに学校の成績が良くても、社会で会社でぶつかる問題をうまく解決できるかということとは直接的な関係はない。
じゃあ、どうすればそういった問題を解決していくことができるのか?

私は40年前に高校を出て就職しました。
もちろん、会社によって社風が異なりまたそこにいる人間も違うでしょうが、私が入った職場ではまずなにも教えないんですよね。先輩のしていることを観察して、見よう見まねで仕事するわけです。
仕事の手順を標準化して、文書にして、教えて、実施させるという、ISO9001の仕組みなんて当時の日本の製造業では見られないものでした。
先輩の技を盗んで覚えるのが当然という社会でしたね。ですから先輩たちや上司の影響は極めて大きく、当たり外れは大違いで、良い先輩に巡り会えれば幸運だったわけです。
同年輩の人が入社早々に親しくなった先輩が社青同系だったので、それで人生を棒に振ってしまったというのを見てます。
そのまんま東という芸能人がいますが、私の友人はそのまんま左だったようです。
あの人〜どうして、いるかし〜ら〜
これ知ってたら・・たぶん50代 
私は今でも幸運だと思うが、4つ年上の先輩に可愛がられた。その人はスポーツも万能であったし、マージャンをはじめとする賭け事も、そしてもちろん会社の仕事もそこそこにこなしていた。
その方、仮にSさんとしておきましょう。Sさんはいつも考えろと言っていた。
マージャンをしていて、
 
◎◎
◎◎
◎◎
相手が牌を同並べるかのくせを掴むんだよ。ピンコロとソーズと満コロをバラバラに並べている人は少ない。大体種類ごとにまとめておくし、数字の順序に並べているはずだ。だから相手が牌を切るところを出てくるパイを見て、どんな配置か何を持っているかを推定するんだよ。
両面待ちよりカンチャン待ちの方が確率が低いけれど、既に出ているパイをみてどちらが確率が高いか考えろ。役満てんぱっているのがいたら、早いところ安めのやつに振り込め。
ポーカーで我々しろうとはツーペアを持っていると、残りの一枚を変えてフルハウスを狙うのが常だった。そんな我々に、フルハウスができる確率と三枚捨ててスリーカードができる確率を計算してみろと教えた。
フルハウスができる確率は8%で、スリーカードができる確率は12%である。
ポーカーの平均的な勝負の手はジャックのワンペア程度と聞いたことがある。スリーカードが手にあれば十分勝負できるはずで、フルハウスができる僥倖を期待するのは間違いである。
Sさんは野球でも、野村もどきの理論派であった。もっともかなり太っ腹な方だったので、プレイヤーというより監督向きであった。決して力任せ、運任せの采配はしない。そしていつも野球は9人でするものだといつも言って、王シフトやイチローシフト同様に相手打者に合わせて野手の守備位置を変えさせた。しかしこれは守る方にとって疲れる野球だったようだ。
仕事でもひとつの方法だけでなく、当初の狙いがうまくいかないときに備えて、二の矢、三の矢を考えておく人だった。
nenga.jpg
その後、お互いに会社も変わりSさんも既に引退の身であるが、いまでもときどき賀状の交換をしている。
毎年でないというのも趣があって良い。お互いに気まぐれなのだろう。
私は、Sさんというすばらしい先輩に巡り会ったおかげで、少しは考えるということが身に付いたのではないかと思う。
今の仕事でも、没頭するだけでなく、ちょっと待てよと一歩下がって考えると、不具合や矛盾が見つかるのだ。
そして文章を書くとき、揚げ足をとられないように、瑕疵のないように、言いすぎ、言い足りないことのないようにとちょっとしたことで結果は大きく違う。
ふつうの時候の挨拶ならともかく、監査報告書などでは注意深くなければならない。

ところで周りで見聞きするものに、こりゃあ考えていないなあと思えるものがたくさんある。
「憲法9条を世界遺産に」なんて読むと恥を書かないような本を書くべきだと思う。わが身を省みるところである。 
NHKへの拉致問題放送命令とそれに対するマスコミのリアクションもおかしいとしかいいようがない。
菅義偉総務相がNHKに北朝鮮による拉致問題を取り上げる放送命令を出したことについて「放送法に基づくとはいえ、報道の自由の観点から看過できない」(日本新聞協会06/10/10)などと論じている。
そんなことを言うならば
「放送法に基づくとは言え、視聴者の自由の観点から32条は看過できない」と一般市民が思うのは不思議でない。
まさにダブルスタンダードではないか!
放送法 第32条 協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。
man7.gif
朝日新聞の社説を読むと・・・考えていないというか頭を使っていないことにあきれる。有名な大学を出て、一流新聞社に入って、長年そつなく勤め実績をあげて論説委員の座を掴んだ方に間違いないのだが・・・今までの出世競争で頭を使い切ってしまったのかもしれない。 

昔、通信教育の短大のスクーリングで先生が言いました。
「恐るべきは勉強した人ではない。勉強している人だ。」
至言であろうと思います。


本日の新説

考えるから人間である。
考えないのは人間ではない。





ひとりごとの目次にもどる