力量の謎 2 2006.06.02
私は現場上がりである。私の社会人としての人生は現場作業者ではじまり、後に現場監督者になった。今は更に転進(変身?)した。
oldman1.gif 中間管理職という表現があるが、私はその下の監督者であった。アメリカではフォアマンforman、これまた揶揄されてフォゴットンマンforgotten manと呼ばれることもあるそうだ。
管理者と監督者は何が違うのかといえば、作業者を直接使うか、間接的に使うかの違いであり、部下が100人いようと200人いようと監督者は監督者、部下がひとりであろうと管理者は管理者である。監督者と管理者の仕事は量でなく質が違う。 監督者の仕事は物を作ることではなく人を動かし物を作らせることである。これは己の技量が良いだけではできない。人の使い方の能力が問われる。
製造業では一般に仕事を「人工(にんく)」という単位で計る。一人が一日働く仕事量あるいは負荷が1人工である。300人工というと、ひとりなら300日、10人なら30日、30人なら10日働けばできあがるという意味である。
じゃあ30,000人なら5分でできるのか?なんて突っ込まれても、そんな極端なことを言っても意味がありませんよ。 
現実の会社で、作業者が10人いて1個当たり0.5時間の製品なら、10人×8時間÷0.5=160個を一日に生産しなければならないというのが管理である。
これはまっとうのように見えるが実は尋常なことではない。
まずどんな人でもこの計算が成り立つわけではなく、一定の基準を満たす人でなければこの算式は成り立たない。全員がベテラン作業者ならこのとおりであるが、今日採用した人ばかりなら仕事が進むわけはない。しかし、世の中は甘くはない。頭数がそろえばそれだけの出来高を要求するのは世の習い、管理者は監督者に「お前に何人預けているんだから、一日に何台作らないとアカン」と難題をいうのも世の習いである。
多くの企業はこういう管理をしているし、投入するリソースすなわち費用に見合ったアウトプットを要求するのは当然である。またよりきめ細かい管理方法も簡単に提案できるとも思えない。
まあ、私はそんな仕事をしていたのである。そんなときに
出来高=人員×在場時間
ではない、
出来高=人員×在場時間×人の能力
だと考えたのも当然である。
しかしそんな理論を考えても現場で生産に追われる監督者にとっては意味のないことであり、部下の能力に合わせて仕事の重い軽いを調整して割り当て、最後には自分が直接作業をして埋め合わせなければならないのであった。

話は変わる。
私は怠け者を自称しているが、ほんとうは結構働き者である。まず休日の半分は出勤している。毎日残業もしている。毎月の時間外は80時間以上にはなるだろう。休暇をとるのは年に片手か多くても両手はない。
昔は風呂敷残業という言葉があり、会社で仕事をするのではなく風呂敷に書類を包んで自宅で仕事をすることを言った。しかし現在では情報管理の観点からもまた仕事がパソコンを使いネットワークに支えられないとできなくなったこともあり、自宅では仕事ができなくなった。
風呂敷という言葉自体、予算の復活折衝のさいに霞ヶ関の役人が書類を包む以外に見かけない現在では死語である。
ところで私は労働基準法でいうところの管理者であり時間外手当はつかない。では「なぜ無給でも働くのか?」という形而上(?)哲学的(!)質問に答えることは困難であるが、簡単に言えば働くのが好き、あるいはDNAに組み込まれているということだろう。
間違ってもこの仕事を失いたくないという失業への恐怖とか、己の仕事に対する責任感とか、将来出世しようという欲得ではない。だいたい定年間近な私が昇進するはずがない。 
また、家にいると家内がうるさいということではない。実は家内も働いており、家内が家にいないと私が独りで家にいるのがつまらないのである。
私自身の仕事のアウトプットは次の式で表せれると考えている。
成果=在場時間×熱意×能力
もちろん当たり前だが、私以外のすべての人にもこの式は適用できると思う。管理者も働く当人もこの算式を飲み込んで仕事を指示し進めないといけない。
在場時間というのは時計ではかれるものであり、具体的、客観的なものだ。
問題は熱意と能力である。
能力という言葉を今まで使った。ISOでは力量なんていう言葉が出てくる。能力と力量は何がどう違うのかなんてことはおいといて、これからは力量という言葉に切り替えよう。
個人の仕事の成果というのは
成果=在場時間×熱意×力量(式1)
において、成果をあげるためには熱意と個人の力量向上にあることは明白である。


