都市はなぜ暑い 2007.09.02

このところ出張に出ており、東京がだいぶ暑かったという報道は見たが、幸か不幸かその暑さは実感しなかった。 実感したかったわけではない。
現在電気は空調の需要が多く、気温が上がるほど電力使用量が増す。なんでも今回のピーク時には東京電力は電力を多く使っている企業に電気の制限をお願いしたと言う。
もちろん環境保護者たちは自発的にエアコンをつけなかったに違いない。
原発を動かさないために 
出張から帰ると、家内が「先月7月の電気使用量がなんと543kWhで、私たちが結婚して以来最大なのよ」という。ちなみに電気代金は12,315円であった。
それを聞いて、正直驚きました。我が家で500kWhも電気を使うとは想像したこともありません。
伝え聞くところによりますと、地球温暖化を憂い偉大な宣教師を務めている元アメリカ副大統領のゴアさんご自宅の06年の電気使用量は221,000kWhだったそうですから、単純月割りすると18,400kWhとなり・・・あれ我が家の史上最高値の34倍か・・・となると我が家はたいして使っていないようです。
もちろん年間使用量で比較すると我が家の80倍以上になる。

私が500kWhという数字に驚いた理由というのは、
私が生まれた頃、家には電気を使うものといえば、裸電球の照明しかなかったように思う。私が子供の頃にやっとラジオを近所の電気屋に作ってもらった。当時、ラジオは買うものではなく作ってもらうものであった。それからかまどの煙が家の中に立ち込めるというので換気扇を買った。これがまた現代の換気扇ではない。当時は家庭用換気扇というものがなかったので、オヤジは工場などで使う換気扇を買ってきた。そして夏になるとこれを壁からはずして畳の上に置き、扇風機の代わりにした。金属の羽根はむき出しで危険極まりない 

話がずれていくばかりである。
当時は10アンペア契約で月の使用量は100kWhなんてなるはずがない。
やがて高校になるとテレビを買い、冷蔵庫を買い、コタツも木炭から電気になり、契約は15アンペアになり月使用量は150kWhくらいに伸びた。
私が就職したとき、職場の人が「我が家は電化製品が多いから月200kWh以上になる」と語ったのを聞いて驚いたのを覚えている。
あれから40年経ったわけだが、我が家がそれほど電気を浪費していたとは知らなんだ。
これは私個人の記憶だけではない。東京電力のウェブサイトにあった家庭での契約電力と使用電力は私の記憶にほとんど一致している。
denki1.gif
では本日は電気使用量についての考察・・ではない 
まあ、前回の地球温暖化の続きのようなものだ。

人間一人当たりの発熱量はいくらくらいだろうか?
人に限らず生物は食べ物を食べ、それを酸化分解してエネルギーを取り出すので最終的にはエネルギーは熱として放出される。人間の発熱量といっても、大人子供、男女、大きい人小柄な人と多様であるが、平均すると100Wだそうだ。
昔、寒いときに押しくらまんじゅうなんて遊びがあったが、人が密集すると人体からの熱で暑くなるのは当然である。聞いた話であるがミツバチの巣にスズメバチが侵入するとものすごい数のミツバチがスズメバチを取り囲みその体温の熱でスズメバチを殺してしまうという。
暑いときは、いくら愛しい人であっても傍にいて欲しくないというのは本当のところである。

ところで私たちは電気を使いガスを使い大量のエネルギーを使っている。それらはすべて熱になるのは自然の理。いったいどのくらいのエネルギー密度になっているのだろうか?
東京都心では1平方メートル当たり100Wになるという記事をみた記憶がある。
確認してみよう。
今年、東京電力管内で最大電力需要は6013万キロ・ワットを記録したそうです。
残念ながら都内区域ごとの電力使用量データが見つからなかった。まあ、人口比で大きな間違いはないだろうと考えて試算すると

2007年1月1日現在人口面積電力量面積あたり
東京都12,692、117人2,187km26013万kW2.75万kW/km2=27.5W/m2
23区8,578,380人621km24063万kW
人口比で推定
6.54万kW/km2=65.4W/m2
この計算では100W/m2に及ばない数値となった。しかし、23区といっても東は小岩から北は板橋、南は羽田空港まである。山の手線内を想像すると100W/m2というのは間違いでないどころか、少なめではないだろうか?150W/m2といってもおかしくないような気がする。
電気コタツというのをご存じだろうか?
ご存じですか、それはよかった 
電気コタツにも大小はありますが、平均的なもので75センチ角で600Wから700Wです。もちろん布団をかけて大人4人が、あるいは恋人二人が入るには180センチ角が必要でしょう。
とすると、平方メートルあたり180Wくらいになります。
ということは、この意味するところは、山の手線内の全面に電気コタツを敷き詰めて、温度設定を最大にしたに等しいのです。

