日本国憲法の余白の読みかた 2003.12.27
インターネットをさまよっていたら、「日本国憲法の余白の読みかた」という論文に出会った。ぎょっとしました。
日本国憲法に限らず法律や規則、規格を理解しようとするのに余白を読むというなら論理の世界ではない。まさに宗教である。いえ、キリスト教の世界にはありえない。日本独自の悟りの世界であると恐れ入った。 いったい行間に意味があるのだろうか?余白に意味があるのだろうか?

私、ISOの世界にはや12年暮らしております。
当時働いていた会社で「輸出するにはISO9000というのが必要だ!なんとかしろ!」ということでISOの関わりが始まりました。
どこでも会社を良くしようとしてISOに取り掛かるところはないようです。得意先から要求されたから仕方ない、とかヨーロッパに輸出するには必要なんで・・・という理由がトップに来ています。
ちなみにそれは日本だけではなく、かのドイツでもそうらしいのです。
今から10年以上前にはガイドブックなども少なく、ISO規格の翻訳版を一生懸命読みました。ISO9001:1987版の文字ばかりではなく、まさに余白を読んでおりました。「この文章はこういう意味ではないか?」「いやこういった主旨ではないか?」などケンケンガクガク夜中まで事務局は議論しておりました。 そして分けが分からんままに本審査に突入して行ったのであります。特攻精神いまだ廃れず!

iso.gif 依頼した審査機関は英国系の会社で審査員は日本人でしたが、規格の理解は間違いありませんでした。そのときの主任審査員(実はその方は平審査員ではなくその審査機関のボスだったのですが)は「ISO規格というのは行間を読んじゃいけません。文字を読むのです。それ以上でもそれ以下でもありません。」と教えてくれたのでありました。
日本語で規格を読んだとか、英文の規格を読むとかの以前に、いかに読むのか、いかに理解するのかというスタンスを教えてくれました。
その後、その方とは一度だけお会いしましたが、過去12年間にISO規格について彼以上の薫陶を与えてくれた審査員やセミナーの講師あるいは上司はいらっしゃいません。
私は心より尊敬しております。既に引退されたとお聞きしております。
「今私があるのはあのお方のおかげです。」(板垣退助が坂本竜馬の親族に語った言葉)

文字で現す能力、それがなくちゃ! ISOの世界は書かれた文字の世界、書かれていないことは無関係であります。
でも良く考えるとISOばかりではなくすべてがそうではないのでしょうか?
法律の世界だって書いてあることだけの意味であり、それ以上を推察しても意味がない。
ただ文字をひたすら読むこと、もし理解しにくいときは、文章をフレーズごとに分けてブロック図を描いてそのつながりを把握すること。法律の場合は修飾語もどこにかかるかが非常に重要です。そういった工夫と熟読が法律の理解を深めます。

特定の法律を読む必要が生じたら、インターネットの法令サービスから法律、施行令、省令をセットでダウンロードしてプリントし、赤鉛筆やマーカーでアンダーラインをつけて読むことをお勧めします。法、令、則を並べて読むと理解が進みますし、マーカーをつけると理解しやすいです。『○○六法』なんていう立派な書物ですとアンダーラインもつけにくく、理解が進みません。
法律の言い回しが難しいのは作文作法がなっていないからだ!という論もあるかもしれません。私はそうではなく、二通りに受け取られないようにとか、修飾語語句のかかりがあいまいにならないようにと工夫した結果であると考えています。★★もっとも民法は私の手には負えません。


えーっと、やっと本題に入ります。
「日本国憲法の「余白」の読みかた」ですか?余白を読むのは水墨画だけにしておくべきだというのが私の意見ですね、
もっとも憲法日本語訳で分からないときは英語原文に戻らなくてはなりません。 
このあたりはISO規格と同じです。
余白を読むこと、すなわち
「日本国憲法の主旨はこうあるはずだ」「この条文は・・・・を目的として」という論理は憲法を、いえいかなる文章を読むときもまったく間違った方法です。
「成立過程を考えよう」、「この憲法はこう語っているはずだ」、「憲法の主旨はこうであるはずだ」、「前文ではこう語っている」(騙っているのかもしれません)・・・・という考え方が既に大きく道を踏み外しているのです。
「騙る(かたる)」とは「だまして金品を取ること」
いや、そのような読み方は書き物としての憲法に対する冒涜ではないか!
いつも申しておりますが、日本国憲法はその成立過程とか目的を考えて理解しようというのは「邪道」であります。
うそをつくのは罪ですよ いかなる文章もそれは独立した存在であり、それを書いたときの状況とか目的とかを考慮しなければ理解できないなら、完成度が低いことを意味するだけです。
私は「憲法にはこう書いてあるけど間違っているね、」「他の条項と矛盾してるね」等々日本国憲法を茶化し、揚げ足をとるようなことを書き連ねているが、文字解釈を貫いているつもりです。

余白の読み方と語った学者はもののたとえとして表現したのかもしれない。
それならそれでまったくたとえを間違えている。あるいは考え方の根本で理解の仕方を理解していないのかもしれない。

みなさん、日本国憲法は紙に書かれた文字以外の意味はなく、成立過程のいきさつ、議論にはまったく拘泥(こうでい)されません。
般若心経だって余白を読む意味はありません。ひたすら文字を読むだけのこと。
もっともシャーリーシー(舎利子)というのが単なる人名だったとは本を読むまで知りませんでした。 



本日のまとめ

「憲法の行間を読め!余白を読め!」
そう語る人は嘘つきです。


私が嘘つきの可能性ですか?
私はただひたすら法律の文言を読めと申しあげております。よってその可能性は・・・・なさそうです。



ところで本日、本屋をさまよっておりましたら、「私たちは愛国だが反戦だ」という本を見かけました。よく見ると自虐史観120%のお方のようでした。
とうとう自虐史観の方々も愛国心に頼らないと自己の正当性を主張できなくなったのでしょうか?
『愛国心は愚か者の最後のよりどころ』というのはほんとうだったようです
 
愛国心は愚か者の最後のよりどころ



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