第14条3項 (2003.04.18)
「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。」

ハイ、本日のお題は「栄典」でございます。
栄転ではありませんのでご注意ください。 

この文章は二つの文からなります。
では分析開始!

  • 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。
    成果主義って知ってます? いかがでしょうか?
    この文の意味するところは正当でしょうか?
    私は大いに反論があります。
    ある人がすばらしい功績を挙げたなら、その功績に見合った顕彰があってしかるべきではないでしょうか?
    昔、私が若い頃、血液が足りませんでした。
    いきさつを話せば、尊敬するライシャワー大使が暴漢に襲われ怪我をしました。
    その手術の時に受けた輸血から病気になってしまいました。当時は貧乏人や学生がお金を稼ぐために血液を売るということが当たり前だったのです。
    それで売血を禁止し、献血でまかなおうとなったのです。
    ところが献血する人が少なく、手術するためには献血したことが必須なったのです。
    私の家内の父が手術する時は私は献血した手帳を集めて病院に持っていった記憶があります。
    そのような事態が良いか悪いかはさておき、献血した人あるいは家族が優先的に輸血が受けられるというのは妥当ではないでしょうか?
    人命救助をすればみなから称えられ、仮に勲章を貰ったら常に着用し、電車バスではみながその勲章着用者には席を譲るという特権があっても当然と私は思います。
    戦争に行って勲章を貰った人がいれば式などでは一番前に座るのは当然でしょう。
    硫黄島は激戦でした。
    アメリカ軍の兵士が星条旗を立てている写真を見たことがあるでしょう。
         日本人としてはいささか複雑ですが・・・
    その中の一人が後にスピード違反で捕まり、裁判になりました。
    裁判官は「ここには英雄を裁く者はいない」と言って放免したという実話があります。
    英雄はそのくらいの特権を持って当然と思いませんか?
    すばらしい業績をあげた人には二人分の選挙権を与えるとしても私は間違っているとは思いません。
    この論に違和感を感じる方もいらっしゃるでしょう、
    でも『名誉市民』とは当然市民権を行使できることであり、アメリカでは名誉市民となるとそこの市民ではなくとも選挙権が与えられると聞きました。
    権利が与えられるから、栄誉であり、栄典ではないのでしょうか?

    みんな平等よという悪平等が人々のやる気をそいでいるのです。
    会社で働く人と、働かない人が同じ賃金という社会主義がだめになったのは当然です。
    働く人は働いた分得るところがなければ人間社会は動いていかないのです。
    ハイ、結論
    この文の意味するところは間違っています。
    もちろん、いかなる栄誉に対していかなる特権を与えるかはみなで議論すべきです。



  • 栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

    結論を言います。
    まことにそのとおりでしょう。

    しかしながら、今の日本ではこの文章は空文となっています。
    父祖が業績をあげた場合、その子供は親の七光りでもってより有利に社会にでてエスタブリッシュを形作っています。

    やめてくれよエッ、ご存じない?
      田中某、
      鳩山某、
      小泉某なども・・・・

    前に述べましたように、業績をあげた人、自己犠牲、献身的な行為をした人は賞賛され、業績に見合った権利を持って当然です。
    しかし父親が有能な政治家であったというだけのオバサンに日本の外交をしてほしくありません。

それは 害行 ではないのか?

  私は田中角栄氏は優秀な政治家であったと思います。
  優秀なるがゆえに、敵が多かったのだと考えております。



本日提案する改正案でございますが・・・・


国は業績、功績をあげた者に対し国籍にかかわらず、その業績により栄誉、勲章その他の栄典と特権を与える。
それら栄典は、これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。



国籍に関わらずがいいでしょう? 
現在の国会は、祖父の栄誉を利用している方々ですから、よもや反対はなかろうかと・・・・・







ななし様からお便りを頂きました。(2003.08.19)

14条3項
すばらしい業績をあげた人には二人分の選挙権を与えるとしても私は間違っているとは思いません。
この文の意味するところは間違っています。
間違っていると指摘される点に上記の「すばらしい〜。」も入っているのかよくわからないのですが、私の国語力で入っていないものと理解して下記を書きました。
○民主主義では1人1票です。これをわかってもらうには、「ハンの法廷」(著者井沢元彦)を読んで頂けると幸いです。
簡単に言いますとこうなります。民主主義は西洋で生まれました。キリスト教では、平等が基本。平等だから一人一票。
省略しすぎて上だけじゃよくわからないので少し細かく説明します。キリスト教は唯一絶対の造物主が万物を創造したと教えてます。造物主に比べれば人間は大変に小さな存在です。それは地球の大きさと人間の背丈を比べるようなものです。ですからあなたや私が背が五cm高いとか言うのは、全く意味のない事なのだ。キリスト教ではこう考えます。現実に王がいたりしたじゃないか。と言われますとたしかにそうなのですが、だから王権神授説等を言うのです。
しかし、そう言う事を言っても▲▲瀬爐肇ぅ屬了・紂・・・Δ世辰殖(この部分文字化けで他意はありません)と言う事を言って革命が起きるのです。こういう土壌が民主主義を発生させたのです。キリスト教から民主主義に変わっても変わらず平等は重要なのです。


