ISO審査員への期待 2007.06.17
いえ、これは私がISO審査員に期待することを書こうってんじゃなく、アイソスって雑誌の特集記事のタイトルでして、それを読んだ感想が本日の出し物であります。

アイソスの07年7月号の特集で「ISO審査員への期待」というのがありました。
「審査員への期待」っていうんだから、一般社会とか行政機関とかもちろん審査を受ける企業などのご意見かと予想して開きますと・・・ちょっと違いました。
審査機関のエライサンや審査員が、審査員とはこうあるべきだって書いてあるのがほとんどでございました。後のほうに受査企業の期待も少しはあります。
まあ、「ISO審査員への期待」というのは英語の文法でいう句でありまして、主語と述語のある節ではありません。だから誰が期待しているかを限定していないといえばそれまででございます。
ともかく大枚1400円も払ったわけですから、活字全部を読まないと元が取れません。
私はそういう人間です。

世の中、いや家庭でも、人はすべてにわたって問題意識を持ち、改善に努めていくということが必要というか、人間のあるべき姿、スタンスであろうと私は考えている。
会社で品質が不安定なら安定させよう、安定しているならいっそう安定させよう、品質が完璧ならもっと早く安く作ろうということが経済活動であろうと思います。それは資本主義などとは関係ない、人間が動物から人間になった理由でしょう。
まして、問題が山積みしている状態であれば問題はなにか? 原因はなにか? なぜを5回繰り返せなんていわれるまでもなく必死に改善策を考えるのが企業人でございましょう。
ISO審査員なんて人種はよそ様の企業を訪ねてはいつも口をすっぱくしてそんなことを語っているようです。
私はそう語らない審査員を知りません。

ところが、今ISO審査登録制度そのものがいま傾いているようなのです。つまりISO認証した企業の不祥事多発など認証への社会の信頼が揺らいでおり、また経済的にも審査登録件数が頭打ちとなるなど行く手に雨雲が立ち込めております。
三段論法を持ち出すまでもなく、そのような状況にあれば、関係者すなわち審査員もその状況を挽回すべく原因究明と是正処置を検討し実施されているのかと思うのは、ISOに関わっているものとして当然の推論です。
ところが「ISO審査員への期待」を拝読すると・・・そのようなことから離れたのどかな雰囲気です。沈没しそうな、いや沈没しつつある船の甲板上ではいまだパーティーたけなわという感じだ。
それは沈みゆくタイタニック号での演奏とは違い、悲壮でもなく己の人生の実現といったものでもないようである。
ここに投稿された方々は、各審査機関のトップバッターとか4番打者ばかりだろう。それならとオールスターゲームを期待していたのだが・・

まず驚いたのは「お客様の考えを引き出し、相手にあった審査をしたい」というのがトップバッターであった。
ISO審査におけるお客様とは誰か?というのには諸説ある。1987年は購入者が顧客であると明確に定義されていたが、最近は審査を受ける企業であるという説もある。まあ審査を受ける企業も顧客に含めるのは認めるとしよう。
しかし、審査登録の目的というか存在意義を考えたとき、最終顧客、一般社会を忘れては困るのである。この方の文にはそういったものへの配慮、言及は一切ない。ということは審査において受査企業のことを考えて審査をしても、社会への影響などはあまり配慮されていないのだろうか?
トップバッターから、いささか、いや非常に気になったのである。
不祥事があった企業の認証を取り消すとはどういう意味だろうか?
犯罪者に刑罰を与えるのはいかなる意味かというと、みっつあり、ひとつは反省させることであり、ひとつは罰を与えることであり、ひとつは社会から隔離することであるらしい。現在ではその一番目の目的が増長して死刑をなくそうという人がいる。現実をみれば被害者救済や社会正義実現から離れていると考えているのは私だけだろうか?

さて、認証とは組織が審査基準に適合したことを社会に表明することである。だから適合していなかった場合、審査登録機関は社会に対して訂正とお詫びをする必要がある。単に罰としてその組織の認証を取り消すだけでは不十分である。審査登録機関自体の説明責任はどうなるのだろうか?

各審査機関から次から次と代表が出てくる。一人あたり2から4ページしかない。アイソスさんも各審査機関への気配りは大変である。オールスターの監督と同じように打順にも苦労したのだろう。しかし次から次と出てくる4番打者なのだが、ホームランを打ってくれない。ヒットさえない。せいぜいがエラーで出塁といったら叱られるだろうか?
みなさん審査員の力量を熱く語るのだが、審査機関の力量については冷たく語らない。
審査員の皆様は、受査企業において「事象をとらえて対策するのではなく、システムを改善するのですよ。マネジメントシステムの規格なのですからね」とご高説を語っているのであるが、ご自身の改善についてはシステムアプローチも継続的改善も無縁の職人技とか個人的才能であると考えているのだろうか?
IAFが語る、審査機関の力量改善・向上はどこにあるのだろうか?
審査員にCPDを要求するなら、審査機関にもCPDを求めるのは当然ではないか?
アッツ、すみません、この特集は「審査員に期待すること」で、「審査機関に期待すること」じゃなかったですよね 
付加価値を語る4番バッターもいる。
多くの人が付加価値を語るが、ISO審査の付加価値とは何か?
2年前、品質ISOの重鎮、加藤重信さんが「ISO審査には付加価値はない。審査そのものが付加価値なのだ」と講演されたのを私は聞いた。そしてそれにまったく同感である。
付加価値を語った審査員はISOTC委員である加藤さんを越えたのか?

