卵が先か鶏が先か 2007.03.17

以前も同じタイトルの卵が先か鶏が先かなんて駄文を書いた。
あれから三年経つ。少しは進歩したか? なんて期待する方がいらっしゃるかもしれないが、残念ながらおばQには進歩がなく、本日も駄文であることに変わりはない。ただし中身が少し、いや大きく違う。

ISO9001やISO14001なんて今や常識、どこでもISO認証してますなんて看板を見かけるし、いただく名刺にはロゴマークが刷り込んであるのが普通で珍しくともなんともない。それどころか、認証していない会社が珍しいほどになった。なにしろ最近はグリーン認定なんていって、EMSが構築されていない会社とは取引しませんなんて無茶を言う会社も増えつつある。
無茶と言っても言い過ぎではなさそうだ。認証を強制すると独占禁止法違反になるらしい。
当然、ISO規格を知っている方も、珍しくともなんともない。ISO規格が広まったためかどうか、21世紀の現在、ISOシステム構築講習とか審査員研修コースなんて閑古鳥が鳴いているらしい。
らしい、というのは実はここ数年そういったものに参加したことがないからである。
聞くところによると、審査員研修機関は受講者が集まらず青息吐息だそうだ。インターネットや雑誌の講習会の案内(公告)を見ても10年前、5年前の活況はうかがえない。まず開催回数ががた減りである。審査員コースは20人以下という決まりがあるらしいが、私が97年頃受講したときは20名フルにいた。最近受講した方に聞くと10名程度であったそうだ。場所代、講師料は固定だろうから損益は厳しくなっているだろう。

まあ、少子化の時代だからそれもやむを得ないか・・・冗談です。少子化とは関係ありません。
それを挽回するためか、ビジネス拡大のためか、ISMSやその他ドンドンあたらしい規格を作り第三者認証をしますと言っても、それで飯を食っていこうという一部の業界人を除き、もう一般人は講習会を受けるのに、精も根もお金も尽きて果てているのではないか。
誤解を恐れずに言えば、ISMSなんてISO9001にちょちょっと要求事項を追加すれば、新しいマネジメントシステムですなんて言うまでもなかったのではないか?
あげくのはて、それらを統合しましょうなんていうのは審査機関の金儲けとしか思えない。
ISO規格の理解が深まったことと、そしてまた、適用範囲をいい加減にしてはだめ、チェリーピッキングはだめとか、本業を取り込めというお達しもあり、どの会社、組織でも20世紀よりは 少し は真面目に取り組むようになってきたのではないかと考えている。
しかし、規格の意図というか最終目的が理解され実現され、いやそこまでは無理としても実現しようとしているかと思うと、そうではないような気がする。

私は日常、実務においても、ネットでも、いろいろな方と出会い、話し合いまた議論するのだが、そんななかで最近気になったことがある。
ISO規格のある要求事項について、「実際の会社では規格に書いてあるそのままではなく、妥協するというか読み替えないとならないこともある」ということを私が言ったのだが、それに対して「規格で書いてあるのだから、その通りしないと不適合だ」というご意見を承った。
実を言って、議論の発端となった要求事項がなんであったのか既に忘れてしまった。別にボケがはじまったのではなく、そんなことどうでもいいと考えていたのが理由である。
本当はボケたのではないか? とお疑いの方がいるかもしれないが、その真偽は別途検討しよう。
私はISO9000が日本で流行する前から関わってきた。91年頃のことだ。そのとき、ISO規格とはすごいものだと感心したが、ISO規格が究極だとか至高のものだと思ったわけではない。
美味しんぼでもあるまいし、管理手法に究極も限界もあるはずがないというのが論理的であろう。
というのにはわけがある。
私が高校を出た頃、デミング賞はまだ権威があり、デミング賞をとりましたと全国紙の1ページ公告になった時代である。受賞したほとんどの会社は、今のように教科書にセオリーとして載っている手法ではなく、それぞれが独自に管理手法、品質改善テクニックなど編み出していた。今では当たり前というか常識レベルである手法も、当時の実務における試行錯誤の上で生み出されたものも多い。魚の骨や方針管理なんてのがそうだ。私が高校を出て入った会社はデミング賞とは無縁だったが、そんな会社でもPDS(Plan Do See)というのを教えられた記憶がある。そのような今なら子供でも知っているようなことも、当時は最先端の管理手法だったのだ。といってもあれから40年経った現在でもこれらのベーシックなものを使いこなしている会社は少ないだろう。
pdca.gif
当時はPDSがデミングサークルと言われていたが、今ではPDCAになった。これをプランドーチェックアクションと読む人が多いが、プランドーチェックアクトと言わないといけません。ある講演会でISOTC委員でさえプランドーチェックアクションと言ったのでニヤリとしてしまった。
その後、小集団活動、サークル活動が盛んになり日科技連の黄金時代があった。そしてTQCとかTQMなんていう時代もあった。
そしてISOの時代が来る。
デミング賞が石器時代、TQCが青銅器時代なら、ISOの現在は鉄器時代なのだろうか? なんてボケを語っていてはいけません。 
私のような年寄りにとって、ISO規格に基づく品質保証とか品質マネジメントシステムあるいはEMS、環境マネジメントシステムというのは単に過去のいろいろな管理技法と同列であり、それらより少し遅く出現した手法というか考え方のひとつに過ぎない。ISOが絶対とか最高と受け取るわけがない。
ではなぜ私がISO規格がすばらしいと考えているかといえば、規格には当たり前のことが書いてあるから、あるいは従来の手法より包括的だという理由でしかない。
もちろん、世の中にはどうせ会社の改革をやるならと、ISO規格に書いてあることに合わせて仕組みを見直す人もいるかもしれない。
いずれにしても、まあ、そんなところだろう。
ISO規格は尊いものだ、それに書いてあることをひたすら実行しなければならないと考える人はいないだろうと書きたいところだが、現実にはいるらしい。