本日の挑戦

ある高校生様、さあ、かかってこい
(ベストセラー本のタイトルでしたね)
更なるツッコミ、けたぐりをお待ちしております。




ある高校生様からお便りを頂きました(07.09.02)
うはwこいつはすいません
ええと、何か私の拙文を動機に独り言をかかせてしまったようでどうにも恥ずかしいというか何というか、私では荷が重すぎると言うか・・・
都市部が温暖化する原因。ほむ。こたつを敷き詰めたと言うのはさい様自身の計算の約3倍ほどとなっており、ちょっと言い過ぎかとも思いますが、こう見てみると人間の電気消費量は激しいと言うべきでしょう。一軒家であれば単位面積あたりの時間電気使用量はさい様家くらいが普通なのでしょうが、東京の都庁周辺、30階建ての高層ビルオフィスや千葉の京葉工業地帯の大規模な工場ともなると、単位面積あたりで凄いことになりそうです。車やガス消費や人間そのものの発熱も全部合わせれば、コタツを敷き詰めたというのもまだ甘いことなのかも知れませんね。都市部が最高気温を次々と更新することの原因は、ここにあるのでしょう。よってマスメディアの、都市部の温暖化の原因は地球温暖化が大きいなどとする話は全く見当はずれだと言えますね。
ただ、いわゆるマスメディアが無駄に強調し、私もある程度心配している地球温暖化現象と言うのは、地球内での発熱吸熱云々を問う次元の問題ではないのです。「地球外」との問題なのです。温室効果ガスのせいで地球内で発した熱が地球外に出ず、地球内にとどまると言うことがありますが、それなら系は閉じており、地底から熱が吹き出さない限り地上および大気の気温は保持されます(実際さい様の議論の根底にある人間が消費するエネルギー、化石燃料や原子力燃料を燃やすと言うことは地底からエネルギーを地上に掘り起こしていると言えるため、これも度が超えれば問題となります。都市部の高温化は、この次元でのエネルギー移動の問題と言えるでしょう)。
しかし、二酸化炭素、メタン、水蒸気を代表する温室効果ガス、と言うか、ガスは大体が温室効果を持つのですが、これらが地球をおおうと、太陽からの日射を大気中に吸収し、大気外に脱出して行く熱の量が減ります。つまり、地球の系の外から入るエネルギーは変わらないのに、外に出て行くエネルギーは減って行き、結果地球表面あるいは大気の持つエネルギー量は増えて行くのです。このエネルギー量変化の影響は、まず大気に出、次に大気との物質のやりとりが激しい海の温度を変化させ、ひいては地球全体の平均温度を上げて行くと予測されているのです。今、世界で問題とされている地球温暖化とは、都市部の温暖化とは次元の違う話であり、都市田舎を問わず地球全てに関わる問題であります。
この問題は、マスメディアが語るような都市部の温暖化程度の、そんな次元で語る話では無いはずなのです。

