改憲の限界と憲法の限界 2007.05.22

2007年5月、憲法改正の手続きとしての国民投票法が成立し、サヨクは必死である。
彼らが掲げる護憲という錦の御旗はパタパタと逆風にあおられはためき、今にも千切れそうである。
しかし最後のあがきか、護憲サイドの学者は憲法改正の限界とか、改憲の限界を超える改憲はクーデターであるなどという発言をしているそうだ。

憲法改正には限界があるのか? ないのか?
あるとするとその限界はどこなのか?
という議論は学問としてそれなりに価値があると思う。
しかし現実の生活を生きている国民からしてみれば、憲法改正に限界があろうとなかろうと、良い憲法にしたいと念じていることは間違いない。
仮にであるが、理想の憲法に至るには現行の日本国憲法の改正手続きでは到達できないとするなら、憲法を破棄してもよい、クーデターでも良いからよい憲法にしてほしいと考えることはおかしくない。
クーデターというとギョットする人もいるだろう。クーデター必ずしも武力革命ではない。革命とクーデターも違う。そんなことは調べてください。
更に言えば戒厳令だった悪でも異常でもない。
今現在、改憲はクーデターだとか、戒厳令に嫌悪感を示す人たちが、かっては武力革命を唱えていたことを思い返すと、ナンノコッチャというしかない。 

ちなみに護憲派の人たちが大好きな中国や韓国では、クーデターも戒厳令もおなじみのことであり、政治的に対立する勢力間の内戦も過去あったし、これからもあるだろうことは間違いない。
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日本国憲法の柱で憲法改正はできないといわれている民主主義、平和主義
私は民主主義に反対でも平和嫌いでもないが、そういうものは本当に改正できないのだろうか?
国民の大多数が変えることを望んでも変えることができないなら、それは民主主義ではないということではないか?
もっとも平和主義というのは憲法に明記されていない。憲法に書いてあるのは武力を持たず、近隣諸国のお情けにおすがりしますということだけだ。

日本国憲法に限界があるなら、我々はブレークスルーを選ぶだけだ。
護憲派の人を含めて、この日本に日本国憲法のために生きている人は一人もいないことは間違いない。
日本国憲法が日本国民のために存在すべきであることは、また間違いない。
日本国憲法が国民に役に立つように直すことができないなら、それを捨ててより良い憲法を作ることは日本国民にとって良いことであるに違いない。
ないしろ憲法は国民のためにあるのだから。
その方法が憲法に反しても、国民の意思を反映したものならどこが悪いのだろうか?
いくら法律的手続きに則っていても、一部のマスコミや学者や政治家やプロ市民による、彼らのための憲法であっては困るのである。

改憲の限界なんていう理屈を私は認めない。
それは改憲の限界ではなく、憲法の限界にすぎない。
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私は心が広い男であるから、いかなる主義でも思想でも主張する権利を認める。
しかし、自分たちの有利になることを正当化しようとして、改憲には限界があるとか、護憲が正義であると語ることは絶対に許さない。
覚えておきなさい。 


本日の結論

改憲に限界があるなら、

そんな憲法捨てましょう




アラマキ様からお便りを頂きました(07.06.05)
「護憲」は「古憲」
お久しぶりです、奥様につきましては伊豆大島のあじさいロードはいかれましたでしょうか。私の別荘のある長野の佐久の庭には黒百合が咲き乱れております。それほどたいしたものではないのでわざわざいくほどのことはないですよ。みなさんが賞賛していますが、それは陰謀です(笑)。
さて、最近ニュースで護憲護憲と声を聞くようになりました。憲法を改定する必要がある時は国民の何とかかんとか・・・と以前からルールが決まっていたと覚えております。
別に真理はないのですから、1900年代中盤の状況で作ったルールが国際社会において不都合を生むのであればそれは改訂する必要があると思います。その改訂方法を具体的に決めただけでなぜこんなにヒステリックに騒いでいるのかがわかりません。
詰まるところ、左の方々は9条が改訂されることを腹の底で観念していることに他ならないのではないかと思いました。

ルールは状況で改訂する必要があると言うことです。
墾田永年私財法や生類哀れみの令はもはや不必要だと思います。
同じように状況を刮目し、予想しうる最悪の事態に対応するべく法整備をする事に対して問題はないと思うのですが。
「古い憲法・古憲」に拘ってもしょうがないです。

アラマキ様 毎度ありがとうございます。
おっしゃるとおりですね。
左の方々は9条が改訂されることを腹の底で観念していることに他ならないのではないか
もう、この一文でおしまいです。
しかし、左の方は駄々をこねるばかりでしょうがありません。
駄々をこねてよいのは子供だけ、サヨクは子供だったのです。
躾をしないとこうなってしまうのですね・・

藤様からお便りを頂きました(07.06.09)
巷の護憲勢力…
どうも、藤です。
佐為様の失笑を承知で、巷の護憲勢力について、不躾ながら、前々から疑問に思っていた、私自身の見解を述べさせて頂きます。
日本国憲法を執拗に美化する護憲勢力というのは(あるいは、戦後民主主義そのものは)、実は戦前の反動によってできた、一種の中途半端な新興宗教ではないかと思ってしまうことがあるのです。
現在の日本国憲法(特に九条は)を社民や朝日、諸々の自称護憲市民団体の経典だとすると、過去に世界中で繰り広げられてきた、経典の些細な解釈の違いで内輪もめをしたり、我々はこの経典の教えに絶対に逆らってはならないのだ、という教条主義、原理主義が彼らの中にみてとれるのです。
口先では、平和、人権、民主主義、話し合い、弱者のため、といったいかにも誰もが反論できなそうな、言葉を看板としてしきりに連呼するくせに、自身が信奉してやまない『平和憲法』に基づく現代の日本社会ついて、多くの国民が疑問や異論を唱えるととたんに、許すまじき危険思想であるかのように、観念的な邪推と偏見で改憲論者を一歩的に悪者にしてしまう頑なで偏狭な態度をとる傾向が非常に強いのです。
憲法を少しでも変えれば戦争になるという、ヒステリックな考え方も、彼らにとっては、絶対に犯してはならない神聖なる現状の平和憲法を戦前の悪しき日本人の子孫である日本人が手をつければ、ひどい世の中になるに決まっている!戦争が起こるに違いない!!ハルマゲドンが起こる!!!
とでも妄想しているのではないかと、私は、本気で彼らの理性を疑ってしまいます。
こうしてみると、
実は、彼らこそ戦後民主主義社会の悪しき保守であって、改憲を望む人々はリベラルなのではないとさえ思ってしまう今日この頃なのです。

藤様、お便りありがとうございます。
おっしゃるとおりでしょう。
宗教とは信じるものです。しかし信じるだけで考えなければ、すなわち思考停止です。
誤解のないように
私は宗教を否定しませんし、真面目な真言宗徒であります。
ただ、宗教は政治に力を及ぼしてはならないというのが織田信長のときからの原則(ツッコミはなしよ)
政治思想を宗教のアプローチで行ってはいけないのです。
ただ日本ではその詐欺的手法を誰も糾弾していません。
それは右も宗教だからかもしれません。
リベラルとかコンサバというカテゴリーではなく、双方が宗教戦争をしているのかもしれません。


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