ISO税金説 2007.09.30
この駄文は、yonesan様からお便りを頂き、仲間とのやり取りを思いだして書いたものです。
私は仕事柄、他社のISO事務局とかISOコンサルなどの知り合いが多い。そういった知り合いとは、各種会合や講習会などで会う機会があれば、挨拶だけでなくいろいろと情報交換をしている。少し前、大きな工場でISO14001の事務局を担当している人と話す機会があった。
私があいも変らぬISO審査をいかに規格適合を判定する場とするかという話を持ち出すと、
師のたまわく
「佐為さん、そんなこと言ってもはじまらないよ、認証は税金と思わなくちゃ」
と私をいなす。
woman7.gif 彼が言うには、ISO9001でも14001でも最近はPマークでもなんでも同じだが、認証していないと商売に差し支える。とはいえ、どの会社でも過去よりちゃんとそういったことをしているわけだ。だが、現在の多くの審査員のレベルでは、当社のシステムはこれこれこうですと説明しても、それと規格との対応を理解する力がない。まして規格の理解もままならないような審査員を相手にして、半分教育しながら審査を受けるのは耐え切れないという。
だから、
審査用に審査員&審査機関の期待する文書や記録を整えておいて、それでもって説明し、相手に喜んでもらい、さっさと帰ってもらうことに努めているという。
もちろん従来からの自社の仕組みはそのままで、品質保証も環境管理もちゃんと運用しているのだという。彼の認識はISO認証とは税金のようなもの、渡世の義理だという。
渡世の義理といっても、やくざにみかじめ料を払っていればトラブルが起きたら始末をつけてくれるだろう。しかし、ISO審査はトラブルが起きると、さっさと認証を取り消す。払い損である 
私はそれを聞いて、それは間違った考えである。私はISO審査で会社を良くすることを期待してはいない。しかし審査とは自社の仕組みをそのまま説明し相手に認めてもらうことである、と持論を展開した。
相手も歴戦練磨のプロである。なによりもプロサラリーマンなのはわたしと同様、いや私以上である。
「佐為さん、会社のためというなら、なおのことよけいな手間ひまをかけることないじゃないか。顧客満足って言うだろう。この場合、顧客は審査員だ。彼らが見たいってものを見せて喜んでもらえれば良いじゃないか。自分が正しいと思うことを主張するのは、プロダクトアウトといって時代遅れだよ。市場が望むものを提供するマーケットイン、これがあるべき姿だ。」
「ISOの目指すところは、そういった二重帳簿ではない。表裏のないシステムを対外的に示しそれを評価してもらうことじゃないか?」
「いいかい、審査員は自分の想定とおりであることを確認して喜び、会社は審査に手間暇かからないことを喜び、事務局は上司の覚えめでたく、三方ハッピーじゃないか」
というやりとりが、延々と続いたのである。
この応酬はそのへんの審査より内容が濃かったのではないだろうか? 

彼のISO税金論は、過去に良く見られた実際の会社の仕組みとは別にコンサルの指導で審査用に重いシステムを作って大変だというのとは次元が違う。そんなもののはるかに上を行く、審査員が期待するものだけを軽く作った見掛けだけのシステムなのだ。
建物を例にあげて説明しよう。
彼のISO税金対応システムは、昔の西部劇の映画のセットの一面だけの建物のようなもので、表から見て感心していただいてお帰りいただくということだ。
まったく初心者が会社の実態を知らないコンサルの指導を受けて作ると、平屋なのにエレベーターを設置するようなシステムができあがる。彼もプロ、そんなアホなことはしない。
そういったアプローチと違い、私の目指すシステムは、あばら家に住んでいるなら恥も外聞もなくあばら家に案内し、それなりに掃除し手入れをしていることをご覧いただくというスタンスなのである。
man7.gif ともあれ、私は今ISO事務局を担当しているわけではなく、あるべき論で力むこともない。ただ、私が頼まれて指導するのはやはりあるがままの姿を見せるというシステムである。
立ち止まって考えると
私の唱えるあるがままというアプローチが正しいということは絶対にない。それどころか、ベターであるという確信もない。認証するためというシステムなら評価しないが、めんどくさいことを避けて、さっさとお帰り願うというアプローチが間違っているとは言えず、それどころか私の考えるものより勝っているのかもしれない。 ISOは品質や環境を良くするためのツールではなく、会社を運営していく上での税金であると認識するなら、それなりのアプローチがあるのは必然である。
少し前、私がTOEICを何度か受験したが、娘が現在チャレンジ中である。
既に社会人である娘は別にTOEICなど無用なのだが、常に何か勉強していないとならない性格なのは私の遺伝であろうか?
私はおせっかいなので、真面目に英語を一から勉強するのではなく、過去問を見て対策しないといけないと言った。娘は憤然として「オトーサン、私は大学まで行って試験とはどういうものかを良く知っているわよ。そんなこと当たり前でしょう」という。
そうだったのか、試験とは勉強がどのくらい進歩したのかを測るものではなく、試験問題をいかほど勉強したのかを測るものであったのだ。
ISO認証とは、会社の仕組みがISO規格に適合していることを立証するものではなく、会社の仕組みがISO規格に適合していることを相手に納得させることであったのだ。
ISO受査側のこのアプローチは、ISOの負のスパイラルとはいわないが、空洞化をますます加速させるだろう。私のアプローチなどもはや時代遅れで江戸時代のかなたとなってしまったのだろうか?