さい様は良く、政治と宗教についての話でマスメディアをやりこめていますが、私はふと思ったのです。どこまでが政治で、どこからが宗教なのか、ひいてはニュートンが示した科学と宗教の境目の不在とはどういう意味なのか。(ニュートンは万有引力を発見し、運動方程式を発見しましたが、同じ次元で聖書の研究をしていました。)
実は、私は発見できなかったのです。宗教と思想の境目、って言うのはなさそうなのです。同時に、この、さい様との地球温暖化の議論を通じて、仮説と常説と理論と真理の違いもわからなくなりました。仮説も、世間が認めれば常説となり、学者が認めれば理論になり、過半数が認めれば真理になるのでしょうが、常説となった説から民衆が離れれば、あるいは理論を学者が認めなくなれば、真理を過半数が認めなくなれば、仮説に戻るのではないでしょうか。
となれば、世の中には仮説しかなく、人々がそれを認めるか否かによって真理となり、理論となり、常説が作られるのです。
なんという曖昧、なんという不安定な世界。
結局私がたどり着いたのは、自分が認めるものは真理とし、認めないものは仮説にとどめようとする社会です。思えば、仮説しかないのです。地球温暖化だって、学者と世界の過半数が認める仮説に過ぎません。相対性理論だって、学者が認める真理に過ぎません。結局その仮説の集まりこそが科学であり、学問なのでしょう。
しかし、そうしたら、科学と宗教との区別が無くなってしまいました。私は混乱しています。最近まで科学と思ってやってきた学問が、国家や世界という宗教団体が提供する教義だったのです。
宗教において何が正しいかを提供するのは団体あるいはその団体の主個人です。それを、多くの民が正しいとすればその教義(仮説)を学び極める宗教は成り立ちます。
学問において何が正しいかを提供するのも団体あるいはその団体の主個人です。それを、多くの民が正しいとすればその理論(仮説)を学び極める学問は成り立ちます。
どうにも、区別が付かなくなってしまいました。違いは、民衆が何をどう正しいとするかだけです。
私にとってみれば、突然に目の前に霧がかかったようでした。さい様は、これらの区別、つまり、科学と宗教、仮説と真理の区別を、どうつけるのですか?
ある高校生様、さっそくのコメントありがとうございます。
温暖化については論点を再確認してください。そもそも、私のスタンスは都市部の気温上昇は地球温暖化と結びつけるのはおかしいということでありました。ある高校生様はいや地球温暖化と関係あるんだあ〜という主張であったと認識しております。(再読ください)
今回は、都会のエネルギーのインプットとアウトプットを比較すれば、地球温暖化を持ち出すまでもなく都市の高温化は説明できるといったまで。
温室効果ガスというのはわざわざご説明いただくまでもなく、小学校のときの宮沢賢治で学んでおります。
ある高校生様の論はどこでもみかけるロジックですが、本当かどうかは検証されたのでしょうか?
二酸化炭素より水(水蒸気)のほうが量ははるかに多く、その温室効果は二酸化炭素より大きい。じゃあ、なぜそれが問題にならないのか?というと既に飽和しているからという理屈だそうです。
ところが、二酸化炭素による温暖化効果も既に飽和しているというケンシロウのような説もあります。いずれにしろ証明はされていません。
まあ、専門的なことはここで論じても意味がありませんが、私の主張はある高校生様が否定しようとしていることは違いますのでよく確認してください。

さて宗教ですか?
宗教とは何か?宗教と科学は何が違うのか?となりますとわたしゃ知りません。
科学と魔法は何が違うか?という問いもありました。
「理屈の説明がつくものが科学、つかないものが魔法」という回答ではどうでしょうか?
リモコンでテレビをつける、遠くの人と携帯電話で話をする、その理屈を説明できれば科学、ワカンナ〜イ人にとっては魔法と同じです。
科学と宗教何が違う?というのではなく、あることを疑うことなく信じることが宗教であり、理屈で理解することが科学なのかもしれません。
そして、無条件に信じるということは決して悪いことではなく、いずれにせよ人知には限界がありますから無理に科学でゴリゴリと推し進めることはありません。
偉大な科学者ほど未知なるものを畏れ神を信じたのです。
恐れと畏れは違いますよ


ある高校生様からお便りを頂きました(07.08.03)
あれれ?
論点ずれてますかね。えと、地球温暖化は、地球全体が関わると言った時点で、都市も含まれますよね?その異常気象との関与の度合いはマスメディアが報道するほど大きいもので無いかも知れませんが、一番根底の部分で気温上昇を支えているのかも知れません、と言うのが私の話の議論です。

私は科学はかじった程度ですが、今現在の物理学の最先端、量子論は、アインシュタインが提唱した相対性理論、つまり相対性原理と光速度不変の原理から出発しています。これによって素粒子などの実験結果を説明しようというのが量子論です。この二つの原理を信じるからこそ相対性理論(仮説)は成り立ち、検証は進んで行くのです。
私は宗教もかじった程度ですが、キリスト教の原点は全知全能の神様が元のはずです。それを代弁する予言者によって、色々な日常を説明して行こうというのがキリスト教なのではないかと思っています。(思いこみかも知れませんが)神を信じるからこそ宗教は成り立ち、信仰が進んで行くのです。
論理の基礎を信じると言うことに関して、全く差はないように思いますが。

