成長神話 2007.07.07

昔々、共産主義が政権を取るとまじめに信じられていたころ。
社会の体制というのは時代と共に進歩すると思われていた。貴族や王様や奴隷がいる国家体制が封建制に進み、資本主義社会になり、そして社会主義になり、最終的には人間の理想である共産主義国家になると信じられていた時代があった。
中学で先生が「資本主義社会は将来すべて共産主義国家になるんだ」なんて、そんな与太話を真面目に語っていた。
私が小学校の時は暴力的でも思想的にはまっとうな先生が多かった気がするが、中学になると戦後教育を受けた先生がどんどん増えた。当時は今と違い先生不足で誰でもなれた時代である。1935年頃の生まれで今70歳くらいの方々である。今は年金を潤沢にもらって朝日歌壇あたりで活躍しているような気がする。
国家体制が成長するなんていうのは、まったくのうそであったのだが、そんなうそが信じられていた時代がほんの数十年前にあったのだ。そして今でもそれを信仰している人がいるようだ。
そうでなければ共産党とか社民党という団体が存在しているはずがない。

ところで私もまた同じような妄想を信じていたことを白状する。
妄想というのはつまり、文化というか文明は常に進歩していくと信じていたのです。
マンガを見ても映画を観ても、未来の社会では文明が発展し生活はどんどんと良くなるなんてことばかり描いてありました。映画の中で自動ドアが出てくると「オオッ」という声が上がった時代です。
そして日本人皆が社会はますます便利になっていくと信じていました。それは、戦後は毎年のようにいろいろな便利なものがあらわれて暮らしが楽になってきたからです。
戦後から1970年までの25年間の発展と、1970年から2000年までの30年の変化を比較すればわかるでしょう。
私が小学の頃、ラジオなんて一家に一台なんてありません。長屋に一台という時代です。テレビ・・冗談を言っちゃいけません。 
電話・・それこそ町内に一台あるかないかです。
照明は40ワットの裸電球、冬は練炭のコタツに一家7人が入って暖を取るのが実態だったのです。夏暑いときは水を飲んで耐えるしかありません。冷蔵庫もエアコンもありません。
ある意味、なにもなく、便利なものがあるとは知らずほしがらなかったので、幸せだったかもしれません。
私が就職して少したった70年頃ともなると、白黒テレビはどの家にもあり、カラーテレビがある家庭もチラホラ、我が家でもほしいなあと思うようになりました。電話は一家に一台ではありませんがほとんどの家庭にありました。洗濯機、冷蔵庫、掃除機・・いや便利になったものです。夏は扇風機が出現しました。
それからの30年の発展は確かにあります。パソコンとインターネットは世界を変えました。しかしパソコンを含めてほとんどのものは70年にはあったのです。
パソコンそのものは存在してません。しかしプログラマブル電卓というのはありまして、私たちはそういったをおもちゃにしていました。
携帯電話というものが金持ち以外でも持てるようになったのは90年半ばからですが、携帯電話そのものは60年代のウルトラマンが使っていました。
携帯が現れる前のポケベルを覚えてますか?
医者とか特別な職業の人たちは以前からポケベルを持っていました。
70年頃、液晶テレビはありませんがブラウン管式のテレビはありました。そして将来は奥行きが薄くなり壁掛けテレビになるだろうというのは誰もが当然だと思っていました。
洗濯機がローラー脱水から遠心式になったり自動になったのはすごいけれど、洗濯板から洗濯機への変化にはかないませんよ 
60年代にはデパートとか喫茶店にしかなかったエアコンが、80年代になって我が家でも買ったぞといってもその感動は小さいことがわかるでしょう。
自分の足で歩くしかなかった時代からスバル360を所有することができた差と、所有する車がスバル360から3ナンバーになった差を考えれば、そのインパクトの違いは桁違いです。もちろん足からスバル360への転換の方が大きいことはいうまでもありません。
終戦から70年までの発展を百とすると、70年から21世紀までの発展は感覚的には十くらいではないでしょうか?
そしてこれからの25年の発展はその例えで言うと1くらいになってしまうのでしょうか?
earth.jpg イエイエ、地球の限界が語られる時代ですからひょっとすると、ひょっとしなくてもマイナス成長になるかもしれません。
要するに私の子ども時代は文明というか具体的には生活はドンドンと楽になり便利になると信じていたということです。
そして、私が大人になると便利なものがあらわれるのが飽和してしまった気がしてきたということです。
それは私個人だけの印象ではありません。日本の家電市場が飽和して買換え需要しか期待できなくなったのは事実です。いや車メーカーもパソコンメーカーもそうです。
画期的なものがあらわれない限りもう必要なものもほしいものもないのです。
それこそが構造的不況というべきなのでしょう。
中国の経済発展がすごいというのは、まだほしいものを持っていないからでしょう。ほしいものが満ち足りたらもうほしくなくなります。(日本語としておかしいでしょうか?)

しかし文化的あるいは便利さが伸びるのが止まっても、私はまだ人間が時代とともに賢くなっていくことを信じていました。
パニックというのは人間が成長すれば発生しないと思いませんか?
石油危機のときトイレットペーパーがなくなったけれど、2000年問題のときはそうならなかった。
90年代のバブル崩壊、いやその前のバブル経済のようなことは二度と起きないだろうと思いました。
でも、それはやはり妄想だったようです。
あきらかに日本人はここ30年間政治的に成長していません。
ジャーナリズムの扇動に感情的になりキャスターの思惑通りに動くだけです。そして時代とともに右往左往するのが増幅されてきたように感じます。
ねずみ講にだまされて、豊田事件にだまされて、振り込め詐欺にだまされる。
そういったことに関しても、全然進歩していません。
以前あれはなんだったのだろう?なんて駄文を書いたが、反省して今後のいき方に反映するということができないのでしょうか?
日本人は学ぶということを忘れてしまったのだろうか?

休日出勤の電車の中でピコピコとゲーム機をしている若い会社員をみて、つくづく日本人も劣化してきたと思ってしまった。

勉強しろ!活字を読め!考えろ!
ゲーム機でもTOEICの勉強なら許す!




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