お便りありがとうございます。
いえ、私なんか間違ってばかりですからきっとあなたが正しいのでしょう。
でも少しばかり老人の世迷いごとにお付き合いください。

私の考えるところでは民主主義とキリスト教とは関係ありません。キリスト教徒のみが民主主義を実現できたとする考えがあるとしたらかなりな人種主義の匂いがします。非常に怪しいですね、
古代ギリシアにもローマにも民主主義の時代はありました。
中学時代に習ったことを思い出しますとそれはたぶんキリスト教成立以前だったような気がいたします。(大分ボケておりますので年表でご確認願います)

民主主義とは文字通り国民に主権があると言う意味ですが、そのときの国民とは国家に属する人すべてとか、男女を問わずということでもないのです。国家が「国民とはこれこれだ」と決めればそれまでのことです。
南アフリカでアパルトヘイトがあったときでも限定された社会のなかでは民主主義だったのです。
アメリカで有色人種が真に選挙権を持ったのはせいぜいが40年です。では50年前のアメリカは独裁国家だったのでしょうか?
ヨーロッパでジプシーが選挙権を行使できるようになったのか浅学にして知りません。
日本に比べてきわめて多数の外国人労働者はどうなのでしょう?
昔日本で選挙制度が始まった時は納税額で投票権の有無が決まりました。あの時は民主主義ではなかったのでしょうか?私は単なる普通選挙と制限選挙の違いのような気がします。ところで制限選挙であれば民主主義でないという理屈もなさそうです。
いえ、制限選挙は民主主義でないと証明されるならぜひお願いします。
民主主義において万人が共通な権利を持つべきだという理屈をお教え願いたいものです。
ご説明いただいた上記論理では説得力ゼロですね、

年寄りは学問がなくとも経験とくだらない知識の上にある常識ってもので考えているのです。
常識が間違っているとすれば、この世の中が間違っているということですが、そうしますと間違っていると考えている人の方が間違っている可能性もあるのです。
    私からちょっと異なる事例を挙げて見ましょう。
  • 株主総会って知ってますか?
    ここでは持ち株に比例した議決権を行使します。
    えっ、会社と国家は違うので民主主義の議論には不適ですか?
  • ローマの民主主義時代、自分が出せる兵隊の数によって政治に行使する権利が異なりました。
    100人の兵士を出せる貴族(というより豪族か?)は50人の兵士を出せる人より大きな声を出せたのです。(塩野七生さんの本による)
    これは民主主義ではないのでしょうか?
    責任を持つ人が発言できるという意味ではまさしく今の時代よりも権利と義務のバランスが取れているようにも思いますがね、

    くだらん例をもっとあげましょう。
  • 国連総会ではどんな国にも平等に投票権があります。
    日本やアメリカは国連分担金の過半を支払っていながら一票しかなく、金を出していない多数の小国家の意見で動くのです。これっておかしいと思いませんか?
    逆に安全保障理事会では拒否権というものを5カ国が持っています。
    あなたは国際連合に民主主義を求めませんか?
  • 第二次大戦で日系兵士がヨーロッパ戦線で大活躍をしました。望月みきやの二世部隊の話は実話なのです。彼らの活躍で大勢の兵士の命を救われたテキサス州では日系兵士に名誉市民権を与え州外の住人であるにもかかわらず選挙で投票させたと言う話を読んだことがあります。(出典を忘れました。ネットで調べたのですが見つかりませんでした)
    このように一人の人間が複数の選挙権を持つことは現実にあったのです。
    日本では名誉市民とは名ばかりの意味のないもののようです。
    アザラシのたまちゃんの住民票が本物ならば税金は、厚生年金は、学校へ通わなくては、生活保護は・・・と気になるところです。
  • 農業委員の選挙権はいかがでしょいうか?
    都府県では10アール以上、北海道では30アール以上の農地を耕作している者に選挙権が与えられます。
    詳細はいろいろありますが、本州と北海道の面積の違いは差別ですか?
    なおお断りしておきますが農業委員の選挙は公職選挙法が準用されます。
  • 投票権だけでなく、国会議員の定数はいかがでしょうか?
    私の議員の選挙における定数に関するご意見をご覧ください。
    ますますのご反論を期待します。
一人一票という制度は普遍的なものではなさそうです。少なくとも歴史上において実証されていません。
平等は重要でしょう。それには異議ありません。
論点はいかなる形式が平等であると判断するかです。制限選挙のほうが平等であるという考えを否定できますか?
そして平等を裏付ける責任をみなさんは果たしているのでしょうか?
日本国民の納税の義務ひとつとってみてもいかがでしょうか?国民年金を納めるのを逃れようとする若い人、特に学生についていかが思いますか?彼らが法に従い納税している人と同等の権利を政治に行使することはおかしいと思いませんか?
誤解を恐れずに言えば、国防に身命を捧げる人と、敵が来たら逃げるという人が同等の権利を有することは論理的に間違っています。
お断りしておきますが、これはあなたが例に挙げられた 井沢元彦さん の言葉です。