理屈と言うのもどんなものかわかりません。数学や物理では定義が必要ですが、その定義が間違っていたらその後に続く理屈にも全く説得力がありません。宗教での神の定義と、科学での原理の定義と、何か違うのでしょうか。
神は絶対である、光の速さは不変である、信じれば後の理屈はいくらでも立てられます。それは、私が生まれたころにあった定義、つまり、土地の価格は上がり続ける、や、戦争をしたころにあった日本は神々の国、や、はたまたローマは滅びない、や、ニュートンが提示した「絶対空間、絶対時間」でもそうです。今から考えれば間違いだったのは分かっても、当時では絶対の定義で、それこそ疑いもなく信じたのではなく、当時のレベルでしっかり検証されていたのでしょう。今通用する定義だって、いつ変わるのかわかりません。

定義や理屈が正しいという理由はどこから来るのでしょうか。お教え下さい。

相対性理論をかじってみたら、今やその理論が成り立たないと言うのは科学の常識のようです。なんでも、理論の根底となる光速不変の原理が、全くあてにならない設定のようで、言い換えてみれば、この1世紀、世界中は光速不変の原理と言うアインシュタイン教の教義原則を、信じていたようです。
さらに色々とかじってみれば、現在否定されている、成り立っていると思われていた理論に出会いました。飛行機が飛ぶ仕組みです。ベルヌーイの定理で説明できるはずだったのが、21世紀に入ってから否定されてしまったようです。今では、飛行機が飛ぶ理由は科学で説明ができないのです。「だって、飛んでるじゃん」としか言えないらしいです。飛行機嫌いの人には絶対に言えませんねwこれは宗教なのかな・・・。
もはや科学と宗教に区別は無いようです。と言うことはやはり政教分離はできないようで・・・分離されるべき宗教=思想、理論の定義が必要ですね。
毎度ありがとうございます。
お便りには感謝しますが、内容には感心しませんね。
私は私の論を批判されても気を悪くはしません。しかし議論の作法を知らないことには気を悪くします。
議論の作法と言いましてもそりゃいろいろな流派があるのですが、もっとも正統なのはディベート流というものでしょう。朝までとか国会の議論は亜流ともいえません。
じゃあ、ディベート流とはとなりますと、そりゃ本やネットで勉強してください。
あるいは、以前木下様という若手と私が議論したのをご覧になりましたか?まあそういったのを読んで勉強してください。
主義思想に関わらず基本を知らないのは困ります。

