国民主権(その27) 2003.04.09
北千住様よりお便りをいただきました。(2003.03.28)

憲法判定表の第1条の記述にアレ?と思ったのです。
断っておきますが、私は天皇を否定しようとは思いません。大多数の国民もそうだと思いますが、私は天皇や天皇家を尊敬していますし、その存在は世界に誇れるものだとも思っています。天皇に関して「象徴」ではなく「元首」という表現をすべきという点に関しては「元首」と表現しようが、天皇が政治的権力を全く持たず、内閣のコントロール下に置かれればそれでいいと思います。天皇が内閣以外の者からその政治的権力を利用されないことが、国民の権利を守ることにつながると思うからです。
アレ?と一番思ったのは「天皇の地位は、主権の在する日本国民の総意に基づく」についてです。
この部分は国民主権がその内容です。表現の仕方・手続きがおかしいということから、国民主権にかんする記述を削除することは導き出せれません。国民主権に関する記述は前文以外は条文上ここしかありません。先ほど憲法の存在意義について述べたように国民主権は根本的な価値であるがゆえに第1条に記述すべき内容です。この点につき疑問を感じました

私の思うところを書きます。

第一点
現憲法において「天皇の地位は、主権の在する日本国民の総意に基づく」という文言が「唯一国民主権を意味している」のではありません。この文章は単に「天皇の地位を国民が認めたか否か」ということであり、ここで使われている「主権の在する日本国民」とは、その国民にかかる形容詞句に過ぎません。
国民主権は第41条、第43条に明記されておりますし、第4条で天皇に権限がないことは明示されています。
第一条を削除したら国民主権が表現されていない!なんてことはありません。
なぜ、この形容詞句をつけたかと言いますと、私の想像ですが、終戦直後のことですから、憲法の冒頭に天皇について書かねばならないこと国民の権利義務はそれより後ろにあるそうすると、ここで国民に主権があると書かないと誤解される恐れがあると考えたためかと思います。

第二点
北千住様のご意見に私は異議ありません。
おっしゃるとおり、国民主権と言う文言を第一条にすべきでしょう。
前述しましたように、現在であれば国民主権を頭に、天皇について書くなら憲法の後ろのほうでも良いと思います。
確か読売新聞の憲法改定案はそうだったような気がします。そして天皇についての記述はなかったはぜです。(オフハンドなので自信ありません)
エクスキューズですが私がなぜ憲法論を書いているかをあちこちに書いております。ぜひ私のウェブを全部読んでいただきたいと思います。
その理由は、櫻井よしこさんや読売新聞社など憲法改正案はすぐれたものが多々あります。
私はそういった真剣な憲法論議を、「ダメなものはダメ」とする護憲論者を批判しているのであって、憲法改正案を提案しているのではありません。
私は北千住様や櫻井よしこさんのようにまじめに憲法を論じようとしている方が、自由に議論できる風土を作るために「思考停止した護憲論者」を掃討しているつもりです。

お便りありがとうございます 第三点
天皇は象徴か元首か?
現実には過去60年近く共産圏を含めて諸外国は天皇を元首とみなしており、それでもって内外に問題はありませんでした。
元首とは主権者ではありません。単に国家を代表して対外的な行為をするに過ぎません。
たとえば公使大使の接受、大臣の任命など・・・
象徴とはたとえば「私の県の象徴は○○山です」というようなものであって、全然意味が違います。
もちろん、日本の象徴は富士山、桜、天皇といっても異議はありません。
天皇は象徴であり、元首であって矛盾はありません。
富士山は日本で一番高い山であり、日本の象徴ですというのと同じことです。

第4点
私は天皇を廃止しちゃいかんなんて考えておりません。
私は天皇をお慕い申し上げておりますが、国民が天皇制を廃止すると決定したならばそれでもよしと考えます。 要するに天皇と国家はまったく別物です。
ただ、そうなったらオリンピックとか国際会議に首相程度が臨席しても「ありがたみがない」ような気がします。
まあ、私が感じるだけですが・・・


北千住様より(2003.04.07)

まず、第一点についてsaitota様がご指摘のように、表現上はそうかもしれませんが、第1条のみが国民主権を定めた条文であると思います。
といいますのも、第41条、第43条は国民主権は明記されていません。
第43条は民主主義を定めたに過ぎません。民主主義と国民主権は似たような概念かもしれませんが、異なる概念です。国民主権から民主主義は派生するかもしれませんが、もっと大きな根本的な概念だと思います。
ただ、日本は天皇制と国民主権を両立しなければならないので、表現上こんな文章になったのかもしれません。
天皇は国民以外の人間、すなわち天皇の条文は国民の裏返しで表現することになっていると思います。