なぜなら在場時間には上限があるし、熱意と力量の向上の余地と難易度から考えて、在場時間を増加させることは効率が悪いことは明らかである。たとえば部下を教え諭し鍛えれば力量の3割アップくらいすぐできるだろう。あるいは誉めおだて上げちょっと赤提灯で飲ませれば熱意が5割増しくらいするかもしれない。だが在場時間を3割アップとか5割アップなど物理的に不可能である。
さて職場単位あるいは会社の成果は単純に各個人の成果のシグマではない。それこそ管理の仕組み(マネジメントシステム)、と管理の良し悪しが関わってくる。
組織の成果=システム×管理×Σ個人の出来高(式2)
となる。
より正しく言えば単純な掛け算ではなく
組織の成果=f (システム,管理,Σ個人の成果)
となるのだろうが、まあそれはこのさいどうでも良い。
これに前の(式1)を代入すると
組織の成果=システム×管理×Σ(在場時間×熱意×力量)(式3)
となる。

実はこれからが本題である。
ISO14001規格はマネジメントシステムの規格である。マネジメントシステムの規格にはISO9001その他あるが、最近私は14001に入り浸っているので14001に限定して話を進める。
ISO14001規格の4.4.2で「すべての人が力量を持つことを確実にする」と断定している。そしてまたISOの世界では手順(ルール)を決めたら実施するのは当然のことである。規格をお読みになると分かるが手順を定めよという文言と手順を守っているかを監視せよという文言は多々あるが、手順を守れというひとつも文言はない。
さて、式3
組織の成果=システム×管理×Σ(在場時間×熱意×力量)
において、この規格で定めていることを反映すると
さてISO14001規格が実現されたなら(ISO認証している組織はすべて実現しているはずだ)
・システムは完璧
・管理は完璧
・個人のスキルも完璧

規格で言及していないのは熱意と在場だけではないか?
仮に熱意と在場を定数とすると、ISO規格はパフォーマンスを保証できることになる。
現実にはシステム規格はパフォーマンスを保証できないことは確実であるし、ISO14001の序文においてもパフォーマンスを保証しないことを明言している。
その差額はどこから来るのか?

しかし待てよ?
よく考えてみると4.4.2力量において「すべての人が力量を持つことを確実にする」なんて要求すること自体おかしいんじゃないだろうか?
いやおかしいのではなく、そんな要求はマネジメントシステム規格の範囲を超えているのである。
quest.gif マネジメントシステム規格の身のほどを知るのであれば「すべての人が力量を持つことのできる仕組みを作ること」とか「すべての人の力量に関する記録を保持する」くらいしか要求することができないのではないか?
立ち止まって考えれば「すべての人が力量を持つことを確実にする」なんてことが、できないことは確実である。
日本でISO14001を認証している組織が2万あるそうだ。賭けても良いがこの組織において「すべての人が力量を持つことを確実にしていない」ことは間違いない。だって環境に関する違反があり事故がこれだけ報道されているのだから、
 よってQED

そもそも審査機関にしても力量ある審査員を割り当てなければならない(ガイド66 4.2)のだが、現実に審査機関に対する異議申し立てがあり、それどころか審査機関の認定停止とか認定取り消しが毎年あるのだから、審査機関においてすら力量が確保されていないことは確実である。
そのような審査機関によって審査登録している組織が、ISO14001規格を満たしていると考えるのは論理的でなく、満たしていないと推定するのが妥当であろう。
規格の文言を完全に満たすならば組織はパフォーマンスを達成するし、パフォーマンスを達成できないなら規格を満たしているはずがない。
だが、そんな論理は明らかにおかしい。
遡って
組織の成果は管理システムと固有技術で成し遂げられるのは過去より明らかである。
・・・ISO9001だってそう明言している。

システム規格は組織のマネジメントシステムが具備すべき要件を示しているだけであり、その組織が保有する固有技術や管理者の能力を要求していない。
マネジメントシステム規格において固有技術や管理者の能力まで要求することができるはずがなく、そのように読み取られるおそれのある文章はやはりおかしい。 



本日の問題提起

マネジメントシステム規格はパフォーマンスを保証しているのか?