baikin.gif 『すばらしい業績をあげた人に二人分の選挙権を与えることは間違っている』と北朝鮮で言えば大勢の支持を得られることと思います。
聞くところによりますと、北朝鮮ではすべての選挙権はただ一人の選挙人が持っているそうです。
名前は・・・金正日とかいいましたっけ、
何せ彼は自分が選挙するのも面倒なのでその選挙権を人民に一人一票ずつ行使させているとか、 もちろん誰に投票するかは彼のご指名通りにね 


さて、以上申し上げたとおり私はあなたのご異議に同意できません。
ぜひあなたの論である
『すばらしい業績をあげた人に二人分の選挙権を与えることは間違っている』ことを証明していただきたいと思います。






notti様からお便りを頂きました。(2003.08.26)

ななし様の「キリスト教では神の前に平等→民主主義ではひとり一票」説は、異なるものを一緒にしている点で、誤解があると存じます。
まず、「人は神の前に平等」とは聖書には書かれていないと記憶しております。聖書が言っているのは「人は神の前にみな罪人(ローマ書)」ということで、平等という概念とは異なります。「キリスト教」と「民主主義」と「選挙権は平等にひとり一票」は全く異なるものです。現在は「民主主義=ひとり一票」のシステムをたまたま採用しているにすぎません。
佐為様が問題にしておられるのは、成果と報酬の問題だと思います。
「成果=社会に対する貢献=例えば、納税額」が多いものは「報酬=特権=例えば、複数の投票権」が与えられてもいいのでは、ということです。今の世の中では、成果の有無に関わらずみんな報酬は一定で、このままでは成果を挙げようという人がいなくなるかもしれない、この悪平等の仕組みを変えたほうがいいのではないか、という問題提起でしょう。
個人的には、大きな成果=大きな報酬は当然のこととおもいます。
例えば、たくさん献血した人は優先的に輸血を受ける権利をもつ、公共奉仕をすれば税金が免除される、犯罪者の逮捕に協力すれば金一封を受けられる、などです。戦没者慰霊もこの延長線上にあり、国家のために命をささげた人に対しては最大限の処遇をするのが当然です。従って、政府が外圧に屈して、靖国を蔑ろにするようなことがあってはならないのです。


notti様、いつもお引き立てのほどありがとうございます。
結果の平等か?機会の平等か?なんて悩むこともなさそうです。
私は実用的な人間です。
現実の問題に解を与えないものは役に立たないと考えています。
どれが正しいということはないと断言します。
ただし、その社会のおかれた環境、それには自然環境や取り巻く人間社会あるいは宗教などあるでしょう、その他に社会の熟成度、個人の知識レベル、意識レベルなどさまざまな要因はあります。
それらによって最適な社会制度が決定されると確信します。
平常時は選挙制度がある国家であっても、非常時例えば難破した船においては最高責任者、裁判官、生死与奪権はすべて船長にあります。飛行機でも同じ、
遭難した時に『人民平等』『民主主義!』なんて叫んでも無駄です。
みんな平等に死のうとするなら話は分かりますが・・・・・
最大多数の生存の確保責任はすべて船長にあります。

多数決で作戦を決める師団があれば間違いなく戦う以前に負けは決まりです。
では、今の日本はどうなのか?
私は一人一人の選挙権に差をつけるべきとは言い切れません。
しかし、日本人一人一人が自分の責任を認識し政治にあるいは社会的行動にあらわさなければならないとは考えています。

ぱっと話は変わりますが、
オリンピックをはじめとして、優勝者には相当な配慮がされるようになりました。
これは信賞必罰、成果あるものには禄を与えよという論理ではないかと思います。

ついでにもうひとつ アメリカでは勲章とは生き残った者がもらうものだそうです。
日本では死なないと勲章はもらえないとおやじは言っていましたが、
生き残ったものが勲章をもらい配当を受ける社会ならば、兵士は必死に生き延びかつ戦果をあげようとするのではないでしょうか?
死ねば勲章がもらえるという論理では生き延びようとする意思は弱まらないのでしょうか?

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