それからですが・・・
「私は科学はかじった程度」こういった表現が許されるのは大学でマスター以上を修了した方が使うべきでしょう。もし本当に高校生なら使うべきではありません。
「私は宗教もかじった程度」こうなると宗教学を修めた上で使うべきですね
「相対性理論をかじってみたら」アインシュタインに伝えておきますよ。私のマンションのとなりに住んでますから
あほな父を持った娘様からお便りを頂きました(07.09.03)
電気の無駄使いについての一考察??
毎度、本当にこの人のDNAを受け継いで、私はなるべくして、今の私になってしまったのね・・・とあきらめている娘です。
marilyn3.gif 電気の無駄遣いのことで、わたくしもちょっと考えることがありまして・・・
昨日の夜、夫とちょっとデザートでも食べようかと、山を下ってみなとみらいのほうへドライブしたときに・・・・
ランドマークタワーや、コスモクロック(観覧車のことですよ!)や、その他の建物があまりに華美にライトアップされていることに、夫が「こんなの電気の無駄遣いだよね」というのです。
それまで、仕事帰りに一人で映画を見に行ったり、買い物に行ったりするときには、無駄遣いなんて発想は浮かばず、「まぁ、きれい♪横浜って素敵な街かも〜」なんてのんきに考えていたのです。
夫の一言で、なるほどねぇ、と思いました。
確かに、一般家庭がクーラーを我慢するよりも、あの夜景のライトアップを毎日2時間でも3時間でも短縮するほうがよっぽど省エネな気がします。
そして、これは・・・都会に暮らす一人の市民の愚痴(?)なのですが、どうして道路やら、あらゆる地面をアスファルトで埋め尽くしちゃうのでしょうかねぇ?土に草が生えてるところでは、きつい照り返しもなく、ジリジリ暑いってことはありません。なんとかなりませんかねぇ????
もう、今じゃ日本は亜熱帯ですよ!!
私が幼き頃(ほんの15年前!)は温暖湿潤気候と教科書にあったはず??!!
おお!ご無沙汰ではないか。
かわいい娘が幼いときがほんの15年前なのかははなはだ疑問ではある。
日本が熱帯になるときに備えて、父はゴキブリホイホイでなく、サソリホイホイの特許を取ろうとしているのだが・・・
サソリホイホイは・・・・ギャグとして寒すぎます・・・・
人に座布団を配る前に、自分も修行すべし!!!!!!
フーンダ
保守の一大生様からお便りを頂きました(07.09.04)
ある高校生様は本当に凄い文章を書きますねー。地球温暖化問題にせよ歴史認識にせよ自分の考えを色々な言葉を使いつつ書いている。
私は最近、自動車免許を取って、また社会人に少し近づいたと言うのに、恥ずかしい限りであります。
あとはダジャレセンスさえ磨けば有段レベルになれるのでは、と思います。
佐為様
座布団を獲得した日以降も、日本人よ誇りを持ては毎日見ております。ご心配なく。
保守の一大生様 ある高校生様への苦言を見て欲しいのですが、私はいかがなものかと感じております。
知識とか言い回しではなく、議論をするときは、相手の本意(言い回しとか引用した事例の適不適ではなく)を読み取り、それについて考察を進めるべきです。
話をそらした場合、意図的であれば邪心によるものか?非意図的であれば論理を捕まえることが苦手なのかと私は受け取ります。
SLEEP様からお便りを頂きました(07.09.05)
科学と宗教
ある高校生さまおっしゃるように科学と宗教(キリスト教)の境目はあいまいなものでした。なぜなら、キリスト教の理念の一つに神の作った世界をよりよく理解するという、ギリシア・ローマ文明から引き継がれた命題があったからです。思うにこれがあったからこそ近代科学がキリスト教圏で萌芽したのでしょう。
それともう一つ、ある高校生さまは世界のあいまいさ、不安定さに言及されましたがこれこそが啓蒙主義です。つまり世界というのはわからないことがたくさんあり、すべての論説は書き換えられる可能性を持つということです。そんなことは最新のブラックホール理論だとか量子力学やデリバティブ取引とか一般人には無縁の領域でしか起こっていないことだ、と思われるかもしれませんが、例えば20年前は真夏でもスポーツ中に水を飲むことがタブーであったり、日焼けは健康の象徴であったりしました(ある高校生さまはそんな馬鹿なと思われるかもw)また最近では擦過傷に消毒液を塗って表面を乾燥させるなんてのは百害有って一利なし、なんて考え方が出てきましたが10年前は想像もつきませんでした。40年前はむしろ地球の寒冷化こそ心配されていたそうですね、自分はそこまで年寄りじゃありませんので良く知りませんがw
正しいものが何かわからなくなった人々が辿り着いたのが自由です、つまり教会や政府、学会やマスコミは情報を提供するけど最終的には個々人の判断に任せよう、それこそが結局は最善の道だ、というのが自由主義です。
SLEEP様 毎度ありがとうございます。
まあ、ここでは宗教を論じているわけではありません。
ある高校生様の熱帯化論を叩いただけです。

ある高校生様からお便りを頂きました(07.09.08)
えと・・・平行して話を進めたかったのですが・・・
ん〜、これは長くなる話かなと思って、新たにわいた疑問も提示して見ただけだったのですが、2つの話を同時にするのは気分が悪いですか、すいません。

温暖化で私が議論しているのは、気温上昇と地球温暖化は、マスコミは確かに人気取りのために言い過ぎの面もありますが、さい様のおっしゃるとおりに「全く関係がない」というわけではないはずだ、と言うことです。言い換えてみれば、「多少なりとも関係がある」と言うことです。ただし、あろうと無かろうと、さい様の結論、つまり「エコは大事」に辿り着くのは明白で、結局議論自体意味が無かったということかも知れません。
仮説と理論の話はまた今度にとっておいて下さい・・・。私は文系なので大学で物理を学ぶわけには行かないのですが、伝記から入った解説本で、一応相対性理論なんかの基本、特殊相対性理論は理解しているつもりでいます・・・

高校じゃあちょっとかじった程度と言えない?
大学でその学問を修学していなければ「かじった程度」と言う表現は許されないのでしょうか。そしたら、其れより下位の学校は何をしているのでしょう。その分野において大学で課程を納めていなければ、その分野の議論はできないとするのならば、それこそ現在の民主主義は異常です。
さい様は、最低限、大学で政治学を修めていなければ政治に参加してはならないとお考えでしょうか?法律学を修めていなければ憲法、あるいは法律について議論してはならないと言うことでしょうか。
年端もゆかない高校生は、何も考えずにただ社会に従い、大学で何かの課程を納めるまで大人の議論に参加するなと言うことでしょうか。
実際20歳になるまで選挙権はありませんし、社会で何かの役割を担うことは荷が重すぎるのかも知れません。でも、私は、20歳になって突然権利と義務を背負い、その時になって考え始めるようなことを是とできません。

