日本国憲法を読んで思うこと(5)2002.01.11
私たちは話をするには、まずお互いの言葉が通じないとそれこそ「話になりません。」
旧約聖書のバベルの塔の物語にあるように、混乱を巻き起こすには言葉を通じなくさせるのが一番です。(創世記11章1)
言葉といっても、単に日本語だから通じるよとはいかないのが世の習い。
私の娘は東京の大学に行ったとき、方言で困ったと申しておりました。決して方言の故に差別やからかわれたわけじゃないんですが、とにかく通じないのに困ったそうです。
方言といっても地域による違いばかりじゃありません。私たち品質管理屋は会社や工場での品質管理の手法の違い、言葉の意味の違いを方言と呼んでいます。 政治においても主義が異なると同じ言葉でもまったく違った意味となることも珍しくありません。ましてその言葉の持つ善悪のニュアンスなどは千変万化でしょう。
議論をするのにまず言葉の定義(意味)をはっきりとしてからでないと、お互いの考えは通じないし、まったくの不毛の議論となります。

では本題に入ります。
平和憲法という言葉があります。平和憲法とはなんでしょうか?
まず、平和って何でしょうか?
以前、平和とは何か?と書いたことがあります。
私の理解では平和とは物じゃなく、状態です。つまり平和とはたとえば身長170cmといったものではなく、健康状態のようなものです。
ここから平和憲法の定義とはなんぞや?と考えて見ますと、
  • 仮説1:侵略戦争を放棄した憲法
  • 仮説2:自衛権を放棄した憲法
  • 仮説3:武力を持ちいつでも行使することを宣言した憲法
平和憲法が平和を維持するものならば、上記仮説のどれが適切でしょうか?
仮説2は、外国から侵略を受けたとき日本は無抵抗で占領されることを前提としています。
私はこの日本を外国の軍隊に踏みにじられたくはない! 武装するな!という主張は
「有事が起きたとき、政府は国民を助けることができません。
日本国民は平和憲法と平和国家日本の為に殉じてください。」
ということです。
護憲といっている政党は偽らずにこの事実を国民に声明し、信を問わなくてはなりません。
この事実を言わずに「平和」「平和憲法」と甘い言葉を言っている自称 護憲政党は我が国の歴史始まって以来の最大 最悪の詐欺でしょう。

繰り返しますが、現行憲法を平和憲法と称し、平和憲法を守ろうと主張することは「平和を守ること」とは違います。
それは単に国家が国民を守る義務を放棄したというです。

私が考える平和憲法とは「しっかりとした武力を持ち、文民統制を定めた憲法」です。そして平和を維持するためには必要に応じて武力を行使することが必要です。
平和とは物ではなくて状態ですから、"平和を維持する"であって、”平和を守る”ではないことにご注意ください。
もし、私を軍国主義、好戦的というなら、ぜひ中国をはじめとして韓国、北朝鮮も軍国主義、好戦的と断じてください。彼らは第二次大戦後何度も国外において武力を行使しています。とても自衛戦争とは言えません。

蛇足ですが、
アメリカ帝国主義に異を唱え、中国帝国主義を容認する政党、メディアがあるのには驚きます。
もっともパックスアメリカーナに反対と唱えることは一理あるかもしれません。しかし、パックスアメリカーナには反対、中国支配には賛成・・・これはもはや議論する価値はありません。
それは単なる中華思想、あるいは奴隷の思想です。
そう主張される方は中国の奴隷になりたくて仕方ないのでしょう。
私は国際協調の上に立った「日本人による平和」を求めます。
本日の結論
議論するにはまず、平和の定義、平和憲法の定義をしてから

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