本日の結論

マネジメントシステム規格で力量を持つことを確実にすると要求しているのは間違いである
間違いでなければ、言いすぎであろう。


この文章を読んでわけのわからない方は力量の謎をご一読ください。




あらま様からお便りを頂きました(06.06.02)
「力量」についてのご高察。勉強になります。
人物の評価は難しいものですね。それによって、その人の人生が大きく変る事も考えられますから・・・。過大評価でもなく、過少評価でもなく、適正評価をする「基準」とは一体なんであろうかと、考え込んでしまう事があります。
ところで、佐為さまの文章を拝読しておりますと、かつての英語の先生の言葉を思い出します。
それは、「労働者」の英訳に「worker」「Labor」とありますが、その言葉の意味の違いとして、「workerは、自ら進んで仕事をする人。Laborは、与えられた仕事をするひと。」という説明をしてくださいました。
つまり、「workerは能動的、片やLaborは受動的」と、いうことでありましょう。
しかし、そのあとの例えが悪かった。「つまり、workerは、男性的で、仕事に一生を捧げる人。その仕事によって自己実現を図る人。いっぽうのLaborは、女性的で、やがて家庭にこもってしまう。隷属的で、主人の言う事を聞いていればよい人。」と言われたのです。
当時は、先生の言う事は全て正しく、また、男女を見る社会風潮もそんなでありましたから、その説明には疑いを持ちませんでしたが、今、そんな説明をしたらボコボコでありましょう。

昔、私が若かったとき、人の価値はみな同じだと信じておりました。
そして価値だけでなく能力も同じだと信じていました。勉強ができるできないとか会社での能力に差があっても、他の部分で才能があり、合計すると人間みな平等と思っていたのです。
でも人間を長くしていると人の能力には差があるのだと確信しました。これって差別ではなく事実だと思います。
そして私自身たいして能力はないことを学んできました。
教育ママとかジェンダーフリーの方とか、この事実を良くかみしめるべきです。
上野千鶴子とか田嶋陽子がいちゃもんをつけてくるかもしれませんが、彼女たちは人より能力があるということを認識しないと世の中を動かせないでしょうね。
それを自覚していながら口に出さないでいるなら卑怯というものでしょう。
人間の能力には差があることをみなが認識して、それぞれのできる範囲で社会に貢献することが人間のあるべき姿ではないかと思うのです。
おっと価値は同じだと再度申し上げておきます。
人権団体から苦情が来る前に 




KK様からお便りを頂きました(06.06.04)
こんにちわ。
成果=在場時間×熱意×能力
というのは判るのですが私は少し追加して考えています。
 熱意=本人の意識+本人の文化
でしょうか。つまり、
 成果=在場時間×能力×意識×効率×文化
効率というのは判りやすいと思います。職場を見ていればわかるとうり、員数が揃っているからと言って全員がフル稼働しているわけではない。高度な作業ほど、分担が難しく、遊休が発生しやすいわけです。忙しい人はとことん忙しく、暇な人は暇。では暇な人は忙しい人を手伝えるかというと手伝えないわけです。
これは小説を考えればわかりやすいですね。典型的な個人作業であり、分担できないわけです。仕事には分担の簡単なところと難しいところがあるということです。
文化で、はてと思われるでしょう。
実話を紹介しましょう。
某社の某人物が3ヶ月かけてある製品を開発しました。
つまり3人月で開発したわけです。
これを相当品を作って欲しいと別の会社に見積もりを依頼したところ、25人月という見積もりが返ってきました。
実に8倍の差がでてきたわけです。
人間の能力差が8倍あっただけだというのが一番簡単な回答です。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
これは推測なのですがこういうことが実際に起きたのではないでしょうか。
3人月の会社:
1)徹底的な合理化がなされており、過去社内で一度でも開発された技術は部品化され再利用できるようになっていた。
2)公共に公開された技術も部品化されており、大学、技術書籍で紹介された技術も部品化され再利用できるようになっていた。
3)この結果、可能な限り作業量が圧縮されており作業の大半が過去の技術の再利用で済ましていた。結合整理と足りないところが新規開発で合計3ヶ月で済んでいた。