第三点について天皇は元首か?については、元首の意味するものによってその結果は異なると考えます。つまり単なる儀礼上の行為を行うという意味での元首であれば、元首でしょう。ただ、明治憲法でも天皇には象徴としての側面があり、現在の憲法において政治的な側面を取り除いた後に残ったのが、この象徴だったのでしょう。
確かに、saitota様のおっしゃるように象徴といってもピンとこないのは事実ですね。私は、不敬かもしれませんが、「鳩は平和の象徴、天皇は日本の象徴」というイメージで捉えることにしています。
以上、憲法の解釈について私の考えを述べましたが、憲法の学問的な議論をしたいとは思っていません。
根本的に、私はsaitota様に近い考えを持っていると思って、メールしましたし、saitota様のホームページは、目から鱗でした。
それにこんなすごい膨大な量の憲法に関する記述には感動しています。憲法は、実社会の契約書のように、国家権力と国民との契約書という側面で発展してきたと私は感じています。
その観点からsaitota様のなさっていることも意味のあるものだと感じています。その上で申し上げますが、憲法を解釈する上で常識とも言える根本的なものは常識として理解すべきではないかと思います。
それは「個人の尊重」です。非常に誤解のある語かもしれませんので、前回のメールでは敢えて強調しませんでした。私は、進歩的文化人・人権派・左派の考えとは異なる考えであり、むしろナショナリズムが日本において欠けていると考えています。そして、そのナショナリズムは、「国家=全ての国民」と「個人の尊重」から構築すべきではないかと考えているのです。個人の尊重が大切なのは、自分だけでなく他人、自分以外の全ての国民について当てはまるもので、それは個人主義にのみつながるものとは考えていませんし、そうすべきではありません。
その意味で、個人の尊重(第13条)は根本的な絶対的な価値を持つものだと考えています。同様に、公共の福祉の概念も国家対個人として捉えるのではなく、自分の人権と自分以外の人権の調整の概念として捉えるべきだと考えます。
このように私が言うのは、米国のイラク攻撃の賛否でもわかるように日本人は議論好きで、理屈・法律論に終始して価値判断を避けようとします。そんな日本人、特に進歩的文化人・左派に対しては、誰もが認めざるを得ない価値観から論じ、それを常識として憲法について議論することしなければ、日本のあるべき姿・価値観を構築することは出来ないと思うのです。最近の論調で唯一救いなのは、国益という概念が出てきていますが、これは国家対個人のものとされやすいものです。進歩的文化人・左派は本当に訳がわからず、人権を強調しておきながら、拉致被害者の人権を無視してきたのですが。
一般の日本人でも国家、帝国主義、過去の植民地支配などと言われると拒否反応を起こしやすいでしょう。石原慎太郎氏のようなキャラクターでも拒否反応を示す人はいると思います。
その意味で、「国家=全ての国民」と「個人の尊重」から構築すべきと考えたのです。

お便りありがとうございます。
お互いに議論の過程において、自分の考えがまとまり、論理的に検証されていくことが議論の成果だと思います。 議論のために議論、勝つための議論では意義がありませんでしょう。
それを楽しんでいる方もネットの世界では多いのですが、

というわけで、お互いに議論のための議論ではないという点で一致していると思います。
しかしながら、国民主権についてだけコメントさせてください。

私の考えの理由を述べさせてください。
第一に
第1条では「主権は国民にある」とは言っておりません。
「天皇の地位は・・・主権の存する日本国民の総意に基づく」とあるだけです。
この文章を読んで、「この条文が」国民主権を定めていると理解するのは拡大解釈でしょう。
実は驚くことに司法試験の参考書でさえ『第1条は国民主権と天皇の地位』と書いています。私は呆れてしまいます。
文字解釈で「主権の存する日本国民の」というフレーズを「国民主権」と理解することができますか?
これは法理論とか常識とかいう範疇ではなく、国語の問題です。

第二に
仮に第1条のみを残して、憲法41条から43条を廃止したとき国民主権といえますか?
言えません。
仮に憲法第1条を廃止して、憲法第41条から43条を残したとき、国民主権といえますか?
言えます。

第三に
アメリカ憲法に国民主権という言葉はありません。
あるのは『国民が連邦議会を選出し、連邦議会がすべての立法権を有する。』ということだけです。
これだけでは国民主権というには不十分とおっしゃいますか?