本日の反省

私、六十の今もまだ人間できておりません。




相棒のたぬきからお便りを頂きました(07.09.30)
相方!
最近のISO外部審査は、かなり緩緩くなっていますね!
弊社も先だって外部審査を受けましたが、以前とは大違い。
指摘事項など、ほとんどなく優良運営?だって・・・
我々の業界でも有効性を疑問視する声が多く、更新する会社も少なくなってきています。私が審査員にISO14,000を取得したいと言ったら、無駄だとの言葉を頂きました。(笑)
制度が発足したばかりの時には、この制度をなんとしても取得しないと業界で生き残れない!との認識でしたが、御上ですら、ISO取得業者に対する恩恵など、何も無し!
tanu.JPG 弊社も来年は更新をどうするか、役員会議でもめてます。
もっとも我が社に来年があるかどうか・・・
たぬきさん
ISOに明日はなくても、ポンポコタヌキに未来は輝く
そう信じています。

酔平様からお便りを頂きました(07.10.01)
未必の故意と認識ある過失の区別の仕方が英米や日独で異なるそうです。
したがって事が起きた際の責任の所在意識も異なってくる白い恋人の一件なんかもiso本部で当り前だと思い込んで明文化されていない部分に対しての認識の不一致が様々な問題を生むのではないでしょうか
特に目に見えない部分での・・・

悪いことをしても反省すればよいのか?反省しようがしまいが、責任を負わなくては釣り合いが取れません。

なんていうんでしょうか・・・
「電子レンジの説明書にシャンプー後の猫の乾燥には使用不可」と書かなかった事が責任になってしまう場合もある・・・
まぁそういう客層をターゲットにしていれば仕方ありませんが・・・
にんともかんとも・・・

要はなんていうのかな
その、「〜をしなかった事は悪い事」というような事に対して気が付いていたのにしなかったのか、それとも本当に気が付いていなかったのか、気が付くべき事だったのか、それらは故意だったのか過失だったのか?

例えば、自動車を運転する人には自動車を整備する責任があるとして、なのでスリップラインが出ているタイヤで冬季に走行していて悪天候でブレーキが効かず人を轢いて殺してしまったような時にスリップラインが出ているかどうかを確認する責任がある人がしっかりと止まれないかもしれない危険性を知った上で走行していたという事になるので、そこには故意があったとするのが英米ではなかったかと思います。
たしか刑法の旧派と言ったと思います。
でも、そういうような事に対して「それは仕方が無い」と思う人口が半数を超えていれば、必然的に刑法の新派だったかな・・・その運転者は「轢くという意志は無かった」として過失として処分されるだからその「危険性の保持」を結果に対しての故意と取るのか過失と取るのかの違いではないと思います現実に沿っていない例え話ではあるかもしれませんが、そういうような感覚のズレというのは、やはり明文化されていない部分で多分にあるのではないでしょうか・・・
なんかぐちゃぐちゃですみません
酔平様
日本が違うのではなく、マスゴミがセンセーショナルに騒ぐだけではないのでしょうか?
一般市民も頭の下げ具合が悪いとか反省の色が見えないというおかしな感覚を持ってはいけません。
悪いことをしても反省すればよいのか?
そうじゃない、
反省しようがしまいが、責任を負わなくては釣り合いが取れません。

回天ドアの問題を冷静に考えてみれば、親の監督責任というものが一切出てきませんでした。これはおかしい。今の日本のなんでも生産者が悪い、大企業が悪い、政府が悪い、自分は悪くない、個人は悪くない、市民は弱者だという論理は、マスゴミや大衆に受けるでしょうが、その行く先は・・民主主義の放棄、子供に、いやバカになるばかり
自分のみは自分で守るという当たり前のことを放棄したのですから、もう個人としての人間ではありません。
人間としての尊厳の放棄、堕落

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