25人月の会社:
1)社内技術の再利用体制は存在したかもしれない。
2)しかし、一から全部あたらしく設計したら25人月になった。

こう考えると、その企業、いやひょっとしたらその社会の文化の蓄積というものが人月計算に影響を与えているのではないのか。
文化というのは一子相伝の漆塗りの技法とかを連想します。
あれは特殊ですが、大事なことは先輩の技術が後輩に蓄積されるということではないかと思えるのです。
日本と言う社会に蓄積した技術を再利用する。こういう思想はやはり文化の域に達しているのではないかと思う次第です。
そう考えると、やはり、文化の力がその社会の生産力に影響を与えているのではないかと思い至るわけです。

KK様 毎度ありがとうございます。
正直なことをいって業種により、仕事の質、レベルによって算式(?)はいろいろあると思います。
私が言いかけましたのは単純な現場作業でして、ソフトウェアなどになれば、ひらめきとか個人的資質というものが大きなウェイトを占めると思います。
そのときは算式の「能力」はむしろ「才能」とすべきかもしれません。
まあ、なにごともたとえ話ですからそう深く検討するようなテーマではございません。

ただ、小説が個人的作業で分業できないか? といえば決してそんなことはないでしょう。
有名なデュマの小説工房ってのもありますからストーリーと文体を決めて分担することは決して難しくないと思います。
piano.gif 昔、ピアノが大好きな友人がいまして彼が語ったのです。「そのうち電子楽器が広まって演奏するのは人でなく電子回路になるかもしれない。しかしそのとき個人的演奏の才能が不要になるとは思わない。演奏のプログラムを作るときのさまざまな変数をコントロールすることにその個性を示すことができるだろう。」
1960年代末のこと、彼ももう還暦を過ぎ60代半ばのはずです。
まさに至言であると今感じております。


KK様からお便りを頂きました(06.06.07)
こんにちわ。

私が言いかけましたのは単純な現場作業でして、ソフトウェアなどになれば、ひらめきとこか個人的資質というものが大きなウェイトを占めると思います

良く判ります。もともとの人月計算と言うのは、一人の人間がバケツを何杯汲めるか。。。という機械的なところが根拠だったのだと思います。

そのときは算式の「能力」はむしろ「才能」とすべきかもしれません。
まあ、なにごともたとえ話ですからそう深く検討するようなテーマではございません。
ただ、小説が個人的作業で分業できないか?といえば決してそんなことはないでしょう。
有名なデュマの小説工房ってのもありますからストーリーと文体を決めて分担することは決して難しくないと思います。


ああ、これは初耳です。私の見解の中で小説が一番分担に向かないと思っています。
仲間内での笑い話なのですが、1人の仕事を4人で行うと、作業が4倍になる。というのがあります。
実に簡単な話で、ベテランは頭の中に直感的に設計図が出来上がっていて、そう一人前の船大工は図面をみない、、、(見ると馬鹿にされる)、、、、
一人であれば、ただ作るだけ、、、これを3人に作業分担しようとすると、仕様書を3人分起さなくてはいけない。結果、返って遅くなるというものでした。

昔、ピアノが大好きな友人がいまして彼が語ったのです。「そのうち電子楽器が広まって演奏するのは人でなく電子機器になるかもしれない。しかしそのとき個人的演奏の才能が不要になるとは思わない。演奏のプログラムを作るときのさまざまな変数をコントロールすることにその個性を示すことができるだろう。」
60年代末のこと、彼はもう60代半ばのはずです。


これは本当にそうですね。音符を頭の中でイメージ化(将棋指しが頭の中に将棋盤をもつように)一流の音楽家は、それができるのでしょう。
ただし、生まれついての才能以上に、長年にわたる修練の中で体得していったものだと思います。
それがいまは、機器が自動合成出力しているので頭の中でイメージ化しなくても作業できるようになりました。。。隔世の感があります。