第四に
憲法は理念だけじゃありません。
理念を具体的にどう具現化するかを記述しなくてはなりません。
それが41条からであると思います。
私には第1条が国民主権を述べているとはどう読んでも受け取れません。

とまあこのように考えております。
もちろんそうではないと考えてもけっこうですし、そう書いている本が多いということも存じております。




北千住様よりコメントいただきました。(2003.04.09)

国民主権に関する第1条の件は、saitota様のように国民主権を定めていないと理解されるものであれば、みんなが理解できるように改正すべきだと思います。 41条+43条には「主権」という表現がなされておらず、ストレートに国民主権を定めているものではないからです。

国民主権とは、「国家のあり方を決定する最終的権利が国民にある」ということだと思いますが、それは単に41条で定められている議会(立法)でけでなく、行政、司法、軍隊を含めてすべての国家作用に及ぶものです。41条+43条により立法の権利があったとしても、全ての国家作用に及ぶという国家主権とはなりません。
もちろん、「国権の最高機関」とはされてはいますが。

外国人参政権問題に関する最高裁判決には、『主権が「日本国民」に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。』という表現もあります。

次に『アメリカ憲法に国民主権という言葉はありません。』ということですが、アメリカの連邦憲法についてはほとんど知りませんが、恐らく連邦制をとっていて各州憲法があることと、憲法に対する考えからではないかと思います。
アメリカの憲法に対する考えとは、「憲法は国家権力を制限して国民の権利自由を守るもの」ということで、当初の憲法では人権規定さえなかったと聞いたことがあります。
はっきりわかりませんが。

以上、『「主権の存する日本国民の」というフレーズを「国民主権」と理解する』ことは、私には拡大解釈とは思えないのですが、saitota様がおっしゃることは理解しておりますし、国語の問題として国民主権について明確に規定すべきかもしれないと思います。
国語についてはさっぱり駄目な私ですので本当に申し訳ありませんが。

まず、お断りしておきますが、
私の論と最高裁判例は無関係です。この稚拙な憲法論は文字解釈一筋であり、いかなる判例も権威も尊重するということはありません。言い回しがおかしいなら「おかしい」と断ずるだけのことです。
私の憲法論の前提、はじめにをご覧ください。

さて、
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の在する日本国民の総意に基づく」の原文は
The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.

これを直訳すれば
「天皇は国と人々の統合のシンボルである。そしてその地位は主権を持つ国民の意志によるものである。」と和文とほぼ同じですが、よく考えてください。
この文章は「国民に主権がある」という命題ではありません。「天皇は国と国民の象徴である」という命題です。
「主権は国民にある」と述べていません。「主権を持つ国民」と述べています。

もし、「天皇が象徴であり国民に主権がある」ということをこの一文で言い切ろうとするなら、
「日本国の主権は国民にあり、これら主権を有する国民の総意により、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である。」
S+Vが二つある重文にしないとおかしいことは自明です。
ですからこの文章を「国民が主権を持つ」という命題であると理解するなら文字解釈以前の国語の問題だと申し上げたのです。

現在の第1条の「主権を持つ国民」は単なる形容詞句に過ぎず、「S+V]からなる命題ではありません。
よって、第1条は前文で「ここに主権が国民に存することを宣言」しているのを単に受けたにすぎません。
前文がなければ第1条の国民主権という表現は意味をなしません。
ご引用された最高裁判例においても前文を記したのはそれがないと意味を成さないと解しているからではないでしょうか?
なんと言おうとこの文章が述べているのは「象徴天皇」であって、「国民主権」ではありません。
もちろん国民に主権があるという「前提は間違いない」ところですが。

ちょっと思いついたのですが・・・・
この文章は第1条にあり、かつ天皇について述べているから「国民主権」について定めていると勘違いするのではないでしょうか?
次のような文章なら国民主権を定めているとは思いもしないでしょう?
第41条「国会は、国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関であって、その権威は主権の在する日本国民の総意に基づく。」
第65条「行政権は内閣に属し、その権限は主権の在する日本国民の厳粛な信託によるものである。」
これは冗談ではなく、国会も内閣も裁判所もその権威は国民の信任によって与えられ、いつでも国民はその権力を取り戻すことができるのです。

私は革命思想ではありません。  これはアメリカの憲法の理念です。



2003.05.04追加
私も発言するからにはあまり無責任なことは書けませんのでいろいろ本を読んでいます。
最近読んだもので「日本国憲法とは何か」(八木秀次著)があります。
彼は主権とは大上段にどうこう語る必要はないと言い切っています。
各国の憲法にも主権に関する記述がないものが多い。アメリカ憲法しかり、要するに民主主義が保証されれば、国王に主権があると定めても(ex イギリス)、主権について規定しなくともいいのだということです。
国民主権と定義しても、国王に行政権があると規定した憲法も過去に存在したそうです。
要するに参政権を担保することが最重要であって、主権者をどうこう語ってもあまり意味はなさそうです。


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