「ISO審査は企業のリスク抽出とマネジメントシステムの継続的改善を促すためのものです。」
企業のリスク抽出といっても、そのリスクの範囲はQMSなら品質管理に関してのみ、EMSなら環境管理に関してのみに限定されるということを自覚すべきでしょう。
だって、EMSであっても環境経営全般についてのリスク抽出を促すことができるでしょうか?
EMSの審査とは規格に適合しているかの審査であって、環境事業を推進することが良いか、製品分野を大転換するような事業判断を含めての『リスク抽出』を促すことができると信じているのでしょうか?
たとえ審査において暗喩で示す程度としても審査員がマネジメント全般について、いえ世界情勢から日本社会の動きを把握し理解しているのでしょうか?
それほど大げさなことでなく、あなた会社法知ってますか? 会社法は騒音規制法とボリュームが違います。法令データ提供システムからプリントアウトしましたが300ページくらいありました。
労働三法知ってますか? 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独禁法)知ってますか?
私は環境監査で必要に迫られそういったものを読んでます。しかし、経営なんてことは私の知識とか経験でできるものではない、世界が違うと認識しています。

『ISO審査が継続的改善を促す』というのはそりゃ広い意味ではそうかもしれない。それが上位目的であることは否定はできない。
否定はできないが、審査員は己の仕事をそうだと確信しているのだろうか? もし確信しているなら身の程知らずといっては言いすぎだろうか?
理論的にも現実的な意味でもはなはだ疑問である。
即物的なことだけ疑問を提示する。
年にたった数日だけ訪問して、会社の各階層のわずか数人の初対面の方と話をして、その企業を理解して、更にその会社のリスク抽出とマネジメントシステムの継続的改善を促すことができるものだろうか!
企業はひとつの文化であり、生き物であり、また所属するすべての人が同じ考えであるわけがない。群盲巨象をなぜるように企業を把握し理解し改善への提言をしようなどとは・・・
私はそんなことできるのは天才だけとしか思えない。そして天才だって打率10割、防御率ゼロなんてことができるとは思えない。
過去、現在、多くの企業が傾き、斃れている競争社会において、スティーブ・ジョブズ、アイアコッカあるいはゴーンのような人物はめったにいないということ、そして彼らでさえ常に勝利しているわけではないということが私の論を立証する。
ISO審査員が経営そのものを行うわけではないにしても、『ISO審査が継続的改善を促す』とは、現実とは大いに異なる。
もちろんそれが理想であるとか、そうあったらいいなということでは同意する。

ちょっと変なことに気がつきました。
審査機関も審査員も「審査のパフォーマンス向上」をどのようにお考えなのでしょうか?
紺屋の白袴なのか、それについてはあまり語りません。
でも、ご自身の審査のパフォーマンスが向上すれば、みなそれを知りたくてご意見をしっかり承ることは間違いありません。
トヨタ生産方式を知りたくてお金を払ってトヨタの話を聞きます。リコーの環境経営の話を聞こうとします。
審査機関が審査のシステムとパフォーマンスの改善し続けていれば、そのお話を聞くために第三者認証を依頼することは・・・間違いありません。審査登録をしなくても講演会やコンサルを依頼されることは間違いありません。
審査の質向上を叫び、審査のパフォーマンス向上を何年にもわたって語っているということは、実行困難で実績が上がっていないのでしょうか?
己のパフォーマンス向上ができないものが、人様の会社に行って、経営に寄与したり、パフォーマンス向上を促進させることができるのでしょうか?
教えて、テンプ 

「ISOは全員参加だ」と語る4番バッターがいる。
全員参加っていったいどんな意味なんでしょうか?
ISOとは、ほにゃららであるでも書いたが、私は全員参加という言葉にあまりいい感じを持たない。
そりゃ会社で決めたルールには従業員が従うのはそれこそルールである。党議拘束に反する議員は除名というのは自民党に限らず鉄則。
助命懇願してもダメ 
ところでより基本的なことだが、全員参加ってISO規格のどこにあるのだろうか?
わたくし20年近く日本規格協会のISO規格を座右においてますが、いまだ読み取れず・・悟りは遠い

環境側面評価と語る人がいる。
特集記事だけでなく、「間違いだらけのISO」と檄を飛ばしている方も「環境影響評価」と書いている。
それこそが間違いだらけかも・・・
私はいくら規格を読んでも影響評価という文言にたどりつけないのだ。いったい規格のどこでそのようなことを求めているのだろうか?
ぜひ知りたい。
そして4番バッターが審査で「環境影響評価」をどのように調べているのかもぜひ知りたい。
まさか、環境影響評価していないからと不適合を出したりして? 

付加価値、気付き、いい審査、愛情・・・4番バッターたちはいろいろなキャッチフレーズやアイデアを語る。そういうものが必要なのだろうか?
私にとっては1987年の理想を実現するだけがISOの意図であろうと思うのだが・・


アイソスの最後の最後に来てすばらしい言葉に出会った。
「ISO14001を経営(本業)に生かす」とか「経営に役立つ審査」とは実にこっけいである。だって環境マネジメントシステムは環境経営のシステムなのだから。

私はこの一文で1400円を回収した。
あれ、これって公告でしたよね!?


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