KK様 毎度のご指導ありがとうございます。
仕事は労力だけでなく、才能と意欲というものがなければ決して進みません。
マルクスはそのへんに考えが及ばなかったようです。
あるいは彼の支持者がそのような人間の価値を認めることを拒否した社会を作ったのでしょうか?
いずれにしても自由主義社会とは個人の価値に重きを置いている社会だと思います。
勝ち組・負け組み、格差社会といってもその分岐は個人の才能に起因すると思います。
ホリエモンも村上さんも常人以上の才能があり、努力したのは間違いない。ビルゲイツを悪く言う人もいるし、国内外の財閥を悪だという人もいる。でも岩崎弥太郎は私以上の才能があり努力したことは間違いないし、彼の築いた財閥を批判するすべての人よりも苦労したことも間違いないと思います。
そういう個人の価値を否定することは、民主主義とは異なる悪平等社会・・・すなわち社会主義であろうと私は思います。
KK様からお便りを頂きました(06.06.10)
佐為さん、こんにちわ。

仕事は労力だけでなく、才能と意欲というものがなければ決して進みません。
マルクスはそのへんに考えが及ばなかったようです。
あるいは彼の支持者がそのような人間の価値を認めることを拒否した社会を作ったのでしょうか?


これは歴史の皮肉なのですが、フランス革命には多くの貴族の参加者があったと聞きます。
また、マルクスは生涯ほとんど労働をしなかったと言います。最初は貴族の娘であった細君の持参金で、それがつきるとエンゲルスからの資金援助で生活したと言います。。。非常識なアンバランスな個性が、アンバランスな発想を社会に投げるのかもしれません。
エンゲルスは資本家であったと思うのですが、父親の経営する会社にマルクスを紹介しているとのことですから、叩き上げではなく、江戸時代の丁稚小僧であれば誰でも理解できる社会の裏表への洞察が欠落していたのではないかと推理します。

いずれにしても自由主義社会とは個人の価値に重きを置いている社会だと思います。
勝ち組・負け組み、格差社会といってもその分岐は個人の才能に起因すると思います。
ホリエモンも村上さんも常人以上の才能があり、努力したのは間違いない。ビルゲイツを悪く言う人もいるし、国内外の財閥を悪だという人もいる。でも岩崎弥太郎は私以上の才能があり努力したことは間違いないし、彼の築いた財閥を批判するすべての人よりも苦労したことも間違いないと思います。
そういう個人の価値を否定することは、民主主義とは異なる悪平等社会・・・すなわち社会主義であろうと私は思います。


基本的に同じ印象です。
私はビル・ゲイツへの思い入れが多く、私は彼に対して錯綜した感情を持ちます。
1)才能を認められる恵まれる環境にあり、彼自身も努力した。
2)ただし、人間社会の裏表への洞察にかけ、結局、自分自身との戦いに負け、不正行為により既得権を得ようとし、独占禁止法で有罪を受けた。
※ビジネスとしては成功したように見えますが、MSの作品は彼が不正行為を始めた時から、品質が低下しています。
そりゃあ、そうです。独占禁止法を違反した不正行為をして競合他社を排除するわけですから、モノ作りをしなくても売れる。結果、品質は惨憺たるものです。
3)ビジネスというのは、ある一定の水準に到達すると自分との戦いになるのです。
ビル・ゲイツにせよホリエモンにせよ、第2ラウンド、つまり、第二、第三に出現する自分と良く似た競争相手との無限闘争に入るわけです。それが、自分自身の技術の向上にも繋がるわけです。不正のあるところには停滞しかないわけです。
才能と努力、第一次の収穫期、ここまではみんなうまく言っている。ただ、そのあと成功を維持するためにクリアしなくてはいけない、精神的な戦いに負けたと私は思っていますね。
ホリエモンが端的です。8000万円の赤字を50億の黒字と偽り金を集めたわけです。
その結果、IT系の他の、赤字で頑張っている企業の努力を圧迫したわけです。そのあたりが犯罪の犯罪たるゆえんなのですが、、、、まあ、多くの人はこのあたりに注意はいっていないと思います。
いまも、私のまわりには若く、才能もあり、努力している人がいますが、収入の面でみんな苦労しています。同じ苦労をしている後輩を踏みつけるような行為を見ると非難せざろうえない。。。
何より、何かとズルをしたがるボンクラに示しがつかない(笑)。
ではでは。