ISO9001でもISO14001でも要求事項のいずれの項目でも、あれをせい、これをしなければならない、それをしちゃいかんとしち面倒くさいことを羅列している。
この規格の文言を読んで、わが社はこれを満足するためにどのように手順を決めるべきか、管理すべきかと考える人はいるのだろうか?
私は何度も書いているが、従来からしていたことで規格の文言を満たしているはずだというスタンスである。
私は改善をすることに抵抗はなく、それどころか家庭でも会社でも何事においても常に改善・改革を進める男である。変化は進歩だと信じている。しかし、改善をするにあたって、現状を否定し全とっかえをするアプローチは私の趣味ではなく、できるところから少しずつ改善していくのが私のアプローチ・生き方である。私は政治的信条だけでなく、日常生活や会社の実務においても保守派なのである。
あるいはそういった生き方、価値観は政治においてだけでなく、その人の人生観としてすべてにわたってあらわれるものなのかもしれない。

話を戻す。
従来からの会社の決まりや運用・手順を規格要求に当てはめて要求事項すべてに対応が付けばよいが、どうしてもつじつまが合わないこと、足りないことがある場合どうするか?
足りない部分を補うために新たに仕事を追加するというのが普通だろう。しかし、今までの方法で問題がなかったなら、追加することは無駄である。会社の無駄は社会のコストとなる。
だから、なんとか理屈を考えて追加作業をしないということもある。
あるいはテーラリングといって規格の適用を修正することだってありえるのではないか?
実際、ISO9001:1987では序文にテーラリングすることができると明確に書いてあったのだが、第三者認証が主目的となった現在では残念ながらそのような文言はない。しかし業種によって規格の文言の読み替えはあるのだから、真に会社を良くするためにはそういった読み替えあるいは適用除外があってもおかしくない・・・と考える。
quest.gif
しかし、おかしいと思うのだが・・・
ISO9001:87年版において二者間の取引においてテーラリングを認めるとあったのに対して、2000年版においては特定顧客対応ではなく自社の経営改善のための認証においてテーラリングを認めないというのは論理的に矛盾のような気がする。

卵が先か、鶏が先か?
長年論争になっていたが、最近の研究によると卵が先だということになっているらしい。
ISO規格が先か現実が先か、いや、ISO規格が優先するのか現実が優先するのかという疑問の答えは明確である。
現実が優先することは誰もが否定できないだろう。
規格の文言を忠実に実現することよりも、会社の経営においてどうあるべきかと考えることが優先するのは間違いないと思う。規格の文言を金科玉条とすることよりも、それを実用的に常識的に理解することの方が会社に有効であり、社会に貢献すると私は考える。それこそが規格の意図を実現することだと思う。

会社の実態に合わない仕組みイコール形骸化ではないか 

ISO規格の文言を盲目的に崇め奉るのではなく、会社を良くするためにどう適用すべきかという道を歩きたい。
憲法の文言を盲目的に崇め奉っている人びともいるが、広い世界をみて現実的な憲法を考えた方が良いようにおもう。
なにせ、私は現実主義であり保守主義なのである。



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