それこそこの日本という祖国を思い、国をよりよい国にしようと憂いているからこそここで書き込みをするのです。そう言う思いは、大学を出るまで抱くなと言うことでしょうか。周りの大人とおっしゃることが似ていたので、少し驚いてしまいました。やっぱりこの年齢でこんな事を考えている私がおかしいのでしょうか。
ある高校生様 毎度ありがとうございます。
まず私のスタンスをご理解して欲しいのですが、あなたと私はまったく対等であると思っております。ですから私に対して敬語なんていりませんし、私の考えを押し付ける気などもうとうありません。かつ、私が押し付けようとしてもここは会社や学校じゃありませんから、そんなことはなから不可能です。
とまあ、そういう前提で語っております。
しかしながら、世の中で何事であっても物事を極めるには艱難辛苦とはいいませんが、それなりの経験・修行が必要だし、そういう裏づけが必要で、何事かを第三者に語るにはそれなりでなければならないと考えております。そりゃそのような経験など不要な天才がいることは自明ですが。
私がISOに関して言いたい放題書いているのは、どこでも誰とでも議論する力があると自負しているからです。しかし私も知らないこと経験してないことについては、断定的な表現はしてません。
「かじる」とはどの程度なのかはわかりませんが、私は相対性理論についても宗教についてもかじってさえいないと確信してます。
世の中にはすごい人がたくさんいます。とてもかなわないと感じる経験はたびたびあります。
知らないカテゴリーに関して語るときは自信よりも謙虚さが必要かと思います。
祖国を思うことと、相対性理論や宗教を論ずることは少しく違うのではないでしょうか?

あらま様からお便りを頂きました(07.09.11)
佐為さま あらまです
ある高校生様の登場で、このホームページが一層輝きを増したような感じがします。
この一年で、大学生たちのご登場で活気づき、さらに高校生の登場で、すごい面々となりました。
これも預言者 佐為上人 の人徳のたまものでありましょう。
さらに最近の「科学」と「宗教」論にいたっては、小生にはまったく分かりません。
「日本人の誇り」を語るホームページが、なにか違ったものに進化しているような感じがします。
このような理論的な思考をする若者がいるということは、日本も捨てたものではありません。
そうした人たちを育て上げようとしている佐為様にも拍手を贈りたいと思います。

そのなかで、佐為さまは大切なことを言っております。
つまり「謙虚」さです。
これは、日本人の美徳であります。
たとえば、その道の第一人者という人でも、自己紹介では「この界の末席を汚している者です」と謙遜します。
そんな碩学が、このような挨拶をされては後の人が困ってしまうと思うのですが、どうやら本心からそう思っているようです。

単に、理屈で相手をやり込めようとするサヨク的な思考ではなくて、その根底に人を育て上げようとする考え方があることは、まさに日本人の誇りです。
今の日本は、労せず簡単にモノや情報が手に入る世の中になりました。
そうした知とか情に流されないためには、日本人としての強い誇り、つまり意を強く持つことが大切であるわけですネ。
小生は、まだまだ修行が足りません。。。
あらま様 いったいどうしたのですか!?
私がある高校生様にあたったことのご批判でしょうか?
まずお互いの認識ですが、ここでの発言は管理者である私を含めて皆平等です。もちろん誰もが己の発言には責任を負いますし、主張するには根拠もいるでしょう。お互いに証拠を基に論理で積み木を積み重ねていかなる考えを推し進めるのか、結論にたどり着くのかというのが面白みであり、勝負ところであろうと思います。
花の蜜を集めるちょうちょのようなチャットは好みません。真面目は苦手でダジャレをちりばめることがこのウェブサイトの作法ですが、同時にふざけすぎ、逸脱のしすぎも管理人としては好みません。
まあそんな私の趣向はお許しください。

木下様からお便りを頂きました(07.09.12)
ある高校生様へ
そんなもの、厳密に区別しようとしてもあまり意味が無いと思います。
かならず、どっちかよくわからない部分があるのではないでしょうか。
http://wiredvision.jp/news/200709/2007091121.html
少々不快な表現かもしれませんがお許しを。
木下様 毎度ありがとうございます。
コメントは控えておきます。


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