力量の謎 3 2009.05.24
ISO規格はQMSでもEMSでも従事者の力量を求めている。だから審査では「力量を持つことを確実にした記録はありますか?」なんて質問する。そして組織側はあらかじめ用意していた資料(たぶん実務とは全然関係ないものだろう)を持ち出して「このように力量を確認しています」なんて応えて、審査員は「大変結構です」とこれまた勧進帳を読んでいるのである。
勧進帳とは昔々、義経一行が頼朝から逃げる際に検問でひっかかった時、弁慶が焼失した東大寺再建のための勧進を行っているといい、白紙の巻物を持って勧進(寄付)した人の名前を読むふりをした。それから何も書いてないものをさも書いてあるように読むふりをすることを「勧進帳を読む」というようになった。
真面目に考えれば「力量を持つことを確実にした記録はありますか?」という質問に答えることは仏様でも不可能だろう。いや仏様だからこそ不可能なはずだ。仏陀は人に誘われたときにこやかに笑って諾否を答えなかったと聞く。未来は予測できないから約束をたがえる可能性があるからだ。そして神ならぬ我々は当たり前だが神仏に誓ってそのようなことが言えるはずがない。
あっ!と気がついたことがある。
ISO9001もISO14001もイスラム世界でも認証が行われている
イスラム世界で「力量を持つことを確実にした記録はありますか?」という質問をして、はたして回答が得られるのだろうか?
「インシャラー(神の思し召しがあるなら)」という回答がくるのだろうか?
もし「確実です」と答えたり、あるいはその証拠を提示したら、敬虔なモスリムではないに違いない。想像だが、かの地では多分婉曲話法で応え、それを是としているに違いない。
彼らなりの勧進帳を読んでいるのだろう 

JABの定めによると、認証機関は審査員の力量を確実にした記録を保管していなければならない。(参照:JAB RE300-2006 G.4.2.3/4.2.5)
これが完全に満たされているとすれば、世のおかしな審査はありえないことになる。なぜなら「力量とは実証された個人的資質、並びに知識及び技能を適用するための実証された能力(ISO9000 3.9.14)」だから。おかしな審査、間違った審査をしたならば、それは力量がないことを実証する証拠となる。力量のある審査員はすべからく間違った審査をしないはずだ。

しかし現実にはわけのわからない判定もあるし、日本語と思えない審査報告書も多々あるということは、この要求事項が満たされていないということの証拠である。
己の力量を持つことを確実にした記録があっても、力量がないことが発覚したならその証拠はむなしい。
「審査員は神じゃない、人間だから間違いはあるよ」という声もあるだろう。
であれば企業において間違い、ルール違反、仕事を達成できなくても力量不足ではないとしなければならない。私の知る限り、あまたのおかしな審査があるが審査員の力量不足となったケースを寡聞にして知らない。

私はこの項番の意図を逆に読む。
力量のない人をいかに使いこなすかがマネジメントであるという解釈である。言いかえれば使う人間の力量に見合った仕事を与えることだ。そんなこと不可能だという前に、あなたが新人を与えられてどうするかを考えてみればわかる。「入ったばかりで分かるはずないから使い物にならないよね。」そんなことを言っているようではあなたの力量が疑われる。
有名な豊臣秀吉の槍試合の話がある。
信長から命じられた秀吉と槍奉行の上島主水は双方50名ずつの足軽を与えられ槍の戦いをすることになった。
上島は一人一人に槍の技を教えた。
他方、秀吉は50人を3つの班にわけ、最前列の班は槍をふって相手の足を払い、二段目の班は槍で頭を叩かせ、三段目の班には突きをするように訓練した。
試合の結果は秀吉は圧勝した。個人の力でなく組織力で戦った成果だという人もいるが、私はちょっと違うと思う。相手の力量をみて、最善の方法を選んだという管理能力の勝利だろう。もし足軽がみな槍の使い手であったなら、秀吉はさらに高度な戦術を考えたに違いない。あるいは現状より能力がなかったら、全員一丸となって突き進むとかそれなりの戦法を考えたに違いない。
要するに力量があるとかないとかというのは、与えたタスクに対する実行能力のことだ。
考えてみたまえ
一般の企業で一定の仕事に力量を持ったとみなされる人間をあてがうことは不可能に近い。もちろんパイロットとか資格を要する業務には有資格者をあてるだろうが、有資格者が実際に仕事を遂行する力量とイコールではないことも明らかだ。
審査で見習いがオブザーバーできたことがあるが、ニコニコするばかりでニコニコ動画のような動きさえなかった。
会社では人を見て仕事をかみ砕いたり、分割したり、あるいは管理監督のもとに従事させるのが普通だ。そうでないと管理者が首をつることになる。(本当だ)

