この駄文は、yonesan様からお便りを頂き、仲間とのやり取りを思いだして書いたものです。私は仕事柄、他社のISO事務局とかISOコンサルなどの知り合いが多い。そういった知り合いとは、各種会合や講習会などで会う機会があれば、挨拶だけでなくいろいろと情報交換をしている。少し前、大きな工場でISO14001の事務局を担当している人と話す機会があった。
渡世の義理といっても、やくざにみかじめ料を払っていればトラブルが起きたら始末をつけてくれるだろう。しかし、ISO審査はトラブルが起きると、さっさと認証を取り消す。払い損である ![]() |
少し前、私がTOEICを何度か受験したが、娘が現在チャレンジ中である。ISO認証とは、会社の仕組みがISO規格に適合していることを立証するものではなく、会社の仕組みがISO規格に適合していることを相手に納得させることであったのだ。
既に社会人である娘は別にTOEICなど無用なのだが、常に何か勉強していないとならない性格なのは私の遺伝であろうか?
私はおせっかいなので、真面目に英語を一から勉強するのではなく、過去問を見て対策しないといけないと言った。娘は憤然として「オトーサン、私は大学まで行って試験とはどういうものかを良く知っているわよ。そんなこと当たり前でしょう」という。
そうだったのか、試験とは勉強がどのくらい進歩したのかを測るものではなく、試験問題をいかほど勉強したのかを測るものであったのだ。
私、六十の今もまだ人間できておりません。
相方! 最近のISO外部審査は、かなり緩緩くなっていますね! 弊社も先だって外部審査を受けましたが、以前とは大違い。 指摘事項など、ほとんどなく優良運営?だって・・・ 我々の業界でも有効性を疑問視する声が多く、更新する会社も少なくなってきています。私が審査員にISO14,000を取得したいと言ったら、無駄だとの言葉を頂きました。(笑) 制度が発足したばかりの時には、この制度をなんとしても取得しないと業界で生き残れない!との認識でしたが、御上ですら、ISO取得業者に対する恩恵など、何も無し! もっとも我が社に来年があるかどうか・・・ |
たぬきさん
ISOに明日はなくても、ポンポコタヌキに未来は輝く
そう信じています。
未必の故意と認識ある過失の区別の仕方が英米や日独で異なるそうです。 したがって事が起きた際の責任の所在意識も異なってくる白い恋人の一件なんかもiso本部で当り前だと思い込んで明文化されていない部分に対しての認識の不一致が様々な問題を生むのではないでしょうか 特に目に見えない部分での・・・ 悪いことをしても反省すればよいのか?反省しようがしまいが、責任を負わなくては釣り合いが取れません。 なんていうんでしょうか・・・ 「電子レンジの説明書にシャンプー後の猫の乾燥には使用不可」と書かなかった事が責任になってしまう場合もある・・・ まぁそういう客層をターゲットにしていれば仕方ありませんが・・・ にんともかんとも・・・ 要はなんていうのかな その、「〜をしなかった事は悪い事」というような事に対して気が付いていたのにしなかったのか、それとも本当に気が付いていなかったのか、気が付くべき事だったのか、それらは故意だったのか過失だったのか? 例えば、自動車を運転する人には自動車を整備する責任があるとして、なのでスリップラインが出ているタイヤで冬季に走行していて悪天候でブレーキが効かず人を轢いて殺してしまったような時にスリップラインが出ているかどうかを確認する責任がある人がしっかりと止まれないかもしれない危険性を知った上で走行していたという事になるので、そこには故意があったとするのが英米ではなかったかと思います。 たしか刑法の旧派と言ったと思います。 でも、そういうような事に対して「それは仕方が無い」と思う人口が半数を超えていれば、必然的に刑法の新派だったかな・・・その運転者は「轢くという意志は無かった」として過失として処分されるだからその「危険性の保持」を結果に対しての故意と取るのか過失と取るのかの違いではないと思います現実に沿っていない例え話ではあるかもしれませんが、そういうような感覚のズレというのは、やはり明文化されていない部分で多分にあるのではないでしょうか・・・ なんかぐちゃぐちゃですみません |
酔平様
日本が違うのではなく、マスゴミがセンセーショナルに騒ぐだけではないのでしょうか?
一般市民も頭の下げ具合が悪いとか反省の色が見えないというおかしな感覚を持ってはいけません。
悪いことをしても反省すればよいのか?
そうじゃない、
反省しようがしまいが、責任を負わなくては釣り合いが取れません。
回天ドアの問題を冷静に考えてみれば、親の監督責任というものが一切出てきませんでした。これはおかしい。今の日本のなんでも生産者が悪い、大企業が悪い、政府が悪い、自分は悪くない、個人は悪くない、市民は弱者だという論理は、マスゴミや大衆に受けるでしょうが、その行く先は・・民主主義の放棄、子供に、いやバカになるばかり
自分のみは自分で守るという当たり前のことを放棄したのですから、もう個人としての人間ではありません。
人間としての尊厳の放棄、堕落