本日は何を言いたいの? と聞かれそうだ。
某所で「力量を持つことを確実にした記録はありますか?」と聞かれたときに備えて多量の記録を製造!しているのを見て、あきれながらも、その担当者の気持ちが痛いほどわかった。そして何とかせにゃならんなと思うのだった。

本日の提言
力量を確実にした記録なんて当社にはありません。力量に見合った仕事を与え常時それをレベルアップするようにしております。
と言いなさい。



外資社員様からお便りを頂きました(09.05.25)
力量のなぞ によせて
佐為さま
「力量を確実にした記録」が何を意味するか不明ですし、会社によって違うと思いますが、力量の記録とは「人事記録」(または個別の目標管理の記録)ではないでしょうか。多分、私が審査でそのような記録を求められた目標管理の記録を、ちらりと見せるか、「記録はありますが守秘資料なので、社外の人には開示できない」と答えると思います。(笑)
今の会社は外資のせいか、年4回 人事評価の面談があり、年度末にその集計で、ボーナスと翌年の年棒がきまります。ですから面談を受ける方も、評価する方も大変ですし、そこでは目標設定と達成状況の確認が何度も行われますし、不満があれば直属上長を飛び越えて社長の裁定を受けることも可能です。力量を業務を遂行できる能力とすれば、人事記録は適切と思いますし、力量を図るには、個々の目標(やるべき仕事と達成度)が明確である必要があります。 ですから、力量の記録を言う前に、本来は適切な目標設定があるべきな気がします。
転じて、知人の会社に来る社労士が、事務所のオーナ(その人も当然 社労士)が、残業代を払ってくれないとこぼしていたそうです。これなどは、他人の会社の審査は指導はやるが、自分の会社が出来ていない例ですね。
ですから、審査会社に聞かれたら、「御社の記録はどのように取っているのか教えてください」と指導を仰いだら如何でしょうか。(笑)

外資社員様 毎度ありがとうございます。
力量の記録とは「人事記録」(または個別の目標管理の記録)ではないでしょうか
そうも言えるかもしれませんが、規格でいっているのは「業務に就ける時にその能力を持っていることを確実にした記録」ですから、ちょっとニュアンスが違うようです。
おっと、私も外資社員様に同意なのですが、「これは違いますよ」といわれる可能性もあるということです。
認証機関にどのようにしているかと聞いてもまっとうな答えが来るとは思えません。認証機関なんて言ってもみな中小企業でして、社員が数十人規模ではまっとうな社内規則がそろっているはずがありません。人事考課も大企業レベルとは異なるでしょう。
育成システムなんて考えてもいないと思いますよ(確信あり)


外資社員様からお便りを頂きました(09.06.04)
力量のなぞによせて 続編
台湾に出張して、現地企業でISO1400シリーズをとった会社の担当と話したのでそのネタです。
力量に関する日本文も、英文の記述も判りにくいのですが、その担当者は「教育の記録」または「業務を遂行できることを客観的に証明できる記録」と解釈していましたし、現地の認証会社もそのように明言していたとのことでした。
「なんで当然のことを聞くの?」と聞かれたので、カクカクシカジカと言うと、それは「八股(パークー)」だねと断定されました。
八股文は、本来 高名な中国の高級官僚試験;科挙で用いられた特殊文体で、山のようにきまりがあって、それに基づいて記載されないとダメなのです。
こうした採点基準が、どのような人を作り上げるかは想像するのが容易です。
八股とは、そこから転じて、内容や実質よりも、形式を重んじることへの非難の言葉、日本で言えば「形式主義」に近いでしょうか。
八股のように過去の歴史を踏まえるならば、日本では「員数」という言葉がふさわしいかもしれません。
員数主義は帝国陸海軍が惨敗した原因の一つでもあり、現在の景気対策でも「*兆円の投資」という数字が重要で、それが効果的な使い方なのか、真に必要な部分へまわっているかは二の次で、天下り団体が潤おうがそれは別のお話という点では、今もあまり変わっていないのかもしれません。

外資社員様 毎度ありがとうございます。
ISO14001の目的はなにか?なんて考えることはありません。
遵法と汚染の防止です。
しかし・・それをそう読まない審査員がいて、そういった審査員が行う審査でも合格するためには・・という風が吹けば桶屋理論というのがありまして(ウソ)世の中の人は「パークー戦術」を採用せざるを得ないのです。
ところでそういう審査は日本だけではないようです。
ヨーロッパに駐在している人から聞いたのですが、イタリアとかスペインでは審査の際にコンサルタントが不適合じゃないと説明したり不適合でなくするために交渉したりしているそうです。
もちろん一部の事例を全部とは言えませんが、世界中で「パークー戦術」はもてはやされているようです。

教育訓練の謎 2012.06.11
muguh様からお便りを頂きました(2012.06.11)
審査での指摘(教育訓練)
こんにちは。
うそ800いつも楽しく拝読させていただいております。

先日、定期審査(ISO9001)があり、審査員があーだこーだと指摘を残してゆきました。

その中に、品質目標を達成するための教育訓練が必要である(6.2.2)というあいまいな報告書を残してゆきました。
※6.2.2はa)〜e)までありますが、報告書では6.2.2としかなく何の指摘か不明

質問ですが、品質目標を達成するための教育訓練なんて規格で要求されているのでしょうか?

審査中は、ISO9004の話まで持ち出され、審査員が何を言っているのかわけが分からず、ボーゼンとしてましたが、今になって考えると可笑しな指摘ではないかと疑問はぬぐえません。

どうか御教授くださいませ。
よろしくお願いいたします。

muguh様 お便りありがとうございます。
実を申しまして、私がISO9001なんてのを取り扱っていたのは2000年頃まで、既に忘却の彼方でございます。
とはいえ、ご依頼を受けたからにはなんとかせねばと・・・ISO9001対訳本を引っ張り出して読み直しました。

ISO9001:2008で教育・訓練という語は、以下の項目で使われています。
6.2.1 一般
製品要求事項への適合に影響がある仕事に従事する要員は、適切な教育、訓練、技能及び経験を判断の根拠として力量がなければならない。
6.2.2 力量、教育・訓練
組織は、次の事項を実施しなければならない。
a)略
b)該当する場合には(必要な力量が不足している場合には)、その必要な力量に到達することができるように教育・訓練を行うか、又は他の処置をとる。
c)教育・訓練又は他の処置の有効性を評価する。
d)略
e)教育、訓練、技能及び経験について該当する記録を維持する。


審査員に提起されたのは6.2.2とのことですから、そもそも「教育訓練が必要である」という不適合(?)もしくはご指示(?)が演繹されるはずはありません。
指摘というならば、規格の文言があって、最後に「・・をしていない」とか「・・の証拠がなかった」という記述になります。
もし御社に不具合があったとして、6.2.2で不適合にするためには
「品質目標を達成する意識づけあるいは力量に不足があり、必要な力量に到達するための教育・訓練あるいは他の処置がとられていない」となるでしょう。
いずれにしても、教育訓練は目的を果たすための一例、一手段ですから、「教育訓練が必要」という不適合はありえません。
規格にないことを書いても「そりゃ審査員さん味噌汁で顔を洗って出直して・・」と言われるのがオチというものでしょう。
ということで白状しますが、私もmuguh様同様に、審査員が何を言っているのかわけが分からず、ボーゼンとしております。
    対応策ですが、
  1. 当たり障りのないように「品質目標を達成するための教育訓練を行うとともに、会社の手順書に反映します」と書いて、なにもしない。
  2. 認証機関に対して「所見報告書をいただいたが、何が問題かわからないので説明をお願いする」と申し入れる。
  3. 認定機関(JAB)に対して、「わけわかんねーから認証機関を指導せいや」と申し入れる。
    但し、JABは基本的に認証機関と話が付かない場合だけ受け付けると思います。
  4. どうせ審査員がアホなんだから、いいかげんに回答しておけやと部下にあしらわせる。
  5. 審査員に「会社にきて説明せい」と怒鳴りつける。
  6. 認証機関を切り替えると連絡して、審査員がわけわかんねーことを書いていったと事情を説明する。
さあて、どうしたものか・・・
認証機関に訪問する際にご同行してもよろしいですが・・

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